桔梗の娘   作:猪飼部

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大変お待たせしました。

予定していた所まで筆を進めると未だ終わりが見えず、文量も相当嵩みそうなので少々無理矢理にキリを付けての投稿です。


第二十六回 鬼謀闇夜

 峻嶮なる山々の間を縫う谷間の閣道が巴蜀へと延々と続く。僻地でありながらよく整備された閣道から見上げれば、両脇を囲む鋭い山峰がまるで天上へ向け掲げられた剣の如くに屹立している。故にこの地は剣門と称される。

 その剣閣道を、洛陽より放たれた数万の軍勢が細く長くうねる龍のように進軍する。西涼の錦に率いられた応龍。その行軍速度は平野であっても迅速と呼べるほどであった。

 今、この閣道の先にある要害剣門関(けんもんかん)を巡って、益州牧伯劉焉と安遠将軍厳顔が関の西十一里の地点で睨み合っている。

 この乱を鎮めんと、龍はその身に二人の娘を抱えて両軍の元を目指し進軍していた。

 

 

 ――――

 

 

 第二十六回 鬼謀闇夜

 

 

 

 剣門関へと続く森と草原がまだらに雑じりあう長く緩い斜面の上方。関を背に布陣するは厳慶祝の母厳顔、字を顕義。真名を桔梗。

 その本陣帷幕に、桔梗の主だった幕僚が揃っていた。

 

「これで三晩連続か」

「あいつら絶対こっちを舐めてやがりますよ!!」

 

 桔梗の確認に、魏文長が憤りも露わに声を荒らげた。

 その理由は明白で、両軍睨み合いが膠着した現状を打破する為か、州牧軍はここ数日連夜にわたって夜襲を掛けて来ていたのだが、此方の警戒が堅いと見るや虚仮の夜襲に切り替えてきたのだ。詰まる所、襲撃の振りだけして少数で騒ぎ立て此方に緊張のみを強いてくるやり口だ。もしもそれが虚仮でなかった場合、被害は甚大なものとなる為、警戒を怠る事も出来ずに兵は日に日に疲弊していた。

 

「そう興奮するでない焔耶。すぐに冷静を欠くのがお主の悪い癖ぞ」

「う…、申し訳ありません」

「さて、未究(みく)よ。星によればこの戦、大事にはならぬとでたのであったな?」

「それは間違いなく。ただ、彼方にも私ほどではなくとも図讖を修めている者がおりますし、私と違って天文を読むのみならず、それを戦に利用する謀智を兼ね備えているとなれば、逆手に取られるやも知れませんね」

「ふむ……」

 

 今は遠く洛陽に仕官している娘の親友の一人周羣(しゅうぐん)、字を仲直(ちゅうちょく)に水を向ければ、淀みなく返事が返ってくる。元より武官でもない彼女がこの場に居合わせているのは、州牧が軍勢を招集したとの急報を受けて自らも将軍府に緊急招集を掛けた直後に、図讖の結果を携えて進言して来たからである。

 

『桔梗様。此度の戦、大事にはならぬと星が瞬いております』

 

 郡堂から将軍府営に移ろうとしたその矢先、郡堂正門前にて待ち構えていた周仲直の第一声に、桔梗はつい瞠目したものである。

 あの時は昼日中であったのだから、当然それよりも前に星を詠んでこの事を知っていたのだろう。前以って知らせるのではなく、事が桔梗の耳に届いてから()()()と待ち構えているあたり、いい性格をしている。文長ならば文句の一つも出たろうが、桔梗はその程度気にも留めぬ。そこまで解かっていての態度であろう。本当にいい性格をしておる。不意討ちの進言からそこまで思い至った桔梗は鷹揚に笑んだものだ。

 仲直としても、桔梗がそのような人物であったからこそ、自邸の天文台から降りで仕官したのだった。

 

「ならば、やはり夜警を疎かにする事はできんな」

 

 出陣前の一幕を回想しつつ、顎に手をやりそう呟けば、軍議に額を突き合わせていた幕僚達が一斉に各々の見解を述べ始めた。

 

