桔梗の娘   作:猪飼部

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第二回 血雨腥風

 益州巴郡 。

 巴蜀四郡の1つ。蜀郡(しょくぐん)の東、漢中郡(かんちゅうぐん)の南に接し、嘉陵江(かりょうこう)水系流域を治めた。

 

 巴郡群治・江州(こうしゅう)県。

 県北に御糧田があり、毎年皇帝に献上米を納める。清流である粉水の水で作られる江州堕休粉(だきゅうふん)(*20)と名付けられた白粉も同様に献上されている。 また、荔枝(れいし)(*21)も特産で、毎年初夏になれば荔枝畑の木の下で群府の皆でもぎたての実を味わう。蕣華はこれが何よりも好きで、毎年栗鼠の様に頬張るのだ。

 

 母桔梗は臨江(りんこう)県の生まれだが、蕣華はここ江州で生まれた。その頃、厳顔と言えば既に武名高く郡兵を束ねる将軍だった。娘を身籠ってからは一時軍を辞し、それを補おうと亡き夫は奮闘した。奮闘し過ぎた。

 蕣華が生まれて一年にも満たぬ冬頃、遠く并州(へいしゅう)にて鮮卑(せんぴ)(*22)の侵略に対する鎮圧軍に、当時の中郎将(*23)に従い別部司馬(*24)として従軍。そのまま帰らぬ人となった。

 桔梗は喪に服しながら蕣華を育て、喪が明けてからも育児に勤しんでいたが、度重なる推挙と、当時の巴郡太守の悪評から郡が乱れるのをみて軍への復職を決めた。

 太守が悪ければ異民族が暴れるもので、そもそもの乱の原因は精強で知られ神兵とまで称された板楯蛮に対し苛斂(かれん)を極めた租税、重過ぎる賦役(ぶえき)を課した為であった。

 板楯蛮夷の叛乱を重く見た中央から派遣された御史中丞(ぎょしちゅうじょう)(*25)蕭瑗(しょうえん)(*26)と、その指揮下に入った益州刺史(*27)郤倹(げきけん)(*28)が鎮圧にあたっていたが上手くいかずにいた。

 そこにかの厳顕義が参陣の意を示すと、待っていましたとばかりに蕭援の上奏で安遠将軍に推挙されすぐさま戦場へと舞い戻る事となった。

 しかし非は明らかに官吏にあった為、無暗に攻め立てる事はせず防備に専念し、板楯が攻めて来ればこれを撃退した。捕虜に対しても恩徳を以って遇した為、次第に板楯の態度も軟化しだした。

 攻勢に出ない安遠将軍に焦れた御史中丞が命じると討って出る事もあったが、板楯蛮は厳の軍旗を見ると戦わずに退いた。これを見た蕭援は上奏し、桔梗は安遠将軍のまま巴郡太守に任官される事となった。

 またこの時、益州刺史も郤倹が罷免(正確には監軍使(*29)として派遣された劉焉に逮捕された)され、劉焉が新たに牧伯(*30)として益州入りした。そして取り調べの結果、板楯の乱の原因となった租税賦役の重税化は元を辿れば郤倹の思惑であり、その税収によって随分と私腹を肥やしていたのだった。

 かくて劉君郎(くんろう)はその野望の第一歩を正史よりもはるかに早く、しかして巴郡に目の上のたん瘤を一つ据えながら踏み出したのだった。

 

 こうしてしばしの間、軍務に追われるだろうと他県に預けられていた蕣華は、しかし半年程で桔梗が太守に推挙されるのに合わせて江州の自邸に戻る事となった。

 

 因みに、反乱があって少し経った頃に巴郡太守は空席となっていた。しかし、下手な人選で乱をこれ以上拗れさせる訳にはいかなかった為、空席のままでその間、郡丞(*31)が群府を取り仕切っていた。何故、太守の席が空いたかと言えば、評判の悪かった前太守が、当時、計掾(けいえん)(*32)にも推挙された程の新進気鋭の若手郡官の(かん)興覇(こうは)にブチ切れられ半殺しの目に遭って職を辞したからだ。逃げたとも言うらしい。どの道、近く罷免されただろうとの群府官吏のみならず群民皆の見解であったが。

 その甘興覇も家を棄て州外に逃げ江賊(*33)に身を落としたが、今は江東で孫家に仕えているのだとか。

 

 そして家に戻ってみれば、甘興覇と同じように上役を殴り倒して荊州に居られなくなった魏文長が居た。

 母の古くからの親友である(こう)漢升(かんしょう)の紹介でやって来た若き(幼さが残るほど若き)女丈夫は、厳家の気性に合ったのか直に蕣華と姉妹同然の存在となった。

 

 

 ――――

 

 

 第二回 血雨腥風(けつうせいふう)

 

 

 

 未だ尻を撫で摩る厳慶祝の姉貴分は、厳将軍への報告を終え軍舎に向かいながら、先ほどのやり取りを思い出しつつ過去を回想していた。

 

(指揮の失着ねぇ)

 

 成る程、比重としてはそちらの方が重いか。だがやはり新兵の事も気に病んでいるだろう。あの義妹は本来的に戦いを好んでいない。そんな素振りは億尾にも出さないが、間違いないと姉を自認する焔耶は確信していた。

