桔梗の娘   作:猪飼部

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二月十四日:第四回解説に黄崇(紅玉)の挿絵追加しました。


第十一回 秋天過去

 女はひどく緊張していた。表情には出さないだけの術は心得ているが、緊張を消し去るだけの胆力は未だ完璧ではなかった。

 そんな自身の緊張を、目の前に居る年下の美少女には気付かれているかもしれない。それだけの経験を彼女はして来ている筈だ。良い機会ではある。自分ももっと経験を重ねる必要があるのだから。

 師から仰せ付かった用件自体は詰まらない上に面倒なものだが……。

 

「それで? 妾に訊ねたい事とは、妾の興味を引く事であろうな?」

 

 薄く笑いを浮かべながら訪ねてくる美少女に、肚の底で寒気を覚えながら言葉を紡ぐ。どんな経路を辿ればこんな似合わない、本来であればこの年頃の少女に似合っていい筈がない笑顔が板に付くようになるのだろうか。そんな戦慄を億尾にも出さずに言葉を告いだ。

 

「厳寿なる者の事を是非にお訊ね致したく」

 

 その言葉に、僅かに眉を上げた美少女は、続いて小さく息を吐いた。

 

「なんじゃ、炎蓮のやつめ。そこまで執着しておるのかえ?」

「私は師の言い付けに従っているに過ぎませぬ。師の主の事までは与り知らぬ事」

 

 そして続く言葉に、対面する傑物は、瞳に強い興味の色を灯した。

 はて、今の短いやり取りのどこに少女の反応を引き出す要素があったのか? それは待つまでもなく少女の口から語られた。

 

「そうか、お主の立場は陸遜のようなものであるか」

「はい……」

 

 戸惑う。どうやら自分自身がその対象であるらしい。

 確かに、陸伯言と似た様な立ち位置と言えばそうだろう。未だ孫家に正式に仕えている訳ではない。が、このまま師に付いて行けば早晩そうなるだろう。

 

「それで、中身の方はどうなのじゃ?」

「ひゃわっ?!」

 

 思考の隙間に差し込まれた南陽太守の言葉。何が言いたいのか。いや、解る様な気がする。だから反射的に上ずった声が漏れた。そうなのだろう。

 

「ふむ。……そうさな、厳寿は、あれは中々に先が楽しみな奴じゃの」

「は、はぁ」

「しかし今のままでは駄目じゃ。当人も薄々は気付いておろう。大陸を見聞して周ると言うのも、幾分かは()()に理由を見出せような。何処まで自覚しておるかは不明じゃが」

「親離れ、でしょうか?」

 

 そこから更なる追求はなく、本来の用件を前振りもなく始められた。これは駄目だ。主導権を完全に掌握されている。ぼかした言い方は試されているのだろうと中りを付けて答えた。少しでも挽回せねば、早々に会見は打ち切られるだろう。

 

「それよ。今のままでは結局は益州に帰り、母の幕下に収まってしまう。それでは凡百の孝行者で終わってしまうであろうよ」

 

 何とも勿体無い。と続けて頬杖を付いた。どうやら正解だった。ある程度の事前調査はしておいたので、それ程難解でもなかった。昨今、彼女の人物評は益州を越え荊州にも届き始めている。調査が楽だったのも幸いだ。

 そう、渦中の人物は評判が良い。普通に考えれば、近い内に立身するための前準備として厳氏が世間に流布しているのだろうが、肝心の当人がまさか旅烏になってしまうとは、一族の者達の溜息が聞こえてきそうではある。

 一族に心労を掛けているのは自分も同じか、と未だ見ぬ少女に僅かに親近感を憶えながら心の中で苦笑した。

 と、頬杖を付きながらしばし黙考していた小佳人が(おもむろ)に提案、或いは命じてきた。

 

「洛陽へ向かうのじゃ。今からなら間に合うであろうよ」

 

 それは無論、この後で向かうつもりだった。それを態々口にしたのだ。何かある。と心中で身構えると、一拍置いて望外の言葉を放ってきた。

 

「何なら、妾の名を使っても構わぬ」

「では、河南尹(かなんいん)との取り次ぎをお願い致したく」

「ほう」

 

 間髪入れず応えると、太守の瞳の中の興味の色が一段濃くなった。どうやら合格点に達したようだ。反応の速さではなく、恐らくはその内容で評価されたと見た。

 

「お主もなかなか面白い奴じゃの。遂高(すいこう)に繋げと来たか。ならば、一つ条件を付けよう」

「なんなりと」

「何でも好い。あやつを官に嵌め込んでしまえ」

「……宜しいので?」

「うむ、構わぬ」

 

 愉快気に条件を付して来たところを見るに、思い付きであろう。しかし、それにしては内容が聊か意外であった。

 

