桔梗の娘   作:猪飼部

13 / 26
第十三回 黄天當立

「あ……、あ、あんの、馬鹿弟子がぁああ!!」

 

 背まで波打つ秘色色(ひそくいろ)の髪を怒りに震わせ、弟子と同様に垂れた濃紫の瞳は今は昂る感情に合わせて赤紫にも見えた。細く滑らかな四肢には、普段からは考えられぬほどの力が込められていた。

 揚州刺史の便坐に用意された己の私室で、華奢な少女が、少なくとも少女にしか見えない女性が全身から憤激を発散させていた。

 そんな推定少女に声が掛かる。声の方に振り向けば私室の入り口が開いており、長年志を共にした戦友が呆れたように巨大な胸の下で腕を組んで立っていた。

 

「何じゃ、雷火。またぞろ大声を出しよってからに。廊下にまで響いておったぞ」

「……祭か。これを見よ」

 

 無遠慮に入室して来た同志に、今し方二つになった手紙を乱暴に渡した。

 

「せめて破く前に渡してほしいものなんじゃが……。勿体無い事を」

 

 随分と上質な紙を用いた手紙を受け取り、ぼやきながらも少女(?)の弟子から届いたその文を読み進める。そして、視線が引き裂かれた後半の紙に移る頃には、その精悍さと秀麗さを熟成させた(おもて)に愉快気な笑みを浮かべていた。

 

「流石の慧眼というべきかの、我らが主君は」

 

 その言に、苛立ちを収めさせられた細身の女は、大きく息を吐いてより深く自身を落ち着かせた。が、あまり効果は出なかった。

 

「我が弟子を篭絡するとは……。厳寿め、忌々しい。あの馬鹿者も馬鹿者だ! 血迷いおってからに、正気とは思えん!!」

「言い過ぎではないか?」

「言い過ぎなものか! 包の奴めは我らが主と小娘を天秤にかけて小娘を取ったのじゃぞ!!」

「それよ。 儂も俄かに厳寿なる者に興味が湧いたぞ。のぅ、雷火。お主の弟子はその孺子に何を見たと思う?」

「才覚や器ではあるまい。そういったものとは全く別の要素じゃろうな。それが何かまでは流石に判らぬが」

「ふぅむ」

「ここでこれ以上考えても無駄よ。近々顔を合わせる機会もあろう。その時に、篤と見定めてやろうではないか」

 

 ぐっ、と強く胸の下で腕を組み直し考え込む戦友に、苛立ちを増した視線を向けながら告げると、褐色の巨乳熟女はその視線には頓着もせずに応じた。

 

「おう、手紙にもあった大乱の気配というやつじゃな」

「必ずや我等にも声が掛かろう。忙しくなるぞ、祭」

「望むところよ」

 

 民草の事を想えば望まぬ内の大乱。しかし、己等の主の雄飛を考えれば待ち望んだ機会だ。背反する二つを合わせ呑んだ古強者の笑みを浮かべた二人は、揃って己が主君の元へと向かった。

 

 

 ――――

 

 

 

 第十三回 黄天當立

 

 

 

 年が明けて十四となった蕣華は、潁陽城にて何故か県令の真似事をさせられていた。葛陂賊襲来の際、逃げ出した県令の後任が未だ中央から派遣されておらず、潁川郡太守が守県令を仮置きするということもなかった為であるが、それにしても何故に自分が……と考えずにおれない蕣華である。

 はじめは既成事実を足元に積み上げる算段かと思ったが、それについては魯子敬に強く否定されてしまった。曰く、こんなところで県令なんぞに収まってもらっては困る、だそうだ。

 

「あいつ、私をどこに昇らせる気なんだろうな」

 

 息抜きの為に県堂を出て城街を散策する蕣華は、ふと鼻息荒く語った子敬の顔を思い出しながら市場へと足を向けた。そして、懐かしい声を聞いた。

 

「蕣華には順当に将軍辺りが似合うと思うよー」

 

