桔梗の娘   作:猪飼部

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第十六回 天下不静

 太陽が地平を目指し夜空を押し退けようとする刻限、東の地平に朱い帯が布かれ、夜色が薄れ青みが広がる空を眺めながら、蕣華がいつものように走り込みの準備運動をしていると、見知った気配が二つ、此方に近づいてきた。そちらに顔を向ければ、洛陽で友誼を交わした女傑達が軽い足取りでやって来た。随分と早起きだな、と思ったが、よくよく見れば一方は酒気で顔が赤らんでいる。呑み明かしたのか……。

 

「おー、なんや変わった導引やな?」

「霞、久し振り。相変わらずそうだね」

「あたしも居るぜ!」

「なんで翠は此処に居るの?」

「おいっ!? ご挨拶だな!!」

「いや、そうじゃなくて、西涼は大丈夫なの?」

「……ん、ああ。そういう事か」

 

 久し振りに顔を合わせたというのに、またぞろ揶揄(からか)ってきたのかと声を荒げた西涼の姫騎士だったが、そうではなかったようで気を落ち着けた。

 

西羌(せいきょう)は静かなもんだ。あんまり静かなんで、母様の指示もあってあたしがここに来たって訳さ。未だに呼び戻されてないって事は、動きがないままって事だろうな」

「そっか」

「去年の益州の氐蛮も直ぐに退いたらしいし、なんや外患については暫く楽できそうな雰囲気やな」

「それなら有り難いんだけどね」

「だな。つっても、静かすぎるのも不気味ではあるんだよなぁ」

「二人共、考えすぎなんちゃう? それに今は黄巾の連中ぶっ飛ばすこと考えなアカンで」

 

 文遠に言われ、孟起と二人顔を見合わす。確かにその通りだ。今、目の前にある問題を片付けない内に、遠い国の端の事を思い煩っても仕方ない。

 

「そーだな、ちゃちゃっと片付けてやるか」

「実際、これだけの軍が集結すればあっという間でしょ」

「無駄に多くおるよか、ウチら三人の軍勢だけの方がやり易いやろけどな」

 

 違いない。実際に三人で戦場を共にした事はないが、初めて顔を合わせたばかりの中央将校や地方諸侯よりは、互いの呼吸が読み解けるだけの友誼を結んでいた。皆、同時に同じ結論に至り、同じような笑みを顔に刻んだ。

 

 

 ――――

 

 

 第十六回 天下不静

 

 

 

 すっかり冷めてしまった酒を飲み干し、ふぅ、と息を吐く。軍糧の一部として大量に持ち込んだ官榷酒(かんかくしゅ)(*176)だ。それ程良い代物ではない。それが冷めきってしまえば、最早僅かの満足も得られなどしない。

 

 

「まだ終わらんのかいな……」

 

 徳利を引っ繰り返して未練がましく杯に酒滴を振り落しながら文遠がぼやいた。蕣華も同感であったので、もう少し建設的な事をぼやいたら、孟起から突っ込みが入った。

 

「新しく酒を用意してもらうか」

「これ上呑んだら、もうただの酒宴になっちゃうぞ」

「ええやん。大体、いつまで続けるんや。そない揉める事なんあるか?」

 

 本営中央に張られた大きな帷幕に、主だった中央軍高官、地方諸侯及びその参謀が参集し、喧々諤々の議論を交わしていた。

 中央に拡げられた地図を囲む軍議の中心集団と、幾つかの小集団に分かれ、それぞれ車座になって軍議が進められていた。その集団の間を此度の総司令である大将軍何進が、それぞれの意見に耳を傾けながら練り歩いたりなどしている。

 蕣華は端の小集団で、口を滑らかにする為にと用意された酒をちびちびやりながら軍議の終わりを待っていた。予め、子敬から主たる出番はないだろうと聞かされていたので、余り目立たないようにしていた。

 

「蕣華んとこの軍師は随分頑張ってるみたいだな」

「ふん、まだ功が足りんと見えるな」

 

 その子敬が帷幕中央で他軍の軍師と白熱の議論を交わしているのを眺めながら孟起が呟くと、この車座では唯一の初顔合わせとなる董仲穎から大将軍に貸し出された銀髪紫装束の武将華雄(かゆう)(*177)が憮然と応じた。それに対し、蕣華は事も無げに答えた。

 

「誰がどれくらいがっついて来るか、他陣営の軍師の戦術眼がどれ程のものか実地で知れる良い機会だ。って張り切ってたよ」

「まさかそれで議論を引っ掻き回しとるんちゃうやろなー?」

「さて、ね」

 

 実際には劉備軍の配置を少しでも良い位置に着ける為の奮闘だろう。一人挟んだ右隣に居る孔明も、その智力に早くも高い注目を集めているようだが、如何せん立場が弱過ぎる。蕣華の考えている通り、子敬はそれとなく孔明を補佐するよう具申していた。

 

「ところであいつ、洛陽で蕣華の事嗅ぎまわってた奴じゃないか?」

「おっそ!? 今頃それ言うんかいな!」

「い、いいだろ別に!」

 

 事情を全く知らない銀髪の将が「嗅ぎ回っていたとはどういう事だ?」と尋ねてきたので、簡単にあらましを説明すると、軽く目を見開いて驚かれた。

 

「そのような者を懐に迎え入れたのか?」

「うん。……まぁ、改めて考えると、なんだか妙な感じはある、かな」

 

