桔梗の娘   作:猪飼部

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焔耶との交流に乏しかったので会話シーンが欲しいなぁ、と簡単な挿話を入れるだけつもりが何時の間にかこんな事に……。
 
 


第四回 暢飲歓宴

 江州県城の中央付近にある厳顔邸は元は厳顯義の夫の持ち家だったが、夫の死後、顯義が相続し厳邸となった。しかし今は主に便坐(べんざ)(*69)に居住しており、この広い邸には一人娘が義理の姉と十五名の従僕と三十三名の警護と共に暮らしている。

 元々、地元民で自邸も官衙(かんが)(*70)に程近く、公邸の模様替えには公費が充てられることもあって、顯義は自邸から出仕する積りであったが、任官直後から目の回るような忙しさに少しの時間も惜しんで便坐に寝泊まりする機会が増え、結局は仕事上の利便性から其処に住まうようになった。それでも公務に余裕があれば数日に一度、どれだけ忙しくとも十日に一度は私邸に帰り娘と過ごしている。

 

 そんな事情の元、基本的に蕣華が切り盛りしている厳邸は非常に広い。広大な敷地は二重の門壁に囲まれており、南門が正門。第一門には小さいながらも門楼があり、門衛の詰所にもなっている。門の内側には厩舎も備えられている。門を潜ると広い庭園になっており、程良く手入れの行き届いた庭木に小さな池や水路、凉亭(りょうてい)(*71)などが点在する。

 また、第一門壁四隅の一角には門壁内側に沿うように警護兵の寮と馬丁や園丁の寮が建てられている。

 庭園を抜けた先に第二門、その奥は回廊に囲まれた大小の堂からなる邸がある。堂の半分は二階建てで、中央の一際大きな堂が本邸。奥に厨房や倉に厠、修練場に中庭、菜園まである。県内でも有数の豪邸であった。

 厳顯義の亡き夫君が新婚の折、奮発して親族から買い上げた新居は十年以上経った今、厳家の者達にとって掛け替えのない生活の、そして人生の一部となっていた。

 

 

 ――――

 

 

 

 第四回 暢飲(ちょういん)歓宴(かんえん)

 

 

 

 董和――鋼――が厳邸に着いたのは夕刻が訪れようかという頃合いだった。

 門内の厩舎に愛犬達を預け、いつもの家僮(かどう)(*72)に案内されて庭園にある凉亭へ足を運ぶと、厳家の二人娘が熱く議論を交わしていた。

 

「で、長安さえ()れれば、一気呵成に洛陽まで……」

「いけいけ過ぎだって。長安はそれで落せても兵が持たないでしょ」

「でも時間を掛ければ体勢を整えられてしまうじゃないか。同じだけ時間があれば此方も同程度の戦力強化が、って訳にはいかないんだぞ」

「それはそうだけど、焔耶姐の計画じゃ補給線だってままならないよ」

「いざとなったら現地調達だな。それでも足りずとも洛陽を落とせばたらふく食えるだろ」

「いきなり決戦仕様の死兵とか絶対兵が付いていかないよ。あと洛陽の蔵に期待かけ過ぎない方が良いと思うよ」

 

 思わず周囲を見回すが、凉亭内やその脇にも控えている者は居らず、自分を庭まで案内してきた家僮も既に下がっており、庭のあちこちで従僕達が忙しなく働く姿が見えるが近くには誰も居なかった。冷や汗を垂らしながら二人に近づき声を掛ける。

 

「何を物騒な軍略を練っているんだ」

「鋼」よっ、と軽く手を挙げながら慶祝が友を出迎えた。

「いや、違うぞ。劉州牧は矢張り天下を狙っているのか?って話をしてただけでだな……」文長が弁明するが、

「それでも十分不穏ですよ」

「で、鋼ならどうする?」

「私に振るな。第一、何故益州牧の野望の話で自分達が洛陽攻めする事になっているんだ」

 

 勧められた席に着きながら、呆れ顔で話に加わる。慶祝が手ずから茶(ご丁寧に竹叶青が用意されていた)を淹れながら尚気軽く続ける。

 

「まぁまぁ、ただの思考実験だよ」

「気軽に扱う題材じゃないだろう。それに私に軍略を問われてもな。……矢張り、長安で地歩を固めて洛陽に揺さぶりをかけるかな」

「流石に長安は喉元過ぎるからね、諸侯に弱った姿を見せられない。なんて見栄を張る余裕もなく討伐軍が列を成すんじゃない? 能々(よくよく)考えると策源地としては全くの不向きだよね、函谷関(かんこくかん)まで落とせるなら話は変わってくるだろうけど」

「むぅ、確かにそうだなぁ。しかし、討伐に諸侯軍を使うなら列を成す何て事せず大軍を組織して討伐に出すぞ、ワタシなら」

「しかし一度は中央官軍のみで討伐軍を編成するのでは?」

「だとしても相手にもならないだろうなぁ」 

 

 両手を頭の後ろに組みながら文長が誰に言うともなく呟いた。想定しているのは劉焉軍対中央官軍であろうか? それとも……、鋼は怖くなってその思考を打ち切った。

 どちらにせよ、確かに中央軍では相手にならないだろう。精強な異民族軍と幾度も事を構えている益州軍だ。厳軍も賊征伐が主となってきたとはいえ、異民族との戦闘が全く途絶えた訳でもない。練度も実戦経験も士気も何もかも中央軍に劣る物など無いだろう。となれば、次に構えるのは諸侯連合軍か。それに対するとなると……、