「言うたであろ? このままでは凡百の孝行者と。確かにあやつの事は欲しいがな、保留という体ではあるが既に断られておるしの。況して、炎蓮のものにはなるまいよ」

「ならばいっその事、と……?」

「という程でもないがの。ただ、あやつには大きな変化が必要なようじゃ」

「そこまで目に掛けておいでとは」

 

 俄かに興味が湧いて来た。つまらぬお使いかと思っていたが、案外これは拾いものかもしれない。奇貨である事を願おう。

 

「お主もな」

「え?」

「精々、好きに振舞うが良いぞ?」

「ひゃわっ!?」

 

 此方の反応に余程満足したのか、実に愉し気に笑ってくれた。いやはや敵わぬものだ。だが別にいい。自分以上の存在などいくらでもいる。だからと言って、それで道が閉ざされるわけでもない。切り開きようなどいくらでもあるのだ。それが面白い道に続くのならば言う事はない。

 洛陽へと続く道。そして、更にその先へと続いていく道を夢想しながら、女も静かに笑った。

 

 

 ――――

 

 

 第十一回 秋天過去

 

 

 

 その日は珍しく肌寒い日であった。年が明けたばかりの、春とは名ばかりの冬曇りの日であった。

 明日、董幼宰は旅立つ。巴郡を離れ、遠く京師洛陽へ。巴郡最後の夜に、幼宰は親友と二人で酒を酌み交わしながら語らっていた。

 

「鋼が上計掾かぁ。ま、鋼ならどれだけ昇っても驚きはないかな」

「持ち上げても何も出ないぞ」

「そんなんじゃないって。でも、中央に赴く事になるとはね」

「私の方が先に巴郡を出る事になったな」

 

 薄く笑みながら杯を傾ける幼宰。蕣華はつまみを口に放り込みながら気軽に続けた。

 

「でも、すぐに戻るんでしょ?」

「それなんだがな……」

 

 珍しく歯切れの悪い幼宰に、つまみを飲み下し、慎重に確認するように蕣華が問い掛けた。

 

「……まさか郎官になるの?」

「中央に残るのならば、そうなるだろうな」

 

 驚きながらも、矢張りかと頷く蕣華。とは言え、王朝での栄達など望む手合いでもない。何が親友にその選択をさせたのだろうか。

 

「とっくの昔に中央には見切りをつけてたと思ってたよ」

「それは今も変わらないさ。……ただな、大陸全土が混迷しようという時に、居心地の良いこの地だけに目を向けていても良いものか、と思ってな」

 

 自分が旅に出ると決めた時に出た話が、親友の進路に影響を与えたのか。鋭い眼つきの奥に優しい心を持つ親友は、世が乱れた時に響き渡る民草の悲鳴を憂い、決断したのだろう。 そんな事を考えていると、その鋭利な眼が此方を射抜いていた。曰く言い難い感情を乗せて。

 

「なに? 私の顔に何か付いてる?」

「いや……。実は先頃、閬中(ろうちゅう)を訪ねてな」

「え、それって、もしかして未究、周羣を訪ねたの?」

「ああ」

 

 何事か言い淀んだと思ったら、予想外の言葉が返って来た。そこまで確認して来たのかこの娘は。生真面目と言うか何と言うか、呆れながら感心してしまう。

 

「鋼はもう少し、脇目を振る事を憶えてもいいんじゃないかなぁ」

「なんだそれは」

「驚いてた?」

「いや、全く」

「やっぱり」

 

 人生二人目の親友である周仲直は、常に余裕有り気で驚愕とは程遠い人物だ。その程度では眉一つ動かさないだろう。

 

「何とも不思議だな、彼女は。『おや、何とも珍しい御客人だ』などと言われたよ。珍しいも何も、初めて訪ねたのにな」

「未究らしいや」

 

 くつくつと笑い、湧きだした陽気を身中に行き渡らせるように一杯呷る。燗のついた黄酒(ホアンチュウ)が心地良く胃の腑に落ち着く。

 そんな蕣華を眺めながら、幼宰もちびりと酒杯を傾けた。周仲直の言葉を思い出しながら。

 

