桔梗の娘   作:猪飼部

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お待たせして申し訳ありません


第二十五回 霊幻亡帝

 長安にて新たな勅命を受けた蕣華と馬孟起は、馬仲承率いる監軍と劉李玉率いる第三軍を加え、一路益州へ急行する事となった。

 蕣華としては願ってもない展開だが、現在同行している歌姫にとってはそうではない。余計な寄り道である。それも、洛陽を目前にしての反転。張公平の目的は蕣華の私闘絡みの補佐であって戦に関わる気などありはしない。そこで、部曲の兵を護衛に付けて洛陽の公邸に先行してもらう事となった。

 出立直前、蕣華は子敬と共に公平に一時の別れの挨拶の為に時間を割いた。その頃には公平はいつもの調子を取り戻していた。

 

「悪いね、地和」

「別にいいわよ。ま、あんたの邸に印を付けたらそこから一旦帰るけどね」

「今更ながらに何日も不在で大丈夫なの?」

「昨日あの後でれんほーに夢で連絡しておいたから。あっちの無事も確認できたし、だいじょーぶよ」

「地和さん、そんな事まで出来るのですか?」

「昨日の事で虚耗の通力を感得したのよ。もっとも、今はまだお姉ちゃん達と、蕣華くらいにしか夢を通じれないけどね」

 

 子敬の質問に事も無げに答えた公平の言葉に、子敬と蕣華は驚きを隠せなかった。

 子敬が疑問に思ったのは昨晩は蕣華の夢に同行する為に入念な準備をしていたからだ。星辰を計り、身を清め、呪符を用意した。

 その上で軽く妹と連絡を取ったとの弁。肉親相手ならば、精神的に強い結びつきを持つ者相手ならば必要ないという事なのかと子敬は考えたのだが、返ってきた答えは半分正解と言ったところであった。

 

「えっ?! それ以前は出来なかったの? 昨夜のあれだけでそこまで使えるようになったの?」

「ふふんっ。まっ、ちぃは天才だからね! これくらい何てことないわよ!」

 

 実際、妖術に関しては天才としか言いようのない才覚に蕣華は絶句した。もしや、手段を選ばぬ戦闘に及べばこの華奢な歌姫は強者の部類に入れるのではなかろうか? 尤も、才覚の上ではその通りであったとしても、圧倒的に実戦経験が不足しているのだが……。

 そこまで自覚しているのならいいが、才覚を過信して単独で敵術士と闘り合う事にでもなればかなり危うい。

 

「地和、無茶しないでね?」

「……それはあんたにだけは言われたくないわ」

 

 反射的に出てきた心配の言葉の意味に、数瞬して気付いたのだろう。半眼で返されてしまった。

 これは分が悪いと目を逸らした蕣華の視線の先で、子敬が顎に手を当てて何事か思案していた。なにやら懸念事項があるらしい。

 蕣華の視線に気付いた子敬が、思案顔のまま答えた。

 

「いえ、ちょっと亞莎ちゃんとすぐに連絡を取れないものかと思いまして……」

「……御方になにか?」

「あるかも知れません」

 

 場の空気が一気に緊迫し、その空気を煙たがるように公平が口を衝いた。

 

「亞莎との連絡ならこの子に手紙を持たせるのが精々よ」

「その鳶、亞莎さんを探せるんですか」

「大体の場所が判れば、後は自力で見つけ出すわよ。屋外に居る時じゃないと難しいけど、どっかに引き籠もりっぱなしってわけでもないんでしょ?」

「はい。旅程が順調なら此方に向かっている途中の筈ですが、漢中郡治まで街道沿いに飛んでいただければ……」

 

 子敬の懸念は先晩の公平との密談にあった。

 敵術士達の思想。正しき歴史。もしも公平達が討ち倒されるのが正しく、主公がそれを救いあげた事を嗅ぎ付けられて敵と認定されたのだとしたら。死すべき定めにあった筈の者が黄巾首魁だけではなかったら。先帝もまた死んでいなければならないとしたら。それを連中が把握していたら……。尤も、歴史の正誤云々以前に、亡帝の存命が拙いのは、誰にとっても明らかではあるが。

 張姉妹には今のところ敵の手は伸びていないようだ。だからと言って先帝も無事とは限らない。子敬の懸念は決して大袈裟ではなく、実のところ的中していた。

 そして、この時点で既に事態は決着した後だった。

 

 

 ――――

 

 

 第二十五回 霊幻亡帝

 

 

 

 亞莎が漢中郡南鄭県城に到着したのは、慶祝達が長安に到達するよりも幾日も前になる。

 県城内深奥、郡府官衙の更に中心、便坐の一画に、名を変え素性を変えて密かに生き延びる一人の女性を迎えに、亞莎は碌に休みも取らずに馬を飛ばして駆け付けて来た。

 それは某かの予感に背を押されて、という訳ではなく、単に主公の元へ逸早く舞い戻りたいからであった。

 正直に言って、亞莎は目指す人物を密かに保護する事に賛同できていなかった。その御方に含むところがあるわけではない(全く無い、とは言い難いが)。当然だ。それは余りにも大きな危険を孕んでいる。

 しかし、主が一度決めた事を翻す事はないし、彼女が主命に逆らうという事も有り得ない。使命を帯びたからには命に代えても御方を護り、主公の元へお連れする。

 戦場に身を置いている時同様の緊張を纏い、亞莎は官衙へと足を踏み入れた。

 