 いや、これも少し違うか。戦いの、その結果が齎すものが厭なのだ。うん、こっちの方がよりしっくりくるな。

 そのくせ、いざ敵を斬り捨てる段には微塵の容赦もなく羅刹の様な武者振りを魅せるのだ、あの妹御は。初陣の時からそうだった。いや、初陣こそが最も苛烈であったか。

 

(まぁ、もっとも……)

 

 それと指揮官としての資質にどれだけ関係があるかは分からないが。

 兵を率いて戦の中で確かな役割を担うことを躊躇しているのだろうか?いや、それはないか。

 

(躊躇する方が危ないことぐらい心得てるし、第一、あいつ躊躇って事だけはしないよな。やるとなったら即断即斬、そこら辺は親子だな)

 

 個人の武では目を見張るものがある。巴郡に来たばかりの頃は自分との力量差はそれほどなく、手合せでは危ない場面もいくつかあった。いや、実際何度か負けを喫した事もあった。業腹だが。

 その度に我武者羅に鍛え直したお蔭で、今では妹分を寄せ付けないだけの卓絶した武を体得していた。真・恋姫無双を知る蕣華が焔耶姐ってここまで強かったの?と一人密かに瞠目するほどの武を。

 一方で、戦場指揮官としてはどこか大雑把な印象を受ける。普段はどちらかと言えばむしろ細かい方の性質であるのに。とは言え、今のところ致命的な失敗はない。失着に気付けば即座に対応するだけの能力がある。大体、豪腕で何とかする感じだが。

 彼女の母である顯義も割合大雑把な指揮官だが、長年の経験と練達の武に裏付けされた指揮は、旗下の将兵に逆風苦境にあっても勝利を信じさせるだけの重みがある。

 

(うーん……)

 

 単に向いてないだけの様な気がしてきた焔耶であった。が、ふと慶祝の初陣を飾ったあの戦場を思い出した。思えばあの時、形ばかりとは言え部曲将(*34)として戦場に出て、戦が終着した時には単騎で血塗れでいたあの戦。

 

(そうだな、思えばあの時から…)

 

 足を現在の仕事へ向かって進めながら、意識は過去を鮮明に思い起こそうとしていた。

 

 

 ――――

 

 

 蜀郡北西部、岷江(みんこう)流域。成都(せいと)平原の北西、東の龍門(りゅうもん)山脈と西の邛崍(きょうらい)山脈の狭間、北から流れてきた岷江が山地に沿って大きく弧を描き北東へ流れを変え平原へ流れ出ようとする直前の地。龍門山脈側北面に巨人の振るう大槌で均された様な草原が広がる地。

 東と南を山に囲まれ、西を江が流れ、北を江と山地、その間にある平地が抜けるその草原に、氐蛮軍と厳顔軍が互いに陣を構えていた。

 北方から成都へと攻め込まんとする氐族。南側に陣取り侵攻を阻む厳顔軍。

 それが厳寿――蕣華の初陣の地であった。

 

 蕣華はこの戦場に部曲将として従軍していた。しかし、それは形ばかりのもので、自分の脇で副官として振舞っている趙弘(ちょうこう)(*35)こそが本来の将である。前評判も高く安寧将軍の娘とは言え破格に過ぎる待遇だが、蕣華が率いるのは厳家の部曲(*36)千人で正規兵は一人もいない。仮に全滅しても正規軍には影響はないという最低限の体裁は整えられていた。

 整えられているのはこういった体裁ばかりではない。身を包む鎧も、軍馬に付けられた馬具も真新しく随分と人目を惹いた。

 

(目立つよねぇ)

 

 身に馴染まない鎧甲を傍目からは判らぬように気にしながら、母の意図するところを読み耽る。ここまであからさまにお膳立てされているのだから明白だ、と思う。しかし……

 ちらりと視線だけを大柄な副官に向ける。

 

 趙弘。字を子鷹(しよう)(*37)。真名は黒水(くろうず)。荊州南陽郡から流れてきた避難民の一人であった。多くは蜀郡の劉君郎の元へ流れ、見込みのある者は東州兵として練兵されているが、一部、蜀郡には定着せず巴郡へ流れてきた者達もいる。

 こうして流れてきた者達の多くは、田畑の耕作に精を出し戸籍への再編入を目指したが、能ある者は流民としてではなく仕官を求めた。郡吏に取り立てられる者、軍に入隊する者もそれなりにいた。

 そんな中、豪族の部曲になる者達もいた。子鷹はそんな中の一人であり、頭角を現し部曲を率いるに至った。

 黒い剛毛に赤土の様な肌、他者を圧する雰囲気に加えて鷹鼻鷂眼(ようびようがん)(*38)(字の由来だそうだ)だが気のいい男で、腕っぷしも十人前はある。酒好きで適度におちゃらけていて、それでいて越えてはならない一線は固く守り、他人が踏み越えようとすれば殴ってでも止める男気がある。荒くれ共を纏めるにはうってつけの人材であった。そして厳家の人間に対する敬慕の念が強かった。

 厳家の部曲を率いるにこれほど適した人材はいなかったが、今この時に於いては……

 

小令愛(お嬢様)、何も御心配するこたぁありやせんぜ。この趙子鷹に万事お任せくだせぇ」

 

 いい加減こちらの視線に気付いたのか、快活な笑顔で請け負ってくれた。この男が笑うともみあげと繋がった横に長く伸びる(ぜん)が更に大きく広がり威嚇的(本人はこれを大鷹の羽搏きだ、などと言っている)に映る。ただでさえ凶顔であるのに笑顔まで怖いと言われる元南陽侠客に、笑顔で応えながら内心で小さく嘆息した。

 

(私の出番あるのか?)

