桔梗の娘   作:猪飼部

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第十五回 蒼天未死

「旅芸人~?」

 

 魯子敬がもたらした情報に、黄仲峻が鸚鵡返しに聞き返した。黄巾賊に潜入させていた間者が漸く掴んだという、黄巾首魁張角の正体であるという。

 

「はい。俄かには信じがたいでしょうが……」

「俄かにって言うか、何がどうなったら旅芸人が反乱首謀者になるのー?」

「えー、どうもその芸人姉妹の熱狂的な支持者達が暴走した結果のようですね」

「余計訳解かんなくなったなー」

「その姉妹は歌舞で生計を立てていたんですよね。その芸能に惚れ込んだ者達が、熱狂の余り大陸を揺るがす反乱を起こした、と」

「噛み砕いて説明されても、やっぱり意味わかんねー」

 

 お手上げ、とでもいうように伸びをしてぼやく仲峻に、あはは、と乾いた笑いで追従する呂子明。まぁ、そう思うよな、と納得しながら蕣華は、討伐軍本営から渡された手配書から顔を上げた。

 

「討伐軍に流布してる人物像からは凡そ懸け離れてるな」

「その手配書もどうかと思うわー。方向性が違うだけで信憑性はどっこいじゃない?」

「いや、紅玉。怪物ってのは意外と居る所には居るもんだよ」

「だとしても、怪物に心酔して王朝転覆謀るのはないわー」

「まぁ、そうだよね」

 

 南蛮での経験を基に熱く語るが、仲峻の当たり前すぎる指摘に同意せざるを得なかった。そもそも怪物の実在云々は置いておいて、黄巾賊が異形の者に率いられているとは欠片も信じていないのは、蕣華も同様だ。

 手配書に描かれていたのは、身の丈一丈三尺(約3m)を越える、八腕五足の偉丈夫だった。その額からは恐ろし気な角が生えており、顔の下半分を覆う髭は黒い炎の様、腰からは長い尾が波打つように伸びている。

 大真面目な顔でこの人相書き(?)を記室督(きしつとく)(*170)から渡された時、蕣華はどう反応すればいいのか非常に迷ったが、迷った末に「手強そうだな」とぽつりと呟いた。神妙な顔で「全くですな」と返されてしまい、もう何も言えなかった。あ、信じてるんだ。と微妙な面持ちになり、そそくさと退出した。

 

「姉ー、トラも、トラもそれ見たいにゃ」

「ん、はい」

 

 微妙な記憶を思い起こしていると、トラが興味津々と手を伸ばしてきたので『黄巾首魁張角想像図絵』を手渡してやる。わっくわくで鑑賞するトラ。「ほほー」だの「ふむふむ」だのと声を上げながら実に楽し気だ。その様子に興味を惹かれたのか、子明がそっとトラの後ろから手配書を覗き込む。そこには変わらず微妙な怪人が描かれているだけであった。

 

「これはなかなか……、なかなか格好良いにゃ!!」

「そ、そうなんだ」

「にゃー、亞莎にはちょっとはやいかにゃ~?」

「えっ…と、うん、そう……かも」

 

 やけに得意げなトラに、苦笑しながらも微笑まし気に返事を返す子明。そんな二人を優しく見守りながらも、蕣華は別の事を口にしていた。

 

「それにしても、旅芸人の姉妹か……」

「んー? なに、なんか懸念でもあるの?」

「どうしたものかと思ってね」

「何、蕣華。甘っちょろい事言う気ー?」

 

 等と言いつつ、ちょっと愉し気な仲峻。常識的な判断なぞ一顧だにせず、何か面白い事を言い出す事をありありと期待していた。

 

「いや、と言うか、今更になって叛乱の首謀者はただの旅芸人ですって言っても、それこそ信憑性が、ね。女の子の頚三つぶら下げて、この娘達が此度の反乱を企てた何の力もない旅芸人に御座います。って上に差し出したら、なんと言われるか……」

「あー、確かに。手配書似の強面の頚の方が説得力あるよね。たとえそれが真っ赤な偽者でも」

「黄巾の捕虜からも張角の正確な情報が全く得られていない現状では、芸人姉妹を差し出しても、誰も信用しないというのは有りそうですね」

「頭の痛いところです。彼の姉妹の信奉者達の心酔振りは、少々どころでなく常軌を逸してますねー」

「よく包んとこの間者はこの情報持ち帰ったね」

「……その間者からは、情報と共に姉妹の助命嘆願をされましたよ」

「取り込まれ掛かってんじゃん」

 

 呆れた調子で仲峻がそう言えば、本当に頭の痛いところです、とこめかみを揉みながら子敬が応じた。

 

「助命するとして……」

「するんですか?」

「ん? 包は反対か?」

「それはもう、抱え込む厄介事としては大き過ぎるでしょう」

 

 まぁ、常識的な判断だ。蕣華の呟きに素早く反応した子敬の言は、当然のものだろう。

 

「駄目かな?」

「蕣華さんがそうしたいと言うのなら」

「良いんですか?」

 

 今度は子明が子敬の意外な言葉に反応した。

 

「それは無論、良くはありませんけどね。主が望むのならば、どうにか手を考えますよ」

「包も意外と蕣華を甘やかすよねー」

「貴女だってその方が面白いとか考えてるくせに」

「ま、ねー」

「亞莎はどう? 反対かな」

「私は……、確かに一介の旅芸人を謀反人として、一切合切を背負わせて処断する事には抵抗があります。でも、その姉妹になんの落ち度もないとも思えません」

「確かに、何か切っ掛けはあったはずだし、それに本当に何の力もないのかってところにも疑問の余地はあるしね」

「どのみち、行き成りばっさりって訳にはいかないかー。となると、他の軍を出し抜けるのかってとこなんだけど、どうよ包、その辺は」

「件の間者の情報から、最短経路は既に割り出しました。幸いにして、我々は強力な騎兵隊を擁してます。他軍に先んじるのはそれほど難しくはないでしょう」

 

 蕣華が行屯騎校尉に任じられたという事は、屯騎兵がその指揮下に入ったという事である。対異民族戦の経験を持つ重装騎兵は、馬術を得意とする蕣華と非常に相性が良かった。付け加えて言うならば、鮑鴻に率いられていた時よりも士気は高く、蕣華がこの地に合流するまでに名を上げるのに大きく貢献していた。

 子敬はこれを天意と感じていたが、天意や天数といった考え方が余り好きでない主の前では口にしなかった。

 

「とは言え、実際には配置次第ではありますねぇ」

「うちは騎兵を運用してるんだから、大体の予測は立つんじゃないのー?」

「素直に勝ちだけを見据えるなら、そうなんですけどねー」

 

 蕣華はとにかく目立っている。これ以上功を積ませたくないと思っているのは一人や二人ではあるまい。子敬としても、明日の軍議であまりがっつくところを見せたくはない。それでもまだ打つ手はあった。

 