 

「体よく連合諸侯雄飛の贄になるだけか」意識せず言葉が漏れた。

「贄、か」神妙な顔で慶祝が続いた。

「王朝の弱体を見せ付ける事になるからなぁ。益州軍を退けた後は諸侯の喰い合いか、ありそうな話だな」

「そうなると、劉州牧はそんな貧乏籤を引くでしょうか? 寧ろ、逸った誰かが贄になるのを待つのでは」

「それじゃ、ワタシ達の想定は端から大的外れかよ」

 

 ぐったりといった感で茶桌(ちゃたく)に身を投げ出す文長に、愉しそうに慶祝が後を続けた。

 

「それなりに有意義だったしいいじゃない。取り敢えず、焔耶姐に全軍を預けるのは危険だと解っただけでも収穫でしょ」

「なんだとこのやろー」

「だって焔耶姐の想定は全軍焔耶姐じゃなきゃ通じないよ。そりゃ、焔耶姐ばかり一万でも揃えれば無敵の軍団ができるだろうけ、ど……ぷふっ」

「吹きながら言うなっ!」

 

 言いながら迂闊にも地を埋め尽くす魏文長の軍勢を想像してしまい堪らず吹き出した慶祝の頭を、文長がさっと捉えて脇に抱えて締め上げた。

 

「痛たた!? ごめっ!降参、降参!!」

 

 仲睦まじくじゃれ合う義理の姉妹を微笑ましく眺めながら、妹分の方が淹れてくれた緑茶を味わうこと暫し、生温い視線に気付いたのか、じゃれ合いを止め居住まいを正す二人であった。そんな義姉妹の様子を眺めながら、ふと気になっていた事が口を衝いて出た。

 

「劉益州牧の戦略が“待ち”だとすると、益州は今暫しは静かだろうか」

「待ちと言うか、私としては天下獲りよりも益州独立の方が有りそうだと思うけどね。どっちかと言えば、だけど」

「なんか今とあまり変わらないなそれだと」

「上計も三年は誤魔化せるしね」

 

 代々そうではあるが、特に今上帝劉宏は中央以外は目もくれない皇帝である。地方政府の思惑など想像しようとする気すら起こらないだろう。周囲を固める宦官も同様だ。中央さえ、より正確に言えば自分達の生活圏という酷く狭い範囲が安泰でさえあればそれで良いのだ。諸地方など搾取されるだけの田舎に過ぎない。そんな驕りと侮りと無知と無能の吹き溜まり。世が乱れるのは当然だ。

 地方であればあるほど、中央から遠く人も物資も情報も遣り取りが薄くなる地方であるほどに、そんな中央の態度を敏感に感じ取っている。独自判断の元に行動を決定する地方官僚が現れるのは自然の成り行きと言うものだ。

 だから劉君郎は望んで中央官僚から地方官へと転身して来たのだ。そう考えると……

 

「成る程、防衛には向いた土地だな」

 

 一人頷くと、その呟きに合わせたわけでもなかろうが拍子良く庭火が灯された。日が落ちる前に到着してよかったと、何気なく篝火に目を向けると庭院の其処ら中に火の明かりが見えた。

 

「やけに多くないか?」

「ああ、母上に話したら郡府の皆呼んで酒宴を開く事になったから」

「そうなると、今度は酒が足らなくないか?」

「土産の酒だけだと流石にね。だから家の倉も開放するよ。臘賜(ろうちょう)(*73)、臘賜」

臘日(ろうじつ)は過ぎたろう」

 

 臘賜という大袈裟な表現に思わず失笑しながら成る程と改めて庭を見回す。庭園中、幾つもの庭火に囲まれるように多くの大鍋が用意されていた。郡府官吏は吏卒まで含めれば百を超える。宿直勤務や私事などで全員もれなく集まるわけではないだろうが、今夜もまた賑やかな酒宴となりそうだ。

 厳太守は時折こうして郡府や将軍府、或いはまた県府の官を上から下まで皆々集めて酒宴を開いた。無類の酒好きで知られる厳顯義ならではともいえるが、これには年俸百石に満たぬ斗食(としょく)(*74)左史(さし)(*75)などの吏卒に対する施しの意味も大きかった。

 

 

 ――――

 

 

 桔梗は太守に任命された時、二つの大きな方針を定めた。それはこの時代の政の二本柱に関わる方針であった。後漢時代の政二本柱、即ち、『足の引っ張り合い』と『汚職』である。

 

 桔梗はただでさえ本来有り得ぬ本籍地への太守任官である。普通に考えれば、周囲悉くを一族の者で固めてしまえば足を引っ張られる心配は随分と減るだろう。しかし、だからこそある事ない事中央に吹き込まれる隙ともなる。