 

 あまり張り切られても本当にお飾りで終わってしまう。そこまで読み切ってのこの装いであろうが、そうすると今度は自身の率いる曲が危険だ。練度も高く、実戦も幾度か経ているがこれほどの大戦は初めてである。官軍との連携もだ。

 ふむ、どうも自身の初陣というだけは済みそうにない。求めるところ多く、実入りは、さて、どうだろう。

 

 

 ――――

 

 

 戦は小康状態に陥っていた。前線兵が疲弊すれば機を見て下がらせ、控えていた部隊が戦列を組み直し再度突撃する。それを双方幾度か繰り返していた。どちらも相手と呼吸を合わせて交代突撃を繰り返している。だが、地力の差か将の差か、じりじりと此方側が押していた。となれば、拍子を外して主導権を掴もうとするのはあちら側だ。いつ仕掛けてくるか。

 その緊張感の中、蕣華率いる厳家部曲は、右翼指揮官魏文長直営と入れ替わり、遂に最前線へ躍り出た。

 

 馬上で最前線を睨みながら戦況の推移を見守る蕣華の左やや後方から趙子鷹が声をかける。

 

「いやぁ、初陣とは思えぬ見事な指揮。惚れ惚れしますな」

「お前はいつから私の太鼓持ちになったんだ」

 

 聞き慣れぬ世辞に軽口を叩く。その反応に子鷹はにんまりと大鷹を羽搏かせ、

 

「やはり大したものですな。落ち着いていらっしゃる」

 

 どういう確かめ方だ。ちょっとあきれる蕣華。と、その耳が敵陣営の変化を掴んだ。左前方、敵前曲の喧騒が薄い? 大軍の発する音の厚みがない。視線を敵軍後方へ流すと、土煙が忙しなく上がっていた。どうやら本隊を後方に下げ陣形を再編しているようだ。決戦を挑むつもりか?

 味方陣営に意識を移すと、こちらも本隊をやや後方に下げたようだ。敵本隊より前線から近い位置、陣形もそのままか。

 自曲の最前線に意識を戻す。今も激しく斬り合っているが、直に敵は下がるだろう。敵本隊が突撃してくる以上、前曲を捨てる訳でもない限りは左右翼がそのまま前線に居れば、敵前曲は動きようがない。そのまま下がるか、前曲の半分と糾合し再突撃を仕掛けてくるか、どちらにせよ切り結びながらできる事ではない。となれば一旦下がるだろう。此方はどう動くか。下がろうとする敵に喰らいついて敵本隊の動きを制限するか。いや、此方も併せて下がるだろう。本隊同士の正面決戦。母が好むやり方だ。

 そこへ伝令が来た。敵の動きに合わせて後方へ下がるように。やはり。

 

「敵はじき下がる! そこに合わせて一発かましてやってからこちらも下がるぞ!」

「てめぇら、敵の動きを見逃すんじゃねぇぞ!!」子鷹が怒声で復唱する。復唱だろう、多分。

 

 しかし蕣華にはそこまでの細かい機を読むことなどできない。子鷹に目配らせすると心得ているとばかりに頷いた。心強いものだ。太鼓持ちなぞやらせておくなど勿体無い。

 そこへ、またしても蕣華の耳が何事かを感知した。いや、それは音として届く前に意識に、そして肌膚(きふ)に届いた報せ。反射的に右方を振り返る! そこはちょっとした断崖だ。山肌がむき出しになっている。断崖の上は木々が生い茂っている。布陣時に放った斥候は異常無しを伝えた。ならばなんだ?戦が始まってから山を駆け抜けてきたのか? 緑豊かな道なき山中を全く気付かれる事なく静かに、騎馬で。そう、騎馬で。

 断崖の上に多数の騎馬兵が姿を現した。その時、蕣華の動きに一拍遅れて断崖を見遣った趙子鷹が蕣華よりも先に大声を張り上げた。

 

「右方敵襲ー!!!」

 

 右方から敵襲。右? 右は断崖だ。そこから敵が? 厳兵が急報を理解する寸前に、断崖から地を震わす戦叫が響き渡った。

 

 

 ――――

 

 

 断崖から派手に上がった土煙の為、右翼の異変は本陣にも直ぐに知れた。まさかの伏兵。誰もそんな所から敵が来るとは思ってもみなかった。それでも警戒した厳将軍の命で斥候を放って確認したのだ。敵陣から兵が減ったようには見えない。ならば始めから本隊とは別に山中を越えて進軍してきたのか、この機に合わせるように。

 

「なんて連中だ」

 

 誰かがそう呟いた。誰かが、誰でもよい。重要なのはその呟きが終わるまでに安遠将軍厳顔は決断を下し、全軍に命を発した事だ。

 

「本隊突撃! 前曲に即時伝令! 我らに踏み潰されたくなければ死ぬ気で敵前衛を抉じ開けよ!!」

「右翼は魏延に任せる! 左翼板楯兵は己が敵を逃すな! 後曲は万事に備えよ!」

 

 一瞬の騒めき。しかし次の瞬間、「(はし)れ!!」将軍の檄に全軍が動き出した。

 

 

 

