桔梗の娘   作:猪飼部

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第二十四回 戦陣妖夢

 くわんと響く頭と驚愕に脈打つ胸を抑え込み、友人の怒声を響かせた鳶に視線を向ければ、ついっと右脚を掲げる暗褐色の猛禽。見れば、そこには紙片が括り付けられていた。

 手紙かと思いほどいてみれば、それは蕣華には意味の読み取れない文様と文字列で構成された、いわゆる呪符であった。

 

「えっ…と、どうすれば?」

 

 頭を捻る蕣華に鳶がその嘴で大地を指し示した。その意図するところを読み取って、符を大地に貼る。実際には単に置いただけだが、気分的な問題だ。

 

 しかし、何も起きない。暫し待つが、うんともすんとも言わない。符に書いてある文句を読み上げるなりするのかな? と思い、今一度符の内容を注視しようとした時、肩の鳶がピィッと一声鳴いた。その声に応える様に符が震えた。いや、その下の地面が震えているのだ。

 何が起こるのか。緊張しながら見守る蕣華の目の前で、するりと大地から歌姫が生えてきた。生えてきた、というのは語弊があるが、その時の蕣華にはそう感じたのだった。

 唖然とする蕣華の目の前に、勝気な瞳を吊り上げた張宝、字を公平が、肩を上下させながらも堂々と出現したのである。

 

「……暫く振り」

 

 驚愕したまま、何とか言葉を紡いだ蕣華に対する公平の返礼は、大上段から振り下ろされた手刀だった。

 

 

 ――――

 

 

 第二十四回 戦陣妖夢

 

 

 

「こんのバカ蕣華! あんた何考えてんのよ!!」

「うん、それはさっき聞いた、かな」

 

 鳶を通してではあるが。と心中で補足する蕣華の両頬を、公平が思いっ切り左右に引っ張った。

 

「口答えするのはこの口ぃぃっ!?」

「ご、ごひぇん…って」

「ったく、役鬼狐法(えんきこほう)(*219)すら知らない癖に鬼神附體(きしんふてい)(*220)なんて無茶にも程があるでしょうが!!」

「はい、すいません」

 

 言ってる意味はさっぱり解からないが、ひたすら謝り倒す蕣華であった。遠く豫州に居る筈の彼女が尋常ならざる法で涼州にまで駆け付けてくれたのだ。相当心配をかけてしまったのを、否が応にも自覚するというものだ。それが嬉しくもあり、それ以上に申し訳なかった。

 実際、公平は土行遁術(どこうとんじゅつ)(*221)迅行法(じんこうほう)(*222)を併用してまで蕣華の元に急行してきたのだ。妖術や方術に明るくなくとも、その心配振りは察せられるというものである。

 その後も暫く素人には理解不能な専門用語を交えた叱責を続けていた公平だが、蕣華がややげっそりとした頃合いにはそれも止んだ。そして、蕣華がその事に気付き顔を上げれば、じっと此方を見詰めていた。その瞳は平時にない幽かな輝きを灯しているように見えた。

 

「……ふん、確かに憑いてるわね」

 

 そう呟き、徐に蕣華の額を鷲掴みにしてくる公平。反射的に身を硬くする蕣華。公平は意に介さず真剣な目つきで息を整え、そして、くしゅんっと可愛らしいくしゃみを一つ。

 微妙な沈黙が場に降りた。

 

「……寒いわ」

「そうだね」

「今更だけど、ここ何処なのよ」

「涼州だけど……」

「西の端じゃないっ」

 

 何となく先までの空気が霧散してしまい、現状の確認となった。公平も頭に血が上っていた事を自覚し、一旦気を落ち着かせようと、話題を転換させたのだ。それには蕣華の中に潜む疫鬼に、蕣華を害する気配を感じなかったのも関係していた。何を考えているのかは分からない為、油断はできないが、危急の対処をこの場で施す程ではなさそうだとの判断を下していた。

 

「それにしても、ここが何処かも判らずによく来れたね」

「この子に出口の目印を運ばせたからね」

「ああ、あの符はそういう意味があったのか」

「あんたの邸にも印を施しておいた方が良いかもね」

「取り敢えず、洛陽に戻ったら直ぐに参内するから、その後で頼もうかな」

「これから帰還? もう戦は終わったのね」

 