『そうか、それ程長きに亘る混乱となるのか』

『正確にはその契機となる乱だね。とは言え、正直読み切れない部分も多いのだよ。原因は判っている積りだがね』

『その原因とは?』

『蕣華だよ』

『…………なに?』

『ふふ、冗談の類いではないよ。実はだね、私はあの娘の星が詠めたことがないんだ』

『今一どういう事なのかが解らないのだが。例えば、私の星は詠めるのか?』

『詠もうと思えばね。無論、一挙手一投足とまでは利かないが、人生の節目となるような大きな事柄ならば。しかし、君の場合は曖昧になるだろうがね』

『それは、私が蕣華に近しいから、か?』

『ご明察』

『……近く起こる大乱の渦中に蕣華が居るという事か』

『実に心地良いね。 要因はまだあるがね』

『これ以上まだ何かあるのか』

『これは蕣華にも言った事なんだが、未だ星が出揃っていない。それも極星が』

『言葉の強さからか、そちらの方が重要な要因のようにも思えるのだが』

『それは恐らくその通りだろうね。そして、その極星こそが蕣華の追い求める星ではないかと、私はそう考えているのだよ』

『なぁ、蕣華は本当にそんな大きな天命を背負っているのか?』

『それは誰にも分らないさ。私に分かる事は図讖(としん)による星詠みと、そして天文の運行が全てではない、という事くらいのものさ』

 

 此方を眺め、しかし心はどこか別の所へとやっている親友を肴にもう一杯。物思いに耽る鋼も好いな。なんてことを考えながら杯を進める。

 何を考えているのだろうか。巴郡に来てからこれ迄の日々か、二人の思い出か、それとも矢張りこれから先のこの国の事か、或いはまた……。

 

「ねぇ、鋼」

「うん? なんだ、蕣華」

「余り無茶しないでよ」

「しないさ」

「京師は魑魅魍魎ばかりで、後ろ盾も碌にないんだからさ」

「心配せずとも、その辺りの分別くらいは付けるさ」

 

 この親友に限って心配はしていない。しかし、心配の種は尽きない。明日は笑顔で送り出そう。そして、自分が旅に出たら、出来るだけ早く洛陽を訪れよう。そう心に決めて、また一杯、ぐいっと喉奥にほろ温くなった酒を通した。

 

 

 ――――

 

 

「――なんて話をしたっけね」

「ああ、なんだか随分と懐かしい気がするな。一年も経っていないと言うのに」

「じゃなくって」

「うん?」

「十常侍の親族を獄に繋いだって何さ!? 無茶しまくりじゃん!!」

 

 深い秋の夜。巴郡でならば既に冬と言っても差し支えないほど冷え冷えと星の瞬く夜の宴席で、蕣華はつい声を荒らげた。

 ここは洛陽。益州巴郡から遠く離れ、栄華と退廃が塗り分けられる事無く同居する帝都である。

 蕣華達は、河南尹に招待されて盛大な宴の席に居た。そのような場で声を張り上げた蕣華に、馬仲承などはおろおろと周囲を見回すが、彼女以外の同行者は平然としたものだった。

 

「罪ある者はそれが如何なる連なりを持っていようとも断罪すべし。それだけだ」

「ああ、この娘は……、分かっていた。分かってはいたけど、ほんとにもう、ほんっっとうに、もう……」

「落ち着け蕣華。私は今もこうして此処に居る訳だし」

「蕣華の気持ちも解かるのですぞ」

「ねねまで……」

「私も正直、心臓が止まるかと思いましたよ」

「鶸もか……。陛下も事の善悪を明らかにして言上すれば、賢明な判断を下して頂ける御方だ」

「運が良かったのですぞ。上表など途中で握り潰される可能性の方が高かったのです」

「いや、私が上表したのではない。段珪(だんけい)(*148)が陛下に泣きつき、それで私が直接召し出されたのだ」

「どちらにしても運が良かったよ。そのまま処罰されてたかも知れない」

 

 因みに、その時の天子の裁下は『話聞いてみたらさぁ、これ結局悪いのはあんたの親戚じゃん。はい、これでこの話は終ー了~ぅ』という軽々しいものであった。

 

「なんにしても無事で何よりだよ。それにしても、この短期間で侍御史(じぎょし)(*149)に任じられていたとはね。流石と言うか何と言うか」

「実際、郎中のままで燻っている連中も多い中、大したものです」

「それを言うなら、鶸だって奉車(ほうしゃ)都尉丞(といじょう)(*150)に任じられている。私だけが褒めそやされる様な事ではないさ」

「そ、そんな私なんて……」

「謙遜なんてすることないよ」

「そうだぞ鶸! あたしも姉として鼻が高いぞ!!」

「なんや、翠でもお姉ちゃんぶることもあるんやなぁ」

「ぶるとはなんだ! ぶるとは!」

 

 馬孟起をおちょくる特徴的な訛りに目を向けると、随分と傾いた格好の女傑が孟起の肩を組んで絡んでいた。

 宴が始まった時には見掛けなかったが、今宵の酒宴には多くの客が招かれている。離れた席から、随分と仲良く見える孟起を訪ねてきたのだろう。

 紫色の髪を鉄鋲環の髪留めで纏め、下は袴履き、上は何と晒し巻きに羽織を肩から掛けるだけという大胆な出で立ちで、浅焼けた肌がなんとも眩しい。実際目の当たりにすると凄い格好だと、不躾な視線を向けていると、猫科の肉食獣を思わせる自信に満ちた常盤(ときわ)色の眼差しが此方を捉えた。そして、にんまりと笑顔を寄越してきた。孫尚香と似てはいるが決定的な部分が違う笑顔。じゃれつきがそのまま死に直結する、食物連鎖の上位に在る者の笑顔だ。