「それで彼女等の身柄ですが、玄徳(げんとく)さんに預かってもらうというのはどうでしょう?」

桃香(とうか)さんに丸投げしようっての?」

「ただで軍糧を食むというのも、彼方としても気後れする事でしょう」

「貸し借りはさっさと清算しようぜーって?」

「ええ」

「しかしそうなると、玄徳殿にも事情を説明しないとなりませんけど」

「それに関しては劉玄徳という人物は信用できると思います。そして、あそこの勢力は主が是とすれば、身命を賭して厳守するでしょう」

 

 にまにまと笑顔で語る子敬に、悪い顔だなぁ、と吐息を漏らす蕣華。しかし案外、良いかも知れない。正直、自分では持て余しそうな案件だが、劉玄徳という稀代の器ならば、容易く収めてしまえそうだ。勝手な期待ではあるが、彼女はそれをこそ是として突き進む理想の人だ。

 

「……頼んでみるか」

 

 蕣華のその言葉に、魯子敬はにんまりと笑みを大きくした。

 

 

 ――――

 

 

 第十五回 蒼天未死

 

 

 

 水鏡女学院出身を示す装束に身を包んだ少女は、頭を悩ませていた。ここ最近はずっと同じ案件が付いて回っている。これ以上、曹操軍には頼れない。腹は膨れても、戦死者が多くなり過ぎているし、これ以降は借りの方が大きくなるだろう。元より、この討伐軍集結地までという約定である。

 それにここから先は本格的な戦功の奪い合いだ。そんな局面で、あの底の知れない英傑に良い様に使われる訳にはいかないのだ。

 短めに切り揃えられた光沢のある亜麻色(あまいろ)の髪が、傾けた頭に合わせてさらりと頬に流れるのを、細く嫋やかな指で掬う。愛らしくも深い知性の輝きを灯す紫檀色(したんいろ)の瞳は、直面する問題を前にしても聊かも曇る事無く、桜貝のような可憐な唇は、今は固く閉じられていた。身の丈は六尺を二寸(約143 cm)超えるか否かといった程度の矮躯だが、その身に負う決意は泰山(たいざん)よりも大きかった。

 この少女、名を諸葛亮(しょかつりょう)(*171)、字を孔明(こうめい)といった。

 陣営を張り終り、兵員、軍糧、武器資材等々をまとめた報告書を睨み付けるようにしながら黙考していると、自分と親友用に張られた陣屋の外から、自分を真名で呼び掛ける声が聞こえてきた。

 

「朱里ちゃん、朱里ちゃん!」

「どうしました? 桃香様」

 

 手早く木簡を巻き、陣屋を出ると、敬愛する主が義妹の一人を引き連れて現れた。いつもの笑顔に、いつもの元気。目にするだけで活力を与えられる陽の人。

 

「到着したんだって!」

「厳行屯騎校尉殿だ」

「ああ……」

 

 誰が?という疑問の声を上げる前に、主の義妹であり、右腕とされる人物が面白くもなさそうに補足した。それは、今注目されている立身伝の主人公である。

 厳寿、字を慶祝という。益州巴郡出身の清流豪族の出で、諸州見聞の旅の途中、黄巾賊の脅威に曝されていた潁川郡某県にて義勇軍を結成。その類まれなる武勇を以って黄巾賊を蹴散らし、世に躍り出た新進の英傑。そして、次に噂を聞いた時には行屯騎校尉に出世していた。

 有り得ぬ成り上がり振りである。この黄巾征伐で功を立ててある程度の地位に就く、というのは解かる。自分達も正にそれを狙っている。しかし、今はまだ征伐の最中だ。それも禁軍を率いる要官に、つい最近まで評判こそ上がっていたとはいえ無官の娘を就けるなど、どんな手品であろうか。仮官であっても無理筋であることに変わりはない。

 主は自身と同じく義勇軍から身を立てたこの人物に、強い興味を抱いていた。

 

「どんな人かなー? お友達になれるかな?」

「桃香様、あちらは既に中央の高官。そう簡単にお会いできるとは……」

 

 自分と同じように世の為人の為に義勇軍から立ち上がった人物だ。色々と期待するものがあるのだろう。無邪気に語る主に、美髪の義妹が思い止まらせようと声を掛けた。内心面白く思っていないのだろう。義姉とは違い、自分達と同じ様に身を立てて、それでいて先を行かれている事に。いや、内心どころか、うっすら表面に滲み出ている。良い傾向ではないな、と小さな軍師は心の中だけで小さく嘆息した。

 確かに自分にも思う所はある。しかし、こちらとあちらでは様々な要因が違っている。無官の身から義勇軍を立ち上げたという共通項だけで比べるのは間違いだ。それに、厳寿なる人物は、決して桃園の次姉が妬心を向けるような人物ではない。出来れば良い出会い方をして欲しい。そう願って口を開いた。

 

「んー、無理かなぁ」

「あちらも任官したばかりで何かとお忙しいでしょうし……」

「厳行屯騎校尉様は……」

「朱里?」

「厳行屯騎校尉様は孝心高く、義気旺盛で、仁愛に富んだ御方です。貧民や異民族にも分け隔てなく接し、汚吏を蛇蝎の如く嫌うと聞き及んでおります。桃香様が無官で、自身が成り上がったからと言って、こちらを侮るような態度を取られたりはしないでしょう」

「朱里ちゃん、慶祝さんの事知ってるの?」

「それほど詳しくは存じ上げませんが、水鏡女学院時代の一学年上の学友が、荊州南部で彼の御仁とお会いした事がありまして。その時に寄越してくれた文に、厳慶祝なる人物の事が(したた)めてありました」

 

 そう、自分と、そして女学院時代からの親友は話題の人物の事を少しだけ知っていた。人品申し分なく、武勇高らかで、初めて会った学友の策に己の武を賭けるなど、人を見る目も確かであろう。彼女達にとって、惜しむらくはその志が天下を向いているようには感じなかった事だ。将器充分なれど王器なし。それでは駄目なのだ。肩を並べて戦う仲間としてなら、とても頼りになったろう。しかし、自分達が求めていたのは、大陸を託すに足る主であった。

 無謀とも思える様な大望であるが、そこを指向する大人物にこそ仕えたいと、親友と共に願っていたのだ。そして、幸運にも自分達は天下の人民を遍く救いたいという志を持った英雄と、理想の主君と出会う事が出来た。

 

 そして、自分と親友が劉玄徳を選んだように、厳慶祝を選んだ者もいる。強力な人脈を持つ何者かが。

 

 主君は純粋な興味から会いたがっているが、自分も早い内に会ってみたいと考えていた。そして見極めたかった。その人となりに実際に触れてみたかった。彼女を押し上げた腹心の事も深く気になっていた。

 その機会は意外なほど早く訪れた。主が厳慶祝の事を更に訊ねようと此方に身を乗り出したその矢先、「桃香様~っ!」と愛らしい声が響いて来た。

 その場の皆でその声の方へ振り向いてみれば、女学院時代から志を共にする親友が息せき切って此方へ走り寄って来ていた。

 