 如何という事もなく首を縦に振ってから、思い返してみると魯子敬とは不思議な縁だとも思った。仲間となってからは深く考える事などなかったが、思えば最初は随分と警戒していたっけな。と、思い出すとなんだか無性に可笑しくなった。酒を呑み過ぎたかも知れない。いや、寧ろもう少し酔いたい気分になってしまった。それを敏感に察知されたのか、「軍議中だぞ」と孟起に釘を刺されてしまった。

 

「ふむ、噂の赤将軍(せきしょうぐん)はどんな人物かと思っていたが……」

「ん? 誰?」

「お前だ、お前」

 

 聞き慣れぬ異名に首を傾げると、錦馬超が此方を指し示した。まさかとは思ったが自分の事だった。いや、まぁ、流れからいってそうだろうという気はしたけれども……。

 

「なんや、自分の事なんに知らんかったんかいな」

「自分の風聞を収集するなんて恥ずかしくてできないっての」

「まぁ、それもそうか」

「それにしても、どういう意味?」

「蕣華がいっつも返り血浴びまくっとるからやんな?」

「えぇー……」

 

 実際に戦場での戦いぶりを目にしたことのない文遠がさらりと言った。それだけ蕣華の戦い方が広まっているという事なのだが、当人は少し不満だった。友人達の異名を知るからこそである。

 

「因みにウチは神速の驍将や」

「ずるくない?」

「いや、なにがだよ……」

「そない言うても、蕣華の戦いぶりから付けられたんやから、しゃあないやん?」

「それにしたってもう少しこう、さぁ……」

「ならば、自分好みの異名と共に名乗りを上げればよいのでは? 実際、そうやって己の異名を定着させる者もいる」

「……それはそれで恥ずかしい」

「あのなぁ」

 

 勇将にして猛将の提案に恥ずかしげに難色を示すと、孟起が呆れ声を発した。それに対し、蕣華はややいじけるように言うのだった。

 

「翠はいいよ。錦馬超だもん、錦馬超、錦て」

「だぁぁっ、何度も言うな!」

 

 繰り返し呟かれる事で流石に恥ずかしくなった孟起が声を荒らげたが、蕣華は何処吹く風で愚痴った。ああ、酒が呑みたい。

 

「なんで私だけ血みどろの羅刹女(らせつめ)みたいな異名なの……」

 

 

 ――――

 

 

 本陣が構える高台で、暇そうに戦場を眺めていた蕣華だが、隣で戦況を見詰めていた魯子敬が俄かに動き出したのを見て、出番が近い事を知った。屯騎兵に出撃準備を指示し、気合いを入れ直して子敬の準備が整うのを待つ。

 今回出撃するのは蕣華直下の屯騎兵のみ。補佐に子敬が就く。州兵・義勇兵は黄仲峻指揮の元、待機。これは機動力が求められるのと、一軍で敵を殲滅するのが目的ではない為だ。

 

「さー、蕣華さん、いっきまっすよー」

「やれやれ、張り子の虎で終わるかと思ったよ」

「出番と言っても玄徳さんの補佐ですけどねー」

「手古摺ってるようには見えないけど」

「ですねー。しかし、曹操軍の動きがそれ以上に強く早い。ですので、あちらさんの助攻に参りましょう」

「成る程ね、了解」

 

 さて、いよいよ出番か。と小さく呟いて愛馬を駆った。屯騎兵が後に続き、この数か月ですっかり(さま)になった魚鱗の陣形を形作った。先頭を往くは常に蕣華である。この姿勢こそが、屯騎兵がこの新任行官に心服する大きな要因の一つである。前任の鮑鴻との落差がより強く屯騎兵の心を惹いたのだ。 鮑鴻とて最初の内は真面に兵を率いていたが、それでも最前に出張るなどという事はなかった。それが時を経るに従って、肥大化する醜心に呼応すように馬に跨るのも苦労するほど無様な駄肉を膨れ上がらせていった。いい加減、辟易としていたところに現れた若き英傑の姿は、余りにも鮮烈だった。

 無論、はじめから心服したわけではない。だが、先ずその技量には文句の付けどころがなかった。鎧を二領纏って尚、屯騎兵の誰よりも速く馬を駆った。

 その武は舌を巻くしかなかった。什伍を組んで取り囲んでも、全く敵わなかった。

 その精神は既に知れ渡っていた。鮑鴻の天幕に怒鳴り込んだ経緯は皆が知っていた。

 そして、誰よりも疾く雄々しく戦場を駆け、常に先陣を切って敵を蹴散らす武者姿に、屯騎兵は惚れ込んでいったのだった。

 今また屯騎兵はその背を目に焼き付けながら戦場に躍り出た。

 

 

 ――――

 

 

 曹操軍前曲を率いる夏候惇(かこうとん)(*178)――真名を春蘭(しゅんらん)――は、不本意ながら愛しの主の命を遂行できず僅かに苛立った。曹操軍は張角本陣を目指し、途上にある賊軍は適当に躱し、或いは蹴散らして敵陣奥深くへひたすら進撃する手筈であった。始めは順調に進んでいた。最前を征く自曲は群がる賊徒の群れなど物ともせず猛進した。多少歯応えのある連中が突っかかって来ても、妹の弓隊と連携して上手くいなしていた。しかし、こちらに嚙み付いてきた敵大部隊を受け止めた時、それは起こった。