 市場へと繋がる辻を曲がったその先に、待ち構えていたように親友が居た。いや、ようにではなく、どう考えても待ち構えていたのだろう。

 蕣華より一つ年上の、しかし頭一つ分小柄な少女。いや、頭一つ分よりもう少し小柄に感じる。それは、蕣華の背がその分成長したからだ。序でに言えば、身体つきもより女を主張する成長を遂げていた。そんな蕣華に対し、変わりなく見える対面の少女は黄崇、字を仲峻、真名は紅玉(ホンユィ)であった。益州巴郡に居る筈の最初の友が何故か今、目の前に居た。

 

「どういう事?」

「いの一番に連絡しろって言ったじゃんかー」

「いやまだ何処にも仕官してないし……」

「配下は居るのに」

「あー、それは事の成り行きで……」

「わたしが一番じゃないなんてな~」

「そう言われても……」

 

 驚愕から漏れた言葉を継いで、そのまま四つ辻の端で話し始める旧知の二人。何故、私はこんな所で親友に責められているんだろう? 当然の疑問が蕣華の脳裏を掠めた。

 

「去年の暮れに未究に聞いたらさー、早い内に益州出ておかないと置いてけぼりくらうって言われたんだよねー」

「未究は何時から皆の相談役に収まったんだ?」

「いや、実際あいつの図讖は大したもんだよね」

 

 顔に出ていたのだろう。此方の疑問に応えるように、さらっと話題を変えてきた。彼女の行動にはどうやら二番目の親友も絡んでるらしい。巴郡を発って以来、再会していない唯一となった親友の隙のない笑顔を思い出しながら話を続けた。

 

「まさかそれで一直線に此処に?」

「いんや、蕣華の文が洛陽から届いてから急いで洛陽に行ったんだよ。着いた頃にはもう出てった後だったけどねー」

「ん? それじゃあ……」

「で、暫く鋼んところに厄介になってた」

「おいおい」

「まぁまぁ。鋼も益州の現状を聞きたがってたし、わたしとしても蕣華が豫州に向かったって事だけは聞いたけど、それだけじゃまだ広いからね」

「じゃあ、私が鋼に宛てた手紙で潁陽まで来たのか」

「そういう事ー」

「紅玉にも宛てたんだけど」

「実家の方に、蕣華からの文は鋼ん所に送り直してって連絡入れといたから」

「紅玉はもうちょっと……」

「まぁまぁ、まぁまぁ」

 

 やれやれと溜め息を吐く蕣華。時折、目の前の友が見せる周囲を巻き込みがちな行動力の高さには、感心もするが呆れもする。まさかこんな不意討ちで再開する事になるとは思ってもみなかった。そこで傍と気付いた。

 

「それにしても、なんでここで待ち構えてたの?」

「ああ、巴郡を出た日にねー、未究の奴がさ『どうやら市場の程近くに君の吉兆がありそうだよ』なんて言ってきたからさー」

 

 それでこんな所で驚きの再会となったのか。周仲直の図讖術にはもはや瞠目するしかない。

 

「あ、そうそう。あいつ、近く桔梗おば様の元に行くって言ってたよー」

「え、未究が? まさか仕官する訳じゃないよね?」

「いや、分かんないけど。だとしたら似合わないよねー」

 

 自邸の庭に設えた天文台の上で、日がな一日 天の運行を測っている姿ばかりが思い起こされる友が、真面目に出仕して書類仕事を熟す姿というのは中々に想像し難いものであった。

 

「でも、未究も動き出したって事だよね」

「だねー、皆それぞれ先を見越して動き出してるよ」

 

 時代が動く、か。口中で呟き、気を引き締め直す。ここから先は激動が続く事となるだろう。故郷の家族や友人達、旅路であった新たな友や知己、そしてまだ見ぬ群雄豪傑達、それぞれがそれぞれに時代へと挑みかかろうとしている。無論、自分も。自然ときりりと引き締まった表情を浮かべる蕣華に、対面する友は気軽に声を掛けた。