「と、桃香…しゃま……はひぃ…、お、お客様、です。是非に、…お会いしたいと……はぁ、はぁ」

「お、落ち着いて雛里(ひなり)ちゃん。誰が訪ねて来たの?」

 

 余程急いできたのだろう、主に両肩を支えられ、何とか倒れ込まずにひぃひぃと息を荒らげている。ただ、焦燥の色は見えず、緊急事態という訳でもなさそうだ。会見の申し込みでここまで慌てるとは、一体どれほどの大物か、或いはまた意外な人物なのか。

 

「はぁ……はぁ……、ふぅ」

「大丈夫?」

「は、はい。すみません、桃香様」

「それで雛里、一体どなたが来られたのだ?」

「はい……。厳行屯騎校尉様でしゅ」

 

 思わず三人で顔を見合わせた。噂をすれば、というわけでもなかろうが、まさか向こうから接触してくるとは思っていなかった。あちらもこちら同様に興味を抱いていたのだろうか。だとすれば、少なくとも悪い事にはならないだろう。

 顔を綻ばせた主が嬉々として出迎えに向かうのを慌てて追いながら、この会見を転機と出来れば良いのだが、と期待をかけていた。

 

 「あぅ……嚙んじゃった」という、もう一人の小さな軍師の恥ずかし気な呟きは、幸いにして誰の耳にも届いていなかった。

 

 

 ――――

 

 

 手早く陣営を張り終り、皆が細かな雑務を片付ける中、蕣華は少々手持無沙汰であった。この機会に確かめたい事もあり、ついうずうずとしていると子敬と目が合った。というよりも此方を窺ってきたので、試しに声を掛けてみる。

 

「ねぇ、包。時間ってあるかな」

「そうですねぇ、少なくとも本営に出向いて挨拶して下されば、少しくらい出歩いてもらっても構いませんよ。どうやら、未だ参陣できていない諸侯もいるらしいので、全体軍議は明日以降になりそうですし」

「ありがと。じゃあ……、亞莎、一緒に行こうか」

「え、私ですか?」

 

 突然の指名に驚いた子明が子敬を窺うと、笑顔で頷かれたので「はい」と憂いなく返事をし、蕣華の随伴に付いた。

 

「で、何も言われていないトラ吉も極自然に付いてったなー」

 

 くそー、わたしも出掛けてー、と愚痴る仲峻をまぁまぁと宥める子敬であったが、後に自分も出払えばよかったと思う羽目になるのであった。

 

 

 ――――

 

 

 本営の天幕を辞して、子明に手配書を渡しながら各陣営を見渡す。子明の「うわ……」という珍しい呻きを聞きながら目を凝らせば、ここから見える範囲には目的の三陣営の内、二つの軍旗が翻って見えた。

 さて、矢張りまず最初はあの陣営だな。と、二人を伴って歩き出した。普段は無意識の奥底に沈んでいる記憶とどれ程の差異があるだろうか。珍しく意識してそれを浮上させながら歩を進める。自分の存在によって、或いは全く無関係にも色々と相違がある。変に囚われ戸惑ったりしないようにしなければならない。気を引き締めて行こう。

 そう言えば、あの噂は戦場にまで流布されていたが、今以って確たる話は聞こえてこないな。ふと気になって、手配書を眉根を寄せた微妙な顔で凝視している子明に声を掛けた。

 

「ところで亞莎は“天の御遣い”って知ってる?」

「え? はい。この乱世を終結に導くとかなんとか……」

「どう思う?」

「……そうですね。胡散臭い噂話だと思いますが、それを信じたがる人達の気持ちも解かります」

「ふむ」

「トラは居て欲しいにゃ~。それで天の国のお話ききたいにゃ!」

「天の国か……。トラはどんなところだと思う?」

「にゃ~、きっと美味しいものがいっぱいあるにゃ! それで美味しい獲物もいっぱいいるんにゃ! それでそれで、美味しい香蕉(バナナ)もいっぱい生ってるにゃ!」

「香蕉?」

「南方の果物だよ。交州に立ち寄った時に食べる機会があってね。それにしてもトラ、食べ物のことばっかりじゃないか」

「にゃははー」

 

 悪びれもせず笑うトラに、蕣華も子明も釣られて笑った。この数か月、ずっと軍糧を大鍋で煮込むだけの大味な食事続きで飽きが来ているのだろう。南蛮に居た頃のトラならば、それでも美味い美味いと喰らったであろうが、もう一年以上も蕣華と共に旅をして来て随分と舌が肥えてしまっていた。蕣華もそろそろ麻婆豆腐でも腹一杯にかっ込みたい気分だった。南蛮辛子たっぷりのやつがいい。

 そんな中、腹一杯に食べられるだけでも満足な子明が、話題を元に戻した。

 

「それで、蕣華様は信じておられるのですか?」 

「……故郷の友人がね、私が求めているというんだ」

「その、天の御遣いを……?」

「うん。実際、私が彼をどう想っているのか。求めているのかどうなのか、私自身にも判らないんだけどね」

「そう、なんですか」

 

 天の御遣いは男性なんですか?とは聞けなかった。御遣いの事を語る主が曰く形容し難い表情をしていたから、そこにどれ程の想いがあるのか計れなかったから。だから中途半端に頷くくらいしかできなかった。それと同時に、呂子明は天の御遣いは本当に居るんだと、引っ掛かりなく納得した。

 天の御遣い――、どんな方なんだろうか。

 子明がまだ見ぬ遠い存在に俄かに想いを馳せていると、目的地に着いたのか、主がその歩みを止めた。その視線の先には、小さな、トラと同じくらいの背格好の少女が長大な得物を手に、兵士の一団を調練していた。

 周囲を見渡してみれば、すぐ傍に劉の軍旗棚引く陣営が目に入った。恐らく、そこの一隊であろう。視線を調練中の兵隊に戻せば、その軍装はまちまちであり、とても官軍には見えなかった。翠緑(すいりょく)の劉旗、まとまりのない軍装、軍規模に対して不釣り合いなほどの武威を放つ猛将。北方は幽州で旗揚げした義勇軍で間違いないだろう。

 子明が答えに行き着くと同時に、蕣華は眼前の一隊を見据えたまま、問いを発した。

 

「どう見る?」

「荒さは目立ちますが、実戦で練度を上げた叩き上げの軍。能く統率され、士気も高く、何より率いる将が飛び抜けています」

 

 淀みない子明の分析に、うん、と満足げに頷く蕣華。そんな主従に恐る恐る近づく小さな影。三角帽を被り、淡藤色(あわふじいろ)の長い髪を左右で結んだ気弱気な少女。松葉色(まつばいろ)の瞳は何かを確認するかのように蕣華に注がれている。しばしの逡巡、やがて意を決したように声を上げた。

 

「あの、何か御用でしょうか?」

「ああ、失礼」

 

 か細い誰何の声に振り向く蕣華。声を掛けてきた少女の被る帽子の、その先っちょに興味津々のトラの頭をそっと撫でながら、応対する。

 

「私は厳寿と申す者。劉玄徳殿に御目通り願いたく参上致しました」

「やっぱり、厳行屯騎校尉様……」

「? やっぱり?」

 