 氐蛮軍は動揺していた。こちらの伏兵に敵右翼は総崩れになる筈が思ったほどの損害が出ていない。確かに崩れているが、最後の一線で踏ん張っている。不可解なのが敵前曲だ。確かに敵の動揺は前曲にまで達したはずなのに、あっという間に意気をあげて戦端を開いてよりもっとも激しい攻勢に出てきた。

 そして、敵本隊だ。此方が最後の詰めとして突撃を敢行するその機先を制するようにあちらが突撃を開始してきた。右翼の惨状には目もくれず、前曲と合流し勢いを増して嵐の夜に荒れ狂う岷江の如くに押し寄せてくる。

 なんだこれは。

 何故、奇襲を受けたあちらが攻め寄せてきているのだ。その意識の空隙が氐軍の必殺の突撃を消し去り、受けに回らせてしまった。それが戦を決した。

 

 

 ――――

 

 

 本陣の奥深く、敵本隊の動きに合わせて此方の本隊も下げ、決戦の時を待ち焦がれながら馬上から戦況を見守っていた桔梗は右翼の異変に逸早く気付いた。

 龍門山脈の尻尾、窪みの様な草原と袂を分かつ断崖、きな臭さを感じ戦端を開く前に斥候を放った其処から騎兵が姿を現した。

 ちっ、と舌打ちを打つ。確かに気になっていたのに、注視していたのに、戦が始まってからは意識の外に完全に締め出されていた。

 しかしまさか騎兵とは、あそこを駆け下りるつもりなのか。敵ながら天晴れだ。

 そして伏兵に合わせて敵本隊が突っ込んでくるだろう。既に敵伏兵は吶喊を開始している。右翼には蕣華を配してある。焔耶はこの程度心配いらないが、あの娘はこれが初陣だ。流石にこの状況は厳しいか。だが……、

 

 雪崩れかかる伏兵に周囲の者も気付き始めた。皆が右方を確認する中、前方を見据え敵の動きを窺う。

 

(いかんな)

 

 ここで胎は決まった。敵に先んじての本隊突撃を以って戦況を引っ繰り返す。娘の事はこの一時、意識から消す。と、右翼で瑞々しい軍気を感じた。口の端が上がる。憂いはあっという間に消えた。

 後は勝つのみ!

 

 

 ――――

 

 

 子鷹の警告の直後、蕣華は動いた。

 

「総員撤退! 伝令、伏兵だ! 子鷹は曲を纏めろ!」叫びながらもすでに駆け出していた。敵へ、敵へ向かって。

「ちょ、小令(お嬢…)!」

「黒水!」

 

 止めようとする子鷹を一喝で黙らせ奔る。

 

「! 分かりやしたよ!!」

 

 返事を聞く間もあらばこそ、蕣華は最右翼を目指し軍馬を駆った。

 皆混乱していた。陣形が崩れ始め、隊から転び出て馬路を塞ぐ者もいたが、時に避け、時に飛び越え、可能な限り速度を落とさず駆け抜けた。やがてそれも難しくなる。最右翼だ。すぐ前方から悲鳴と怒号が響いてくる。眼球だけを回して左を一瞬見遣る。前線はそこまで崩れていない、子鷹の采配か。

 

「退け退けー!!」

 

 大喝で呼ばわりながら馬を進める。すれ違う兵が増えてきた。と、それが途切れる。最前に出たか?

 三馬身向こうに敵騎兵。此方に逃げてくる僚兵二人。届かない。向こうの方が速い。厳兵を捉えた氐蛮兵は大刀を振り上げ、胸から大薙刀を生やして後ろに倒れそのまま落馬した。

 すれ違う兵に「退け」と一声掛け、主を亡くし並足で通り過ぎる馬には一瞥もくれず、大の字になって絶命した敵兵を通り過ぎざま、投げつけた秋草を引き抜き右手だけで半回転させて構えると、殺傷圏内に新たに二人の敵兵が、瞬斬二閃、歯牙にもかけず斬り捨て大喝一声。

 

「我は厳寿! 安遠将軍厳顔が娘也!!」

 

 それで一瞬、氐兵の動きが止まった。

 今、この小娘は何と言ったか。厳顔の娘。それがこんな所にのこのこやって来たと? 雑兵を刈り取る手を止め、見定める。気の早い奴が狼牙棒を振り回しながら吶喊した。数合も持たず斬り捨てられた。

 間違いない。顔の造作よりも、上質な鎧甲馬具よりも、その武で確信した。

 

 目論見通りに敵が雪崩れかかって来た。これで生き延びる味方も増えるだろう。このまま軍を立て直す時間を稼ぐ。自慢の大薙刀“秋草”を握る手に力を込める。

 まるで灯りに群がる蛾だな。知らず捕食者の笑みを浮かべながら独り言ちた。その間にも一人二人と敵を斬り捨てていく。野火の様な勢いで血を、それ以上に死を戦場にばら撒く稚気混りの武。見誤った毒蛾の群れは焼き尽くされていく。

 

 

 ――――

 

 

 敵伏兵による右翼の動揺は激しかったが、本隊からの伝令を受け取ると焔耶は判り易過ぎるほどに奮起した。

 断崖を騎馬にて越えてきた常識外れの敵に浮足立った兵達は、碌な抗戦も出来ず討ち取られていく。特に敵左翼と激突している最前線は酷い。敵もそれが判っているから前衛側から進攻してきている。刈り入れの様に容易く討ち取られる味方の姿を見せつける事で心魂も攻めて来ているのだ。このまま恐怖が蝗の群れの様に兵卒の心胆を食い荒らせば壊滅は目に見えている。