「しかし兵達の体力にも限界がありますぞ」

「ここはやはり決戦を!」

「だが敵もこっちが焦れるのを待っているんじゃ?」

「決戦に討って出たところを……、という事か?」

「でもねぇ、そこまで言い始めちゃったら何もできないわよ~?」

「その通り。夜襲を軽視できず、決戦にも出られずでは尻貧ぞ」

「焔耶殿の案に賛成ダ。決戦を挑むべきダ。猪口才な策や罠など押し潰せるのが我等厳軍の強みではないカ!」

 

 いつもの光景、いつもの軍議。桔梗が将軍府を開府以来、幾度もの戦場で繰り返し行われて来た通過儀礼。

 今迄は誰が何を進言しようとも桔梗の一声で全て決まっていた。無論、皆の声に耳を傾けた上で決断してきてはいた。しかし、その判断は概ね桔梗の嗜好に依るところが大きかった。それで通ってきた。このような軍議が必要となる敵は、それまでは西の化外から侵攻してくる異民族相手であり、連中もあまりに複雑な策や大掛かりな罠を仕掛けるような真似をしてこなかったからだ。

 だが今回は違う。同じ漢人同士、それも相手方には鬼謀を巡らす軍師が智恵を振り絞って来ている。これまでのやり方では恐らく負ける。桔梗の将としての直観がそう告げていた。

 

「劉焉軍が図讖を逆手に取るのなら、我が方は夜襲を逆手に取りましょう」

 

 喧々諤々と皆が口論する中、凛とした少女の声が響いた。特に声を張り上げた訳でもなく透き通るようにその場の全員に届いたその声の出元に目を向ければ、牛仔帽を被った少女が帷幕の入り口から落ち着いた歩調で桔梗の前に進み出た。

 

「遅いぞ探花(タンファ)!」

「ごめんなさい、焔耶さん」

 

 新参の幕僚の登場に、文長が声を上げる。他の主だった幕僚は皆揃って居るのに、新顔が遅れてやって来るとは弛んでいる。文長以外の殆どの幕僚が同じように思っていた。

 それに対し新人の少女は特に悪びれるでもなく、ただ素直に謝罪して済ませた。そして桔梗に一礼して下知を待った。

 

「策があると?」

「拙い策ではありますが、此度だけは敵方を嵌める事が出来ましょう」

「うむ、聞こう」

 

 桔梗のその言葉に、顔を上げた少女は朗々と自らの策を語り始めた。

 桔梗は細大漏らさず少女の策を聴き取り、暫し瞑目し充分に吟味した。その間、他の者は誰も口を差し挟まず、少女の策を主に倣って同じように自分達なりに吟味していた。

 瞑目する桔梗から視線を逸らさぬまま周囲の様子を感じ取っていた少女は、良い軍だと心中で微笑んだ。彼女の提案を受けて良かったと、荊州での記憶を少しだけ思い起こした。そこまで昔の事でもないのに、何処か懐かしい記憶の中の女傑とよく似た主君がゆっくりと目を開いた。

 その精悍な美を支える眼差しは本当によく似ている。そして、その瞳の輝きから己が策を用いるのだと早々に確信を得た。出会ったばかりの己の策を疑いもせずに信頼してくれたあの意志の光と本当にそっくりだ。

 少女の確信を桔梗も気取り、最後に一つだけ気になっていた事を尋ねた。

 

「して、その策が此度だけは成功するというその訳はどういう事なのだ?」

「桔梗様はこれまで軍師を傍に置かれませんでした。敵方もそれを承知しております。智恵を出せる存在として未究さんの存在までは掴んでおりますが、そこまでが劉焉軍が握る我が方の最新情報です。敵方の軍師はそこまでしか勘案できずに策を練る事になります」

「つまるところ、お主の存在が抜け落ちておると」

「はい。此度の戦、この徐庶の智謀厳軍に在りという情報一つ分の差で我が方の勝利です」

 

 かつて、桔梗の娘が荊州南部で知己を得た水鏡女学院卒業生は、確かな自信をその樺色の瞳に宿らせてそう断言した。

 

 

 ――――

 

 