 自分の噂くらいは耳にしていても今更何の疑問も沸かないが、やっぱりという文言は少々引っ掛かった。それはつまり、人相風体まで流布しているという事か。自分もここに集っている諸侯の中で有力な者達の噂は幾つか耳にしているが、それはあくまでどんな人物かの評判であって、どんな外見なのかなどという話は全く聞いていないというのに……。

 

「あ、いえ、その……、お噂は勿論ですが、探花(タンファ)ちゃ、元直ちゃんのお手紙にあった通りの方だな、と……」

「元直殿の…、そうでしたか。彼女の智謀には荊州で大いに助けられました」

 

 と納得しかけて、いや待て、あの人どれだけ細かく私の事を文に(したた)めたんだ。と新たな疑問が沸き上がったのだった。

 此方の疑問を余所に、鳳統(ほうとう)(*172)と名乗った目の前の少女は、やや興奮気味に今は遠い学友の凄さを捲し立ててきた。真名を交わしてもいるし、よほど尊敬しているのだろう。徐元直の事を熱弁する少女は我が事のように誇らしげでもあった。

 自分の知らない知己の話に興味は尽きないが、このままでは日が暮れてしまうかも知れないと、やや大袈裟な危機感に押されて、やんわりともう一度用件を伝えると、舌を嚙み嚙み大慌てで頭を下げてきた。

 

「あわわ!? し、しちゅれいしました! 今、お呼びしてきましゅっ!」

「ああ、いや……」

 

 訪ねてきたのは此方だ。話さえ通してくれれば、此方から赴こうと言いたかったのだが、小動物のような軍師はまるで脱兎の如く駆けて行ってしまった。

 

「……じゃあ、待たせてもらおうか」

「はい」

「にゃ!」

 

 

 ――――

 

 

 期待に胸膨らませて劉備(りゅうび)(*173)――桃香――が陣営の外れ、義勇兵の訓練場所に着くと、そこには着流し姿の若武者が、異民族であろう小さな少女と共に居た。此方に気付く様子もなく、二人して熱心に声援を送るその視線の先に目を移せば、そこにはもう一人の義妹と、見知らぬ美少女が立ち会っていた。

 

 末妹がその身に似合わぬ長物を縦横に奮う。一見、無手の少女には分が悪過ぎるように桃香に思えた。

 実際、満足に近づく事すらできていない。しかし、対戦相手の少女に焦りの色はない。妹の振り下ろしに臆することなく、間合いを詰めながら身を捻り寸でのところで躱す。柄の半ば程の距離まで詰め寄ったが、まだまだ無手の間合いには遠い。にも拘らず、片眼鏡の少女はその腕を横薙ぎに振るった。長過ぎる袖が風音を立てて妹の眼前を横切ったが、そんなものが武器になるとは思えないし、そもそも届いてすらいなかった。が、背後で次妹がはっと息を呑んだ。桃香には見えなかったが、振るった袖から極薄の匕首(ひしゅ)が飛び出していた。しかし、末妹は動じることなく、なんとそれを歯で咬んで受け止めていた。暗器を投げ付けた少女も、それに動ずることなく更に間合いを詰める。

 桃園の三女は旋風を起こすように得物をぐるりと振り回す。少女の横腹にぎりりと撓った柄が喰い込むが、少女はそこを軸に側転して辛うじて受け流した。だが、そこに自身が投げ付けた匕首が迫る。末妹が首の捻りだけで投げ付けたのだ。桃香はそこで初めて末妹が匕首を咥えていた事に気付いた。ばさりと音を立てて少女の長袖が翻ると、ぞろりと凶悪そうな鉤爪が袖口から顔を覗かせていた。桃香は見逃していたが、鉤爪を袖口から伸ばすと同時に匕首を受け止めていた。得物の準備と防御を一つの動作でこなして見せたのだ。

 にやりと大きな笑みを浮かべた末妹が、あろう事か自ら間合いを詰めた。「えっ!?」と桃香が思わず声を上げる。驚いたのは桃香だけではなく、暗器使いの少女も同様であった。しかし、動揺を即座に抑えて迎え撃つ。桃香の義妹は長大な得物を棍のように小器用に振るい、不利なはずの近接の間合いで互角以上に渡り合った。

 片眼鏡の少女も意地を見せて打ち合うが、十合、二十合と打ち合う毎に末妹の荒れ狂う武威に押されていった。そして遂にぎりぎりで保っていた均衡が破られ、少女が後方に弾かれた。そしてそれは、ちょうど末妹の振るう丈八(じょうはち)蛇矛(だぼう)の最適の間合いであった。体勢を立て直した少女の直上にぴたりと翳された波打つ独特の刃先。決着であった。

 

「参りました。流石にお強いですね」

「お姉ちゃんもなかなか筋がいいのだ! 戦い方も面白くて、鈴々(りんりん)すっごく楽しかったのだ!」

翼徳(よくとく)殿程の方にそう言われると……」

「鈴々のことは鈴々でいいのだ! それに殿もいらないのだ。そんな呼ばれ方はなんだかこ、こ、……こそばったい?のだ!」

「ふふ、では私の事も亞莎と呼んで下さい。鈴々ちゃん」

「わかったのだ!」

 

 先程まで刃を交わして立ち合っていた二人の笑顔を見て、嗚呼、皆が皆こうであれば好いのになぁ、と桃香は思わずにはいられなかった。戦うにしても、力を振るうにしても、後腐れなくこうして笑顔で友誼を交わせられたなら、それはどんなに素敵な事だろう。蹂躙する為でなく、支配する為でなく、屈伏させる為でなく…………。

 解かっている、現実はそんなに甘くない。自分も己の意を通す為に武力を必要としている。誰よりもそれを忌んでいるくせに、そんな力など持ち合わせていないくせに、それでも、譲れぬ想いの為に多くの人達から力を借りて今自分はここに立っているのだ。

 理想ははるかに遠く、自分はあまりにも矮小で、それでも絶対に諦めたくなくて、残酷で当たり前過ぎる現実にどうしても負けたくなくて、だから私は……

 

「良い眼をしている」

「ふぇ……?」

 

 不意に横から聞こえてきた声に、一気に現実に引き戻された。末妹達を見ていた筈が、いつの間にか遠く高い青空を見据えて決意を新たにしていた。噂の人物に会いに来たのに、一人で勝手に盛り上がってしまっていた。今、桃香は最高に恥ずかしかった。穴があったら入りたい。切実にそう思った。しかし当然そんな訳にはいかない。

 

「わっ、私、すみません! え、えと……」

「? いえ、どうかお気になさらず?」

「と、桃香様、落ち着いて下さい」

「う、うん、そうだよね。よし、落ち着け、私」

 

 すぅ、と大きく息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出し気を落ち着けて、今し方声を掛けてきた若武者と正面から向き合い、漸く自己紹介をした。

 

「私がこの義勇軍を率いる劉備、字を玄徳です」

 