 

「桔梗おば様と言えば、蕣華に預かってきたものがあるんよー」

「ここじゃなんだし、便坐に行こうか。皆にも紹介するよ」

「相変わらず、ぶれがなくて安心するなー」

 

 何の事やらと嘯いて、故郷から遥々やって来た親友を皆に紹介する為、蕣華は仲峻を伴って道を引き返した。

 

 

 ――――

 

 

「おー、君がトラちゃんかー。蕣華の心を鷲掴みにするとは、やるねー」

「にゃにゃ!?」

 

 県令便坐に呼び集められた包達一同は、厳慶祝から、故郷からやって来たという親友を紹介された。一通りの挨拶を済ませると、その友は一直線にトラに近づき、その頭を虎帽ごとわしゃわしゃと撫で回した。

 

「こらこら、トラが吃驚してるだろ」

「いいじゃん、いいじゃん、可愛いじゃん」

「聞けよ」

「にゃ~、姉ー」

 

 戸惑うトラを余所に、けたけた笑いながら無遠慮に撫で繰り回す黄仲峻。そんな仲峻を暫し眺め、包は徐に声を掛けた。

 

「それで仲峻さん……」

「紅玉で良いよー」

「では、私の事も包とお呼び下さい。それでですね、不躾ですが紅玉さんの能力を把握しておきたいのですが」

 

 あっさりと真名を許してきた仲峻に此方も真名で応え、質問を続けた。二人の真名に関するあまりに軽い遣り取りに、慶祝が「えぇ…」となっているのを視界の端に捕らえたが気にも留めない。仲峻も同様の様で、今やしっかりとトラを抱きしめながら頭を撫で繰っていた。

 

「わたしが蕣華より優れているのは軍気を読む事くらいだねー。あー、あとは県吏としての経験かな」

「軍気を……」

「紅玉は用兵に関しては凄いよ。同数の隊を率いての模擬戦だと、殆ど勝てないし」

「蕣華の率いる隊が読み易過ぎるだけなんだよねー」

「ぅぐ……」

 

 包は心中静かに歓喜した。この娘は主の足りない部分を補う資質を抑えている。

 軍気とは、軍の発する意気である。兵士一人一人の士気や戦意の多寡、統率具合、それが指向する先、そうした諸々を読み解くのは戦場での明暗を分ける大きな要因となる。軍中に士気の低い一隊があればそこを突く、足並みに乱れがあればその隙を逃さず、対面する此方以外に意識を向けているようであればその意識の先を警戒する。

 黄仲峻がそれを得手とするのならば、慶祝の副将として実に得難い人材であった。それだけではなく、子明の良い先達ともなろう。武にも文にも高い資質を秘める子明の事だ。これで軍気を読み解ければ、一流の用兵家となるだろう。

 

 その呂子明は、早くも仲峻を尊敬の眼差しで見詰めていた。余程、慶祝より優れたる部分を持つ仲峻に感銘を受けたのであろう。彼女はどうも慶祝に対して気後れ、もっとはっきり言えば劣等感を抱いている。それが負の方向に向かってはいない為、放置しているが、慶祝などは良く共に鍛錬に誘っては子明に自信をつけさせようとしている。一定の成果は出ているようだが、根本的な部分を拭い去るのは矢張り難しいだろう。或いはいずれか一つの道に専念させれば、すぐにでも慶祝を追い抜くかも知れない。そして、だからこそ自分も慶祝も彼女の持つ全ての可能性を伸ばしたくて堪らないのだった。

 そこまで思い至って、案外と自分達は似た者主従なのかも知れないと考え、綺羅(キラ)々々(キラ)した瞳で仲峻と交流を深める子明を眺めながら、一人ほくそ笑むのだった。

 

 

 ――――

 

 

 黄仲峻が皆にあっという間に馴染み、県の仕事にも慣れ、時折湧いて出る賊征伐をこなして日々が過ぎ、気付けば暦は二月となっていた。ちょうど一年前に巴郡を出た蕣華は、今日この日、新たな出発の時を迎えていた。