 薄く雲が広がり星も疎らな暗天の静謐を喰い破るような陣鐘の噪音(そうおん)と、わざとらしいまでの鬨の声が響く。

 ここ数日繰り返されて来た茶番の幕は、厳顔陣営から即座に放たれて来た火矢による返礼で開けた。間を置かず、戦車を牽く魏司馬に率いられた騎馬隊が闇夜にも構わず突っ込んできた。

 足元も覚束なかろうに迷いのないその突撃は見事の一言。だが、夜襲部隊を率いる劉益州自慢の軍師法正(ほうせい)(*230)には、それの反応も想定内の事であった。ほくそ笑みながら、落ち着いて素早く隊を撤収させる。

 その上で自身は真っ直ぐ帰陣する部隊から離脱し、脇に逸れて草むらに身を隠す。

 

「くそっ! 逃げ足の速い奴等め!!」

 

 見付からぬよう身を縮こまらせながら耳を澄ませば、魏延の悪罵が舌打ちまで明確に聞き取れた。今宵は特に冴えている。己の仕掛けた策の成就が近いのを身体が気取っているのだ。敵勢の忍耐も限界だろう事が手に取るように判る。

 頃合いだ。明晩には更に天を覆う雲が厚くなるだろう。星明かりどころか、月まで隠してくれるに違いない。天も此方に傾いたと見える。とは言え、夜に仕留められるなら僥倖だが、日中の決戦と相成るやもしれぬ。

 どちらであっても勝利は揺るがぬが、出来れば此方の損害が少ない方が良い。

 

 夜襲部隊を取り逃がし、それでも未練がましく暫く付近をうろついていた魏延も、最後に「くそっ」と吐き捨てて撤収していった。

 敵が去り周囲に静寂満ちて尚暫しの間、法正はその場に身を潜ませていた。そして、十分な時間の経過を以って漸く立ち上がり、それでも静かに周囲への警戒を怠らずに立ち去った。

 

 

 ――――

 

 

 曇天の朝。劉焉軍は全軍を上げて見事な陣を布いて厳顔軍と対峙した。

 守りを主体とした分厚い陣容。攻めに逸っては決して抜く事は叶うまいと一目で知れる。

 それでも厳顔軍から一部突出して来た。やはりというか、魏延率いる部であった。流石に昨夜と違い、魏延麾下のみではなく、同気質の猛将の隊も続いているが……。

 いよいよ猪共の抑えが効かなくなってきたようだ。

 安遠将軍は決戦を避けた。周羣の図讖に信を置いているのだろう。更に此方が守りをこれでもかと固めたのを見て、無理攻めは禁物であると判断した。それでも一部の猪突共がこのままでは収まらぬと、発散の機会を与えた。そんな所だろう。

 此方が敗走するであろう魏延達を無理に追撃する気がないところまで読まれている。流石に歴戦の将といったところか。

 

 結局、魏延率いる厳軍の一部は午後の半ばまで暴れ回って撤退した。

 最初の勢いは拒馬と重装盾兵、その背後に配した弓兵によって出鼻を挫いたが、それでも散発的に繰り返される突撃に、想定以上に兵を削られた。益州一の猛将の評価は伊達ではなかった。相手の呼吸に合わせて陣の入れ替えが滞れば、一気に持っていかれたかも知れない。突撃と後退の呼吸が読み易くて助かったが、全く以って忌々しい。正面からやり合えば簡単に押し潰されてしまうだろう。地力の違いをまざまざと見せ付けられた。

 まぁ、いいさ。それでも勝つのは我等なのだから。

 

 

 ――――

 

 

 星一つ見えない深夜。今宵、この前哨戦が決する。そう、これは所詮前哨戦なのだ。劉君郎の野望の為の第一歩に過ぎない。故にこれ以上時を浪費する訳にはいかない。我等には時間が無いのだ。

 法正は不断の決意を以って暗夜の決戦に臨んだ。だが、それは本人の自覚しない焦りを含んだものであった。

 

 真闇の中、静かに進軍する劉焉軍第一陣が、前方にぼんやりと浮かぶ明かりを捉えた。厳顔軍本陣の篝火だ。明かりの周囲に僅かな歩哨の姿があるが、それ以外には敵陣は静まり返っており、ここ数日見受けられた警戒を感じさせない。日中での此方のあまりの攻め気の無さに、流石に緩んだか。第一陣を構成する東州兵を率いる趙韙(ちょうい)(*231)は、にやりと口の端を上げた。