 まだ少し声が上擦っていたが、意識的に無視して(恥かしいから)、知らぬ間に此方に寄って来ていた末妹も含めて、頼もしい仲間達を紹介した。桃香自慢の仲間達を。

 

「私は厳寿、字を慶祝と申す者。突然の訪問にも関わらず玄徳殿から出迎えて頂き、まことに忝い」

 

 綺麗な拱手で桃香に応ずる厳慶祝。と、その横に立って同じく拱手を模る小さな少女。

 

「トラは厳虎にゃ!」

「ふふっ、よろしくね、厳虎ちゃん。……厳?」

「血は繋がっていませんが、私の可愛い妹分です」

 

 少女の可愛らしくも元気満点な名乗りに、自然と笑顔になる。しかし、如何にも異民族といった風体のその少女の姓名におや?と思うと、慶祝が少女の頭を優しく撫でながら補足するように言った言葉に、桃香は、良いなぁ、と素直に思った。いや、その言葉ではない。その言葉を口にした時の慶祝と厳虎の表情や仕草、二人の間に流れる何とも暖かな空気が、言葉以上に雄弁に二人の関係を物語っていた。そこから感じ取れる絆の強さにこそ、好感を抱いたのだった。

 桃香はもうすでに厳慶祝とその陣営の事が好きになっていた。

 

「あのっ、私、慶祝さんとは是非お話したいと思ってたんです!」

「私と、ですか?」

「はい!」

 

 片眉を上げて驚いた慶祝に勢い込んで返事をすると、話題の校尉殿は暫し瞬きを繰り返し、それは光栄ですね、とはにかむ様に答えた。

 

 

 ――――

 

 

 討伐軍軍営から程近い川辺。全軍の水源地として利用されているそこに、今は二人の英傑の姿が在った。

 

 折角なら、二人きりで話したいと蕣華が誘いだしたのだ。そうして二人連れたって何処へともなく歩きながら話している内に、ここへと辿り着いたのだった。

 ここへ来る途中、殆ど玄徳が喋りっ放しだった。漢土の現状、それを憂いていた自分、二人の義妹と出会い、三人で誓いを立てた事。義勇軍を立ち上げ、二人の頼もしい軍師を得て、旧友に頼りながらも少しづつ前進してきた事。そして、黄巾の乱が本格化した事で各地を転戦し、その中で蕣華の噂を聞いた事。

 

「私達の他にも立ち上がった人がいるんだ!って嬉しくなっちゃって」

 

 邪気のない笑顔でそう言われ、蕣華はなんとも面映い気分で照れ隠しに頬を掻いた。笑顔で真っ直ぐに踏み込んでくる劉玄徳という年上の少女に、多少の戸惑いと、それをはるかに上回る好意が蕣華の中で急速に膨れ上がっていた。だからこそ、確かめたい事があった。彼女の言葉の端々に顔を出す、彼女の理想、その想い。

 

「玄徳殿、貴女は何を想ってこの乱世に立ち上がったのですか?」

「私は、大陸の誰もが傷付かず、笑顔で暮らせる世になって欲しいって、ずっと想ってる。……いろんな人にそんなの無理だって言われちゃったけどね」

 

 自らの願いを口にした後、その願いを誰かに告げる度に言われ続けたのであろう否定の言葉を、えへへ、と眉根を寄せて力無く笑いながら告げてきた。その顔は見たくないな、と思いながら更に訊ねた。

 

「でも、諦めないんですね」

「うん」

 

 此方の言葉に、今度は力強い輝きを瞳に宿らせて即答して来た。その顔は非常に好ましかった。

 

「人は色んな道を歩みますよね。王道、覇道、忠孝の道に、仁義に殉ずる者、愛しか視えぬ者、武を極める事だけに邁進する者もあれば、厭世観故に何処にも行こうとしない奴まで色々だ」

 

「だが玄徳殿、私が思うに貴女の前には道はない。貴女の目の前に広がるのは矛盾と不可能性に満ちた無尽の荒野だ。誰も足を踏み出したことのない荒野を前に、貴女はそれでも往きますか?」

「……うん、往くよ。私の前に道がなくとも、ううん、道が無いのなら尚更私が往かなきゃ、私の望みは永遠に実現する事はないんだから。矛盾に身を千切られても、不可能が越えられない壁として立ち塞がっても、それでも諦めない、諦めたくない」

 

 誰にも曲げられぬ強き意志に輝く青玉(せいぎょく)の瞳に射抜かれた。腰まで届く艶やかな赤紅色(あかべにいろ)の髪が風に揺れ、陽光を反射し煌いている。包容力が形を成したかのような柔らかな曲線を描く肢体は、今は女性的なか弱さを感じさせず、頼もしさに充ちていた。春の陽射しのような暖かな女性だと思っていた。それは間違いではなかったが、それだけではなかった。陽射しどころではない、この人は太陽そのものだ。

 

「玄徳殿」

「はい」

「私は厳寿、字を慶祝と申します。そして……、我が真名は蕣華。こんな私にも、己の道を託してくれた者達が居ます。だから貴女と共に往く事は出来ないが、どうかこの真名、貴女に受け取ってもらいたい」

「確かにお預かりします。蕣華さんも、私の事は桃香って呼んで下さいね」

「喜んで。それと、私の方が年下なんですし、さん付けなんていりませんよ」

「じゃあ、蕣華ちゃんも殿なんてつけないでね」

「分かりました、桃香さん」

 

 気付けば自然と真名を交わし合っていた。なんだか無性に心が浮き立ってきて二人して笑い合い、和やかな時間を過ごした。

 大戦の前の僅かな隙間、二人の若き英傑はこうして最初の出会いを果たした。

 

 

 ――――

 

 

 劉玄徳の元を辞して、蕣華を含むの四人はそれとなく各陣営を観察しながら、自陣営に足を向けていた。自陣営、といっても内一人にとってはそうではない。蕣華に同行しているのは諸葛孔明、劉玄徳の二軍師の片翼である。

 何故彼女が居るのかと言えば、玄徳と二人連れたって皆の元に戻った時、互いに真名で呼び合っていることに気付いた孔明が、蕣華に頭を下げて願い出てきたのである。聞けば、兵糧が不足気味であるという。これに蕣華は安請け合いして子明に窘められてしまったのだが、結局は子敬に相談しようと言いつつ半ば押し通してしまった。子明としても、蕣華がいない間に劉備陣営の者達と友誼を結んでおり、その力になること自体は吝かではなかった。

 こうして、孔明は事前交渉の為に蕣華に同行していた。蕣華に請われて、通りすがる各陣営の自己評価や分析を披露しながら。孔明の各陣営解説を、子明は細大漏らさず頭に叩き込み、トラは半分も理解できないが、ふむふむなどとそれらしく頷きつつ話を聞いていた。そして蕣華は、そんなトラを微笑ましく眺めながら耳だけ傾けていた。

 