 そもそも、本当に厳氏で属吏を固めてしまえば、如何に桔梗が清廉を貫こうとも汚職が蔓延るのは目に見えている。権力は常に人を誘引する。負の面に引き摺られ歪みを生じる人のなんと多い事か。そうなってしまえば、厳然とある事として中央に上表されてしまう。郡府を掌握できても、郡を監察する部郡(ぶぐん)従事(じゅうじ)(*76)は州の属吏である。こういった外部の目も賄賂によって視界を塞ぐ事は珍しくもないが、桔梗が斯様な手段を取る筈もない。

 故に、桔梗は宣言した。 

「一族の者であろうと能無くば任用せず、罪あれば容赦なく此れを断ず」

 はじめ、人々はその発言を見せ掛けと判断した。郡別駕(ぐんべつが)(*77)郡主簿(ぐんしゅぼ)(*78)こそ安漢(あんかん)趙氏の趙筰(ちょうさく)(*79)充国(じゅうこく)張氏の張納(ちょうのう)(*80)を任命したが、人事を掌握する功曹掾に同族の厳霸を充てたからである。

 しかし、郡少府(ぐんしょうふ)(*81)に任命された厳氏の若手が不正を働いた時、その認識は改められた。

 その郡吏は厳氏の中でも若く将来を嘱望されていた。手を出した不正も、見逃されても特に弾劾が起こるようなものでもなく、不満が募る程でもない取るに足らない微罪であった。この時代、この大陸の官僚であれば問題にする者の方が少ないであろうその罪を以って太守厳顔は断罪した。

 これに厳氏の者は驚愕し、桔梗に詰め寄った。だが、厳奉霆を除く一族の者共は桔梗の事をどうやら理解していなかった。桔梗はそんな一族に怒気を孕ませ一喝した。

『一族の者であろうと能無くば任用せず、罪あれば容赦なく此れを断ず』

 

「そう言ったな? 主ら、耳でも遠くなったか、それとも脳を失ったか?」

 

 厳氏きっての豪傑厳顔の睨みに抗せる者などいなかった。普段、少なからずその威名を身に浴している者共が、まさか自分達がその眼光に曝されるとは夢にも思っていなかったようだ。こうして厳氏は当初夢想していた権勢を誇る事無く襟を正すようになった。

 元郡小府を推挙した奉霆自身が粛々と従っていた事も大きかった。そもそも、奉霆は件の若者がその才幹と評判から次第に尊大な態度が表に出始めていたからこそ郡小府に充てたのだった。重責に態度を今一度改めるならば良し、そうでなければ今度は桔梗の出方を見定める丁度良い試金石であった。果たして桔梗は奉霆自らの手で報告を受けると即座に小府の元へ飛んでいった。

 その行動は予想通りではあったが、多少は此方の思惑に気付く気配はないものかと僅かばかり期待していたのだがそれもなかった。余りに実直過ぎる新太守の遠ざかる背中を眺めながら、それを支える苦労を楽しみにしている功曹掾の内心を知る者は居なかった。

 こうして足の引っ張り合いに対する方針である一族への対応は称嘆を持って迎えられた。

 

 より根深く厄介な汚職への方針は単純明快であり、特に汚職の代表格たる賄賂に対して厳正なる態度でもって挑んだ。これには吏卒が悲鳴を上げた。

 清流派などと気取っている名士共も賄賂はしっかり取る。いわんや吏卒が取らぬ筈がない。

 賄賂を取らぬ。たったそれだけの、本来ならば当たり前だと言えることだけでも世の称賛の的となる程、この国の官吏と賄賂の間には切っても切り離せぬ深い根が張っていた。その問題の根底の一つ――無論、全てではないが――に吏卒達の低給があるのは間違いないだろう。

 厳顯義の様な高級官僚が一切の賄賂を断って清廉であろうとする事は難しくない(その割にそのような人物が少数である事実が問題の根の深さをよく顕わしている)。それは高潔な人物である以上に、高給取りである事が挙げられる。元々、豪族の中でも格式の高い家の出でもあり、賄賂など取らずとも十分な財があるのだ。私腹を肥やす事に興味がなければ、実際必要ないのだ。

 しかし、下級官吏達にとっては死活問題であった。何せ彼等の俸禄は低い。とてもそれだけでは生活は立ち行かない。比喩でもなんでもなく彼等にとっては賄賂は生命線だったのだ。

 

 兵糧を算出する時、兵一人辺り一日五升(穀約1L)(*82)を消費するとして計算する。一石(約20L)(*83)は百升、つまり一石で二十日分の食糧となる。

 斗食の月俸は十一石(穀約220L)、左史は八石(穀約160L)である。実際の支給は半穀半銭でそれぞれ、三.三(穀約66L)石五百銭と二.四(穀約48L)石四百銭。(*84)(因みに桔梗は太守の月俸分だけで三十六(穀約720L)石六千銭)

 単純化された計算ではあるが、実際左史などは独り身でならばなんとか食っていける程度である。収入の全てを食費に充てるなど現実的とは言えない。最低限の生活費以外にも色々と出費が嵩むものだ。人付き合いが重要な社会での吝嗇は道を狭め、また、上を目指すならば勉学は必須でありそれにも金が掛かる。血縁の乏しい単家でもあったらなら目も当てられぬ困窮ぶりを発揮する事請け合いである。

 このような状況では手数料と称する民衆からの搾取を賄賂と認識していない者すらいる始末である。

 