 敵陣深くへ攻め込めば、それだけ多くの敵と対するのは自明だ。それまでで最大の敵兵であり、自軍の他部隊も増加する敵軍への対応にそれまでよりも時間が掛かり、連携に僅かな隙間が空いた。その隙間を埋めるように敵後背を衝いた一軍が出現した。紺碧の厳旗。先日、主の興味を惹いた女の軍旗が、賊の群れの向こう側に棚引いた。

 好し! と思ったのも束の間、春蘭は自曲を敵大部隊へと押し進めざるを得なくなった。

 

「ええい、突っ込み過ぎだ! 未熟者め!!」

 

 敵後背から挟撃する形で突っ込んだ厳旗は、明らかに敵中深く突き刺さり過ぎていた。大した突破力だとは思うが、如何せん数が少ない。敵は大兵力というだけではない。それなりの指揮能力を有している事は、敵と接触してすぐに感じ取れていた。このままでは、厳寿は敵中で孤立してしまう。

 そこまで判断した春蘭の行動は早かった。殆ど反射的に突撃の号を発したのだ。こうして春蘭率いる曹操軍前曲は、厳寿騎兵隊と連携し、敵を分断。以って反攻を防ぎ、敵戦力を壊滅しなければならなくなった。

 

 

 ――――

 

 

「もう! 何してるのよ、あの猪!」

「仕方ないわ。春蘭にそこまで読み切れと言うのも酷でしょう」

 

 一方、曹操軍本陣では、大将曹孟徳とその腹心が、前線で展開される一連の流れをより深く読み切っていた。

 孤立しかねない程の敵中突撃。あれは此方をこの戦場に縫い止める為の一手だ。夏候元譲の指揮能力と性質を読んだ上での深度だろう。最も突破力のある元譲の曲を切り離しての進攻は、作戦の確実性を著しく欠く。元譲を釣り上げた時点で、彼方の策は成った。

 

「孤立しかねない程の突撃も、春蘭ならば即応できると踏んでの事ならば、一気に敵陣を崩せる強手。春蘭が応じず、我が軍の進撃を優先していたなら苦境に立たされる賭けの一手ではあるけれど、恐らく春蘭の性状まで読み切ってそうはしないと判断した上での策でしょうね」

 

 お蔭で自軍はこの場で足止めを喰らってしまったというのに、随分と愉し気に語る孟徳。その華琳を横目に観察し、己の主が今何を求めているのかを読み解いて手早く伝令を放ったのは、世に“王佐の才”と謳われる荀彧(じゅんいく)(*179)、字文若(ぶんじゃく)、そして真名桂花(ケイファ)である。

 

「これで劉備軍は張角の首級に大きく近づく事になりますが……、厳寿はあの事を知っているのでしょうか?」

「恐らくは、ね。昨日も彼女の軍師が随分と劉備の為に骨を折っていたけれど、仁愛と共に生きる彼女なら三姉妹の事を知れば放ってはおかないでしょう」

 

 孟徳達もまた、厳寿陣営と同じく張角の正体に気付いていた。そして両者とも討伐軍にその情報を齎すことなく独自に行動を起こそうとしていた。孟徳は自らの覇道を成す為の手駒として利用する為だったが、厳慶祝はどうやら密かに保護する積りらしいと気付いた。それに劉備を巻き込んだか。確かに、保護するという名目ならば彼女が適任であろう。

 一つの手段に固執する積りもない。ならば、と孟徳の視線が紺碧の厳旗に固定された。そこへ、腹心である桂花が一応の確認を重ねる。此方が手中に収める事が出来ないのならば、根本から潰すという選択もあるのだが、愛しい主君はそれを選ばないだろうという事も解かった上での問い掛けだった。

 

「宜しいのですか?」

「劉備では彼女達を使()()という発想は出てこないでしょう。あの娘の腹心や、それこそ三姉妹が自発的に協力する事も考えられるけど、組織の長の号令無くばそれほど大きな動きにはならないわ」

 

 果たしてそうだろうか? 主の分析に内心で疑義を唱える。普通に考えれば確かにそうだ。特に、絶対なる長として君臨する曹孟徳旗下であれば、正にその通りだろう。曹孟徳の意志とその決定こそが唯一至上である我が陣営であれば、独断専行など決して赦されない。だが、彼の陣営は違う。それに、あの女を通常の尺度で計るのは間違いだ。

 曹孟徳はあくまで覇王であり、組織の長だ。思想は違えど、立場を同じくする劉備を、結局は自身を基準に捉える。だが、桂花は軍師だった。あらゆる角度、あらゆる立脚点から物事を捉えるだけの才知があった。より深く劉備を考察し、見極める事が出来た。

 

 劉備に張三姉妹を使うという発想は出てこない。それは確かだろう。だが諸葛亮ならば、その有用性にすぐさま気付くだろう。それに、主の善性に惹かれながらも、そこに耽溺することなく軍師として行動するだけの意志と才覚が確かにある。間違いなく独断で動く。そして、劉備はそれを許すだろう。多少意に添わぬ事でも、仲間が自分を想って行動してくれたのならば、決定的な乖離がない限りは許すだろう。全くお優しい事だ。

 それに、劉備は人徳の王だ。張角の人心掌握術がどのようなものかは判らないが、黄巾賊の現状を見るに、掻き集める才はあっても、それを収めるには器が足りていない。劉備以上という事はない。

 劉備であれば、一度集った者達の心を掴むのは容易だろう。張角が集め、劉備が掴む。この相乗効果が発揮されれば、恐ろしい結果を生むのではないだろうか。

 