 そして、直ぐに緊張の度合いが上がった。

 

 県城に入城したのは閉門間際の夕刻だった。だから官所に人の気配が余りない事には特段気にするでもなかった。中廷(中庭)を抜け、郡堂を通り抜ける時も同様だ。しかし、公邸である便坐に踏み込んでも尚、人の気配が途絶しているのには合点がいかない。

 便坐の奥方にある客房には御方が居り、その元には主が愛してやまない南蛮の少女が侍っている。その二人の護衛として、部曲の中でも最初期から付き従っている元豫州義勇兵が、それもその中でも特に忠に厚い者達が選抜されている。何故彼等の姿がないのか。疑問の余地はなく、亞莎は内心の焦燥を封じ込めて静かに、慎重に歩を進めた。

 周囲の気配を窺いつつ便坐本堂を通り抜ける亞莎の胸中に、漢中に向けて一人出立する直前に魯子敬が発した警句が甦る。

 

「亞莎ちゃん、どうやら蕣華さんに私敵が現れたようです」

「私敵…ですか?」

「はい。私もまだ概要すら掴んでいないので余り確かな事は言えませんが、蕣華さんの幕僚である私達が狙われる可能性は十分にあります。これから単独行に移る亞莎ちゃんは充分に警戒しておいて下さい」

「分かりました。包さんもお気を付けて」

 

 もしもその敵の仕業ならば、もっと早くここに駆け付けるべきだった。道中、急いでいたとはいえ自身の警戒も怠らなかった為、どうしても最高速とはいかなかった。だが、敵が主の関係者も狙うというのなら、最もその身を案じなければならない存在が居た。

 南蛮から来た少女。あの愛くるしいトラこそが主公の最大の急所ではないか。

 ぎしりと知らず噛み締めていた奥歯が軋みを上げた。あの娘に何かあれば、敵は勿論、己の事も許せない。

 一方で別の可能性もある。御方の生存に気付いた何者か。憂いを断つ為に暗殺するか、利用する為に攫うか。どちらにせよ碌な事ではない。主の誓いを踏み躙らせなどしない。

 

 だが予感がする。これは主の敵だ。

 

 袖の中で両の掌を何度か握っては開く。指を一本づつ折り、また一本づつ開いて行く。手首を左右に捻り、肘まで連動して捻る。そうして暗器手甲人解(れんげ)の具合を確かめ、十全である事を確認した。

 小さな郷の一少女に過ぎなかった亞莎がこの特殊な手甲を手に入れたのは、たまたま郷里を通り掛かった武芸者との立ち合いで勝利したからだった。

 それまで郷一番という小さな囲いの中での武勇が、初めての戦利品と共に外を志向するようになった。それからは、いつかの雄飛を夢見ながら人解を使いこなす為の鍛錬の日々が続いた。その所為で慶祝と出会うまでは、読み書きも満足にできない有り様だった。だが今は違う。

 黄巾の乱によって亞莎の運命は大きく変わった。

 葛陂賊の横行で父を失い、仇討ちを望むも母の事を考え共に江南に逃れようとした。そこを子敬の部曲と遭遇した事で母を保護してもらい、子敬と引き合わされた。そして、彼女の導きで慶祝と運命の出会いを果たした。

 その後、多くの戦場を駆け抜けて亞莎は急成長を遂げた。それは実戦に依るもののみならず。武に於いては厳慶祝に、知に於いては魯子敬の薫陶を受けた。

 それによって、現在の亞莎は大陸でも稀有な智将として開花している。武でも知でも亞莎を越える者はまだまだ多い。しかし、その両輪を共に上回る者は殆どいない。

 今は慶祝の陰で殆ど名を知られていない、その傑物の直観が告げていた。

 ()()は主の敵だと。

 

 確信と共に歩調を速めた亞莎の研ぎ澄まされた感覚が、向かう先での異変を嗅ぎ取った。

 慎重さはそのままに、素早く移動する。客亭の前庭、そこに横たわる無数の人影。既に事切れている者もあれば、辛うじて息をしている者、意識はないものの致命には至っていない者もいる。その全てが護衛兵であった。いや、一人だけ違う。暗がりの中でも亞莎はその人物を見分け、足早に近寄ってその状態を確かめた。

 無造作に伸ばされた亜麻色(あまいろ)の髪が放射状に広がり、華奢な体躯を覆う新緑色を基調とした衣裳と合わせて、手折れた花の様に倒れ伏す女性。呼気はやや薄いが、死からは遠いようで安堵する。と言っても、軽いけがでもない。元々負っていた刀傷の上から新たに受けた損傷で再出血している。亞莎は左の袖を肩口から破り、傷口を圧迫するようにきつく巻いた。

 応急処置による新たな刺激で彼女は意識を取り戻した。元漢中郡府門下縁陳調(ちんちょう)、字元化(げんか)

 

 厳慶祝が将軍の印綬を賜った時、魯子敬の進言によって、中領将軍府府佐として三人が辟されていた。一人は板楯兵を従える王子均。慶祝が直接指揮する屯騎兵とは別に板楯兵を中心とした親衛隊を指揮する門下督(もんかとく)(*224)と期待されている。