 これに対し桔梗は元々将軍であり太守を加官され、更に氐族侵攻を防いだ功により関内侯(かんだいこう)(*85)に封じられていた。その俸禄たるや官秩合わせて四千石と田宅九十五頃(約3.02㎢)(*86)分の租税である。更にここに先代から受け継いだ荘園収入が加わる。

 桔梗はこの有り余る余財を吏卒を中心に分け与えた。折に触れて披かれる酒宴なども、単純に愉しむ為や官吏同士の連帯を強める目的などもあるが、生活が困窮しがちな吏卒達の実際的な救済策の一面があった。

 豪族として生まれ育った桔梗にとっては、土地で困窮している貧民を救済するのは至極当然の事であった。その範囲が今は郡属吏や軍兵にまで及んだだけの事であった。

 

 そう、桔梗の育んできた倫理からすれば当然の行動だった。

 

 短期間で土地から去っていく標準的な中央官が地方でやる事と言えば、程度の差はあれどまず第一に搾取である。桔梗が太守となる契機となった板楯の乱も、当時の太守や刺史が私腹を肥やす為に搾取に勤しんだ結果、対象を板楯族にまで広げ取り返しのつかない事態を招いたのだ。あの時の叛乱で暴れ回ったのは板楯人だったが、不満を溜めていたのは益州人も同様であった。

 土地に根付いた豪族はそのような無法は働かない。そのようなを事すれば地元民の憎悪が集約し、他の豪族が立ち上がり、その地方から排除されてしまうだろう。寧ろ、本来官吏がすべき救済を行い、農政を布き、治安を担った。中央の管理下にある戸籍から農民が消え、豪族の運営する荘園が繁栄する背景がここにある。豪族が問題視され、中央に不服従を示すのはそもそもこのような問題が恒常的に発生していた事情も大きかった。

 

 ともあれ、桔梗が私財を惜しみなく分け与え、善政に努め、厳正なる態度で臨んだ事から、皆汚職を恥じ入るようになり巴郡は近年にない程良く治まった。

 

 

 ――――

 

 

「蕣華様、皆様お見えになりました」

「わかった、今行く」

 

 庭中の大鍋から良い匂いが漂い出した頃合い、未だ凉亭にて三人で歓談していたところ、家宰(*87)に呼ばれ客を出迎えに向かう。正門に向かいながら来客の確認を行う。

 

「どなたが来られた?」

「趙別駕従事様と厳功曹掾様で御座います。郡吏の皆様方を引き連れて御出でです。それと、」

「ん?」

「黄県令様もいらっしゃいました」

夜明(イェミン)小母様が?」

 

 今宵は郡吏を呼んであるが、県府には話はいっていない筈である。別件であろうか? 家宰が一旦区切って告げたのもそういう事であるからか。いや、酒の匂いを嗅ぎつけて馳せ参じたのかも知れない。思えばあの小母様とは酒の席でばかり会っているような気がする。現在は同県内に住んでいるとはいえ、県府にはまず立ち寄らないので会う機会は確かに少ないが、黄県令は同時に将軍府で長史も務めている。だが、軍内でもすれ違う事もない。記憶を辿れば、閬中県に預けられていた頃から酒を飲む姿ばかり思い出される。

 

 黄県令。黄権(こうけん)(*88)(字を公衡(こうこう)、真名を夜明珠(イェミンジュ))とは、嘗て母桔梗が軍に復帰し板楯乱討伐に参陣した際に、閬中県の黄家に預けられて以来の付き合いである。

 鼻筋の通った美人で、くりっとした空色の瞳は実年齢よりも随分と若い印象を人に与える。落ち着いた藍色の髪は背の半ばまで艶やかに伸びているが、前髪は眉の上で切り揃えており、それがまた若く見える要因となっている。全体的に愛らしさを感じさせる妙齢の女性であるが、こんな見た目でとんでもない大酒豪である。江東の虎と言えばその猛き武勇と血気に逸る獣性をして畏れを含んだ二つ名であるが、巴蜀の虎と言えばただ只管に酒を呷る様からきている。

 

 正門に辿り着くと、多数の郡吏に囲まれて件の虎と郡幹部が談笑していた。党舅父(いとこおじ)は笑っていなかったが。一度でいいからあの人が大笑いしているところが見たいなぁ、などと益体もない事を考えながら客を迎えた。

 

「ようこそお越し下さいました、皆様方。生憎と母はまだ戻っておりませぬゆえ、母厳顔に代わりまして御挨拶致します」

「こちらこそ本日は御招き頂き有り難うございます。郡吏皆を代表してお礼申し上げます。ふふっ、それにしても相変わらず固いですね」

 

 趙別駕が代表して挨拶を交わすと、ころころと笑いながら此方の態度を解してきた。しかしこれには苦笑を返すしかできなかった。趙別駕などは気にしないが、気にする者も確かに居る。幼宰が身を整えて来るのと同様、体裁は整えなければならないものなのだ。母の様な人徳でもあれば自然体で接しても格好がつくが、自分には無理だ。少なくとも何者でもない小娘のうちは。普段から郡堂に平然と立ち入ってはいるが、矢張り郡府の上級幹部と接するとなれば緊張するものだ。蕣華がそれほど緊張せずに済む上級幹部と言えば曹郡丞くらいのものである。