 

「落ち着けっ!!! 不意を突かれようが三千に満たぬ寡兵など我等の敵ではない!! 我等の仰ぐ旗を思い出せ!!! この私の名を思い出せ!!! 陣形を組み直せ!! あの匹夫め等に自分達の浅はかさを叩き込んでやるんだ!!!!」

 

 そんな兵達に向け、焔耶は戦車(*39)上(超重兵器を振るう彼女は騎馬には乗れなかった。馬への負担が大き過ぎる為である)から右翼全兵に届かんばかりの大声を張り上げ鼓舞した。

 名将の条件の一つに声がある。戦場にあっても良く通る声というのはそれだけで一つの資質である。しかしそれだけではまだ足りない。声に力がある、或いは込められることが必要だ。士気を上げ、或いは取戻し、不安や焦燥を消し去る力。自軍の強さを思い出させる力。自分達を率いる将の強さを信じさせる力。魏文長の持つ確かな力。

 歌の巧さを義妹に羨ましがられる事があったが、こうして戦場で大声を張り上げている方が性に合うな。頭の片隅でそんな事を考えながら、焔耶は反撃に向けて手綱を振るった。

 

 右翼は焔耶率いる正規兵五千と厳寿率いる部曲一千の合わせて六千兵で構成されていた。うち、三千が焔耶の直営であり、現在右翼中央から後方を占めていた。最後方の一千は厳寿達の前に最前線で戦っていた曲だ。この最後方の一千を副官に任せ、ここと本隊との間に布陣させる。奴らに右翼を突破させる事だけはあってはならない。

 自身は二千を率いて逆襲を掛ける。前衛側三千の右端には大分取り付かれているが、此方はまだ手薄だ。前衛へ伝令を走らせてから一気に飛び出し、その勢いのまま敵伏兵に喰らい付く。

 焔耶直営が抜け出た事で空いた後方へ前衛側二千が下がり、陣形を急いで組み直す。再編が完了次第、最前線の厳家部曲救援に向かう手筈だ。その最前線が崩壊する前に向かわなければならない。時間との勝負だ。

 

 二頭牽きの戦車が騎兵の群れに突っ込む。機動力では劣るが突進力はこちらが上だ。特にこの戦車を牽く二頭は軍中で最も大柄で馬力と耐久の高い軍馬だ。騎兵と正面衝突しても馬ごと弾き飛ばしてしまう。そして、戦車の右側に居た騎兵はそれを遥かに超える鈍砕骨の一撃で馬ごと絶命する事となった。左手で手綱を握り、右手一本で巨馬二頭分の突進力を超える破壊を齎す猛将の出現に、奇襲を仕掛けた側の氐蛮兵が浮足立った。そこへ焔耶直営の二千が躍り掛かる。徒歩(かち)の不利など物ともせず渡り合う兵達の軍気を受けて更に猛り立つ焔耶の武は、半ば勝ちを確信していた氐軍の勘違いを糺していった。

 

 

 ――――

 

 

()ぁっ!」

 

 気合いと共に振り下ろされた秋草が鎧ごと敵を斜めに両断する。横合いから突き出された槍を左手で引っ掴み、そのままぐいっと引き寄せると、槍を突き出した体勢のまま、抗う事も手を離す事も出来ず引き摺られた敵兵に向かって、槍を離した左の肘をその鼻梁に叩き込んだ。短い悲鳴を上げて落馬したその敵には目もくれず反対側から振り落とされた大刀を右手の秋草で受ける。更に万力を籠めた瞬間を狙って馬ごと相手に向き直りながら右手を振り下げ、左手を秋草の刃背に叩き付けるように添えて秋草を廻して敵の大刀をいなす。そのまま相手が大刀を構え直す前に馬を走らせ通り過ぎ、後方に詰めていた別の敵を切り伏せる。更に馬を進め右回りで途上の敵を切り伏せ、或いは引き連れ、大刀使いに向き直る。

 馬の腹を蹴って一気に速度を上げる。あちらも同じ考えだ。擦れ違いざまに互いに切り結ぶ。いや、大刀は砕け散った。信じられないものを見た大刀使いの氐族の男は、その表情のまま絶命した。それを確認する間もなく、蕣華はまた新たな敵と打ち合う。左右同時。右からの大刀を秋草で受け、左の狼牙棒は肩当で受ける。が、強撃によって肩当が砕けた。その衝撃で狼牙棒が跳ね上がり、左肩に喰い込む事はなかったが、肩の付け根から強烈な痺れが伝う。受けた大刀に押し負けそうになる刹那、馬ごと押し進み互いの刃を滑らせながら挟み撃ちから抜け出る。

 だがそこへ前から槍が突き出される。左へ身を倒し逃れるが頬を浅く裂かれた。左へ傾いだ勢いを使って秋草を下から掬い上げる様に振り上げ槍手の腋を切り裂く。背後頭上からの風切り音に振り上げた秋草をくるりと廻し、左手を無理やり上げ両手で秋草を支えて上段からの一撃を何とか受ける。肩当を砕いた狼牙棒だ。勢いを殺せず、馬上に仰向けになりながらもぎりぎり堪える。周囲から多数の気配が詰めてくるのを感じて両手に満身を込めて跳ね上げ、体勢を整える間もあらばこそ馬の腹を蹴って飛び出す。鐙(*40)を踏みしめ腹筋を使って立ち上がる、起き上がるのを越えて。そのまま大上段から一番接近して来ていた敵を一刀の元に切り伏せる。