 その笑顔に見惚れていると、幼宰の向こう隣りに座っている公台が声を掛けてきた。

 

「恋殿に自ら挑む者はそう多くないと言いましたな」

「言ってたね」

「あれがお前の数少ない同類ですぞ。名を張遼(ちょうりょう)(*151)……」

「字は文遠(ぶんえん)や。よろしゅうな。厳寿っち」

 

 僅かに公台の方に視線を向けた隙に、目の前まで来ていた張文遠が公台の後を接いだ。

 

「宜しく、文遠殿」

「なんや固いな~、殿なんていらんて」

「そうそう、(シア)に遠慮なんて必要ないからな」

「確かにそうやけど、なんで翠が言うねん」

「なんだよ、いいじゃないか」

「仲良いなぁ」

 

 何時の間にやら寄って来ていた馬孟起が横から口を出し、目の前で二人じゃれ合い出すのを見てぽつりと漏れた呟きに、文遠と孟起は互いに顔を見合わせた。互い、何とも言えぬ表情で。

 

「なんや、正面から言われるとこそばいなぁ」

「ま、馬が合うのは確かだけどな」

「ウチら二人とも馬得意やしな!」

「いや、そーいう意味じゃなくてだなぁ……って、なんだよその顔」

「……あかん、翠あかんわ。なんやのその返し、真面目か」

「なんだよ! そっちの方が意味わかんないだろ!」

「いやぁ、翠にその辺の機微を求めるのは酷だと思うよ?」

「なっ、蕣華まで…!?」

「まぁ、せやなぁ。翠やもんなぁ」

 

 そこで文遠は今度は此方と顔を見合わせてきた。目と目が合い、くくっと笑いが漏れ、呵々と大笑する。からかわれていたと気付き増々憮然とする孟起に、ごめんごめんと二人で口先だけの謝罪をした。

 

「厳寿っちとは気が合いそうやと思うとったけど、思ってた以上やわ」

 

 改めてよろしゅうな、と挨拶してきた文遠に、此方こそを返事を返した。こうして蕣華はまた新たな友を得た。

 

 

 ――――

 

 

 張文遠と酒を酌み交わし親交を深めていると、河南尹の従僕が文遠の元へやって来た。少し離れ、何事か言葉を交わすと文遠が此方を見遣って、ほほぅ、と面白げに呟いた。 はて、なんであろう? 従僕も此方に向き直り、恭しく、恐らくは主の伝言を伝えようとすると、文遠が手で制した。

 

「ああ、えぇよ。ウチから伝えるわ」

 

 機嫌良く従僕を制すると、その従僕は「では宜しくお願い致します」と頭を下げ、そそくさと辞した。

 

「で、なに?」

「いやな、今からウチと立ち()うてんか」

「それは全然良いけど、意味わかんない」

「河南尹がな、アンタの力量を観たいんやと。ウチの同僚にしたいんちゃう?」

()河南尹が?」

「何、不思議そうな顔してんねん。アンタ今、この洛陽じゃちょっとした話題の的やで」

「……なんだって?」

 

 自分の評判が世間に流布している事は既に把握している。陳公台から意図的に流布されている節があると聞き及び、答えを得た。公台は厳氏が母の治定を流布するに合わせ、自分の何時かの立身の為に流したのだろうと考えているようだが、恐らく違う。州内であればそうだったかも知れない。州の有力者の耳に止まれば、そこから仕官の道が開ける。この時代では普遍的な手段だ。だが、母がその有力者のひとりであるし、何より、厳氏に州外にまで人物評を広める伝手はない。ただ一つを除いて。

 そこに思い至った時、凶顔の総鏢頭(そうひょうとう)の笑顔が脳内に煌いて頭痛を憶えた。良かれと思ってやったのか、或いは天然か。どちらにしても今の蕣華にとっては余計な事であった。とは言え、叱り付ける訳にもいかない。普通に鑑みて、自分の足を引っ張っている訳ではないのだ。何とも悩ましい問題である。

 しかし、今の洛陽で話題となっているとはどういう事であろうか? そこが解らない。

 

「あんなぁ、厳寿っちは南蛮の朝貢(ちょうこう)の立役者で、十常侍に煮え湯を飲ませた侍御史の予てからの親友で、一人五絶なんて呼ばれ始めとる恋に喰らい付いた若武者やろ。あとなんや、袁家との繋がりも噂されとったな。そら話題にもなるわ」