 息を潜めるのはこれくらいで十分だろう。後は一気に敵陣に雪崩れ込み蹂躙するのみだ。さっと手を上げ、血気鋭く号令を発した。

 闇夜の冷たい空気が怒号に震えた。

 号令一下解き放たれた東州兵は、意気を上げ厳顔軍陣営に突入した。突如の怒号に震えあがった歩哨は、脇目も振らずに陣営奥へと逃げ出してしまった。精強で知られる敵兵のそんな様に、夜襲兵の軍気は更に盛り上がった。策の成功と、戦の勝利を、誰もが確信した。誰も疑問を持たなかった。精強な厳兵が、奇襲を受けたからといって敵襲を知らせる事もなく逃亡するだろうかと。

 焦れていたのは劉焉軍も同様だったのだ。時間を掛けて丁寧に積み上げた策の全貌を知る事の出来る兵卒など居る筈もなく、軍師の思惑を読み取ろうとする者など居るわけもない。ただ、今夜で決着が付くとだけ知らされた。

 やっと終わる。その想いで夜襲を掛けて早々に敵の逃亡という判り易い自軍の勝勢を見せられて、冷静な判断を下せる兵卒など居なかった。

 こうして、劉焉軍第一陣は勢いに任せて厳顔軍本営に雪崩れ込んだ。

 

 なんの障害もなくあっさりと陣奥まで突入する自軍の波に乗り、趙韙も突き進む。そして、敵営に突入するや直ぐに違和感に気付いた。余りの手応えの無さに馬を止め兵に確認を促そうとした矢先、先鋒隊の兵らが報告にやってきた。その時点で夜襲が失敗した事が判ってしまった。同時に信じたくないという逡巡があった。だから敵営内がもぬけの殻との報告を実際に聞き及んだとき、狼狽えてしまった。それは波紋のように麾下に伝わり、全体の動きを鈍くする呪縛と化す。

 尚悪いことに、完全にもぬけの殻というわけではなかった。極少数ではあるが、厳軍本営には今夜の夜襲に対する戦力が息を潜めて趙韙を待っていた。

 

「やっと来たか。全く待ちくたびれたぞ」

「?! お、お前は……」

 

 趙韙が焦る心情のまま撤退を指示しようとした時、それを見計らったように近くにある天幕の一つから一人の人物が姿を現した。

 

「探花の働きを認めないわけにはいかないな。本当にワタシの目と鼻の先で足を止めるとは思わなかった」

 

 独り言をつぶやきながら悠々と趙韙の前に姿を現したのは、誰あろう益州一の猛将魏文長その人であった。

 

 

 ――――

 

 

 嵌められた! そう判断した法正の動きは早かった。

 一切の逡巡も未練もなく、即座に撤退を指示したのだ。内心の焦りも怒りも全て呑み込んで、被害を最小限に抑える為に、無理矢理にでも毅然とした態度で以って軍を率いた。

 第一陣が難なく厳軍本営に雪崩れ込んだまでは良かった。しかし、そこから鬨の声のみで悲鳴も剣戟も響いてこなかった時点で、法正は自身が率いる第二陣に停止命令を出した。

 何故分かった? そう思考しながら、周囲への警戒と偵察と命じる。此方が仕掛ける機を完全に読んだというのか? 歴戦の将のみが持つ勘? いや待て……。

 日中の魏延の攻撃。あれも計算の内か? あれが暴走ではないとしたら? そこに至った時、法正は偵察が戻るのを待たずに撤退を命じた。

 と同時に、周囲に伏していた厳軍が闇夜を劈く怒号を上げた。

 

 くそぅっ、矢張り軍師か! いつ召し抱えた?! 心中で毒づきながらも法正の指揮は的確だった。油断と慢心と、そして焦りを自覚しながら完全に敵に囲まれる前に軍を退いた。策を見破られ罠に嵌ったとは思えぬ法正の冷静な指揮、荒れ狂う内心を理性で無理矢理に抑えたそれによって、彼女の率いる第二陣はそれほどの被害を被ることなく撤退して見せた。