 前方から更に三騎、行先は馬に任せ腰を捻り横溜めに構え、一気に開放する。馬首ごと敵を両断。その隙に鎧の隙間を衝いて裂かれた。双剣使いか。そっちは無視して先の一撃に怯んだもう一人の首を刎ねる。反す刃腹で刈った首を後方に弾く。当たりはしなかったが、双剣使いはそれに反応して一瞬足を止めた。

 その隙に馬首を巡らせ向き直る。大きく息を吐き、尚も群がる敵を凝望(ぎょうぼう)する。

 

 その姿は既に煌びやかな初子ではなかった。鎧は傷の付いてない箇所はなく、左肩当に至っては強烈な一撃の元に完全に砕け散っていた。蕣華自身も大小細かな傷に覆われ、自分の血と敵の返り血で赤い豪雨にでも打たれたかのような有様だった。激戦を支えてくれている軍馬もまた同様に、艶やかな鹿毛が血で黒々と染め上げられていた。新品の皮革特有の匂いを振りまいていた馬具も、今は血臭しかしない。

 もはや何人斬り捨て、何度切り付けられたかまるで分らない。

 それでも琥珀色の瞳は爛々と輝いていた。秋草を握る腕には力が充溢していた。鐙を踏みしめる脚には全精が込められていた。(鐙は新品の癖に悲鳴を上げていた)

 

 蕣華を囲む氐兵は怯んでいた。怯まざるを得ない。その武威にではない。その武威を支える心魂にだ。予想だにしなかった難敵の出現に進退を考え始めていた。飽く迄もこの娘を討ち取るか、躱して敵右翼を改めて攻めるか、或いは退くか。どうやら本隊の旗色も悪そうだ。厳顔の娘という餌に釣られ過ぎ、いや、手間取り過ぎている。と、そこに細く長く、しかし騒音激しい戦場にあっても良く通る笛の音が響いた。撤退の合図。見れば陣形を立て直した敵右翼が迫って来ていた。

 口惜しい。が、ここは退くしかなかった。

 

 

 ――――

 

 

 氐軍前曲は、何故自分達が混乱の坩堝に陥らなければならないのか全く理解できなかった。此方の策が成ったはずだ。全く気付かせる事無く奇襲は成功した。なのに何故こいつらは意気軒昂に此方を攻め立ててくるのだ。

 始めは確かに動揺していた。なのに今は何が何でも此方を食い破ろうとする気概に溢れている。

 そこへ厳顔軍の陣営から盛大な太鼓の音が響き渡った。すると、あろうことか此方と切り結びながら陣形を変えだした。何を考えている?いや、どうでもいい。兎に角そんな事はさせるものか。

 

 だが厳顔軍前曲は激しい戦闘の最中、犠牲を出しながらも幾隊もの細く長い縦列を組んだ。そして、その縦列の間を疾風も斯くやあらんとばかりに駆け抜けてくる騎兵隊。先頭を征くは将軍厳顔。己が前に障害なぞ存在しないとばかりの猛進で、一気に氐軍前曲を突破した。

 

「続けーー!!!!!」

哎呀哎呀呀呀!!!(おおおおおおーっ!!!)

 

 堤を破壊し全てを飲み込む洪水の如き進撃。生半可な抗戦などあって無きが如し。立ちはだかる全てを粉砕する剛力の軍勢。小癪な罠などは踏み潰して撃進する厳顯義の戦がここにあった。

 

 敵本隊に雪崩れ込んだ桔梗の軍勢は尚も勢いを減じる事無く猛進する。その先頭を、獰猛な喜色を浮かべて突き進み敵兵を蹴散らしていく。その手には奇妙な武器があった。

 

 連結鉄杭。初めてこの武器を見た時、娘は目を真ん丸に開け、何とも言えない表情をしていた。娘に武の手解きを始めた頃は弓を使っていた。まだ幼かった娘は知らないだろうが、若き頃の厳顕義と言えば天下五弓に列せられる程の弓の名手だった。だがいつか弓では満足できなくなっていった。より高い破壊力を求めていったのだ。

 そこで手にしたのが鉄杭だった。「何をどうしたらそこに行き着くんですか」と問われても何とも答えようもなく、ただこれだ!と直感しただけなのだ。 

 当初は強弩を改造して撃ってみたりもしたが今一しっくりこず、撃剣(*41)の要領で投射する事に一先ず落ち着いた。そして、数を揃えねば話にならぬこの武器を、鉄鎖とそれに幾つも連結した鉄環に鉄杭を嵌めて携行するようになったのだ。それを見た娘の感想は「杭を地面に打ち込んで囲いを作るおつもりですか?」であった。大不評である。こっそりとへこむ母であった。

 無論、まだまだ改良の余地はある。いつか納得する形に仕上げる為、各地の武器職人の情報などを密かに集める桔梗であった。そして彼女の娘は密かに(あれが近い内に轟天砲に謎進化するのか)と戦慄していた。

 

 そんな桔梗の理想の過渡期にある奇天烈兵器が唸りをあげて氐兵に襲い掛かった。

 この武器は何も鉄杭を環から引き抜いて投擲するばかりではない。軟鞭の様に敵を打ち据えた時、非常に恐ろしい近接武器と化すのだ。鉄鎖が鞭のように降りかかってくるだけではない。連結された鉄杭も予測困難な動きで襲い掛かってくるのだ。防御は困難で大きく回避するよりほかない。そして距離を開ければ鉄杭が馬の首すら貫通するような恐ろしい威力で飛来してくるのだ。厄介極まりない。