「そして河南尹の宴に応じたのです。宦官勢力は今頃何を考えていますかな」

「ちょっと待って、私、まだ無官だよ? 宦官がそこまで……」

「だからこそ、どの勢力も今迄様子見程度だったのですぞ」

 

 覚えず絶句する蕣華に、徐に十常侍に煮え湯を飲ませた親友が頭を下げた。

 

「済まない、蕣華。私の軽率がお前にまで累を及ぼすとは、考えが足りなかった」

「謝る事なんて何もないよ。鋼は正しい事しかしてないんだから。これは私自身が迂闊で、高を括ってた事だ。と言うか、それくらい自分の事をこそ心配して欲しいんだけど」

 

 人の事となると途端にこれだ、と困った笑みを小さく漏らしながら応じた。

 それにしてもである。どうやら、これ以上洛陽に長居するのは避けた方が良さそうだ。兀突骨も南蛮へ戻った事だし、久し振りにあった親友や新たな知己との日々が心地良く、つい長逗留してしまったが、そろそろ本来の目的に戻らねばならない。

 それはそれとして、

 

「話を戻して、立ち合うのは好いけど得物はどうするの?」

「剣でええやろ。ウチとしても、こんな見せもんみたいな場で尋常の勝負っちゅう気にはならんし」

 

 その点は自分は気にしないが、戦場で武を奮う事こそを至上とする文遠にとっては観衆の前、というのは大いに気掛かる部分であるらしい。

 

 

 場の準備が整えられ、上座に座する河南尹何進(かしん)(*152)長揖(ちょうゆう)すると、張文遠と向き合った。その時、何河南尹の脇に侍る女性の視線が気になったが、剣を構えるとその事は意識から取り除かれた。

 

 

 ――――

 

 

「ふぅん、これが厳寿か。袁術の奴めが執心するのも判る、か?」

 

 怪しく輝く琥珀色の瞳が、慶祝と文遠の剣舞を眺める。そう、それは正に舞の様であった。申し合わせたわけではない。だが、互いに繰り出される剣戟は振るわれる度に鋭さを増しながら、相手の呼吸を読み取る様な軌跡を描いた。両者の実力に大きな隔たりがあれば成立しない白刃の舞。無論、見る者が見れば文遠が上手である事は解かるだろう。極一部の達人ならば、振るわれるのが互いに愛用の得物であれば、今少し差が明確に見て取れただろう事まで見抜いたろう。それでも厳慶祝の実力が噂倒れではないと、この夜、多くの者に認められる事となった。宴の主催と、慶祝をこの場に招くよう進言した者にも。

 

 一際甲高く剣が打ち合わされる音が響き、その直後、文遠の剣閃に多少の変化が表れた。数合振るわれる中に一閃、時折指導するかのような軌跡を描く剣筋が顔を出したかと思えば、また数合の中の一閃、殺気を纏った剣刃が閃いた。

 対する慶祝もその変化に驚きながらも慌てる事無く対応する。文遠の変化を歓迎するように、その顔には一種獰猛な笑みが張り付いていた。

 

「張遼も本気ではなかろうが、それでも付いていける厳寿は確かに大した者よな」

「仰る通りかと」

「それで? 余には取り込む事は出来ぬと?」

「河南尹様だからという事ではありませぬ。あの者を官職につけるには、機を見ねばなりません」

「ふん、まぁ良い。王朝の役に立つのならば、その機とやらを待とうではないか」

 

 何進――真名を(けい)――には先の変化を捉えるまでの審眼はない。だが、全く武から縁遠い訳でもない。大牧場主であった傾は盗賊対策の為に少なくない部曲を抱え、必要とあらば自ら騎馬に跨り指揮を執って賊共を蹴散らしていた。

 今も浅く焼けた肌は、貴種にはみられぬ健康的な美をこの成り上がり者に与えていた。但し、その内面は健康的とは言い難かったが……。女として過度に恵まれたその肢体は、この外戚筆頭に(とど)まる事無き快楽の探究者としての資質を与えた。異母妹のお蔭で多大な権力を手に入れてからその性向はより強くなり、その点をして十常侍には取るに足らぬ愚物と侮られ、だからこそ何氏は外戚として迎えられたが、それだけの人物ではなかった。

 傾は内に取り込んだ配下に対しては温情深く、大店を切り盛りしていた事務能力は政務にも発揮され卒なくこなした。賤業の出でありながら、本来身に余る地位を少なくとも今のところは順風に渡っていた。