 愛しき主人は劉備の認識を改め再評価した。ならばと己も、改めて劉備なる人物とその勢力を見極めんと目を凝らし、思索を深めた。危険だ。その結論に至るにはそれ程かからなかった。劉玄徳は、曹孟徳の対極に立つ英雄だ。主君とは全く別の地平を征く者。今すぐ叩き潰しておきたい。だが、主はそれを許さないだろう。少なくとも、今はまだ。

 

 曹孟徳は覇王なのだ。だから敵を求める。絶対的強者に通ずる欠点。弱点とも言える。弱敵を蹂躙するを善しとしない。道が平坦である事に安堵しない。分かりきった勝利に価値を見出さない。

 劉備が強敵となり得ることに喜びすら感じている。だがこのままいけば強敵どころか、恐るべき脅威に成りかねない。それでも今この場は見過ごさねばならない。曹孟徳の陣営では、主君の意志こそが絶対であり、そこから外れる独断は許されないのだから。

 この場は、主の劉備に対する洞察の程が知れただけで良しとするしかなかった。

 

 

「ふむ、矢張り春蘭に花を持たせたわね」

 

 桂花が考え込むその隣で、戦場の推移を観察していた孟徳が声を上げた。

 前方で沸き上がる歓声。黄巾渠帥を夏候元譲が討ち取ったのだ。賊将としては、曲がりなりにも万の軍勢を率いるだけの能力を示したが、流石に猛将二人相手に一度崩れた陣形を立て直す事は叶わなかったようだ。それまでの気勢から考えると呆気ないほど簡単に首を奪る事が出来た。それ自体は歓迎すべき戦果だ。だが……、と桂花が前曲からさっさと意識を外し、次の獲物を脳内で物色しだすと主君が更に言葉を続けた。

 

「でもまだ足りないわね……、あと三つは首級が欲しい。 桂花」

「はっ。既に彼方にはその旨 伝令を差し向けています。直に返答が来るでしょう」

「流石は我が子房(しぼう)

 

 主の歎美(たんび)の言葉に、それ以上の()を感じ取り、下腹から湧き上がる歓喜に身を震わせながらも、桂花は次の、更に次の次までの算段を頭の中で弾き出していた。

 

 

 ――――

 

 

 戦場から外れた位置にある雑木林。

延々と平原が続く中でも、木々が生い茂る箇所が幾つかあった。その中でも広範に広がる林の辺縁に、二十騎程の騎兵が弾む息を何とか整えながら潜んでいた。

 そうしながらも林を出て戦場へと続く、いや、戦場からこの雑木林へと逃げ落ちる比較的遮蔽物の多い経路の途上、黄巾を巻いた一人の男に先導された三人の年若い女性達が緊張した面持ちで対面する自軍の将と軍師の背中を見守っていた。

 

 その騎兵から離れた、やや林の奥まった叢。そこに、誰にも気付かれる事無く潜む一人の少女が居た。健康的な褐色の肌、長く艶やかな黒髪、あどけなさを残した可愛らしい顔立ち、小柄で主張の薄い女体。一見すると街角で猫でも愛でているのが似合いそうな少女だが、その見事な隠形は影に生きる者としての血腥さに満ちていた。

 少女の名は周泰(しゅうたい)(*180)。字は幼平(ようへい)。孫家に仕える斥兵である。此度の黄巾征伐では、今後の為に将としての経験を積ませようと千人を率いる部曲将として参陣していたが、最終決戦のこの局面では、本来の、影としての能力を求められた。

 その少女の視線の先には、美しい黒髪の女将と貝雷帽を被った小柄な少女。そして対面する三人の女と、傍に侍る男が一人。女将と少女は近くに潜む義勇軍の部将と軍師だろう。そして、戦場から離脱してきたと見える三人娘。恐らくはあれが標的。

 鋭く見つめる視線の先で、不安気な様子の娘達を気遣いながら、先導してきた男が軍師の少女と何事か言葉を交わしている。義勇軍の二人は後頭部しか見えないが、男と、三人娘の顔は良く視えた。その口の動きまで。

 目を眇め、男の唇の動きを読み解く。『御三方』という言葉で確信を得る。情報とは何もかも違うが、人数だけは合う。あれが、張三兄弟ならぬ張三姉妹なのだろう。

 

 主命を帯びて急いで来たのだが、どうやら先を越されたかと歯噛みしたが、どうにも様子がおかしかった。

 少女が受けた指令は、万が一張角が逃亡した際、その逃走経路で待ち伏せし討ち取る事であった。孫家が誇る軍師の読みは鮮やかな的中を見せ、張角は予測された逃走経路に現れた。しかし、それを読んでいたのは自軍だけではなく、またその速さに於いては遅れをとった。だが、先んじて張角を捉えた者達は、自分達とは全く目的を異にしているようだ。それは、あろう事か張三姉妹の保護。義勇軍の思惑は解からないが、これは重大な情報だ。美髪の女将、遥か格上の武威がある為、この場で手出しは出来ないが、ここで起こった全てを持ち帰る。全神経を集中させ、一瞬にして背後を振り返った。

 