 いま一人は陳元化。法曹参軍(ほうそうさんぐん)(*225)に任じられたものの、先の漢中乱の折に横死した漢中太守の敵を討たんと食客数百人と共に馬相賊に吶喊した際に負った傷が癒えきっておらず、漢中に居残って療養しつつ、同じように療養中のもう一人と共にトラの臨時教師を務めていた。

 

 その陳元化が苦し気に呻きながら薄らと目を開いた。髪と同色の瞳が亞莎を捉えると、朦朧としていた意識は一気に覚醒したようで、すぐさま力強い意志の輝きを灯した。

 

「申し訳ありません。賊の跳梁を止められなかったばかりか……」

「トラちゃん達は無事ですか?」 

 

 謝罪と共に傷付いた身体を鞭打って起き上がろうとする元化を押し止めながら、しかし口から付いて出たのは労いでも労わりでもない。

 元化も心得たもので、要点だけを簡潔に告げた。

 

「私が侵入者を引きつけている間に、我が友が連れ出しに向かいました」

 

 元化の言う我が友。それは慶祝の幕下に加わった最後の一人、趙嵩、字を伯高(はくこう)。陳元化と共に元は漢中太守に仕えていた硬骨の女士である。元化と同じ理由で、同じように怪我の療養を受けていた。

 似た者同士のこの二人は、武の才覚も似たり寄ったりだ。精兵相手にも引けは取らないが、逆に言えばそこまでだ。元より純粋な武官としてではなく、荒事にも対応できる文官としての性格が強い。亞莎は万全の二人を同時に相手取っても勝てる自信があった。

 急がねば。焦りが表面化しつつある亞莎に、元化が更に言葉を告いだ。

 

「敵は人外の化け物を率いておりました」 

「化け物?」

「はい。ですので、あやつならば穀倉に向かったかもしれませぬ」

 

 何故に穀倉? と疑問を表情に出せば、すぐさま答えが返ってきた。

 

「もち米は魔除けに効くと申します故」

「成る程」

 

 返事をしながら立ち上がる亞莎。その視線は邸の北側奥方、厨房や倉がある区画へ向いていた。

 

「生存者をお願いします」

「お気をつけて」

 

 最後にそう伝え、疾風の如くに駆け出した。

 その後姿を頼もしく見守りながら、化け物と言う文言に疑義を呈されなかった事に、元化はほっと息を吐いた。押し問答をしている猶予など無い故に、真偽はともかく敵の存在がはっきりしている為にそこは捨ておいたのかと考えたが、亞莎は元化の言を別段疑ってはいなかった。

 自身では遭遇した事はないが、主が南蛮の少女と出会った経緯を語ってくれた時、正に化け物と言うに相応しい怪鳥の存在を聞き及んでいたからだ。いまひとつ、知己に妖術使いも居る。

 世の中、己の知の及ばぬ事象・存在などきっと有り触れているのだろう。普段は皆それに気付かずにいるだけなのかも知れない。

 

 いや、どうでもいい。世界がどうあれ、敵が何であれ、それが己が主君を害するというのであれば全力で排除するのみだ。

 

 

 ――――

 

 

 陽が完全に沈んだ便坐の奥。穀倉の扉は大きく開かれ、穀物用の麻袋が雑多に転がっている。その幾つかは刃物で乱暴に破られ、中身がざらざらと転び出ている。盗賊の押し入りにでも遭ったかのような有様だが、麻袋を楯にして半身を隠す淑女も、穀倉の扉前に陣取る南蛮少女と女丈夫も賊ではない。倉を暴き、扉の周囲に半円を描くようにもち米を撒き散らしたのは、賊から身を護る為であった。人型をした異形の賊から……。

 

 彼女達を囲うもち米の結界を、更に囲う形で群がる屍の群れ。トラ達は散発的にもち米を投げ付けて近寄らせまいと抵抗するが、それもいつまで持つか判らない。

 もち米を忌避するのは間違いなく、素肌に食らわせれば焼けたような音を立てて怯む。が、決定打にはならない。民間に流れる言伝え程度では、実際の脅威として迫る怪異を退ける程の力はないらしい。

 じりじりと追い詰められ、起死回生の手立てはない。この屍共が生きた賊兵であれば、この程度の包囲網などものともしないが、人にとっては致命の一撃を見舞っても尚襲い掛かって来る怪異相手では分が悪いどころではない。五体をバラバラに切り刻めば、然しもの怪物とて動きを止めるかも知れないが、この場に居る者でそこまでの武を誇る者は残念ながらいない。

 元は至上の身であった蹇寛はそもそも武に遠く、趙伯高は先の怪我が癒えておらず、トラも只人相手ならばいざ知らず、そこまで武に長けていない。それでも三人は諦める事なく抵抗を続けた。

 

 そんな彼女達を嘲笑うかのよう鈴の音が、チリンと響いた。

 

「ふん、いつまでも無駄に足掻きおって…」

 

 敵方唯一の生きた人間。帝鐘(ていしょう)の音色とは程遠い不快な声色の道士が忌々し気に吐き捨てた。

 十を越える僵尸(キョンシー)(*226)を一人で使役するこの男は、無論厳慶祝の敵であった。

 敵の総勢は男を合わせ十二、いや十三。トラ達を囲う十体の僵尸と、道士の脇に控えさせた如何にもいわく有り気な棺を背負った長身の僵尸、その僵尸が背負う棺の中にも恐らく一体。