 周囲を見回しつつそう言ちる公平。戦の最中に乱入しなくて助かった、と言ったところだろうか。確かにその通りだと、つい口に出た。

 

「乱戦の最中に飛び込まれてたらどうなってたか……」

「流石にあんたの周辺が静かな時に吶喊するよう言い付けておいたわよ」

「私の額に吶喊するところまで指示してたんだね…」

 

 半眼でそう返せば、あんたの無茶を思えば妥当な指示よ。と悪びれもせずに言い切られてしまった。結局、再度謝罪する事になったのであった。

 

 

 ――――

 

 

 鳶に連行された蕣華が、劉玄徳の召し抱える歌姫三姉妹の真ん中を伴なって戻って来たのは四半時(三十分)程経ってからだった。

 流石の蕣華の幕僚もこれには唖然としていたが、その中でも魯子敬の立ち直りは早く、軽く問い掛けると「えーっと、偶々近くまで来てたから合流したんだよ」という見え見えの言い訳にも突っ込みを入れず、「そうですか」と流して陣の撤収を進め洛陽帰還へと周囲を迅速に動かした。

 あまりの淀みのなさに、疑問符を抱えたままで誰も彼もその流れに従って動き出した。無論、言いたいこと聞き出したい事はあるが、部外者の馬家は触らぬ神に祟りなしとばかりに、仲峻と宗文は子敬に一任して出払った。公平に対して思うところのある子明はやや躊躇ったが、矢張り先の二人と同じ判断を下した。

 余談ではあるが、子明が公平に対して当たりが強いのは蕣華が怪しげな術に興味を示したからであり、概ね蕣華の所為である。尤も、口笛すら下手糞な蕣華には嘯術(しょうじゅつ)を修める芽はまるでなかったが……。

 

「それで、蕣華さん? これはいったい何事なんです?」

 

 そうして皆が忙しなく働きだし、周囲から人影が途絶えてから子敬は笑顔で問い掛けてきた。いつもと寸分たがわぬその笑顔が、今は酷く怖い。

 

「ああ、うん。……ちょっとした厄介事が、ね」

「それは解ってます。その中身をお聞かせ下さい」

「ちぃも前後関係を知りたいわ。なんでそんな真似したのよ」

 

 つい言葉をに濁せば、笑顔を揺るがさぬままに子敬が追及を強める。それに便乗してきた公平の言に、一瞬だけそちらを見遣り、成る程、と頷いて子敬は笑顔を消した。

 

「お一人で抱え込まないで下さい。地和さんにだけ相談されたという事は超常関係でしょうけど、何のお話も通されてなければ、私達は訳も解らず貴女を失うかもしれないのですよ?」

「ごめん」

 

 言葉以上に何もつくろわぬ真剣なその瞳に、たった一言しか出てこなかった。

 しかしその一言に込められた想いは通じたのだろう、子敬の雰囲気が少し和らいだ。それを感じ取り、蕣華は子敬と公平に己の敵の事を語りだした。

 

 

 ――――

 

 

「で、結局、自分が狙われてる理由は分からず仕舞いね……」

 

 ありありと疑いを表に出して呟く地和。

 

「あれで秘密の多い人ですからねぇ」

 

 それに対し、飄々と答える子敬。

 

 洛陽への帰還途中、長安まであと一息ということろまで来ていたある日の晩。魯子敬の幕営である密談が交わされていた。

 慶祝の私敵を討つ為に、彼女に憑りついている鬼怪を先導に立てて夢の中から奇襲を仕掛ける。

 地和はその襲撃に同行する事となった。その為に洛陽へ急ぐ行軍の最中で準備に勤しんでおり、この日、漸くそれが整ったので決行と相成ったわけであるが、その直前に子敬に誘われ、こうしてその幕営に訪れていた。

 

「なによ、興味あるわね」

「いえいえ、知ってる訳ではありませんよ。ただ、私の勘が囁いただけです」

「なぁんだ」

「それであの人の軍師になろうと決めたんですよ。いや、懐かしいですね~」

「……蕣華もだけど、あんたも大概ね」

「ひゃわわっ!? なんでですか! ……でも、謎の術士集団から付け狙われるとは思いもしませんでしたけどねー。いやはや、本当にあの人と一緒に居ると退屈しませんよ」

「呑気なもんね」

 