 漸く中央から新たな県令が就任し、引き継ぎもつつがなく終える事が出来た。そして、時機が重なったのは果たして偶然か否か、黄巾賊が遂に兵を挙げた。それまでにも肥大化を続け、散発的な暴動が起きていたが、此度は全黄巾賊が一斉に蜂起したのだ。

 黄巾の乱の勃発。魯子敬により、逸早く報を受けた蕣華はしかし落ち着いたものだった。子敬の眼には、それが非常に頼もしく見えた。

 

 今、潁陽城に二千五百からなる義勇軍が集っていた。

 何事も経験であると蕣華に県令の仕事をさせ、トラと呂子明が勉学に励む中、魯子敬は早くから潁川郡各地から義勇兵を募っていた。更には私財を投げ打って軍備を整え、各地から情報を収集し精査していた。それも、蕣華の補佐とトラ・子明両名の勉強を見ながら。蕣華の補佐は途中から合流した黄仲峻が引き受けたが、それでも子敬は人の二倍も三倍も精力的に働いていた。

 

「包」

「なんでしょう、蕣華さん」

「張り切り過ぎて早死にしないでよ?」

「もうちょっと好い労いの御言葉を戴けませんかねぇ?!」

 

 良い笑顔で呼び掛けに応えた子敬が続く言葉で仰天の声を上げた。

 隣で仲峻がけらけらと愉し気に笑い、トラも釣られて笑った。子明は困ったような乾いた笑いを漏らしていた。

 門楼の上で義勇軍を見下ろしなが談笑する五人。それぞれ胸に期するものがあった。

 

 

 トラは新たに始まる戦いの旅路に、新たな名で挑もうとしていた。

 

「姉ー! トラの新しい名前が出来たにゃ!!」

「お、遂に漢名を決めたんだね」

「にゃ!」

 

 トラはそう言って、後ろ手に丸めていた紙を広げてみせた。そこには、『厳虎(*160)』の二字が拙いながらも堂々たる筆致で書き込まれていた。

 

「厳虎! いいじゃん、いいじゃん、格好良いじゃーん」

「トラちゃんらしくて素敵ですね」

「にゃ~」

 

 仲峻と子明が褒め、トラが照れるその間に、蕣華はちらりと子敬に視線を送った。すると、こくりと小さく頷いて、顔を寄せごく小さな声で囁いて来た。

 

「よくご存じですねぇ。でもまぁ、随分と前に孫揚州に殺られちゃってますから、少なくとも本人と鉢合わせする事はありませんよ」

 

 ならまぁ、いいかな。と自分を納得させた蕣華。トラが懸命に考えた漢名に否やを出すのは非常に憚られた。ただ、あまり縁起が良くないのも確かだが……。

 

「トラ」

「にゃ! 姉ー」

「私とトラが集約したとても好い名だね」

「にゃ~」

 

 言いながら優しく抱き寄せ、ゆっくりと愛おしむように頭を撫でてやる。トラは両手を紅潮した頬にあてて、にゃんにゃんと照れていた。

 勝手に厳姓を使った事に若干の不安を感じていたが、まさしく杞憂であった事にほっと胸を撫で下ろしながら、蕣華の掌を堪能するトラ。全ての不安を消し飛ばし、勇気を与えてくれる魔法の手。何処までも往ける。蕣華と一緒ならば、きっとあの蒼天の果てまでも。

 トラは無邪気な確信と共に、今日も蕣華の傍に在った。

 

「本当に仲良いですよね、御二人って」

「いやー、蕣華が動物以外にあんなに愛情注ぐ姿を拝めるとはねー」

 

「蕣華さん、トラちゃんを愛でるのは好いですがそろそろ……」

「ん、ああ」 

 

 