 間違っても傑物ではない。だが、ただの小物と断ずるほどに暗愚ではない。それが何進という人物であった。ただ惰弱な外戚を求めていた宦官の思惑は見事に外れ、将来の禍根を自ら招き入れたのだった。

 

 そんな外戚の出世頭の前で、蕣華と文遠の剣舞は終着を迎えようとしていた。

 

 

 ――――

 

 

「なぁ、ねね」

「なんですか? 改まって」

 

 特に興味もなく、ただ何となく剣舞を眺めていた陳宮――音々音(ねねね)――は、隣から掛けられた真剣みを帯びた声音に、其方を振り向いて答えた。

 声の主、董幼宰は硬い表情で、やや声を潜ませて訊ねてきた。

 

「外戚と宦官の関係はどうなっているんだ?」

「それ程悪いものではないのですぞ、少なくとも表面上は」

「しかし先程は」

「宦官、それも頂点たる十常侍も決して一枚岩ではないという事ですぞ。蕣華に限らず、今この場に居る事で我々も蹇碩(けんせき)(*153)を随分と刺激しておるでしょうなぁ」

 

 この言葉に、幼宰の向こう側に座る馬仲承の肩がびくん!と跳ね上がるのが見えたが無視した。

 

「応じるべきではなかったと思うか?」

「それはそれで河南尹に角が立ちますぞ。ところで、そも何故蕣華が招かれたのです? あやつ自身は無官であるからと軽々に応じた様ではありますが」

「元は私が招かれたのだが、その場にいた蕣華にも『御友人もお気軽に御出で下さい』と言われてな。格式張った宴ではないと言い含められて、それならばという事になったのだが」

「成る程、恐らく蕣華が同席していた時機を狙われましたな。海内(かいだい)から掻き集めた名士十名の中に、助言した者があるのでしょうな」

「……黄門(こうもん)侍郎(じろう)(*154)殿だろうか?」

 

 幼宰が、自身を侍御史に押し上げた人物を持ち出したが、流石にそこまでは判らない。だが、ありそうな話だ。何遂高が招聘した海内名士()()名の中でも、黄門侍郎に任じられた才媛は図抜けている。呂奉先を中央へ招聘する為に并州へと遣わされた十名は勿論、共に中央に参内する事となった残り九名と比べても、そして、死んでも口には出来ないが、恐らく自分と比べても……。

 

「さて、そこまでは……」

 

 言いながら何気なく視線を河南尹に向けると、その脇に見覚えのない女の姿が見えた。

 こいつだ。

 軍師の直感、などというあやふやなものではない。今も文遠に喰らい付いて剣舞を披露する慶祝を観察する眼を見れば、直ぐにそうと知れた。

 見覚えはない。最近、招聘された人物であろう。その眼を見れば智者である事は間違いない。と同時に、通り一遍の武技も修めているようだ。その身をよく観察すればそれなりに鍛えてあるのが見て取れた。珍しい部類ではある。自身も主と共に戦場を駆け抜ける為に馬術は鍛え込んでいるが、それだけだ。智の道に生きる者が、武に(かま)けていられる時間などない筈だ。だが、そのような奇矯な智者が集う勢力には聞き覚えがあった。褐色の戦狂い。

 となれば、招聘された訳ではない? それ以上は推測の域を出る事は決してないが思考は止まらない。

 

「ねね?」

「あれですな」

 

 俄かに反応のなくなった此方に、幼宰が問い掛けてきたので短く応答した。幼宰ならば一言で事足りるだろう。その証拠に、鋭さを帯びた声音で応えてきた。

 

「知らない顔だな」

「ねねの聞き及ぶ中にも、あの者に該当する軍師は居りませんな」

「河南尹様の属官ではない、のか……?」

「恐らくは、ですなー」

 

 そこで慶祝と文遠の剣舞は終着した。文遠の剣が慶祝の額に、慶祝の剣は文遠の脇腹に僅か届かず。河南尹が立上って決着を宣言し、二人が剣を引き河南尹に向き直り長揖すると、歓声が沸き上がった。

 それに紛れて幼宰と二人視線を互いに戻すと、当たり障りのない話題に移行した。二人の空気に入り込めずにいた仲承と、剣舞を真剣に観ていた孟起も加わり、表面上、この話は棚上げされた。

 しかし、音々音は心中で思考を続けていた。幼宰はなかなかに得難い友人である。その親友の慶祝も悪い人間ではない。愚図でもないが、少々迂闊な所も散見される。さて、憶測混りの話をどこまですべきだろうか?