 それだけの数が、どういう理屈かは知らないが道士の持つたった一つの鈴で自在に操られていた。

 今も澄んだ音を立てる帝鐘の音に合わせて十体の僵尸のうち、半数が囲いを解いて後方に下がった。そして、三体が縦列を作り、二体の僵尸が先頭の両脇に立った。それを見て伯高はぎくりとした。

 伯高の予感はすぐさま現実として飛来した。二体掛かりで一体の僵尸を投げ付けてきたのだ。もち米の結界など意味を成さない空襲に思わず身を竦めるが、放物線を描いて飛来する筈の僵尸は、その下降線を辿る寸前に無数の鎖に絡めとられてあらぬ方向へ投げ捨てられた。轟音を立てて厨房の外壁を破壊して僵尸は土煙の向こうに消えた。その土煙を裂くように、僵尸に絡んでいた分銅鎖が厨房内部から使い手の手元に引き戻された。

 

 その場の(僵尸を除く)誰もがその光景に目を奪われ、鎖の元を辿った。

 その視線の先、普段は長過ぎる袖の中に隠された腕を左だけ手甲毎むき出しにした亞莎が、鋭く敵を睨み付けていた。皆の注目を集めた分銅鎖は、剥き出しの左手甲に繋がっている。

 

「ちっ、増援か」

 

 憎々し気に吐き捨てた道士は、しかしすぐさま口の端を醜く吊り上げた。小さく短く帝鐘が僅かに震えると、今し方投げ飛ばされた僵尸が厨房の奥から一跳びで亞莎に襲い掛かった。

 そしてバラバラに分割された。

 亞莎の手甲からは、何時の間にか分銅鎖ではなく鉤爪が生えていた。目にも止まらぬ早業であった。

 もはや寸毫足りとも動かず、屍鬼から屍体に戻った僵尸を一瞬だけ見遣り、亞莎は確認するように独り言ちた。

 

「どうやら、己の形を保てぬほど刻めば活動を停止するようですね」

 

 臍を噛む道士の表情からも、それが間違いのない事だと確信を得た。

 彼女の話を聞き流さないで良かった。と、表情には出さず亞莎は密かに安堵した。亞莎の言う彼女、それは稀代の妖術使い張公平だ。慶祝に請われて、色々と怪しげな知識を披露していたのを間近で耳にしていたのが、思わぬところで役に立った。

 曰く、如何な怪物であっても、己を己と認識できぬほどに形を崩せば滅ぼせるのだという。無論、そもそも物理的な手段の及ばぬ超常体もあれば、肉体と霊体を同時に滅ぼさねばならぬような厄介な存在も多いという。だが、低位の怪異であれば、それなりに有効な手段であるという。少なくとも、細かい対処法など知らぬ素人にとっては唯一の打開と言えるだろう。

 ともあれ、自分の手で滅ぼせる相手ならば怖れる事は微塵もない。トラ達には荷が重かったようだが、今の手応えならば、少なくとも大きめの一体以外は束になって掛かってこられても脅威ではない。問題は、その長身の僵尸だ。ただ他の個体より大柄なだけならばいいが、流石にそう楽観視は出来ない。

 

 リン! と強く帝鐘が鳴ると、四体の僵尸が亞莎に襲い掛かかった。その動きに、亞莎は僅かに目を見開く。見誤った。どうやら道士の手にある鈴の音の具合で屍鬼の力がある程度増すらしい。

 早く鋭い四方からの襲撃を、それでも亞莎は危なげなく回避した。見誤ったとはいえ、自分に迫る程のものではない。すくなくとも、今のところは。或いは更に力が一段二段増すかもしれないが、それに付き合うつもりもない。亞莎はあっさりと四体の頚を刈った。途端に動きが鈍る。これでどうやら人と同様、耳目を頼りにしていると判る。こうなれば木偶人形と変わらない。手早く四肢を切り刻み、敵戦力は瞬く間に半減した。

 更に、道士が動揺している間にトラ達を囲んでいた僵尸の群れも両腕から伸ばした分銅鎖で一纏めに引き摺り込んだ。慌てて帝鐘が鳴らされるが、僵尸が体勢を立て直す間を与えずに一方的に屠った。

 

 亞莎の登場から幾許も経たぬうちに、戦局は大きく傾いた。歓声を上げるトラ達。何時の間にか麻袋の陰から身を乗り出していた蹇寛などトラを抱きしめ無邪気にはしゃいでいる。

 対照的に苦虫を噛み潰した顔で此方を睨む敵道士。

 そのどちらに対しても特に反応を示さずに、油断なく敵を見据える。その亞莎の様子に、トラ達も気を引き締め直した。

 これが戦ならばもう決着だが、敵は逃亡も降伏する気はなく、亞莎も見逃すなどという選択肢を持たない。

 

 戦況は次の局面に移る。

 道士の前に立つ大柄の僵尸が、その背に負うた棺をおろした。

 

「もっと追い詰めてから披露してやりたかったが仕方ない」

 