 周泰の振り返った先、僅かな動揺に叢が揺れた。殺気の滲んだ誰何の声に、観念して姿を現したのは、周泰同様主命を帯びてこの場へ参じた亞莎だった。

 劉玄徳陣営に張三姉妹を確保させる為に、魯子敬は黄巾に潜ませた間者に新たな指令を送り、玄徳陣営にも間者の事も含め出来得る限りの便宜を図った。更に万が一の場合の補佐として密かに亞莎まで派遣されていた。そして、その万が一が起きた上に発見が遅れてしまった。非常に拙い事態だ。油断なく相手を見据える亞莎が次の行動を起こす前に、相手の視線が自分から僅かにずれた。

 

「もう一人、居ますね」

 

 静かな、それでいて斬り削ぐ様な声音。亞莎は苦々しく眉根を寄せた。ばれている。かさりと小さな音を立てて同行者もその姿を晒した。その姿に、息を呑んで「お猫様……」と掠れた声で呟いた眼前の手練れに、今度は疑問から眉根を寄せた。

 此方の僅かな戸惑いに気付かれたか、直ぐに気を入れ直し油断なく構える褐色の少女を前に、亞莎もだらりと両腕を下げた。一見して無防備な立ち姿。しかしこれが亞莎の構えであった。

 そして、周泰はその構えを正確に見抜いていた。亞莎の長過ぎる袖に隠された脅威を、確りと感じ取っていた。

 相手の警戒具合から、自分が暗器使いである事を見抜かれている可能性が高いと踏んだ亞莎は、迂闊に動けなかった。それでも視界の端に張三姉妹を捉え、関雲長との交渉が上手くいき、その保護下に入ったのを見届け、一先ずの大目標が達せられたのを確認した。魯家部曲の間者が黄巾内部への再潜入から張三姉妹まで接触するのが間に合わない可能性も高かったが、どうやら杞憂に終わってくれた。

 そこまで確認して、視界を眼前の褐色の少女のみに合わせた。今の隙に掛かって来るかとも思ったが、向こうも迂闊には動けないようだ。それは何故か? 亞莎は思考を巡らせる。巡らせながら、現状の維持に努めた。できれば雲長達がこの場を離れるまで、感付かれる事無くやり過ごしたい。だが、事態は動いた。目の前の少女からではなく、新たな闖入者によって。

 

「しぇ、雪蓮様?!」

 

 それに最も早く気付いたのも、最も動揺したのも周泰であった。その反応から、本来ここに来る筈のない主が姿を現したのだと知れた。その人物に顔を向ければ、先日、慶祝に絡んで来た(慶祝が原因だが)人物であった。孫家の長女。成る程、こんな所に来ていい筈のない人物だ。

 

「ふぅん、ちょっと面白そうな事になってるじゃない」

「な、何故このような所に?」

「勘が疼いたのよねぇ」

「えぇ……」

 

 え、なんだろう、この人。ちょっとあり得ない。それが亞莎の偽らざる気持ちだった。慶祝も戦場にて一人で突出しがちな悪癖があったが、突如現れたこの女性のぶっ飛び具合は桁が違う。目の前の少女も余りの事に絶句している。

 しかし当の本人はまるで意に介することなく林の外に目を向けていた。

 その視線に気付いた亞莎が不味いと身を強張らせると、孫伯符はにんまりと笑みを浮かべ、此方に向き直って気軽な調子で話し掛けてきた。

 

「貴女、厳校尉と一緒に居た娘ね。貴女の主と軍師に言っておきなさい。貸しにしておいてあげるってね」

「……!?」

「戻るわよ、明命」

「はっ、はい!」

 

 そして、あっけらかんと、言いたい事だけ言って此方の反応も見ずに去ってしまった。配下の少女も慌てて主の後を追って行った。

 正直助かった。のだが、釈然としないものが胸にわだかまった。条理を逸した地点に立つ英傑を測る事の出来ない亞莎には、虎の娘との邂逅は聊か荷が勝ち過ぎた。

 そうして暫し呆然と固まってしまっていた亞莎は、ちょいちょいにゃーにゃーと袖を引かれてようやく再動した。傍と気付けば、どうやら張三姉妹を保護した義勇軍も林から離脱を始めていた。

 

「ご免なさい、トラちゃん。私達も急いで戻らないといけませんね。蕣華様と包さんに早くお知らせしなければ……」

「にゃー!」

 

 

 ――――

 

 

 縦横に戦場を駆ける蕣華。曹操軍と合流し、いい様に扱き使われ、屯騎兵にも流石に疲れが見えてきていた。

 戦も終盤。黄巾本隊には既に劉備、皇甫嵩(こうほすう)、何進の三軍が取り付いており、陥落は時間の問題だ。大勢が決した戦場で、それでも休む事なく蕣華は愛馬を奔らせる。

 

「ったく、遠慮なく酷使してくれるね」

「後で三姉妹に関して横槍入れらないように、ここは我慢して下さい」

 

 つい漏れた愚痴に、後方から魯子敬が応えた。曹操の要請に応じる判断をこの軍師が下したのは、張三姉妹の事を曹操が掴んでいると読んだからだ。そこに異議を申し立てるつもりはないが、今更になって何故そう判断したのか気になった蕣華の問いに、子敬は曹旗に目を向けながら答えた。

 

「この共闘要求は諦めたうえで黙認する事の対価を要求しての事と思うんですよねー」

「後々になって持ち出してきたりは?」

「誇り高い人って良いですよねー、勝手に自縛してくれますから」

「ああ……、うん」

「それに、後々持ち出そうとしても無駄ですしね」

「そうなの?」

「立証できませんでしょう。だからこの場で搾り取ろうとしてるんですよ。さて、次の獲物が決まったようですね」

 