 だが、敵本営に侵入した第一陣ばかりは相当の被害を被った。退却を指揮する最中ですでに法正はそれを予想していた。第一陣の見るに堪えぬ混乱ぶりを遠目に確認した時、部将である趙韙が討たれる可能性が高いと見ていたのだ。

 屈辱的な撤退戦の最中でも法正の軍師としての思考は止まらない。第一陣の惨状、埋伏していた敵軍の見事な配置、追撃の引き際、自軍の士気の崩れ具合、地勢の洗い出し、主君の悲願と現状……。明るい材料が見当たらずとも、彼女の心が折れる事だけはなかった。

 

 

 ――――

 

 

 埋伏していた厳顔軍は動揺する劉焉軍を容赦なく叩きのめす。だがそれも長くは続かない。動揺が収まった訳ではないが、それでも統率を失わずに劉焉軍が退却し出したからだ。

 策を巡らし罠に嵌めた。そう思っていた側が、逆に自分達こそが嵌められたのだと認識した時の衝撃と動揺は生半可なものではない。であるにも関わらず、ある程度の秩序を保ったまま退却戦に移行した劉焉軍に、桔梗は感嘆の息を吐いた。

 

「敵も然る者よな」

「劉焉以外にあれほど彼の軍を統率しうるのは、おそらくは法正の手際かと」

「ふむ、相手方の軍師か。指揮まで一級以上にこなすとは、天晴れと言うほかないな」

 

 脇に控える軍師の言に、愉し気に敵を称賛する桔梗。

 撃滅に固執せず、敵勢を追い遣る事に重点を置くよう指示を下し、桔梗は横に立つ徐元直に顔を向けた。

 

「さて、軍師殿。次の一手、どう打つ?」

「明日の午前まで兵を休め、昼に総攻撃を掛けます。陣内に取り残された劉焉兵も捕虜にするのではなく、そのまま追い散らせるようお願いします」

「容赦がないな」

 

 軍師の進言に笑いながら応じる。言葉とは裏腹に、明日の決戦が簡単なものにはならないと感じたが故に浮かんだ笑み。

 撤退した第二陣は勿論、敗走した第一陣は相手にとって大きな枷になるだろう。明日の劉焉軍の士気は見るに哀れなものとなる筈だ。しかし、あの劉君郎とその懐刀であれば、容易い相手とはなるまい。多少敵将を知り、また此度の戦でその智嚢の力量を知った桔梗は、だからこそ喜悦を含んだ戦者の笑みを浮かべたのだ。

 

「座して運命に隷属する気にはなれませんから」

 

 桔梗の反応に、元直はそう返した。その応答に、桔梗は仲直の図讖を思い出した。

 

「お主はこの局面から更に踏み込んだ一手を投じながらも、未究めの図讖が的中すると考えておるのだな」

「いえ、そこまで確信がある訳ではありません。ただ、もしも天意というものがあったとして、人はそれに対しただ従順で在るべきではないと考えているだけなんです。……私達は、象棋の駒ではないのですから」

 

 そう漏らした元直の言葉に、今は遠い空の下に在る娘を想った。

 天命や天意といった思想に忌避感を、いやもっと直接的に否定の感情を向けていたものだ。思えば、図讖家である仲直と真名を交わすほどの親交を持ったのも奇妙な巡り合わせだ。仲直の性格からすれば、だからこそ娘に興味を持ったのだろう。娘の方も、……あれもああ見えて変わったところがあるからな。と、一人納得した。

 

 天命か。天命と言えば……、

 

 桔梗の脳裏に続いて浮かんだのは、天命という見えない何かに縛られているかのような肩書を背負わされた男子だった。

 御遣いの少年は首尾よく娘に会えただろうか。中央で将軍となり、漢中で起こった叛乱に派遣された事は桔梗の耳にも入っていた。会えたかどうかは時期的に微妙なところだ。その後も京師に戻ることなく涼州に赴いたらしい。今頃は韓遂相手に奮戦しているところだろうか。こちらも劉焉の動向に神経を張っていたので、確認する暇もなかった。