 

 

 ――――

 

 

「それで、一人五絶ってどういう意味なんですか?」

 

 どうやら文遠が語っていた称号が気になっていたらしい馬仲承が、陳公台に問い掛けた。

 

「例えば、翠は天下五騎に数えられておりますな」

「おう」

「あとは、北方の勇。ま、霞も直にその称号を得ましょうな」

「霞さんが加わっても三人なんですね」

「必ず五枠埋めなければならないものではないのですぞ。その時代に“天下”を背負えるほどの傑物無くば一人もいない事も、逆に五人を超えても構わないのですぞ。ま、後者は殆どあり得ぬでしょうが」

 

 仲承が不思議そうに言うが、そもそも超絶の域に達する者がそうほいほい出現する事はない。

 

「ふむ」

「そう言えば、蕣華の御母堂も且つて天下五弓に数えられておったそうですな」

「今は違うのか?」

 

 思い出したように言えば、孟起が首を傾げた。

 

「戦場で弓を奮う機会が減ったのでしょうな。自然、人の口に上る事も減ったのでしょう。その親友の黄忠などは、今でも荊州に神弓在りと言わしめる活躍を見せておるようですな」

「天下五騎に天下五弓か。他にもあるんだな?」

「然り。天下五剣に天下五槍、そして天下五将ですぞ」

 

 幼宰はどうやら答えに近づいている。五種の超絶の武人。指折り数えていた孟起も答えに達したようだ。

 

「おい、じゃあ、恋の一人五絶って……」

「剣槍弓騎将、全てに該当するという事か」

「流石、恋さんと言うか……。本当に凄い」

「ま、当然の評価ですなー。しかし近い将来、世の者共はもっと明解な呼び名で恋殿を讃えるでしょうな」

「それは?」

 

 幼宰の問い掛けに、待ってましたとばかりに誇らしげに宣言した。

 

「即ち、天下無双」

 

「確かに、恋以上ってのが居るとは考えられない、か」

「お、なんや翠。いきなり恋に白旗上げとるんか」

「そんなんじゃないっての」

「何、なんの話?」

 

 そこへ蕣華と文遠が戻って来た。二人とも一仕事終えた爽快な表情である。

 

「恋殿の凄さを知らしめていただけですぞ」

「それは最早語るまでもないよね?」

「確かにその通りですなー」

 

 ふふん、と我が事のように胸を張る公台に、微笑ましさを憶え、くすりと小さく笑みを漏らす。主の事となると年相応の愛らしさをみせるが、これでこの場に居る誰よりも知に長けるのだから侮れない。そんな公台に、一呼吸置いてから問い掛けた。

 

 

「ところで、ねね。話は変わるけど……」

「蕣華の聞きたい事は判るのですぞ。ただ、ねねも見覚えがなく、憶測でしか語れませんぞ」

「……それでもいいよ」

 

 これが智者の凄いところだ。一瞬、あっけに取られたように瞠目し、頷いて見せた。そして、この夜の宴のすぐ後、何とももやもやする思いを抱えながら洛陽を後にする事となった。

 

 

 

 第十一回――了――

 

 

 ――――

 

 

 河南尹主催夜宴の呂奉先。

 

「……ねこ」

 

 一人静かに胡坐をかいて座る恋。その胡坐に乗っかっている丸い毛皮をなでなで摩りながら呟き、はっ、と気付いたようにふるふると小さく頭を振った。

 

「ねこじゃ、ない……」

 

 そしてまた、そうっと毛皮を撫でた。いや、それは毛皮ではなくトラだ。寒さに弱いトラの為に慶祝が買い与えた虎柄の外套に包まり、うっとりと寝こけているのだった。その様は確かに猫のようだった。大きささえ気にしなければ。

 

「トラは、……しゅんかの、大切」

 

 周囲の喧騒から切り離されたかのように静かで穏やかな空間に、二人は時間の流れさえ緩んだかのような時を過ごしていた。

 いつもなら慶祝の傍を離れる事の方が珍しいトラであるが、寒さが増してからは恋にすり寄る事が増えていた。それは実に単純な話で、恋の方が慶祝よりも体温が高いがためであった。この事に関し、慶祝は一度ならず親友の幼宰に愚痴混りに泣きついて、少しだけ、ほんの少しだけうざがられたりしていた。

 そんな慶祝に申し訳なさを感じながらも、身を切る寒さには勝てず、恋が同席している時は、より暖かい方へと自然とその身が向いてしまうのだった。

 それでもトラは最終的には慶祝の元に居る。

 

「しゅんかも、……トラの、大切」

 

 兀突骨をはじめとする南蛮使者の少女達は、既に南蛮へと戻った。秋が深まる前に、それでもやや身を縮こまらせながら。

 トラは、天子との謁見の際、正式に漢土を周遊する勅許を得ていた。無論、天子の許可があろうとなかろうと、トラの選択に違いはなかったろうが、これは取りも直さずトラの身の保証となった。「これで蕣華が無闇と刃傷沙汰を起こす心配も減るでしょうな」とは公台の言である。