 実際にそう思っているわけでもなさそうに地和がぼやく。

 

「ただ、今回の事で端緒を得たと思いますよ」

「……なんの?」

「私が蕣華さんに惹かれたその理由。そしてそれは、件の術士集団が蕣華さんを標的とする理由にも繋がってるんだと思います」

「へぇ、聞かせてもらおうじゃない」

 

「連中の目的は『正しい歴史の流れの為に』、という事らしいですね」

「そうね、虚耗もそんな事言ってたわね」

「なんとも遠大かつ妙な言い回しと思いませんか?」

「大仰とは思うけど……」

「正しき世の為だとか、善き未来の為ではなく、“歴史の為”だなんて私は引っ掛かりますねー」

 

 ふむ、と頷く地和。改めて言われてみれば、なんとも胡散臭い響きだ。

 

「地和さん、今この時を、私達が過ごしている日々を歴史と感じますか?」

「そう言われると変よね」

「歴史なんて過去のものですよ。遠い未来で今日(こんにち)の事が史記や漢書のように記されるのは当然でしょう。その中に蕣華さんの記述もあるでしょうね。しかし、その当時に活躍した人々が『今、自分達は歴史を生きている』なんて考えて生きていたでしょうかね?」

「そんな余裕のある奴なんて殆ど居ないでしょうね」

「ま、己の業績を後の歴史に残そうなんて太い考え方してた人物もないではないですが、普通はそうですよね」

「で、連中の主張が変なのはわかったけど、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 まだるっこしい子敬の言い回しに、地和が問い掛けた。自身でも考えを巡らせながらの問い掛け。何がどう友人に繋がるのか。それだけではない。何か予感がする。方術・妖術の才能が開花してより鋭敏になったその感覚が告げる。自分にとって不快な何かが繋がっているのだと。

 

「易占は未来を予測する法ですが、術士集団は更にそれを突き詰めて未来を知見できる。或いはさらに飛躍して未来から来訪したと仮定しましょうか。すると彼の敵共から見ると私達の生きる今現在は、連中からすれば過去の歴史となるわけですね」

「……或いは未来の史書でもあるのかもね。太平要術なんて代物もあった事だし」

「ですね」

 

 地和の顔が意識せず歪む。自分達が生きるこの瞬間を俯瞰して識る術の示唆。史書に書かれる類いの事変。厳慶祝と自分達姉妹が共に渦中にあったあの乱。

 

「その連中の知る歴史と今現在に相違があるとしましょう」

「その原因が蕣華にある?」

「少なくとも連中はそう考えているんでしょうねー」

「それは例えば、…例えば、征伐される筈だった叛乱の首領が生き延びている、だとか?」

「……可能性は高いかと思います」

 

 嗚呼、敵だ。こんな所に不倶戴天の敵がいた。

 

「……ふざけんじゃないわよ。ちぃ達はね、武力叛乱なんてこれっぽっちも望んじゃいなかったわ。ちぃ達の歌で大陸中を熱狂させてやりたかったのよ。それが、それを…、あの大乱が正しい? ふざけんじゃないわよっ!! あんなわけわかんない動乱でちぃ達の頚が晒されなかったのが気に喰わなくて蕣華を殺す?! 上等じゃない! そんなの絶対ちぃが許さない!!」

 

 震え声での呟きは、内面の荒波に同調するようにすぐさま激昂となって吐き出された。荒れ狂う怒りの奔流は、未だ見ぬ敵へと向けて視えない怒濤と化して渦巻き、逆巻き流れ出した。最早この激流を止める術はない。地和にその気がないからだ。

 例え二人の予想が外れていたとしても関係ないと、地和の予感が割れ鐘のように告げていたからだ。どのような理由であれ、己が敵共は自分を許容しないのだと。

 それはこっちの台詞よ。怒りに燃える眼で地和は心の中で宣戦布告を告げた。

 

 

 ――――

 

 

「どうしたの地和? なんか凄い殺る気だけど」

「何でもないわ」

 

 そうは言ってもなぁ、と首を傾げる蕣華。素人の自分が心配だから同行するという雰囲気では全くない。小さく華奢な肩を怒らせ、控え目な胸を張り、可憐な瞳には決意の輝きを湛えている。まるで自身が決戦に赴かんとしているようだ。