 醜悪に顔を歪めながら道士は帝鐘をゆらりと鳴らす。その響きが棺を震わせると、不吉な音を立てて棺の蓋が開く。そこに収められていた屍体を見て蹇寛、いや、亡帝が息を呑んだ。その様子に、亞莎が前方の敵から目線を切って僅かの間、右方のトラ達を横目に見た。動揺しているのは御方だけだ。直ぐに視線を棺の中身に戻し観察する。

 当然、見覚えはない。本来はもっと鮮やかであったろう孔雀緑(くじゃくみどり)の柔らかなくせっ毛髪、肌は青白く、瞳も閉じたままだが、顔の造作は悪くない。死に顔からもおっとりとした印象を受ける。ぼろぼろの官服に包まれた華奢な体躯、ふくよかな胸、武官ではなかろう。なにより、破れ乱れた裾から僅かに見える金属の光沢。あれは下穿きではない、貞操帯だ。鉄の貞操帯。女性宦官の証。

 一度だけ、その名を主公の口から聞いた事がある。唯一、真の忠誠を先帝に誓った十常侍の序列二位。我欲で宮中に蔓延っていた宦官共の中で、御方の動揺を誘う者など彼の者しかあるまい。

 

 亞莎の推測通り、それは間違いなく中常侍趙忠であった。かつて、先帝劉宏に忠を捧げ、再会を誓った唯一の臣。その成れの果てが、ゆっくりと輝きの失せた紫色の瞳を開いた。

 

 

 ――――

 

 

 これは何の罰だろう。それとも、死に際に観る悪夢か。かつて劉宏であり、今は蹇寛である女――空丹――は眩暈と共に声にならない呟きを発した。

 

 目の前で、もう二度と会えないと思っていた忠臣が、変わり果てた姿でいやにゆっくりと棺から出てきた。そして、呂子明と戦いだした。

 

 嗚呼、止めて。

 

 喉が震える。しかし、声にはならない。代わりに小さく嗚咽が漏れた。

 トラが気付いて振り返ってきた。空丹は何の反応も示せず、ただ眼前の悪夢を凝視した。

 運動など碌に出来なかったはずなのに、料理以外は何をやらせてもてんで駄目だったくせに、軍中で二番目に強い片眼鏡の陪臣と渡り合っている。虚ろな目つきで、見た事もない鋭い挙動を繰り返す。そんな姿は知らない。こんな事があっていい筈がない。

 誰か止めて! 魂だけが叫ぶ。身体はいう事を聞かない。口すら意志に判して震えるだけで役に立たない。

 暗愚な皇帝に下された、これが罰なのか? 変わり果てた忠臣に討たれる事が? 

 そうだ、いつか思っていたじゃないか。自分はきっと碌な死に方をしないと。しかし、それと共にもう一つ思い出した。それをはっきりと否定した女傑が居た事を。帝でなくなった後に得た二人目の臣。

 そうだ、ここでは終われない。そう思うと、悔しさがこみ上げてきた。今以って何の力もない自分が恨めしくて仕方なかった。かつての臣が死後も辱められるのを止められず、今の臣に報いる事も出来ていない。そんな自分がどうしようもなく惨めだった。

 

 空丹が立ち尽くしている間に戦いは激しさを増す。今迄の屍鬼よりも余程強いらしい趙忠は、子明と一進一退を繰り返している。揺れる空丹の眼にはそう映っていたが、実際には子明が空丹の異変に意識を割かれて全力を出し切れていない為だった。

 それ程に空丹の動揺は強く、その場の誰もが気付いていた。気付いていないのは本人のみ。その為、トラと趙伯高の動きにも気付いていなかった。

 ただ目の前の戦闘だけが、荒れ狂う心中でも注視できる全てだった。だからだろうか、武才のない身でも子明が必殺の一撃を見舞おうとしているのが反射的に判ったのは。

 これで終わり。その一撃で僵尸は胴の半ばから上下に別たれるだろう。そうなれば、たとえ動けたとしても最早子明の敵にはなり得ない。決着の一撃だ。そこまで瞬時に理解できてしまった。もう一度、今度は目の前で愛しき忠臣が死ぬという事が。

 

「駄目ぇっ!!」

 

 

 ――――

 

 

 その悲痛な叫びは亞莎の必殺を止め、僵尸に逆転の好機を与えた。

 

「はっ、ははぁっ!」 

 

 歪んだ嗤い声が響くが、亞莎はそれに構わず脇腹にそっと指を這わせた。ぬるりとした感触。だが致命には遠い。彼我の実力差ならばこの程度問題ない。本来は、だ。

 そもそも眼前の僵尸は、それまでの雑魚に比べれば確かに数段手強いが、亞莎にとって脅威と言うほどではない。それを今以って仕留められていないのは、偏に亡帝の動揺にあった。

 先程などは決定的な局面に横槍を入れられた。しかし亞莎はそれを責める気など勿論ない。眼前の僵尸は最早親しき人物ではなく、寧ろ速やかに滅して故人の恥辱を注ぐべきではある。だが、それは理屈だ。人の心はそんな簡単に割り切れるものではない。もしも、目の前の僵尸が自分の大切な故人の成れの果てだったら亞莎も御方と同じようもしたろう。いや、御方と違って武力を持つ分、もっと直接的に止めたに違いない。

 