 

幽邃(ゆうすい)殿、此奴を甘やかしてもらっては困りますぞ」

「あら、檜さんが手厳しい分はどこかで緩和しませんと」

 

 むっつりとした強面の党舅父が妙齢の美人と真名で呼び合っている姿に激しい違和を感じていると、じろりと睨み付けられてしまった。しまった、顔に出たか。つい反射的に視線を逸らすと黄県令と目が合った。

 

「暫く振りね蕣華ちゃん」

「小母様もお変わりなく」

「今日は別件で来たんだけど、好い時に来ちゃったみたい。ね、私達もお呼ばれしても良いかしら?」

「勿論です。……私達?」

「やー、蕣華。しばらくぶりー」

紅玉(ホンユィ)っ!?」

 

 黄県令の背後からひょっこり顔を出したのは、閬中県に居る筈の親友の一人であった。

 黄崇(こうすう)(*89)、字を仲峻(ちゅうしゅん)(*90)、真名を紅玉。黄公衡の娘であり、蕣華が最初に得た親友。父譲りの燃える様な緋色の髪色を除けば母によく似たやや小柄な娘で、蕣華よりも一つ年上であるが年相応に元気が良くいつも溌剌としている。

 

「え、なんでこんな所に? 仕事はどうしたの?」

「いや、仕事だからここにいるんだって。県の計掾に任命されたんだよん」

「おお、出世したなぁ」

「紅玉ちゃんが蕣華ちゃんに会いに行くって言うからついてきちゃった」

「そうだったんですか、てっきり」

「てっきり?」

「いえ、何でもありません」

 

 酒宴の気配を察知して来たのかと思ったなどと言える筈もない。ついまた視線を逸らしてしまうと再び党舅父と目が合った。

 

「蕣華よ、何時までもこんな所で立ち話でもあるまい。そろそろ皆を案内せんか」

「はっ、失礼しました。それでは皆様、どうぞお入り下さい」

 

 

 ――――

 

 

 乾杯の直前で間に合った母が音頭を取り、恐らく今年最後になるであろう酒宴が始まった。郡府の主だった幹部に一通りの挨拶を済ませ、主会堂から辞して友等が飲み食いしている区画へゆっくりと向かう。

 

「あ~、危なかった」 と冷や汗を拭いながら蕣華が漏らせば

「くく……、まぁ、見てみたい気もしたがな」と母が受けた。

「母上」

 

 振り向くと、会堂の入り口に母桔梗の姿。宴も始まったばかりと言うのに良いのかな?と思いながらも、母と語らえられるのなら何でも良いかと小走りに寄っていく。

 

「遅れて済まなかったな。それと案内ご苦労であった」

「いえ、母上こそお仕事お疲れ様です。それに乾杯には間に合ってくれましたから」

「あのまま檜の言う通り、乾杯の挨拶まで済ませても良かったのだぞ?」

「冗談が過ぎますよ。年少の私が音頭を取るなんて」

 

 酒の席では長者が音頭を取るものであるが、郡府の主だった面子が揃ったところでその長者である厳奉霆が蕣華に音頭を取れと言って来たのだ。寸前で母が到着した為に事無きを得たが、あれが冗談だったのか無茶振りだったのか今一判断の付かない蕣華であった。

 結局、母が遅れてきた挨拶序でに乾杯の挨拶まで済ませて宴が始まったのだが。

 

「最近、党舅父の視線が妙に鋭いんですけど」

「あれもお主の進路を気に掛けておるからの。まぁ、何事も経験させようという事であろう」

「う、やっぱりそういう事なのかな」

 

 近頃の蕣華の周囲で誰もが気に掛けている案件がもたげた。今現在の蕣華の立場と言えば、太守の娘で、時折軍に協力し、稀に郡府で母の遣い走りを熟し、県下で亭卒の真似事をする、小さな便利屋と言った感である。

 初陣を飾った後、そのまま武官となると皆が思っていたが、結局蕣華は臨時任官と言う形で正式に仕官する事はなかった。

 

「実際、此れまであれこれとやっておるが、どうするのだ?」

 

 その言葉に参ったな、と下げていた頭を上げて母の顔を直視した。これまで母からこの話題に関して水を向けられた事はなかった。だが今、その母の眼を見て『嗚呼、これは内心を悟られているな』と感じた。そう感じた途端、ふにゃりと相好を崩すのを止められなかった。

 

「うん? どうした」

「いえ、なんでもないです」

 

 母は自分の事を本当によく見ている。それが無性に嬉しいのだ。自分の中に芽生えたばかりの小さな決意にすぐに気付いてくれたその事が、寿という名を父から、蕣華という真名を母から贈られた娘にとって何物にも代えがたい慶びであり幸福であった。

 巴郡を出でて諸州を回ろうと決め切ったのは、昼に幼宰と話した時だった。あれが最後の一押し。それまであった迷いも躊躇も、友と話す流れの中で自然と落ち着くべきところに落ち着いた。一歩を踏み出す為の、或いはそれを阻む様々な要因の全てが整理され解消された訳ではないが、兎も角ようやく先へ進む事になる。その果てに何処へ辿り着き、何を見て、如何に感じ、自分は果たして何者になるだろうか。