 蕣華の幕営に共にやって来た子敬に顔を向けると、曖昧な笑みで誤魔化せられた。本人の口以外から理由を語る訳にはいかない、という素振りだ。

 

「あんたの敵がちぃの敵でもあっただけ…」

「……そっか」

 

 公平に視線を戻すと、静かにそう告げられた。どのような経緯を経てその結論に達したのかは知らないが、どの道奴等はこの世界に生きる人々全てにとって敵と言っても過言ではあるまい。

 

 私だけを否定して終わるとはとても思えないしな。

 

 心中で独り言ちると、ふっと一息気を入れ直す。

 それにどの道、彼女を矢面に立たせはしない。公平はあくまでも疫鬼が妙な真似をしないかの監視役だ。不遜な術士共を駆逐するのは自分の役割なのだから。

 

 

 ――――

 

 

 この晩、厳慶祝は虚耗を放ってきた李意をはじめとする六人の術士を仕留めた。その殆どが不意討ちの一刀での決着であった。術士共が如何に神秘の業を得ていようとも、一級の武を揮う慶祝に不意を突かれてはその業前を披露する隙も無く散っていった。

 

「呆気ないもんね」

「ただの武人の嬢ちゃんが夢ん中で奇襲を掛けてくるなんぞ思いもよらねぇだろうし、こんなもんだろうねぇ」

 

 同じ作業を六回見届けた地和と虚耗が淡々と感想を漏らす。入れ込み過ぎるほどに気合いを入れてきただけに、肩透かしを喰ったような心持ちだ。

 

「地和の手を煩わせるまでもなかったでしょ?」

「まぁ、元々虚耗の監視が目的だったからいいけど……」

「寿の嬢ちゃんに害なすようなこたぁしねぇって」

 

 鬼怪の言に、そこが不可解だと横目に睨む地和。元々人に好意的な怪異であるならばまだ分からないでもないが、虚耗は本来的に悪鬼の類いだ。 どうにかしてその真意を問い質さねばと考える地和の鼓膜の内側、頭の中に直接虚耗の声が響いた。それに対し、地和も声には出さずに虚耗に返答した。

 向こうから理由を告げると宣告してくるとは意外だが、無論望むところだ。何が飛び出してくるのか、そも本当の事を素直に告げるのか、油断はできない。

 地和が小鬼との密会に意識を向けていると、慶祝が小鬼に問い掛けた。

 

「虚耗、本当にこれ以上は追跡できないのか?」

「李意と繋がりの強い連中はこれで終わりさね。方士や妖術使いを探し出す事はできるがね、それが嬢ちゃんの敵かどうかは、まぁ、一々肚ん中覗いてみんと判らんね。手間が掛かり過ぎておいら嫌だよ」

「そうか。なら今夜のところはお開きにしようか」

 

 単なる確認だったのだろう、特に残念そうでもなく慶祝は話を締めた。

 

 

 ――――

 

 

 蕣華の夢を通じての術士奇襲は波乱もなく終着した。翌朝も行軍は続くため、早々に解散と相成ったが、地和は己の夢に虚耗を連行し、先送りにしていた問題と直面する事とした。

 

「ところでよ、寿の嬢ちゃん随分とあっさりしてたと思わねぇか?」

 

 さて、どう口を割らせようか。素直に本当の事を告げるとも思えず、地和が切り出し方を探っていると、虚耗が水を向けてきた。牽制のつもりか? と警戒するが、疫鬼が問うてきたそれは地和も気になっていた事ではあった。

 

「まぁ、ね。李意…だっけ。あいつをちょろっと締め上げたくらいで、何も吐かなかったからって殺っちゃうのは解らなくもないけど。残りの連中も奇襲で一太刀だったものね」

「なんでだと思うよ?」

「……それがあんたみたいのが蕣華を気に入るのと何の関係があんのよ?」

 

 気に掛かる事ではあるが、話の主眼はそこではない。このままずるずるとこの小狡い小鬼に流れをつくらせてはいけない。強い言葉と共に睨み付けるが、虚耗は何処吹く風で話を続けた。

 

「嬢ちゃん、実は首謀者に心当たりがある」

「なんですって?」

 

 つい反射的に反応してしまい、苦い顔になる。

 

「ま、おいらにとってはそれは重要じゃねぇんだ。ただ、おいらが惹かれたところにそいつ等の話もあったってだけでね」

「ちょっと待って、どういう事? じゃあ、蕣華ははじめから知ってたの?」

 

 地和と子敬の予想では敵は未来の足跡を識る者だ。慶祝がそれを知っているという事は、それはつまり彼女も同様に先の出来事を識っており、意図的に改変したと……?