 僵尸の背後で不快な笑みを張り付けた道士を射殺さんばかりに睨む。この外道だけは絶対に赦してはおけない。

 だがその為にはどうしたって僵尸をどうにかしなければならない。だがどうすれば? 猛撃を凌ぎながら亞莎は思考を巡らせる。傍目からは防戦一方に追い込まれているように見える為、道士は調子に乗り、御方は動揺を深めるが、亞莎は常に冷静だった。だから、視界の端に僅かに捕らえたトラ達の思惑をすぐさま読み解いた。

 

 

 ――――

 

 

 トラは怒っていた。それはもう密林を更地に変えてしまう巨象の大暴走のようだ。

 トラも趙忠の事は多少知っていた。陛下と共に趙忠の作ったお菓子を頬張った事もあった。だからびっくりした。どう見ても死んじゃってるのに、それなのに敵として変な男の鈴の音に操られて戦っているのだ。

 陛下がそれを見て泣いてしまった。涙をじゃんじゃん流してるわけじゃないけど、でもあれは人が一番悲しい時の表情だ。

 だからトラは怒っていた。頭の中の巨象は地面が割れるほど地団太を踏んでいる。トラの頭の中ではへんてこ男はとっくにぺしゃんこだ。

 

 トラの脳内で道士が紙より薄くなったところで、トラは実際の行動に出た。伯高の袖を引いてもち米の詰まった麻袋を指差した。伯高は心得たとばかりに強く頷き、二人は素早く、しかし注目を集めないように一言も漏らさずに行動を開始した。

 

 

 ――――

 

 

 道士は調子に乗っていた。呂子明の乱入に一時は焦りを憶えたが、宦官僵尸を投入して戦局は再びこちらに傾いた。そう勘違いしたからだ。赶屍(ガンシー)(*227)の腕は一流だが、所詮実戦では素人に過ぎぬ方術士の目には、己の勝利は揺るぎないものとしか映っていなかった。

 自分の見たいものしか見ない。そのような愚者に勝利が齎される事はない。

 道士の見えていないところで、雑魚と侮っていた南蛮少女達の手で勝利の天秤は完全に彼方側に傾くことになる。

 

 意気揚々と帝鐘を鳴らすと、その度に宦官僵尸が子明を追い詰める。その様に増々有頂天になる。それが子明の思惑とも知らずに、己の術理に酔い痴れる。

 

 手間を掛けて毛僵(マオジャン)(*228)にまで高めた甲斐があったというものだ。男が趙忠を見付けたのは全くの偶然だった。厳寿の足跡を追っている最中で洛陽を脱出した十常侍を発見した時、予感がしたのだ。あれも先の政争で死んだ筈だと、それが生きてどこかを目指している。この予定外の原因は怨敵が関わっていると、その予感に従って捕縛。拷問の末、霊帝までも生存しており、やはりあの女が関わっていると知った。そこで趙忠を殺し、僵尸に仕立てた。良い誅罰になるだろうとの思惑だったが、戦力としても得難いものとなったのは嬉しい計算外だった。

 

 浮かれながら己の所業を褒め称えていると、その耳に何かが焼け爛れる音、奴隷に焼き(ごて)を押し当てたような音と、屍鬼の放つ不明瞭な絶叫が響いた。

 叫び声の方に振り向けば、残っていたもう一体の僵尸が頭から麻袋を被っており、その麻袋から今もざらざらともち米が零れ落ちている。聖別されていないとはいえ、あれほどのもち米を浴びせられては流石に拙い。焦って帝鐘を大柄の僵尸に向けて構えたその瞬間、下から強かにその手を打ち据えられた。気配を消して忍び寄っていた南蛮少女の一撃。特に鍛えているわけでもない細腕はあっさりと骨を砕かれ、手にしていた帝鐘は宙を舞った。

 

 無様な喘ぎを漏らしながら弧を描く帝鐘を反射的に目で追うと、目を赤く腫らした霊帝が帝鐘に向かって飛び込んでいた。

 

 

 ――――

 

 

 空丹は僵尸の絶叫によって驚愕で身を竦める事で、強引に金縛りから解き放たれた。

 忠臣と陪臣の戦闘から視線をずらし、身の自由を取り戻した原因を探る。すると、放り出された鐘鈴がその目に飛び込んで来た。

 深い考えたがあった訳ではない。しかし、敵があれで散々僵尸を操っているところを見てきたのだ。だから自分も、と反射的に思ったのだ。憎らしい仇から、愛しい忠臣を取り戻すのだと、それだけを願ったのだった。

 

 だから飛び出した。ほんのちょっとの距離、邪魔するものはない。だというのに足がもつれる。本当に情けない。運動が出来ないにも程がある。しかし諦めない。転びかけながらも、その勢いのまま飛び込んだ。地に身を擦りながら両手を伸ばし、落ち行く帝鐘を辛うじて受け止めた。

 敵も味方も皆が空丹に意識を向けた。

 場が硬直する。全員の視線を受けながらそれを意識し、急いで立ち上がろうと片膝を付き、それ以上身を起こすのももどかしく帝鐘を構えた。

 

「黄! あんたは永遠のわたしのものでしょうが!! いつまでそんな醜男に良い様にされてんの!」 

 

 叫びながら帝鐘を勢いよく振った。勢いが付き過ぎて短くカランと鳴っただけだった。

 

「莫迦め! 何の修行もしておらん素人めが手にしたところで何の効力もないわ!」

 