 周囲の期待、友の言葉、自身の中にある前世という重石、未だ明瞭には見えない自分の心の赴く先、そして母の存在そのもの。今の自分を取り巻く様々なもの。それらに対し、どれ程の答えを得る事になるのだろうか。

 少しの不安と、少しの期待。まだ少し締まりのない顔で母へと告げた。

 

「旅に出ようかと思います」

「そうか」

 

 

「うむ、そうか。それで何時になる?」

「年が明けて二月には発とうかと」

「今暫し時間があるな。ではそれまではなるべく邸に帰るとしよう」

「本当ですか!」

 

 思わず小躍りしたくなるのを抑えて声を上げた。続く言葉で躓きそうになった。

 

「ついでに久し振りに鍛え直してやろう」

「おぅふ」

「わしも近頃は鈍っていかん。互いに良い機会であろう」

「そ、そうですね」

 

 物心ついた時より受けてきた母の鍛錬はただ苛烈の一言であった。戦場是死線とは母の教えだが、母との鍛錬の方が余程死に近しいというのが幾度かの戦場を戦い抜いた自分の今のところの結論であった。

 

「お前が世に出るのならば、今一度その武を磨き上げねばな。これも親の責務よ」

 

 愉しげに呵呵と修羅の笑みを浮かべる母の姿は、近頃で一番生き生きとして見えた。

 

 

 ――――

 

 

 母と別れ義姉達の卓へやってくると、閬中からやって来た親友と親交を深めていた。話題はもっぱら昔の蕣華の事だ。ここに居る全員を繋げる話題と言えば蕣華しかないので仕方ない事だった。本人は居心地悪かったが。だが、特に董幼宰は良く喰い付いた。三人の中で最も付き合いの短い彼女にとって、自分の知らぬ友の姿は十分に興味を惹かれる事柄だった。

 

「蕣華はさー、出会った頃から他の子供達とは違ってたよ。いや、子供っぽいとこもあったよ? 興味を惹かれた物には一直線だったり。でも、決定的な部分で大人びてたよね」

「よね、って言われても」

「子供ってさ感情の生き物っしょ。でも蕣華は道理の上に居たんだよー。だからいつも何かしら騒ぎや厄介事があると蕣華が治めてたでしょ」

「ああ、うん、まぁ」

「それで自然と他の子供とは上下の関係になってたんだよねー」

「そうだったのか」

「いや、お前の事だろ」

 

 すかさず文長が突っ込んでくるが、蕣華には自覚がなかった。避けられている訳でもなく寧ろ何かあれば頼られる事があったが、それでも友達と言えるほどの仲になれなかったのはそういう位置関係が形成されていたからなのかと、今更に気付かされたのだった。

 

「子供って基本横並びの関係じゃん? 単純な力関係による上下はあっても視点による上下はない訳でさー、それは子供にとっては目上の人との関係になるでしょ」

「だから私には友達が中々できなかったのか」

 

 項垂れる蕣華に幼宰が相槌を打った。

 

「私も憶えがあるな」

「友よ!!」

「似た者同士め。てことは、紅玉も?」

 

 もう真名を交換したのか、早いな。初対面の相手と真名を交わし合うなどという高度な対人能力を持たない蕣華は驚愕の面持ちで義姉を振り返った。隣で幼宰がうんうんと頷いていた。

 

「いや、わたしはなんちゃってだった」

「なんちゃって?」

「無理してそうであろうとしてただけ。だから自然体で“そう”ある蕣華を見てうわー!!ってなったよー」

「あー」

 

 うわー!!ってなんだと思ったが、どうやら義姉には通じているらしい。くそぅ、仲良いなこいつら。

 

「その時、わたしは決めたんだよー。よし、私はこいつに付いて行こうって」

 

 そう言いながら笑顔をこちらに向ける初めての親友。

 

「だからさ、蕣華がどこに仕官してもいの一番に連絡してよ。必ず駆けつけるからさー」

「それは凄く嬉しいんだけど……」

「ど?」

「私が旅に出ようとしてるの知ってる?」

「おお、そうだ! 水臭いぞ蕣華。なんで最初にワタシに言わないんだ」

「いや、さっき鋼と話してて心が決まったばかりと言うか……」

「そうだったか、済まない。先程、話の流れで私から漏らしてしまった」

「ああ、いやいいよ。この場で言うつもりだったし」

 

 こうして話は蕣華の今後の事へと移っていった。

 

「それで、何処を見て回るか決めてるのか?」

「そうだね、まずは……南蛮に行こうかと思ってるよ」

「象か」「象だな」「ああ、象ねー」

「違うよ!なんで満場一致なのさ!」

「だってお前、中原で象が絶滅してるの知って泣いたんだろ?」

 

 蕣華はこう見えて無類の動物好きであった。犬猫に限らず、哺乳類に限らず好きだった。有毒生物などの害獣の類以外は何でも愛でれる少女だった。

 『山海図経』をはじめとする自然誌が幼い頃からの愛読書だった。中華大陸に象が、そして犀も生息していた事を知った時は興奮のあまり母の元に走っていって訪ねたものだ。そして母から申し訳なさそうな顔で、中原にはもはや象も犀も居ないと知らされた時は確かに悲しかった。だが、