 

 桔梗は何故だか、自らの下に光臨した少年と娘を引き合わせようと思った。少年の事が気に入ったというのもある。娘が年頃になったという理由も大きい。だが、それだけではないような気が、今になってしてきていた。言葉にできない領域で働く意志決定の一部分。戦での勘働きは我ながら鋭い方だと思っているが、こういった方面で発揮された覚えはあまりない。だがこれは女の、いやさ母の勘というものか。

 ……もしかすれば、これが天意というものなのかも知れんな。

 そんな益体もない事を考えながら桔梗の口をついて出たのは、年若い男女の事ではなかった。いや、或いは、それも含んでいたかもしれない。

 

「我等は天意を越える事が出来るかの?」

「……判りません。ただ、私達に出来るのは眼前の現実に全力を尽くすくらいのものでしょう」

「そうさな。それに、例え全ては天の思惑の内に終着するのだとしても、その過程を疎かにする言い訳にはならぬしな」

「はい」

 

 天の意を飛び出すにしろ、内に収まるにしろ、己の為すべき事を成した結果であれば納得もいくというものだ。

 兵の撤収と翌昼までの休息を指示しながら、桔梗は天命に対する己の答えを得た。

 

 

 ――――

 

 

「流石に出てきおったか」 

 

 中天の太陽を被隠すように厚く垂れ込める鈍色の雲からは少々拍子抜けな小雨の降る中、桔梗は対面する軍勢を強く、それでいてどこか嬉し気に睨みつけながら呟いた。

 鋭い視線のその先には、敵将を示す劉の牙門旗が翻っていた。

 この戦が始まって以来、後曲に引っ込み敵前にその姿を現す事のなかった敵総大将劉焉。それがこの決戦の場で先鋒に陣取り、その存在を以って自軍を鼓舞していた。

 

「見事なものではあるが……」

 

 それにしても動きが鈍い。死に掛けの軍勢に覇気を与える程の器量を持っていながら、今迄後方でまごまごしていた理由が解からない。

 そもそも、今回のこの叛乱自体、桔梗には違和感があった。

 劉君郎とは全く知らない仲ではない。数は少ないが共に氐蛮討伐で肩を並べた事もある。一度などは彼方の陣幕で一献酌み交わした事もあった。

 その時にも己の野心を隠そうともしなかった豪胆な女だったが、慎重さや狡猾さが欠けている訳でもなかった。

 他地方で乱が起きたからといって、ただその流れに乗るだけの軽挙に及ぶ人物とは思えなかった。かと思えば、この戦場での鈍さ。焦ったかのような挙兵から、尻込みでもしているかのような陣取り。

 何があったのか?

 

「この桔梗を軍門に下らしめると宣したお主は何処へ消えた?」

 

 酒の席でまず益州を完全に掌握すると、己の王国を築いてみせると息巻いていた。そうはさせぬと応じれば、戦にて雌雄を決し、自分を幕下に加えてみせると胸を叩いて宣言した奸雄。

 しかし、現実には益州掌握は未だ整っておらず、漢中は中央の影響力を増している。いざ事を起こしてみれば、自分を避ける様に急いで司隷を目指し、そうはさせじと立ちはだかれば戦は臣下任せときた。

 考えれば考えるほどに解せぬ事ばかりだ。

 

 その時、雨音を押し退ける大軍の気配が後方北寄りから響いてきた。敵か味方か、などと問う必要もない。禁軍に決まっている。自軍の後方には剣門関があり、そこを通り抜けてきたのは明白。我が軍を迂回して厳劉両軍の間に立つつもりだろう。と考えてる間に雨脚をものともしない進軍速度で桔梗達の中間北方の位置に展開した。

 速い。だが、その先頭に翻る新緑の馬旗を見ればすぐに得心がいく。それよりも、桔梗の目を奪ったのはその左斜め後方に棚引く紺碧の厳旗であった。

 桔梗の視線が娘の軍旗に釘付けされている間に、一人の騎馬武者が威風堂々と進み出て両軍を睨みつけた。そして、場を圧する軍気を大喝に乗せて、たった一騎で両陣営を制してみせた。