 嘲りを哄笑にのせて道士が叫んだ。冷静に考えれば誰にでもわかる事、しかし空丹にはそれしかなかった。元より何の力も持たぬ身だ。例えそうだとしても、行動を起こさずにはいられなかった。それに、少なくとも敵が僵尸を操れなくなるはずだ。そう自身を納得させようとしたが、敵は哄笑そのままに折れていない方の腕でもう一つの帝鐘を取り出しざまに澄んだ音を響かせた。流石に赶屍だけは熟練の腕を持つ道士。淀みない所作だった。

 それを見たトラが慌てて再度虎侍独鈷を振り上げた。そして、次の瞬間「にゃ?」と固まった。トラだけではない。皆が、誰よりも空丹こそがその動きを止めた。

 それは決して鋭さを伴なっていなかった。寧ろ、のんびりと間延びしていた。それは、道士の嘲りに反論する声だった。

 

「いいえ~、そんな事はありませんよ。術の巧拙などよりも余程、いえいえ、私にとっては至上の効力があります」

 

 十常侍趙忠。虚ろだった瞳に意思の光を宿し、道士に振り返ってにこりと不穏な笑みを向けた。

 

「そ、そんな…何故…?」

「解かりませんか? 愛ですよ、愛。陛下の無尽の愛が私を奈落の闇から救い上げて下さったのです」

「は、莫迦な……」

「おばかさんはぁ、あなたです。よぉ~」

 

 何時の間にか道士の目の前にまで歩み寄っていた空丹の僵尸は、躊躇いもなく喰らい付いた。文字通り、道士の肩口に、大きく開いた咢で齧り付いたのだった。

 聞くに堪えぬ絶叫を上げて道士は抵抗らしき挙動をばたつかせていたが、程無くそれは痙攣に代わり、直ぐに微動だにしなくなった。

 

「ちょっと、黄」

「あ、申し訳ありません、陛下。道士の踊り食いは少々刺激が強過ぎましたね。御目汚し失礼致しました」

「……もう陛下じゃないわ」

 

 呆れる様に声を掛けた空丹に、往時と変わらぬ調子で、しかしかつてならば有り得ぬ言を吐く忠臣。空丹は疲れた様に呟くのが今は精一杯だった。

 

 

 ――――

 

 

 一夜明け、空丹の居室に主だった面々が集っていた。

 現在の部屋の主、空丹。空丹の側仕えを務めるトラ。空丹達を迎えに来た呂子明、療養を兼ねてトラの教師役を務めていた趙伯高と陳元化。そして、日光を避ける様に厚手の外套をすっぽりと被った趙忠。

 

 怪我の具合が思わしくない元化は怪しげに身を隠す僵尸を気にしており、その僵尸が昨晩口にした「陛下」という単語にそわそわしながら空丹を窺う伯高、外套の奥でとろんとした笑み浮かべながら佇む二人が不審になった原因の僵尸、どうしたものかと悩まし気に思案する子明、いつも通りのトラ。

 一同を見回して、空丹は小さく嘆息した。

 

「趙嵩」

「はっ」

 

 空丹の発言に、子明が口を挟もうとしたが視線で制す。空丹と視線を合わせた子明は恭しく引き下がった。

 

「お前の考えている通りよ」

 

 伯高はごくりと息を飲んだ。すぐさま平伏しようとするのを「今の私は蹇寛よ」と制した。その言に、伯高は再び姿勢を正した。

 一人取り残され、もの問いた気な元化に、「少し前までの私は劉姓だったの」と説明した。流石に慶祝の智嚢が見い出した人材だ。その言葉と、直前の友人の様子から答えに至ったようだ。

 

「それで、お前たちはどうする?」

 

 漠然とした問い掛け。それに対し、二人は暫し黙考し、互いに顔を見合わせ頷き合うと神妙に答えた。

 

「我等は厳将軍に忠を誓った身。未だ戦場を共にする事叶わずとも、その誓いに些かの曇りもございません」

「我等は我等の主を信じております故に、御身を主と変わらずにお守り致します」

「そう。蕣華も良い臣下を得たわね」

「勿体無きお言葉」

 

 慶祝の為人(ひととなり)に惚れ込んで幕下に加わったというのは確からしい。二人の態度に納得し、空丹は強く頷いた。

 脇に控える外套の奥から不服そうな気配を感じるが、それはあえて無視して子明に目を向けた。

 

「それじゃ呂蒙。この後はどうすればいいのかしら?」

「はっ、急ぎ蕣華様との合流を果たして頂きたく。元よりその為に馳せ参じまして御座いますれば」

「それって、洛陽に戻るって事よね」

「はい」

「ふむ……」

 

 子明が僅かに心配そうな気配を発しているが、別段洛陽に戻る事に懸念は抱いていない。無論、危険は増すが、慶祝と離れている方が拙いと空丹は感じていた。だが、それは洛陽の慶祝の邸宅に引き籠もる方が良いという訳ではない。それなら此処に居ても変わらない。そうではなく、本当に慶祝の傍に居るべきだ。そう感じていた。理論立てて説明は出来ないが……。

 その為には、色々と必要な事が多い。まずは、一番簡単なところから手を付けていこう。

 

「黄。早速仕事よ」

「はい!」

 

 思案顔のまま声を掛ければ、直前までの不満などどこ吹く風で、失禁しそうなほどの嬉声を上げるこの場で唯一の臣に思わず失笑した。

 