 そして、そんな一行に声を掛ける者があった。声の方に振り向けば、そこには煌びやかな金髪を骸骨意匠の髪留めで左右に結わえた小柄な少女とそのお供の姿があった。

 強靭な意志と才知に彩られた青玉の瞳は、色合いこそ玄徳と同じだが、受ける印象は懸け離れている。自信に満ちた勝気な面貌は輝かんばかりで、威風堂々とした立ち姿は実際以上にその少女を大きく見せている。一目で逸群の才器である事が解かる。ただ視界に収めただけで、蕣華は感嘆の吐息を吐いていた。

 その傑物が、ちらりとトラを一瞬見遣ってから蕣華に話し掛けてきた。

 

「貴女が噂の屯騎校尉殿かしら?」

()屯騎校尉ですけどね」

「ふふっ、そう、そうだったわね」

 

 わざとか。と訂正して告げると、やはりそうであったらしく、悪びれもせず頷いて来た。それにしても、先のトラへの視線。どうやら私の広告塔にしてしまっているようだな、と思い至り『主ら目立つからのぅ』という南陽太守の声が脳裏に甦って、俄かに微妙な気持ちになった。そんな此方の内心を知ってか知らずか、いや、知った事ではないだろう、目の前の少女が名乗りを上げた。

 

「失礼、私は兗州(えんしゅう)陳留(ちんりゅう)太守(そう)孟徳(もうとく)(*174)よ。此度の征伐では、陛下より典軍(てんぐん)校尉(こうい)(*175)の節も与えられているわ。尤も、此方は有名無実な代物だけれど、ね」

「華琳様……」

 

 孟徳の物言いに、脇に控える一人が窘めるように声を上げた。が、窘められた方は何処吹く風といった感である。何ともまぁ、大胆不敵な御仁だな、と蕣華は見て取った。

 

「それで孟徳殿、私に何か?」

「少し貴女に興味があって、ね」

「成り上がり者の顔を拝んでやろうと?」

「只の成り上がり者なら興味はないわ」

 

 鼻で笑いながら視線を孔明へと向けた。

 

「兵糧の無心でもされたかしら?」

 

 その言に、ちらりと孔明に視線を向けると、固い表情で小さく頷いて来た。

 

「ここに来るまでの間は、曹孟徳様に御助力頂きました」

 

 成る程、自分達は子敬が私財を投げうった上に、官軍と成り上がって下軍校尉の輜重隊と、豫州牧から預けられた州兵分の軍糧があり、更に正規軍として補給を受けられたが、数千の義勇兵を寄る辺ない劉玄徳達が食わせるのは一苦労だろう。

 しかし何故、そんなところをあげつらうのか。意味があるとも思えないし、曹孟徳という人物から受ける印象からは似つかわしくない。そう思って孟徳に視線を戻すと、先の発言など忘れたかのように別の質問をぶつけてきた。

 

「貴女は劉備に何を見たのかしら?」

「貴女の興味はそこですか」

「さて、どうかしらね」

「桃香さんは尊敬に値する人ですよ」

「へぇ、それはあの子の夢物語に共感しての事かしら」 

「彼女以外が口にすれば確かに夢物語で終わるでしょうね。でも、あの人は全てを呑み込んで征こうとしている。あんな生き方は誰にもできないでしょう。私にも、無論貴女にも」

 

 最後に付け加えた一言で、曹孟徳の周囲を固める空気が軋みを上げた。我らが主はそのような愚かな道を歩もうとなどとしないだけだ、ふざけたことを抜かすな。とでも言いたげだ。ただ、孟徳自身と、蕣華の纏う空気には聊かの揺らぎも見えなかった。

 

「全てを呑み込んで、ね。それは理想を語りながらも拳を振り上げている現実をも、という事でいいのね」

「彼女が拳を振り上げなければならないのは、彼女の話を聞ける程の者が少ないからでしょうね」

「ふぅん、全肯定なのね」

 

 少し詰まらなそうにした孟徳に、今度は蕣華が問い掛けた。

 

「ねぇ、孟徳殿」

「なにかしら」

「世の人達は皆、戦乱を望んでいるだろうか? 庶人から官吏、奴婢に豪族、士人から宦官まで、皆、世が乱れれば良いと思っているかな」

「平和であるに越したことはないでしょう。宦官共にしても、少なくとも自分達の周囲だけは平穏である事を望んでいるでしょうね」

「でも今、世は乱れている」

 

 蕣華が何を言いたいのか、それが解からず曹孟徳の供人は困惑したが、彼女達の主は少しの間ぽかんとしたが、直ぐに何かを察したのか、肩を震わせ始めた。孟徳の他に、孔明にも蕣華の言いたい事が解かったのか、目を見開いて蕣華を見詰めていた。そして孟徳も強く蕣華を見詰めた。

 この時、初めて曹孟徳の興味が此方に向いたな、と蕣華は感じ取った。

 

「貴女、面白い考え方するのね。そんな事、劉備自身だって思ってもいないでしょうに」

「でしょうね。あの人はこんな事をせせこましく考える必要なんてありませんし」

「その分、あの娘の元に集った者達は苦労するでしょうね」

「彼女の臣下にとってはそれこそ望む所でしょう。己が必要とされていると実感できる事は慶びだと思いますよ」

 

 不意に言葉が途切れた。暫し見詰め合う二人。その間に何が通っているのか、周囲の者には判らなかったが、誰もが固唾を呑んで見守っていた。

 

「どうやら少し、劉備という英雄を見誤っていた様ね。貴女には礼を言うわ」

「若しかして余計な事だったかな」

「あら、どうしてそう思うのかしら?」

「貴女には見縊られていた方が楽そうだ」

「あら、駄目よ厳寿。そんな事を言っていてはいけないわ」

 

 にぃ、と強者の笑みを浮かべながら、孟徳は威嚇するように告げた。それに対し、蕣華は徐に子明の脇腹をつついた。

 

「ぅひゃん?! な…何をするんですか蕣華様!」

「固い固い。亞莎、もっと肩の力を抜きなって」

 

 子明の抗議も何処吹く風とばかりに気軽い蕣華に、曹孟徳は今度こそ我慢できずに声を立てて笑った。その脇に侍る者達は呆気にとられ、毒気を抜かれてしまった。

 殺気を放つ孟徳の臣下に、敏感に反応していた子明は、孟徳が主を諱で呼ばわった事で我慢の限界を越えようとしていた。そこを主に不意打ちを喰らったのだ。戸惑うのも当たり前である。

 

「此方の失言だったわね、謝罪するわ。それと、私の配下が失礼をしたわね」

「なに、お気になさらず」

 

 一見して和やかに言葉を交わす互いの主君に、それぞれの臣下はしおらしく頭を下げるしかなかった。

 

「なかなか楽しい時間を過ごせたわ。それじゃあ、また全体軍議で会いましょう」

「ええ、それでは」

 

 

 ――――

 

 

「はー、やれやれ。傑人ってのは居るところには居るもんだね」

 

 軽く伸びをしながらぼやくように独り言ち、さて、行くかと皆に声を掛けようとすると、子明が申し訳なさそうな顔で俯いていた。

 