 

「とはちょいと違うな。寿の嬢ちゃんはただ思うがままに生きてたら連中に目を付けられた、というか気付かれちまったのさ。それで嬢ちゃんも敵の正体を知ったってぇとこだな」

「取り敢えず、蕣華は意図して動いてたわけじゃないのね?」

 

 警戒していた筈が、すっかり虚耗に主導権を握られる地和。元々、この手の渉外は妹が一手に引き受けており経験がなく、そも素養がないため致し方ない事ではある。

 

「ま、後は自分で確かめるこったな。天地がひっくり返る事請け合いさね。おいら、もうずっとわくわくが止まんねぇでいるよ。残念ながらこのわくわくは嬢ちゃんの敵共とは共有できなくてね。野郎共、どうも悲観的でいけねぇよ」

「それがあんたが蕣華に肩入れする理由? あいつの中に何があるってのよ」

 

 どうやらこの悪鬼の真意を知るには友の()を覗き見なければならないらしい。意気込んできた筈が、尻込みしている。当たり前だ。人様の内面を勝手に覗くなど、許されるわけがない。それに話がどんどん大きくなってきている。天地がひっくり返るなどと、大袈裟にも程がある。だがそれが、誇張でなかった場合、自分は果たしてそれを受け止めきれるだろうか? 逡巡する地和の耳朶を、人のものならざる声が叩いた。

 

「世界の秘密だよ」

 

 それは、紛うことなき悪魔の囁き。

 

 

 第二十四回――了――

 

 

 ――――

 

 

 翌日。張公平が目の下に隈をつくり、何やら考え込んでいるのを蕣華が心配した以外は滞りなく軍は進んだ。そうして午前中に長安に入城した馬・厳両軍を待っていたのは、奉車都尉馬休であった。無論、出迎えなどではなく、蕣華達に下された新たな勅を携えての合流であった。

 蕣華・馬孟起両名に下された新たな詔令。それは、益州の乱の平定であった。

 

「で、なんでお前がわざわざ出張ってきたんだ? 鶸。 指令を届けるだけって訳じゃないんだろう?」

「はい。えぇーっと、その、何と言いますか、督戦の任を受けまして……」

「ほぅ、姉の私を督するとは出世したじゃないか」

 

 鎮圧に次ぐ鎮圧、戦に次ぐ戦。将としては望むべくところではあるが、その為に新たに追加で派兵されて来たのが妹とあって、孟起は中央が企図するところが気になり問い掛けた。

 それに対し、少々尻込みしながら答える仲承。その予想していなかった意外な答えに、にやりと面白げに笑む孟起。だが、その笑顔には獰猛さも浮かんでいる。妹の大任を面白がっているだけはなく、己の戦場(いくさば)にそんなものは必要ない、という意志も込められた、そんな笑みだった。

 そんな姉の反応に慌てる妹が、更なる詳細を口にした。そこに出た名に、今度は蕣華が反応した。

 

「い、いえ、違います! 私が督するのは蕣華と季玉(りぎょく)さんです!?」

「私と、……誰だって?」 

「……あの、わたしです」

 

 蕣華の疑問に、控え目な声音で応えたのは、馬仲承の背後に隠れる様に身を縮こまらせていた少女だった。

 伏し目がちな紺琉璃(こんるり)の瞳は不安そうに揺れ、小さく薄い唇から漏れる声音は気弱な響きを帯び、全体的に薄く華奢な体躯と合わせて、とても英傑の類いには見えない。しかし、緩やかな曲線を描いて腰元まで流れる長春色(ちょうしゅんいろ)の髪色には見覚えがあった。その昔、一度だけ遠目に見た劉益州と同色の髪。

 彼女こそは馬孟起、蕣華と共に益州乱平定に派遣された三人目の将。名を劉璋(りゅうしょう)(*223)。字を季玉。仲承と共に奉車都尉を務める益州牧劉焉の末子であった。