 

 第二十五回――了――

 

 

 ――――

 

 

「く、空丹様……?」

「そうよ。他の誰に見えるのよ?」

 

 言いつつ、してやったりな表情をする蹇寛に、蕣華は微妙な反応を返すのがやっとだった。

 

 巴蜀を目指して進軍する蕣華達は、三輔を出て益州の玄関口・漢中の領域に入った辺りで蹇寛達と再会した。

 翌日には一気に谷越えをする為に早めに野営を整えたその時、子明が先導する一隊は紺碧の厳旗に気付いて無事合流を果たしたのだった。

 自分の幕営で報告を受けて、子敬の懸念は杞憂に終わったかと安堵の息を吐いた蕣華であったが、直後に出迎える前に幕営に入ってきた蹇寛を見て、先の発言に繋がった。しかし、それも致し方ない事だろう。 

 

 光の波のように輝きを散らして背中まで伸ばされていた白菫色の髪は、光を吸い込むような黒檀色になり、おまけに項が露わに成るほど短く刈られていた。極自然に豪奢な衣裳を着こなしていたのに、今その身を包むのは割と地味めな曲裾袍(きょくきょほう)(*229)だ。

 不覚にも一瞬誰だか分らなかった。蹇寛はその反応に満足気に頷く。

 

「流石に洛陽には私の顔を見知っている者も多いのだから、このくらいは当然でしょ?」

「え、ええ、まぁ、はい」

「それと、真名も預けた者は殆ど居ないとはいえ、知ってる奴は知ってるから身内以外が居るところでは禁止よ」

「はっ」

 

 そこまで返事をして、その場に陳元化と趙伯高が同席している事にやっと気付く。動転し過ぎだ。表情には出さず、二人に視線を向けて反応を見てから確認するように蹇寛に視線を戻した。その際、怪しげな外套の人物も気になったが、一先ず脇に置く。

 

「二人には私の判断で明かしたわ」

「そうでしたか」

「ま、緊急事態に陥った所為もあるけどね」

「なんですって?」

 

 杞憂などではなかった。今こうして無事に再会できたから良いようなものの、蹇寛のみならず、トラや子明達にもしもの事があったらと思うと身が震えた。

 

「ま、詳しくは黄に聞きなさい」

「…………え?」

 

 もしもの事態に思考を奪われていると、別の意味で硬直した。誰だって? その真名は確か……。

 

「暫くぶりですね。厳寿さん」

 

 蕣華は畳み掛けられる情報の処理に脳が追い付かず、緩慢な動きで声の方を振り向くと、怪しげな外套を外した趙忠が死後とは思えぬ朗らかな笑顔で立っていた。

 

 

 その夜、ついぞ蕣華は寝る事が出来ぬほど考え込む破目になった。

 

 翌朝、事ある毎に増えたり減ったりする蕣華の陣営に、馬孟起は最早特段の反応を見せる事が無くなるほど慣れていた。

 

 




*224門下督:府の長(この場合は将軍)の護衛隊長。将軍直属の親衛隊や護衛隊の指揮官を務める。門下縁の項では秘書官としての職掌も触れたが、武官としての門下には秘書としての性格はないものとする。

*225法曹参軍:参軍は府属の幕僚職の総称。指揮官補佐、軍議参画、各種使者を務める。西晋末頃から分業化が進み、各部局に分れて各事務を担当した。法曹参軍は主に法律(主に司法・軍法)を掌る。官府における法曹掾は法律に加え駅逓(寧ろこちらが主かもしれない)も掌る。

*226僵尸:中国に伝わる屍鬼。その名は「硬直した死体」を意味する。元は腐敗しない死体を指したとも言われ、死蝋現象によって保存された死体を妖怪化したとする説がある。道教思想における魂魄の魂(精神を支える気)が天に帰り、魄(肉体を支える気)のみで 現世を彷徨う存在とされる。『西遊記』や『閲微草堂筆記』などにも登場し、古くから知られた妖怪である。低位の僵尸は自我と呼べるほどのものはなく、容易く術者の支配下に置かれるが、年経る事で自我を再獲得し、自分の意思で動きだす。更に高位ともなれば、空を飛び、術を操り、最終的には神仙の域にまで達するのだとか。

*227赶屍:僵尸を人為的に作成する術。また、僵尸を使役する術でもある。

*228毛僵:僵尸の位階の一つ。民間伝承では最大十八、怪談集『子不語』では八の位階があり、毛僵は子不語における第四位で生前の記憶の回復、不完全ながらも知能の再獲得、低級の通力の覚醒、毛髪や爪の再生等新陳代謝の回復等、一般的(?)な僵尸の中では元も強力な個体とされる。
伝承では十位の毛尸にあたり、太い毛が生え、流暢に話し、雄の蟋蟀を好んで食べ、後ろに下がる事が出来るとされる。

*229曲裾袍:ワンピースタイプの長衣「袍」の一種。衽の先を腰元に巻きつけて帯で結ぶ。上前身頃が衽先からくの字を描くように曲がっているものを曲裾袍という。真っ直ぐ下に降りているものは直裾袍。袖口は衫に比べれば開いてはいないが、時代と共に広く長くなっていった。裾は足首まで覆うほど長い。

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