 例え鉄杭を撃ち尽くしても鉄鎖鞭としての機能は失われない。寧ろ振るいやすくなるのだ。無茶苦茶な割に意外と使える。というのが娘の批評であった。

 

 そして今この戦場においても、その力を余すことなく発揮し、縦横に戦火を広げていた。

 鉄鎖が振るわれる度に何人もの敵兵が纏めて吹き飛んでいく。中には打ち据えられながらも鉄鎖を掴む剛の者もいたが、桔梗は意にも介さずその者ごと鉄鎖を振るった。哀れ桔梗の武器の一部と化した氐兵は味方と強かに激突し果てた。進路上に居る者は誰であれ吹き飛ばされていく。鎖の届かぬ位置にいる閭や屯を率いる指揮官級には容赦なく鉄杭がぶち込まれる。

 誰にも止められない、どころか満足に触れる事すら敵わない。人の形をした戦禍が精強な氐軍を蹂躙していく。

 たった一人で戦局を決定付けてしまう者、或いは覆す者を指して一騎当千と称する。氐族はたった今、正にその一騎当千足る存在が如何なるものかを身を――命を――以って知る羽目に陥っていた。それを敵に回す事の意味を。それは単に桁外れの強さを指して言うのではないと。桔梗の武威に引き摺られて桔梗に率いられた漢兵にまで容易く討ち取られてしまう現実に直面して初めて()った。一対一ならば脆弱な漢人如きに後れを取る弱卒など氐族にはいない。にも拘らず、今また一人、また一人と討ち取られていく。此方の力は萎え、あちらの力は弥増しているのだ。

 敵に絶望を、味方に熱狂を齎す者。戦局を決定付けるとはこういう事。桔梗に率いられた軍はその全てが強かった。

 

 

 ――――

 

 

「随分と派手にやったなぁ。斬りも斬ったり、百人くらい斬ってんじゃないか?これ」

 

 周囲に散らばる氐兵の死体を見渡しながら文長が戦車を寄せてきた。

 

「ん、ああ、どうだろ? 数える余裕もなかったし」

 

 何処か気の抜けた声で応える義妹に、ん?と顔を向ける。熱に浮かされているような、逆に醒めてしまったような、何とも判別しがたい雰囲気で明後日の方を見ていた。義姉の視線に気付いているのかいないのか、肩から力を抜き、目を閉じ、ほぅと息を吐き、そして目を開いて、嗚呼と呟いた。

 

「嗚呼、母上に会いたいな」

 

「好し、じゃあ、行って来い」

「はへ?」

「なんだよその間抜けな反応は」

「いやでも、戦が終わってもやることはまだ色々とあるし……」

「いいんだよ、お前は正式な武官じゃないし、部曲のまとめは黒水にでもやらせておけ」

「でも、それじゃ示しが……」

「いいから!」

 

 こうして、半ば強引に本陣への伝令の随行として送り出された蕣華の背を見送り、

 

(折角久し振りに子供の顔を見せたんだから、まぁ、良いよな)

 

 と、誰にも聞かれぬよう独り言ちた。

 

 

 ――――

 

 

 その姿に誰もがぎょっとした。全身これ赤で彩られた血みどろの幼武者。どこか茫洋とした表情で本陣に帰参したのは、誰あろう安遠将軍厳顔の愛娘厳寿であった。

 

 戦を勝利で終え、勝鬨が止みその余韻冷めやらぬ中、各部が戦後の各種処理に当たろうとしたその時、右翼より伝令と共に本陣に姿を現したのだ。

 戦が始まる前とは余りに隔たりのあるその姿に、皆固まってしまった。そんな中、一人笑みを濃くするのは、無論、蕣華の母であった。

 

「見事な戦働きであったぞ。流石、我が娘、我が誉れよ」

 

 何も聞かず確かめず、まるで全てを承知しているかの様にただ称賛の言葉を送る母。

 一方の娘はその言葉に、初めて眼の焦点があったような顔をして、そして、年相応の愛らしい笑顔を浮かべた。

 

「ただいま戻りました、母上」

「うむ、おかえり。蕣華」

 

 

 こうして、厳武の娘はやはり厳武であると内外に知らしめた厳寿の初陣は幕を閉じた。

 

 

 

 第二回――了――

 

 

 ――――

 

 

 全ての報告を終え文長も退室した太守執務室で、近頃よく記憶に浮上する娘の初陣を回想していた桔梗は、しばし娘の進退に想いを馳せていた。

 

「そろそろ、巣立ちの頃合いなのやもしれんな」

 

 自らを未熟と断じ士官の素振りも見せぬ娘だが、近頃はこの国の末を気にしている節がある。さて、あの娘は如何なる道へと進むのだろうかと、やや複雑な面持ちで考えていると、ふと戸口が少し傾いでるのに気が付いた。蕣華が飛び出ていったときに強く開け過ぎたのだろう。時折見せる年相応の姿を何よりも愛でる桔梗は鼻歌混りに立ち上がり、戸へと向かった。

 

「やれやれ、仕方のない娘よ」

 

 そんな事を言いながら、どこか機嫌よく戸の傾きを直す。

 