 子敬に促され門楼の胸壁に立ち、蕣華は集った義勇兵に向かい合った。

 そんな蕣華の姿を敬慕の念を込めて見詰めながら、呂子明は胸中で改めて誓いを立てていた。

 

 今日まで蕣華は事あるごとに子明を気に掛けていた。慣れない仕事を熟しながらも、時間を作っては共に鍛錬に励んだ。勉学に詰まった時も、かつて自分が教わった経験を基に助言を与えた。右目の視力が極端に低いと知ると、片眼鏡を贈った。

 子明の武力も知力も、日に日に上昇していった。それと共に、尊敬と忠心も日増しに高まった。 

 学も名もない自分にこれ程までに目を掛けてくれる主に報いる為、呂子明は己の存在の全てを賭けて仕える事を誓った。

 

 

 熱い眼差しを蕣華に送る子明の隣で、黄仲峻もまた長年の友を笑顔で眺めていた。

 

 自分は文も武も中途半端だ。人品も取り繕う事は出来るが、それだけだ。だから自分は平凡な生涯を送る事になるだろうと、幼い内に見切りをつけてしまっていた。

 しかし、仲峻は蕣華と出会った。そして、一点だけ彼女を越える才を持つ事に気付けた。決して敵わないと思った相手でも、完璧などではないのだと、そう気付けた。その時、仲峻は己の生き方を変えた。私はこいつに付いて行こう、きっと楽しくなる。その予感に従って、仲峻は豫州まで遥々蕣華を追ってやって来た。そしてこの時を迎えた。さあ、遂に来た! 今、そんな心地で蕣華を眺めていた。

 

 

 歓声のような鬨の声を上げる義勇軍。その気勢を上げさせた蕣華を満足げに見詰めながら、魯子敬もまた心躍らせていた。

 

 自らの進むべき道を破棄して選んだ年下の豪傑。実際の所、何処まで彼女の事を把握しているのか、自分でも未だ掴めていない。正体不明の衝動と予感に突き動かされた事に後悔はなく、寧ろどこか愉しみを見出しているのを最近は強く自覚していた。

 きっとあの娘は他の群雄英傑とは違う結末に辿り着く。実に無責任な期待だ。まさか自分がそんなものに己が道を賭けるとは想像の埒外だった。子敬は自分自身でも知らなかった一面に気付かせてくれただけでも、今ここに立っている価値を認めていた。視線の先にある少女にも、己でも把握していない隠された何かがあるだろう。そしてそんな彼女を自分が支えるのだ。

 魯子敬は今、嘗てないほどのやる気に充ちていた。

 

 

 眼下にある義勇兵達の歓声を身に受けながら、蕣華は人の上に立つ重圧と、期待を掛けられる重圧に挟まれて動きを止めていた。先程、自分が何を語ったのか殆ど憶えていない。冬に葛陂賊の一派を討った時に飛ばした激とあまり変わらなかったような気もするが……。すっと目を閉じ、数瞬の間、内面を顧みる。そして気付いた。

 ああ、私は今頃実感しているのか。そこに思い至り、自分に対して呆れる事で少しだけ平静を取り戻した。

 静かに深呼吸し、意識的に胸を張り、表情を今一度引き締める。そして、大声(たいせい)で出立を宣言した。

 鋭く振り返り、順々にこの場に居る四人の顔を見渡した。少しだけ肩の力を抜き、今度は自然な笑顔で言葉を紡いだ。

 

「さぁ、往こうか」

 

 蕣華のその言葉に応えるかのように、彼女達の頭上でバサリと旗が翻った。蕣華の門出を祝するような青い、力強い太陽を(いだ)く蒼天の如き紺碧の厳旗。母が娘に贈った真新しい軍旗の元、義勇兵二千五百と魯家部曲凡そ五百、約三千の軍勢と共に乱世に名乗りを上げた。

 

 

 

 第十三回――了――

 

 

 ――――

 

 

 数か月の後――

 

 黄巾賊殲滅の為の決戦地に多くの官軍、諸侯軍、義勇軍が集っていた。そして、厳(ぎょう)屯騎(とんき)校尉(こうい)も。

 