「亞莎?」

「申し訳ありません、蕣華様。私が堪え切れずにとんだご迷惑を……」

「そんな気にしないでいいよ。向こうも殆ど堪えられてなかったし」

「それにしても蕣華様は流石です。あれほどの殺気を浴びて涼しい顔をしておられて」

 

 この娘はすぐに私を褒め称えて来るな、と内心照れながら、自分が平然としていられた訳を語った。

 

「意識的に放つような鬼気なんて、所詮大した事はないと洛陽で知る事が出来たからね。ただ其処に在るだけで圧倒的な空気を纏うような逸脱した傑物と何度も立ち合えば、あれくらいはどうという事もなくなるよ。亞莎も機会があれば彼女と立ち合ってみると良い」

「いつかお話して頂いた呂東中郎将様の事ですか?」

「そうそう。恋以上の武人なんていないからね。うん、この戦が終われば洛陽に行くことになるだろうし、私から頼んでみるよ」

「あ、有り難うございます。……鈴々ちゃんよりも、お強いんですよね」

「あの子は恋を除けば私が見てきた中で一番強いけど、彼女が三人いても恋には勝てないんじゃないかな」

「そ、そんなにですか……」

 

 自分が全く歯が立たなかった相手が三人がかりでも勝てないとは、もはや想像する事すらできない高みだ。絶句するしかない子明の隣で、孔明も息を呑んでいた。

 そんな二人の様子に、小さく笑みを浮かべながら「天下は広いからね」と呟いて、さて陣営に戻ろうと前を向いて、思わず「うわ……」と声を上げてしまった。

 

 

 ――――

 

 

 前を振り向いた蕣華の眼に、前方から歩いて来る二人の女性が映った。別段、その二人は此方を目指していた訳ではなかったが、蕣華の呻きを耳聡く聞きつけた桃色髪の女性が不満気な様子で此方に向かって来た。

 しまった。と思ってももう遅い。此方にずんずん歩み寄せてくる女性が、とある少女を強く想起させた為、つい声が出てしまった。それにしても、先程はその軍旗を見掛けなかったとのだが、劉備陣営に出向いている間に到着したのだろうか。だとすると、着陣してから時間も殆ど立っていないだろうにこんな所を出歩いているとは、仕事をすっぽかしてきたのだろうか? ああ、実にあの子の姉らしいな、などと思い耽っている間にもう目の前に立っていた。怖い。

 

「ちょっと、初対面だと言うのに随分じゃない?」

「あー、いやその……」

「私に向かって言ったでしょ。判るのよ、そういうの」

「えー、いや、真に申し訳ない」

 

 何とか誤魔化せないものかと言葉を彷徨わせるが、ぴしゃりと断言されてしまい、逃げ場を失った。尤も、そんなものは初めから無かったが。

 

「で、なんで人の顔見て『うわ』とか言ったのかしら?」

「……おっきい尚香が居る、と思ってしまいまして」

「ぷふーーーーっ」

 

 当然の疑問をぶつけられて、全てを観念して正直に話せば、何事かと事の成り行きを見守っていた桃髪女性の連れ合いが、堪らず噴き出した。

 

「ちょっ、梨晏(りあん)!! 吹き出しんてんじゃないわよ!!」

「ごめっ、だって雪蓮(シェレン)……、おっきいシャオって、ぷふっ、ふひゃははは」

「変な笑い方してんじゃないわよ! この!!」

「わー! ごめん、ごめんって!?」

「あの、本当にご免なさい」

 

 蕣華の重ねての謝罪に、きっと睨み付けてきた女性の鬼気が、トラの次の言葉で一気に霧散した。

 

「にゃー、シャオのお姉ちゃんにゃ?」

「えっ、……シャオの真名を? えっと、お嬢ちゃんは?」

「トラは厳虎にゃ! なんよーでシャオと美羽とは友達になったにゃ!」

「公路ちゃんまで。へぇ…ふぅん」

 

 感心したようにトラを見詰め、次いで蕣華とトラを交互に見比べた。先の不機嫌は何処へ行ったのか、一転して愉し気な表情を刻む女性に、やっぱりあの娘の姉だなぁ、と蕣華は心の中で大いに頷いた。

 

「成る程ねぇ、確かに面白そう」

「ほぅ、そうか」

「ええ、…………えぅ」

 

 嘗て南陽で妹が告げてきた事と同じようなことを、よく似た笑顔で呟く女傑。しかし、その言葉に応えた背後からの声に、楽しげな顔から一瞬にして気まずげな、悪戯を見咎められた子供のような顔になった。こっちの表情の方がより似てるな、と蕣華は今度は実際にうんうんと頷いた。

 

「軍営のまとめもせずに、もう楽しみを見つけたのか。大したものだな、雪蓮?」

「め、冥琳(めいりん)……、いや、あの、これはね?」

「諦めようぜ~、雪蓮。やー、もう見付かっちゃったかぁ」

「見付かっちゃったかぁ。ではない! 梨晏、お前まで一緒になってなんだ!」

「だぁって、いつもは雪蓮と冥琳二人だけで出掛けちゃうからさぁー。偶には私だって雪蓮と二人きりでいちゃいちゃしたいじゃん!!」

「はぁ……、お前という奴は。もういい、二人共 早く戻るぞ」

「ちぇ…」

「雪蓮?」

「はーい、戻るわよ、戻ればいいんでしょ」

「全く……。雷火殿と祭殿まで飛び出して人手が足りないんだ。余り手間を掛けさせるな」

「えー、それで私達だけ呼び戻すの? なに、あの二人だけ狡くない」

「雪蓮」

「はい、戻ります」

「んじゃーなー、次の時はもっとゆっくり話そうなー」

 

 目の前で展開される寸劇を見守っていると、梨晏と呼ばれていた女性が手を振り振り別れを告げてきたので、此方も小さく手を振って「はぁ、どうも」と気の抜けた返事を返した。なんだろう、この置いてけぼり感。まぁ、大事にならずに済んで助かった。安堵の息を吐いて、今度こそ陣営に向けて足を踏み出した。

 

 

 ――――

 

 

「で、どうだったのだ? 噂の赤将軍(せきしょうぐん)は」

「すっごい失礼な子だったわ」

「ぷふっ」

 

 自陣営に引き返しながら、不意に黒髪の軍師が問い掛けた。先程は一瞥もしなかったというのに、しっかり気にしていたようだ。それに対し、接触する原因となった対象の呟きを思い出しながら、わざとらしく怒った体で言い放つ尚香の姉。釣られるように笑いを漏らす戦友。

 二人の友人に呆れながらも(そのくせ自分も少しそれに乗りつつ)、眼鏡の位置を直しながら、孫家の頭脳が孫家の後継者に再度問い掛けた。母を越える、もはや超常の域に達していると思わされることも度々ある彼女の“勘働き”がどう反応したのか知りたかった。

 