 ベキッ

「あ」

 

 

 

 

「厳太守様、資料をお持ちしま……なんですか、この戸は」

 

 仕事を再開しようと席に着くと、折良くやって来た郡丞が上部の留め金が外れてふらついている戸を避けながら入室してきた。

 

「ん、いや寿の奴が、な。その戸の修繕費は寿の此度の俸禄から差し引いておくように」

 

 その言葉に、先程廊下で会った厳慶祝の様子を思い出し、ああ、と笑顔で応えた。

 

「畏まりました」

 

 母、郡丞に白を切る。並べて世は事もなし。

 




*20江州堕休粉:詳細不明。江州ブランドという事でいいのだろうか。天子に献上されていたというので、後宮でも大人気だったに違いない。

*21荔枝:ライチ。真っ赤な果皮に白色半透明の果肉が瑞々しい夏の果物。後の時代、唐の玄宗(げんそう)皇帝の世には、楊貴妃(ようきひ)にこの荔枝を届ける為に使われた大巴(だいは)山脈を越える古道を荔枝道と呼ぶようになるとか。

*22鮮卑:後の五胡の一角。匈奴に滅ぼされた東胡(戦国時代、燕の北方に居た遊牧民族)のうち、鮮卑山に逃れた一派。初めのうちは匈奴に従っていたが、匈奴が弱体化すると独立勢力となった。安帝治世で初めて漢に服属したが、以後、反乱と服属を繰り返すようになった。

*23中郎将:光禄勲(宮門守衛)の属官で常置の武官。ここでは四方位を付した遠征軍指揮官を指す。

*24別部(府)司馬:正規軍以外の別働隊を率いる指揮官。率いる兵数はそれぞれのケースによってまちまちだったようだ。

*25御史中丞:御史台(監察事務官府。監察機関と同時に司法機関でもあった)の長。ここでは益州刺史に対する督戦の任を帯びて派遣された。

*26蕭瑗:光和二年当時の御史中丞。『後漢書「霊帝紀」』に僅かに記述がある。

*27刺史:州の監察官。太守を監察する権限を持っていたが、その権力は太守よりも低かった。時が下ると州の長官として行政権を担うようになった。

*28郤倹:光和二年当時の益州刺史。史実ではこの後、劉焉入蜀時まで刺史を務めるが評判はすこぶる悪く、益州が乱れた原因のみならず、各地で刺史が殺害される遠因として弾劾された。因みに、『蜀志「劉焉伝」』では劉焉は郤倹を逮捕したとあるが、郤倹はその前に賊の馬相に殺されている。被疑者死亡のまま書類送検みたいなことだろうか? 本作では劉焉が早い段階で詔勅を授かって来たので実際に逮捕され獄に繋がれた。

*29監軍使:郤倹逮捕の為に与えられた役職。この時は官はあくまで太常のまま派遣されたようだ。

*30牧伯:州の行政長官。兵権も持ち、郡県への行政介入も行うなど刺史の権能を強化し据えられた。刺史と太守を監督する権限を持つ。前漢の時代から刺史と牧は入れ代わり立ち代わり州の長官として機能してきたが、後漢末期に配された時は刺史の置き換えではなく更に上位に据えられた官だった模様。

*31郡丞:太守の副官、補佐。職掌は長史に同じ。文書・倉庫・獄などを司る。閑職であったともされているらしいが、本作の巴郡に於いては厳顔が内政を得意としていないこともあって八面六臂の大活躍である。

*32計掾:上計掾、上計吏とも。中央政府に上計(計簿を報告氏に赴く)する掾史。地位の高い(郡丞以上は除く。つまり高位の属吏)郡吏がその時々に応じて任命される非常勤官。郡の代表としての面がある為、能力の高いものが選ばれた。

*33江賊:河や湖を渡る船を襲う賊。甘興覇と言えば錦帆賊である。非常に派手な賊であったらしい。

*34部曲将:軍候とも呼ばれる戦時仕官。曲(兵卒千人からなる編成単位)を率いる中級指揮官。副官に仮候が付く。ここでは蕣華は正式な武官としてではなく曲を率いる将として呼称されているだけ。

*35趙弘:荊州南陽郡出身の侠客。史実では黄巾賊の武将として張角死後も官軍を苦しめた。本作では流民政策に乗って益州に流れてきたのち、厳家の部曲となり頭角を現した。
【挿絵表示】


*36部曲:豪族などの私賤民。ここでは私兵を指す。もとは軍における編成単位だが、誰々の部曲とある場合は本作では私兵を指す。

*37子鷹:趙弘の字。本作独自のもの。

*38鷹鼻鷂眼:中国の四字熟語。凶悪な面相を意味する。

*39戦車:二頭牽きのいわゆる古代戦車。この時代、兵科としての戦車部隊は廃れていたが、歩兵指揮官用の戦車や運搬用守戦車はまだまだ活躍していた。馬二頭、指揮官兼射手一名、御者一名、戈手一名に随行歩兵数名が戦車の基本的な戦闘単位。魏延は小型の指揮官用戦車に単身で乗る。

*40鐙:馬上での一騎打ちが華である三国志演義物でならあってしかるべきであろう。他にも、羅貫中が演義を編した明代までに存在した文化・文物は普通に存在する可能性がある。

*41撃剣:古代剣術。如何なるものであったか詳細不明だが、一説によると刀剣の投擲術(を有する剣術)であったらしい。

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