 

「我は左将軍(さしょうぐん)馬超! 双方ともに軍を退けぃ!! これは陛下の御意志! 勅令である!!!」

 

 錦馬超の宣言。それは中央の判断が征伐ではなく、停戦を選択したものであった。

 改めて視線を左将軍に向ける途中、馬旗を挟んだ厳旗の向こう側に劉旗を認めて、互いの子女まで引っ張り出して事を治めようとする洛陽の姿勢に桔梗は肩の力を抜いた。

 

 結局のところ、此度の叛乱劇は天の意の内に収束するのであった。

 

 

 第二十六回――了――

 

 

 ――――

 

 

 某州某郡。郡太守官衙中枢、便坐の一画を足早に進む女が一人。豪奢と華美を掛け合わせて彩られた派手な女性が、やや優雅さに欠けた足取りで声を張り上げている。

 

真直(マァチ)さん? 真直さん!! 何処に居らっしゃいますの?」

「はいぃ、! 麗羽(れいは)様、お呼びでしょうか?」

 

 真名を大声で呼ばれていた女性が、稟書房の一画から慌てて姿を現し主人の前に馳せ参じた。

 

「ああ、そんな所に居ましたの」

「そんな所って、稟議書の選定・決裁はいつも……」

「そんな事はどうでも宜しいですわ」

「そ、そんな事……」

 

 あまりの言い様に、目の前の主君が真面に働かない所為で全ての苦労を背負い込んでいると言っても過言でない女は、二の句も告げない。そんな女の様子に全く気付かず、或いは気にも掛けずに黄金色の髪を振り乱して、傲然な主たる女は声を更に荒らげた。口を開く度に興奮が増しているようだ。

 

「そ・れ・よ・り・も!」

「は、はいっ! なんでしょう?」

「あなた、この間、恐ろしく貧相で華麗の華の字の始めの一画も無いくせに、書だけは素晴らしい殿方を召し抱えましたわよね」

「あ、あの、麗羽様。流石に少し言い過ぎではないかと……」

「なに言ってますの? このわたくしが褒めて差し上げてますよの? 優雅さの欠片もない男性を」

「あ、はい。 それで、その者がなにか?」

「そうですわ! その者に檄文を書かせるのです!!」

「は? 檄文、ですか? そ、それはどのような?」

 

 嫌な予感がする。と言うよりも、嫌な予感しかしない。腹心の女は背に流れる生温い汗の不快感を無視して訊ねた。

 

「決まってますわ!! あの、にっくき! 田舎の泥棒猫!! 董卓誅滅の檄文ですわ!!!」

「…………え、えぇえー!!?」

 

 大陸の安寧には未だ遠い。

 

 




*230法正:司隷扶風郡郿県(びけん)出身の軍師、政治家。飢饉を避けて益州へ逃れ、はじめ劉璋に仕えた。しかし常々その器に不満を持っており、劉備と会見した時、劉備を君主として迎え入らんと益州簒奪を進言した。劉備入蜀後、蜀郡太守・揚武将軍に任じらるなど重用された。劉備が漢中王に就くと尚書令・護軍将軍に昇進したが、翌年に病没した。小さな恨みも忘れずに必ず復讐を果たすなど、人格面での問題が大きかったが、諸葛亮でもそれを諫める事が出来なかったと言われる。

*231趙韙:益州巴西郡安漢県出身の政治家。華陽国志によれば名は趙穎(ちょうえい)とも。元は中央で太倉令の務めていたが、劉焉が益州牧に任官すると官を棄て彼に従って益州入りし、帳下司馬となった。劉焉が没すると、王商らと劉璋を擁立した。劉璋は東州兵が益州人との間に問題を起こしても取り締まることができなかった。そこで人心を得ていた趙韙に一任した。時が経るに従って劉璋に進言が用いられぬようになり遂に叛逆する。対立していた劉表と結び、州内の豪族を取り込み、蜀・広漢・犍為三郡が彼に呼応した。一時、劉璋を追い詰めるが、配下の龐楽・李異らの裏切りに遭い、斬殺された。

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