「り~あーん~?」

「ごぉめんって雪蓮。にしても、あの子が噂の屯騎校尉様だったのかぁ」

「そうだ。雪蓮の笑い話は後で肴にするとして、お前の所感を聞きたいな? 雪蓮」

「さらっと聞き捨てならない事言わないでよね……。はぁ、まぁいいわ。そうねぇ、多分だけど、あの子は大陸に生きる者は誰も敵とは見ていないわ。だから、私達が戦場で見える事があっても、最終的な敵とはならないわね」

「……じゃあ、あの子にとっての敵ってなにさ?」

「知らないわよ、そんな事。私は別に預言者でも何でもないんだから」

 

 よく言う、とは口に出さずに大陸でも有数の智謀を誇る才媛は、厳慶祝と戦場で見える可能性を見据え、今後の方策を練り始めていた。

 

 

 

 第十五回――了――

 

 

 ――――

 

 

 自陣営に戻って来た蕣華を出迎えたのは、珍しくも憔悴した魯子敬であった。

 

「なに、どうしたの? 大丈夫? 包」

「ああ、蕣華さん。お帰りなさい」

 

 何処か煤けた気配の軍師の姿に、何事かと気遣うと、脇で見ていた親友がその訳を話してくれた。

 

「蕣華達が出掛けてる間に、包の師匠って人が押し掛けて来てさー。やー、凄かったよ。包の陣屋で出迎えてたんだけど、外にまで怒声が響いてたからねー」

「包の師匠って、確か江東の二張の一角だったよね。と言うか、その辺の事は済ませたって言ってなかった?」

「あちらさんの気は全く済んでなかったってことだぁねー」

「いやー、参りました。やっぱりあの方 苦手ですー。公覆さんが居て助かりました」

「それで結局大丈夫だったの?」

「ええ、まぁ、何とか清算は済ませました。今度こそ」

「ならいいけど……」

 

 未だどこかよれよれしながらも、ぐっと握りこぶしを小さく掲げて断言する子敬。いまいち不安を隠しきれない蕣華であったが、信頼する知恵袋がそう請け負うのならば、あれこれ言う事も出来なかった。

 そんな蕣華の様子に構わず、子敬が蕣華の背後で事の推移を見守る少女を眇めながら声を掛けた。

 

「それよりお客さんですか。水鏡女学院卒業生とは、また難物を連れて来ましたね?」

「お初に御目に掛かりましゅ……。諸葛亮、字を孔明と申します」

「彼の伏龍ですかー、お噂はかねがね。さて、それでどんなご用件なんでしょうか」

 

 この後、蕣華が持ち込んだ厄介事に疲れた頭で対応した魯子敬は、小さな軍師の願い出を渋りながらも受ける事にした。こうして、蕣華と劉玄徳の間に、正式に盟が交わされる事となった。

 この先行投資は、諸葛孔明が辞した直ぐ後に帰還した間者の持ち帰った情報によって、早くも芽を出す事となった。

 

  




*170記室督:上奏や報告書、記録文書を掌る事務官。丞相府をはじめとした中央政庁や各将軍府などに配される。州府等の地方行政府にも記室書佐という同様の職掌を持つ官があった。ここでは大将軍府の属官として登場している。

*171諸葛亮:徐州琅邪国(ろうやこく)陽都県(ようとけん)出身の政治家。荊州にて隠棲していたが、劉備に請われその臣下となった。劉備配下の重臣中の重臣で、蜀漢の丞相を務めた。劉備が病に臥せり、その死の床にて「息子(劉禅)に皇帝足る資質無くば君が国を治めてくれ」と言われる程に重用された。非常に高い内政能力を持ち、辣腕を振るった。演義に於いては軍師としての側面が過剰に装飾されており、その反動で軍師としての才を低くみられる事もあるが、奇策の類いを用いて快勝する事もなく、北伐も失敗続きではあったが、国力兵力に絶望的な差のある魏を相手取って大敗する事も一度もなかった。しかし、人を見る目だけはなかったと評される。
恋姫では、引っ込み思案で、緊張するとよく言葉を嚙む小柄な少女として登場する。軍師として比類なき能力を誇る。通称、はわわ軍師。

*172鳳統:本来は“龐”統だが、恋姫原作に合わせて“鳳”統と表記する。荊州南郡襄陽県(じょうようけん)出身の軍師。風采が上がらない為、長く評価されずにいたが(当時は外見も才覚の内で、醜男はそれだけで低く評価された)、司馬徽に高く評価され、漸く世に名前を知られるようになった。周瑜の客将であった時期もあったが、矢張りその外見から孫権に用いられることはなく、呉に正式に仕える事はなかった。周瑜死後、諸葛亮に請われ劉備の元に仕官した。初めは劉備にも重く用いられる事はなかったが、魯粛の助言と諸葛亮の進言もあり、軍師中郎将に任命された。劉璋を討つ事を渋る劉備に諫言(かんげん)し、入蜀を決意させた。益州攻めでも大いに活躍したが、成都(せいと)まであと僅かのところ、雒城(らくじょう)攻略の最中、流矢に射抜かれて戦死した。活躍した期間は短かったが、その評価は非常に高い。
恋姫では、朱里と同門の親友として登場する。性質、趣味共に被っており、口癖も似通っている。通称、あわわ軍師。

*173劉備:幽州涿郡(たくぐん)涿県(たくけん)酈亭(れきてい)楼桑里(ろうそんり)出身の群雄、蜀漢初代皇帝。前漢第六代皇帝劉啓(りゅうけい)の第九子中山(ちゅうざん)靖王(せいおう)劉勝(りゅうしょう)の庶子劉貞(りゅうてい)の末裔と称す。口数少なく、表情をあまり表に出さなかった。能く人に謙り、豪侠を好んだため、劉備の元には若者が多く集った。黄巾の乱にて初めて世に出て以来、怒涛の乱世を潜り抜けて最終的には蜀の地に蜀漢を建国、その初代皇帝にまで成り上がった。その波乱万丈の人生の中で、多くの逸話、事績を残した稀代の英雄。
恋姫では、天然気味だが情に厚く、優しい心を持ち、高い理想を持つ少女として登場する。武力・知力共に突出したところはないが、三國一の人徳で他二国の王に対抗する。意外と頑固で強かな一面もある。

*174曹操:豫州沛国(はいこく)譙県(しょうけん)出身の群雄、政治家。後漢の丞相。魏王に封じられ、後の魏の礎を築いた。機知に富み、策謀に長けた。小柄であったと言われるが、武勇にも優れていたとされる。とにかく多才で、また才子を好んだという。若い頃は奔放で素行不良、遊侠としてふるまった。二十歳で孝廉に推挙され官職に就いた後は、苛烈で厳格に職務に励み、権力者の血縁であっても容赦がなかった。怒涛の乱世を戦い抜き、帝を奉じ丞相にまで昇った。その波乱万丈の人生の中で、多くの逸話、事績を残した規格外の英雄。
恋姫では、覇道にこだわる英雄少女として登場する。三国の王の中で最も多才で、類い稀なる完璧超人。美女・美少女に目がないという一面もある。

*175典軍校尉:皇帝劉宏が私財を投じて創設した皇帝直属部隊の西園軍を指揮する西園八校尉の一つ。

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