 ふむ、と頷き、子敬に倣って曹操軍に目を向ける、と伝令旗が振られていた。まだ首級が足りないと見える。貪欲な事だ。馬を進めながら、ちらりと黄巾本隊へと視線を走らせた。劉軍は上手くやっているだろうか? 曹操はここで留めたが、皇甫左中郎将と何大将軍の軍勢も張角の頚に届く位置にいる。

 

 皇甫軍は元々大本命だ。主戦として敵本陣を攻める手筈を軍議にて整えられていた。

 

 劉備軍は敵左翼を釣り上げる囮として先陣を切った。その役割を熟した上で、敵左翼を主戦場から切り離し、右翼朱右中郎将の軍に押し付けて、敵本隊に東から突撃した。皇甫左中郎将に遅れを取る事無く、敵本隊に到達したのは流石と言える。今、あの義勇軍は指揮官と軍師を一人ずつ欠いているのに関わらず、これだけの働きをしてみせている。開戦以降、最前線で蛇矛を奮い続ける張翼徳の人智を越えた突破力と、総合力では伏龍に一手譲るものの、こと軍略に於いては水鏡女学院歴代最高と評される鳳雛の戦況判断の賜物であった。

 

 一方、大将軍の軍勢の実態は、張・馬・華の三将率いる騎馬隊だ。此方は蕣華が本陣の高台から出陣した時には、まだ大将軍の傍で暇そうに侍っていた筈だ。神速の驍将は伊達じゃないな。と蕣華は感嘆の息を吐いたが、それだけではなかった。今も大将軍の脇に侍り、高台から戦場を睥睨する者の働きが大であった。

 その女性は、此度の最終決戦に合わせて、大将軍何遂高が皇帝に直に願い出て戦場に引っ張り出してきた傑物であった。大将軍が海内から掻き集めた名士の中でも隔絶した尤物(ゆうぶつ)、現在は黄門侍郎を務める女賢、犬耳頭巾を被ったその軍師は、戦の流れを読み切り、最小の労力で張文遠をはじめとする騎将を敵本隊まで届かせた。

 この働きに大将軍はご満悦だったが、当の軍師からしてみれば、この程度の敵相手では特に心に響くものはなかった。実に簡単な仕事だった。そんな軍師の視線は、最早黄巾にはない。いや、最初から黄巾賊など眼中になかった。態々こんな所まで大人しく引っ張り出されてやったのは、漢の現状、その一端を実際に目の当たりにできる機会だったからだ。彼女の視線は友軍であるはずの者達にこそ注がれていた。その視線の先で、蕣華はこの戦最後の奮戦を魅せていた。

 

 

「なんか、曹操軍の動きが鈍くない?」

「ふむ、そうですねぇ……」

 

 蕣華の言葉に、子敬が視線をぐるりと見回す。そして、曹操軍軍師が、台車の上で此方をじっと睨み見ているのに気付いた。

 

「どうやら蕣華さんに花道を駆け抜けて欲しいみたいですねー」

「なんでまた?」

「魅せ付けて欲しいんでしょう」

「へぇ……」

 

 詰まる所、此方の力量を直に見極めたいという事か。そして、子敬の口振りから遠慮する必要もなさそうだ。まぁ、こそこそ力を隠してというのも性に合わないし、屯騎兵達も鬱憤が溜まっている。ならば、存分に魅せてやろうではないか。

 

 

 ――――

 

 

 赤将軍の異名で呼ばれる荒武者が、真っ赤な死を撒き散らしながら黄巾渠帥へと襲い掛かるのを台車の上から桂花は渋面で見詰めていた。

 実に厭らしい戦い方をしてくれる。あれは兵の心を折る。あの羅刹女の様な血姿を前にすれば、黄巾賊如きの賊徒の群れなら、単騎駆けでも十分潰走させられるだろう。精兵と自負する我が軍であっても、一兵卒では怯み上がってしまうだろう。戦場で今見せているあの姿だけでも恐ろしいが、厳寿は評判の良い人物だという風聞が厄介だ。それがまた効くのだ。伝え聞くその人柄と、戦場で目の当たりにした時の落差が、兵の心を抉るだろう。厳寿の人物評は、功績に対して明らかに広範に流れ過ぎている。魯粛といったか、あの軍師は世評の重要性とその威力をよく知っていると見える。

 

 その鬼に続く屯騎兵も、想定していたよりも遥かに強い。そしてそれ以上に速い。屯騎兵は重装騎兵だ。ただの騎兵と並べて強いのは当たり前だ。だが、今の屯騎兵の強さの理由はそれだけではない。禁軍であるという誇り、これを汚した前校尉を真正面から引き摺り下ろした厳寿への心酔、彼女に率いられて以降負け知らずの自信と経験……。最大の要因は矢張り厳寿だ。あの猛将と屯騎兵は一目見るだけで解かるほどに相性が良い。生半可な攻撃など物ともせずに敵を蹴散らせる重装騎兵と、馬術を得意とし敵中突破を好む猛将。厳寿が率いるようになってから未だ数か月だろうに、ほぼ完全に将兵一体となっている。

 擦れ違い様に黄巾渠帥を両断した厳寿を見収めて、桂花を分析を終えた。

 

「大したものね」

「もしも我が軍が同数の兵で厳寿を討ち取ろうとするならば、虎豹騎(こひょうき)が必要です」

 

 最精鋭の親衛騎兵隊を持ち出されて、愉し気に戦場を眺めていた孟徳の表情が引き締まった。

 