 

「泣いてはいないよ!つかなんで焔耶姐が知ってるの?!」

「桔梗様が以前 酒の席でな」

「もー、母上ぇ」

 

 

 ――――

 

 

「む」

「あら、どうしました? 桔梗様」

「娘がわしを呼んでおる」

「何故そのような事が判る」

「馬鹿め檜。母たる者、何処に居ようと娘の呼ぶ声には応えるものなのだ」

「馬鹿は貴様だ、そんな訳があるか。もう酔ったか」

「なんだと、わしがこの程度で酔うはずなかろう」

「まぁまぁ、御二人とも」

 

 

 ――――

 

 

「……で、版図上では漢土だけど実効支配してるのはもうずっと南蛮人でしょ? 西方の氐や羌と違ってそれ以上の侵攻はして来ないけど、最近になって大王が代替わりしたらしいんだよね」

「ふむ、確かに気にはなるが」

「じゃあ結局、象は見物しないんだー」

「見れるものなら見たいよ、そりゃ勿論」

「なんだよ、結局見に行くんじゃないか」

「なにさー、いいじゃんかよー。象だよ象。でっかいんだぞー。ぱおーと鳴くんだぞー」

「いかん、蕣華が壊れた」

「い、いや、駄目とは言ってないぞ。うん、存分に見物したら良いんじゃないか?」

 

「それにしても蕣華は本当に動物が好きなんだな」

「いやこの娘、虫とかでもお構いなしだよー。一回、とんでもなくでっかい蚯蚓を引っ捕まえてきた事があってさ、あれは流石に引いたわー」

「蚯蚓っておま……」

「それは、なんとも……」

「いやいや、あれは本当に凄かったんだって! 蛇みたいに大きくてさ、未だにあれ以上の大物には出会って……」

「いいよそこ拡げなくて! なんで喰い付いた!?」

「なんだよ、焔耶姐は犬も駄目、蚯蚓も駄目って……」

「蚯蚓は誰だって引くだろ!」

 

 二人の友人に目を向けるとうんうんと義姉に同調していた。流石に蚯蚓は駄目か。まぁ、自分も積極的に好きという訳ではないのだが、あの時見付けた蚯蚓は本当に見事な大物だった。見付けた瞬間、引っ掴んで皆に見せびらかしに走り回ったものだ。思えばあの時も誰も喜ばなかったな、と回想していると、当時の被害者(当事者視点)からさらりと爆弾発言が飛び出した。

 

「あの時は蕣華との友情もここまでかと思ったよー」

「そこまでの危機だったの?!」

「お前、本当自重しろよ」

「むむむ」

「なにがむむむだ」

 

「それにしても、なかなか意外な一面があったのだな。蚯蚓を含めた動物好きは別にしても、周囲に目もくれず突っ走る蕣華の姿はなかなかに想像し難いよ」

「む、昔の話だよ」

「付いた幼名が阿奔(アーベン)だっけ? 突っ走る幼児ね、お前 足速いしぴったりだな」

「ぐぅ、幼名まで。またしても母上か」

「確かに桔梗様は酒が入ると良く蕣華の話をするな」

「初耳なんだけど、え、なに? もしかして私の知らない内に過去の恥部が曝されてたりしてるの?」

「恥部かどうかは兎も角、よく話されてはいるよ」

「ねぇ、鋼。こっち、こっち見ようか、こっち」

「まぁまぁ、蕣華。桔梗おば様も悪気がある訳じゃないんだし」

「なきゃいいってもんじゃなーい!」

 

 遂に爆発する蕣華。その頃、母はほろ酔い気分で矢張り娘の話を郡府幹部に披露していたが知らぬが仏である。

 

「それじゃあさー、蕣華と飲んでる時はどんな話すんの?」

「え?」

 

 黄仲峻の何気ない問いに一瞬固まる蕣華。見る見るうちに耳まで赤みを帯びていく。ふと見れば、魏文長もほんのり頬が朱に染まっていた。

 

「あー、このお酒、お茶と同じ名前の割に美味しいねー」

「うむ、竹の風味が心地良いな」

 

 なかったことにした。

 

「并州産だっけ? 蕣華、仕官先は并州でもいいよー?」

「酒で決めてたまるか。全く、この子虎は。 んー、でも確かに美味しいな。結構癖になるかも」

 

 子鷹の買って来た竹叶青をじっくりと味わって飲む。飲みながら考える。并州は父が散った地だ。檀石槐(たんせきかい)(*91)の軍勢と戦ったが、詳しい仇は判らない。退却する本軍の殿を務め多数の矢に貫かれて果てたと聞いた。追撃を掛けた隊の詳細も判らぬ程混乱した中の撤退であったらしい。軍全体を率いていた檀石槐も既にこの世を去ったという。直接の仇が知れているのなら兎も角、鮮卑憎しと一部族全体を仇と狙う気はなかった。まさか殲滅できる筈もないし果てがない。