「我々は大分後発のようですねー、屯騎校尉(*161)様。どうやら殆ど揃ってるようですよ」

「行、行を付けて」

 

 馬上で片手を庇のように額上に翳し、並み居る軍旗を数えながら、魯子敬は楽し気に声を上げた。それに対し、やや微妙な面持ちで応える蕣華。

 

「蕣華ー、またそんな顔してー。もっとシャンとしなってー」

「そうは言ってもね……」

「まー、蕣華の成り上がりっぷりには、あそこに集う誰もが注目するだろうけどねー」

「…… ……」

 

 明らかに面白がっている調子で告げる黄仲峻の言に、増々微妙な表情になる蕣華。そのやりとりを気にもせずに意気込む子敬に、疑問を呈する蕣華であるのだが。

 

「ここで更なる軍功を上げて行の字を取れば、連中の眼を更に剥き上がらせる事ができますよ!」

「今でさえ大分無理のある状況なのに、正式任官なんて……」

「大丈夫です。いけます、通してみせますから、安心して武功をあげて下さいね」

 

 自信を満面に湛えて請け負う子敬に、なんと返せば良いのか逡巡する蕣華。兎に角、矢鱈と頼もしさを感じるところが逆に不安を煽った。

 一体、どんな手練手管を発揮すれば、ほんの少し前まで無官の小娘だった自分を、仮置きとは言え屯騎校尉に任官させ得るのか。流石に皇帝陛下直属の下軍(かぐん)校尉(こうい)(*162)は無理でした。などと好い笑顔で(のたま)った軍師殿にちょっと、いや、かなり戦慄していたのは内緒である。

 屯騎校尉とは只の校尉(こうい)(*163)ではない。宿衛兵を掌する、皇帝に近侍の高級武官である。何処の馬の骨、とは言わないが、何の功も実績ない者にいきなり就かせるような軽い官では断じてない。

 不満などはある筈もないが、身の丈に合っているとは思えぬ現状に、若干の居心地悪さを感じているのも確かだった。

 

「ま、蕣華の内心はどうあれ、ここからは辛気臭い顔しないでよー?」

「ああ、解かってる」

 

 友の言葉に気を引き締め、蕣華は集結地へと馬を進めた。

 




*160厳虎:揚州呉郡烏程県(うていけん)出身の群雄。別号を白虎。長興県にて一万を超える軍勢を築き上げ、孫策と敵対したが、その孫策には群盗扱いされ大した脅威と見做されていなかった。その最後は判然としない。
演義では『東呉の徳王』を僭称し、矢張り孫策と敵対している。こちらでは孫策配下の董襲(とうしゅう)に首を討たれて散っている。
本作では孫堅と敵対し既に討たれているとする。その後、トラが知らずに同名を名乗る事となった。

*161屯騎校尉:北軍(ほくぐん)中候(ちゅうこう)(後には中領軍(ちゅうりょうぐん))の属官。北軍五営(校尉)の一つ。元は騎士(実際に戦闘を行う兵士の事。一般の兵卒は基本的に非戦闘員)を掌ったが、後漢代には禁兵からなる宿衛兵を掌った。宮中にて宿直する為、通常は外征には関わらない。有事の際には重装騎兵を率いたとされる。定員一名、秩比二千石。

*162下軍校尉:皇帝劉宏が私財を投じて創設した皇帝直属部隊の西園軍(さいえんぐん)を指揮する西園(さいえん)八校尉(はつこうい)の一つ。強い後ろ盾を持たず、宦官しか拠り所のない劉宏が設置した実戦力であったが、その後すぐに崩御してしまい、殆ど機能することなく解体された。その中でも下軍校尉鮑鴻(ほうこう)は葛陂の黄巾討伐に出兵している。

*163校尉:部(軍の編成単位において数千人規模の部隊)を率いる武官。将軍の元に軍司馬と共に置かれた。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。