「春蘭では駄目かしら?」

「春蘭は厳寿に劣るものではありません。馬術と騎兵を率いる事こそ奴に一日の長がありますが、それでも総合的に将とみるならば春蘭に軍配が上がるでしょう。ただ……」

 

 主の問いに、つらつらと答える桂花だが、とある要因を告げる直前につい言葉に詰まった。

 

「ただ?」

「私との相性が悪過ぎます」

 

 憮然としながら告げた事実に、堪らず吹き出す主を横目に解説を続けた。

 

「厳寿と春蘭は共に突撃気質の猛将ですが、厳寿は己の軍師を信頼しきっており、従順とも言えるほど素直にその献言通りに動きます。猛将と評される者ににありがちな驕りや、策を軽視するきらいがまるでありません」

「そこへいくと春蘭は猛将の典型中の典型と言ってもいいわね。単純な戦力で上回っていても、戦場での立ち居振る舞いが一呼吸、悪ければ二呼吸遅れるのは、あれだけの将相手には致命的ね」

「はい」

秋蘭(しゅうらん)では率いる兵種の相性が悪過ぎるわね」

「おまけに重装騎兵らしからぬ速さですから、最悪一方的に蹂躙されかねません」

 

 夏候元譲が駄目ならばその妹は?と言うと、弓兵を率いる彼女では更に相性が最悪だった。そうなると、成る程虎の子の精鋭部隊を持ち出さねばならないらしい。

 

柳琳(るーりん)と厳寿、か」

「僅かに厳寿に分がありますが、大した差ではありません。私と魯粛の差で勝てます」

 

 孟徳が虎豹騎を率いる従妹と厳寿を並べる。曹操軍中で最も騎兵指揮に長ける従妹。その点で厳寿に劣るとは思わないが、純粋な馬術では遅れを取るか……。武威については気性の差が大きく、これも厳寿に軍配が上がるだろう。矢張り桂花の言う通り、軍師の差で決まりそうであった。

 

「屯騎兵がこれほどとは思わなかったわね。厳寿という将を得た事が大きいのかしら」

「恐らくはその通りかと。あと二度三度、いえ、戦場によっては後一度で屯騎兵は完全に厳寿の私兵となるでしょう」

 

 それは今より更に難敵になる事を示唆していたが、桂花としては寧ろ望むところである。それを察した孟徳が、桂花に問い質した。

 

「屯騎兵は厳寿にとって非常に得難い戦力です。あれだけの重装騎兵隊を一から築き上げるとしたら、人材も金も時間も大きな労費を迫られるでしょう」

「成る程ね、足枷となるか」

 

 漢王朝は既に巨大なだけの泥船だ。沈む船の上にどれだけの戦力を並べようとも意味はない。屯騎兵は禁軍なのだ。好きに連れて行けるものではない。厳寿が屯騎校尉であり続けるならば、中央に縛られるという事だ。

 今後の雄飛を考えるならば、中央に留まるのは悪手だと桂花は考えている。地方で力を付け、王朝が沈んだ後に中央を押さえるべきだろう。今辛うじて保っている権威もいずれ喪われる。それまでにどれだけの力を蓄えられるかが勝負だ。

 どれ程魅力的であろうとも、一戦力の為に大局を見失うようであれば脅威足り得ない。此度の戦功と、魯粛の人脈があれば、それなりに任地を選択した上で地方長官として栄達できるだろう。さて、厳寿と魯粛の決断が見物だ。桂花はその愛らしい(おもて)に意地の悪い笑みを浮かべるのだった。

 

 

 

 

 第十六回――了――

 

 

 ――――

 

 

「雪蓮!! お前という奴は、何を考えている!!?」 

「そんなに怒らなくたっていいじゃない」

「これが怒らずにいられるか!! お前は荊州に派兵された大殿の代理として、この場の責任者として任命されているのだぞ!! そ、それを…最終決戦での指揮をすっぽかすとは、な、に、ご、と、だぁぁああ!!」

「お、落ち着いて、冥琳。深呼吸しましょう、深呼吸」

「私は十分に落ち着いている!!」

 

 肩で息をしながら激昂する親友に、孫家の長女はどうどうと宥めようとするが、当然無駄だった。

 

「それにしても、張角共を保護するなどとは、彼奴等めに何があるというのじゃろな?」

「雷火様落ち着いてますねー」

「すぐ其処で他の者が憤激しておると、返って心が落ち着くものよ。しかしな、梨晏よ」

「なるほどなー、ってなんすか?」

「もう少し策の手綱を握っておくれ。お主が後押ししてどうする」

「やー、流石に明命ちゃんの後追っかけるとは思ってなかったんでー」

「うむ、まぁ、誰にも思いもよらぬわな」

 

 喧々諤々の二人を余所に動じもせずに話を進める先達に、周幼平は冷や汗を掻きながら話に加わると、憤懣遣る方ない美貌の軍師が更に吠えた。叱責を受けたかと思った幼平だったが、実はそうではなかった。

 

「あの、連中を見逃しても良かったのでしょうか?」

「良い訳があるか!!」

「ひゃうっ?! す、すみません!」

「ちょ、ちょっと明命を責めないでよ! あの場では、この子には荷が……」

「お前に言っているんだ!雪蓮!!」

「ええっ?!」

「貸しなどにしてしまっては、最早公然と問い質せないではないか!!」

「えー、でも……」

「いいか? 官軍の誰も張角の正体を知らんし、劉備が討ったという首級が公的に張角と認められて終局したのだぞ。今すぐに追及するのならばまだしも、後々になって証拠もなしにどうやって糾弾する気だ?」