 

 トラはうつらうつらと夢を見る。未だ見ぬ地、未だ訪れぬ時間、何処へ行こうとも、何処まで行こうとも、隣には厳慶祝の凛とした姿が在った。

 

「……姉ー」

 

 トラのいつもの寝言に、小さく優しく、恋は微笑んだ。

 

 




*148段珪:兗州(えんしゅう)済陰郡(せいいんぐん)出身の宦官。十常侍として権勢を誇る以前には、小黄門(しょうこうもん)に任じられており、前世代の宦官侯覧(こうらん)と共に済北国(せいほくこく)で農場を営んでいたが、悪行を重ねていた配下が相の騰延(とうえん)に成敗された。これに激怒し騰延を誣告し免職に追い込んだ。侯覧の世代が皆死去すると、中常侍に任命され、十常侍と称される十二名の宦官の一人となった。後に何進と対立した時、直接何進を暗殺したのは段珪であると言われる。これに激怒した袁紹達が兵を挙げると、張譲と共に皇帝とその弟を拉致して逃亡するが、董卓に追い込まれ、最後には入水自殺して果てた。

*149侍御史:御史台に属する監察・弾劾の官。御史の中で天子の近くに侍した者達を侍御史と称したのが始まり。定員十五名、秩六百石。朝議祭礼の監察、非法の監察、車駕の監護などを職掌とする。

*150奉車都尉丞:天子の御乗輿車(ごじょうよしゃ)を掌る奉車都尉の副官。奉車都尉は元は天子の外出に随行する儀仗職であるが、時代が下ると叛乱討伐もこなす要官となった。属吏の詳細は不明だが、少なくとも丞は置かれたであろう。定員二名、秩六百石として扱う。

*151張遼:并州雁門郡(がんもんぐん)馬邑県(ばゆうけん)出身の武将。始め丁原に従事として仕えたが、次に都に上り何進に仕えた。河北での募兵から戻ると何進は宦官に殺されており、次には董卓に仕える事となった。その董卓も滅び、呂布に仕えると、呂布もやはり滅んだ。最終的に曹操に仕え、数々の戦場で多くの武勲を上げた。
恋姫では関西弁のような方言を操るノリの良い女傑として登場する。義理堅く、姉御肌で、大の酒好きだが他の酒豪キャラと違い仕事をサボってまでは呑まない。

*152何進:荊州南陽郡宛県出身の屠殺業者、武将、政治家。元は屠殺業者であったが異母妹が宮中入り(宦官郭勝(かくしょう)の後援を得ての事だが、その後押しを得れたのは多額の賄賂を送った成果とも言われる)した事で外戚として政界に躍り出た。郎中から虎賁中郎将、潁川太守を歴任した。妹が皇后となると将作大匠・河南尹にまで昇り、黄巾の乱が起きると遂に大将軍に任じられた。劉宏が崩御し、後継問題が持ち上がると(とう)氏・蹇碩と対立したが、袁紹や蹇碩以外の宦官主流派と結び劉弁を擁立し、蹇碩らを廃する事に成功した。その後、残りの宦官とも対立し、宦官と結びつきの強い何皇后との関係も微妙となり、何氏も一枚岩ではなくなった。そのように状況が逼迫した中、何故か無思慮に宮中に参内し宦官段珪・畢嵐(ひつらん)によって暗殺された。
恋姫では恋姫英雄譚(真に非ず)でデザインされ、ひたすらエロい人として描かれるようだ。革命に登場するかも知れない。

*153蹇碩:出身地不明の宦官。宦官の中では大長秋(だいちょうしゅう)に次ぐ地位にある中常侍(ちゅうじょうじ)ではあるが、その中の筆頭集団たる十常侍には数えられていない。しかし、演義では十常侍の一人として活躍(?)する。宦官らしからぬ恵体を誇り、西園八校尉(さいえんはつこうい)の筆頭格である上軍校尉(じょうぐんこうい)に任じられる程に皇帝劉宏に寵愛された。劉宏が崩御し、後継問題が持ち上がると董氏と結んで何進と対立した。劉協を立てる為、何進の暗殺を謀ったが逆襲を受け誅殺された。

*154黄門侍郎:禁中の門をその塗装から黄門と呼ばれていた為、皇帝に近侍するこの官を黄門侍郎と称するようになったとされる。定員無し、秩六百石。禁門の内側にて給事する給事黄門という郎官が前身とされ、尚書侍郎が皇帝の秘書官的役割から変化し、小黄門が宦官の排斥と共に力を失うに合わせ、皇帝の勅命を伝達する重要な秘書官的官職となった。 皇帝に非常に近い位置に立つ為、私的な親和性を帯びる事も多い職掌以上に重大な官吏。

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