 

 中央は益州乱の平定に身内を集めてきた。どういう事であろうか? 蕣華はちらと背後を振り返る。意図を読み取った子敬がその視線を受けて答えた。

 

「どちらが叛していたとしても大事にせず、身内を使って諫めようというのでしょう。それで治まらないのであれば、錦馬超・翠さんに蹂躙させる。その際、蕣華さん達が親元に走らないように、鶸さんをお目付として同行させた、というところでしょう」

「包さんのおっしゃる通りです。どうやら、劉・厳両軍は陣を構えたまま睨み合い、精々が小競り合いを繰り返している段階らしく、これが本格的な全面衝突に移る前に事を治めたいという事です」

「成る程ね」

 

 子敬の解説に、仲承が補足を加えた。娘の説得に応じるのであれば、確かにそれが一番良い。だが、蕣華は益州牧がそんな玉ではないと睨んでいた。その娘は睨んでいない。しかし、劉季玉は蕣華の視線を避ける様に仲承の陰に隠れた。

 大丈夫かな、この娘? と、訳もなく心配しながら、州牧に対する印象と真逆と言ってもいい立ち居振る舞いをする少女に声を掛けた。

 

「あー、季玉さん? 私は別に貴女と諍いを起こす気はないよ。仲良く、という訳にはいかないだろうけど、此度の乱をはやいところ鎮めたいというのは同じだと思う。それが互いの母が無事の上ならばいう事ないでしょう。だから、暫しの間、宜しく頼むよ」

「……は、はい!」

 

 蕣華の言葉に、少しの間、眼を見開いて聞き入っていたかと思えば、それまでの様子からは考えられないほど大きな声で返事を返してきた季玉に、悪い子じゃなさそうだ。と、僅かに頬を緩めた。

 

「おし! じゃあ、ちゃちゃっと行って益州の騒ぎも鎮めてくるか!」

 

 二人の様子を見守っていた孟起が締めとばかりに声を上げると、皆一様に強く頷いた。

 こうして蕣華は久し振りに益州へと戻る事となった。思っていたのとはだいぶ違う帰郷。それでも、もうすぐ愛する母に会えるのだと思うと、状況も何もかもすっ飛ばして自然と頬がほころんだ。

 数々の戦場で武を鳴らし、中央にて累進を重ねる若き武将。世の裏側で世界を拗ねる者共との暗闘に身を投じる闘士。遂に御遣いの所在を知り、その段になって態度を決めかねている乙女。

 しかし結局のところ、どこまでいっても彼女は桔梗の娘なのだった。

 

  




*219役鬼狐法:怪異狐狸を使役する方術。召喚使役の法は、鬼怪を使役する劾召鬼神法(がいしょうきしんほう)や、雷部諸神を使役する五雷法(ごらいほう)など様々ある。

*220鬼神附體:鬼怪を憑りつかせる事、またはその法。道士が通力を得る修行の一環として行われる事もあったらしい。憑りつかせた鬼怪の通力を体感する事によって、その通力を体得するという。

*221土行遁術:単に土行法とも。地中に潜り移動する法。封神演義に登場する土行孫が得意とする。

*222迅行法:遠距離移動の法。通常は符を用い、両脇の下に朱で呪いを印す。一日足らずで千里を往復できるという。また、身が軽くなりどれだけ歩き回っても一切疲労しなくなるとも。

*223劉璋:荊州江夏郡竟陵侯国(けいりょうこうこく)出身の群雄。劉焉の末子。父の後を引き継いで益州牧となったが、これは趙韙(ちょうい)王商(おうしょう)の上書によって擁立されたものであり、世襲によって継いだのではない。東州兵の取り締まりも出来ず、重臣の離反を招くなど、統治能力に疑問を持たれる事が多いが、劉備反逆時の官民から慕われていたことが窺われる。はじめ曹操に使者や献上品を送るなど親曹操派だったが、使者の一人張松(ちょうしょう)が曹操に冷遇されたのを恨み、曹操と手を切り劉備と結ぶべきとの進言を受けると、それに従い劉備の入蜀を招いた。そして劉備に叛逆されると、官民共に決戦の覚悟を以って迎え撃とうとしていたが、劉璋は無血開城によって降伏した。

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