「う……」

「おまけに包の奴が、以前我等に開放した蔵一つの借りを帳消しにすると既に通達して来た。当然、釣り合わん。だが、貸し借りの取引をしてしまったのだ。今更これを放り投げて張角の件を明るみにするか?」

「そんな事出来る訳ないでしょ」

「だろうな、矜持に瑕がつくだろう。包はその辺をつつくのが好きだからな。まんまと手を打たれたのだよ」

 

 そこまで言って、はぁ、と深く溜め息を吐く親友に、孫伯符は珍しく萎れて謝罪した。一頻り感情を爆発させ、普段通りの冷静さを取り戻したのを目聡く感じ取ったからでもある。

 

「え…っと、ごめんね、冥琳」

「まぁいい。過ぎた事だ。 ところで貸し借りの件、どうする?」

「? どうするって?」

「先程言ったように釣り合わんからな。追加要求くらいなら出来るぞ」

「しないわよ、格好悪い」

「やれやれ……」

 

 下手を打ったのだからこれ以上上塗りは出来ぬと跳ね除ける英雄と、下手を打ったのだから少しでもその分を回収した方が良いと考える軍師。しかし二人の間に蟠りのようなものはない。

 この黄巾征伐では大きな役割を演じる事は出来なかったが、まだまだ大陸には有傑が居る事を知った。

 これからだ。

 この大陸が我々を知る事になるのはこれからだと、孫家の次代を担う女傑達は静かに燃え上がるのだった。

 

 




*176官榷酒:前漢の武帝が実行した酒類専売制度に端を発する漢代の官製酒。専売制自体は次の昭帝代で廃止された。古代、既に黴た発芽穀を利用した酒造が行われていた。殷周代には(ひこばえ)(穀芽)と散麹(ばらこうじ)(及び餅麹(もちこうじ))に分化し、漢代には蘖酒(げつしゅ)はアルコール度数が非常に低く甘酒として生き残っていたが、主流はほぼ麹(小麦の粉食の流行もあり特に麦の麹が主)による酒造となっていたようだ。官榷酒はアルコール度数10度未満と推定されるが、九醗酒法(きゅうはつしゅほう)という段仕込み技法がすでにあり、より度数の高く甘い酒も醸造されていた。

*177華雄:出身地不明の武将。董卓の部将胡軫(こしん)の配下で、都督の地位にあった。陽人の戦いに於いて、上官の胡軫と不仲であった呂布との諍いに巻き込まれ、呂布の放った偽報を基に出陣し、孫堅に討たれた。
演義では正史とは逆に胡軫が華雄の配下となる。反董卓連合軍の武将を数多く討ち取る豪傑として描かれる。しかし、関羽との一騎打ちで一合で討ち取られてしまう。
恋姫でも董卓軍の猛将として登場する。汜水関で討ち取られるが、生き残るルートも存在する。真名が判明していない事で有名。

*178夏候惇:豫州沛国譙県出身の武将、政治家。曹操と夏侯淵の従兄弟で、曹操挙兵時から従った最古参の幕臣。
曹操から全幅の信頼を得ており、唯一寝室に入る事を許されていた。性格は激しい気性を持つ一方で、清廉で慎ましやかでもあった。余財は人々に施し、財を蓄える事に一切の興味を示さず、その陵墓の副葬品は剣が一振りのあるだけであったという。武官としての活躍には乏しく、前線で敵と切り結ぶよりも後方支援等の方が得手であったようだ。また、軍政のみならず民政にも能力を発揮した。呂布討伐時に流れ矢を左眼に受けて隻眼となったエピソードがとくに有名。
演義では武勇に優れ、戦場で多くの武功を立てる隻眼の猛将として描かれる。
恋姫では猪突気味な猛将として登場する。華琳に心酔し切っており、第一の臣としての矜持が非常に強い。難しい話が苦手で、よく桂花に馬鹿にされている。良くも悪くもざっくばらんな人柄が魅力の人物である。

*179荀彧:豫州潁川郡潁陰県(えいいんけん)出身の政治家。曹操に仕え、多くの献策を行い、多数の人材を推挙しその覇業を助けた。董卓の自滅を予見し、張邈(ちょうばく)・陳宮の謀反を見抜き、劉協の擁立を献言し、袁紹との対立でも多くの助言と励ましを与え、荊州攻めにも献策するなど、多くの活躍をした。しかし、腹心の中では唯一曹操が魏公に昇る事に反対した。最後は寿春にて病死したが、その死には多くの憶測が今でも飛び交っている。
恋姫では極度の男嫌いの軍師として登場する。猫耳頭巾がチャームポイント。

*180周泰:揚州九江郡(きゅうこうぐん)下蔡県(かさいけん)出身の武将。孫策に仕えていたが、孫権に気に入れられその直下に入った。孫権が宣城で孫策の留守を守っていた時、山越の急襲を受けた。少ない手勢で危機に陥った孫権を、全身に十二の傷を負いながらも護り切った周泰は、以後更に大きな信を置かれるようになり重用された。
演義では蒋欽(しょうきん)と共に江賊をしており、孫策の挙兵を聞きつけてその元に参陣した。
恋姫では非常に優秀な隠密工作員として登場する。無類の猫好きで、桂花の猫耳頭巾にも反応するほど。

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