 それに、それほど酷い撤退戦であったにも拘らず遺体は返還され故郷に埋葬する事も出来た。そして、父の愛用した大薙刀“秋草”は今自分の手元にある。

 戦場での普遍的な死だ。恨み辛みを募らせるような最後ではなかった。その死を辱められる事もなかった。

 悲しくない訳ではない、悔しくない訳ではない、討伐の機会があるのならば参陣するだろう。だが、積極的に人生を掛けるつもりもない。鮮卑を仇と恨むよりも、父の振るった秋草を手に恥じぬ生き方をしたかった。

 

 亡父を想いながら杯を重ねていると、話題は并州の現状に移っていた。自分も話に加わりながら今少しこの時を楽しむ事とした。旅立ちは近い。だから今は皆と楽しもう。

 

 

 

 第四回――了――

 

 

 ――――

 

 

「なぁ、未究(みく)

「なんだい? 蕣華」

「……最近、星に何か異変はあるか?」

「ほぅ」

 

 蕣華の唐突な問いに未究――(しゅう)仲直(ちゅうちょく)――は如何にも面白げに片眉を上げた。 流麗な顔立ちの仲直がそんな仕草をすると、同姓から見ても見惚れる程良く似合った。

 その反応に気を良くしたのか、足元に届くほど長く伸ばされた新月に卦ぶる夜の様に黒い美髪を一房、右手人差し指で弄びながら続けた。

 今日は頓に機嫌が良いようだ。或いは良くなったのか。

 

「君から星詠みを問われるとはね。 これは近々月蝕でも起きるかな?」

「ぅ……」

 

 仲直の言葉に思わず怯む。確かに、日頃運命や天命と言ったものに否定的な感情を向ける自分がそんな事を言い出せば、彼女ならずとも気になるだろう。

 だが、仲直はそれ以上突っ込んでくることはなく、上弦の月に視線を移しながら淡々と語った。

 

「数年の後にこの大陸は大きな転換を迎えるだろうね。最初の兆しは再来年にも顕われるだろう」

 

 事も無げに紡がれた言葉に、心臓が蹴鞠のように跳ねた。一瞬。

 やはりか、という想いがほんの一瞬で蕣華を冷静にさせる。酒から醒める程に。

 

「だが終局までの道はまだ見えない。 恐らくだが、まだ星が出揃っていない」

「君の待ち望む星は未だ見えず、だよ」

 

 こちらを振り向き透明な笑顔で不意討ちを仕掛けてきた。

 だが、続く仲直の予見は予想していた事なので大きな反応を示さずに済んだ。ただ一点を除いて。だから慌てふためく事は抑えられても、その呟きを留める事は出来なかった。

 

「待ち望んでいる?」

「そうとも」

 

 彼女はそれも予測していたようで即座に肯定してきた。

 

「君はそれを待ち望んでいる」

 

 白磁のように白い頬を酒精で僅かに紅潮させて、周仲直は幼い頃からの掛け替えのない友に笑顔で、愉しげに、当たり前のように断言した。

 

 周羣(しゅうぐん)(*92)。字は仲直。真名は未究。 

 閬中県に住む蕣華の二人の親友のうちの一人で、幼い頃から母周舒(しゅうじょ)について図讖術を学ぶ才媛。

 半年ほど黄家に預けられていた時、早朝走をしていた蕣華を仲直が櫓の上から呼び掛けて以来の仲だ。

 

 周仲直が自邸の庭に天の異変を観察する為に建てたその櫓の上。二人並んで夜空を肴に巴郷清を飲み交わしたある秋の夜。この夜以来、蕣華は来る大乱の時代を前に自分の往く道(或いは人によっては運命や天命と呼ばれるそれ)を意識し始めたのだ。

 

 やがて季節が一巡りして冬となり、行動の指針を得るに至る。

 

 また巡り春を迎えれば、彼女はようやく歩き出す。

 

 

 

 




*69便坐:トイレに非ず。官衙の中心部・最奥にある行政長官の公邸。官衙の中心施設。重要でない仕事ならばここでこなす事もあったらしい。太守や県令が入れ替わる度に公費で邸の模様替えが行われた為、行政長官の入れ替えが激しければそれだけで地方政府の財政を圧迫したらしい。

*70官衙:行政長官公邸であり、周囲を取り囲む行政官舎をふくむ広大なエリアを指す。太守のみならず、属吏まで官僚全員が居住する宿舎にして官舎。官庁街の様相だが、あくまでも公邸が主眼。便坐(実質的な公邸)を中心に 敷地は三重構造となっており、それぞれの境は塀や回廊で囲まれていた。最外縁に属吏達の事務所、その奥に南向きの中門を抜けて中庭である廷(中廷とも)と、長官が政務を取る官舎である堂がある第二区画。そして最奥に公邸である便坐が位置する。実際には属吏は官衙外に官舎が用意されており、宿直勤務の時以外はそちらに居住していたようだ。(この官舎までを官衙に含めた場合、官僚全員が居住するという文言通りの施設となる)
 この施設形態は中央政府から州郡県と地方政府まで同様であったようだ。

*71凉亭:いわゆる東屋。道端に建て休息や雨宿りに利用したり、庭園に建て茶や景観をたのしんだりした。(ちん)亭子(ていし)とも。亭表記が一般的だが、宿駅の(てい)との混同を避ける為、庭園に建てられた亭を凉亭と表記する。

*72家僮:いわゆる召使い。また、私有の奴婢(ぬひ)を指してこう言った。土地を失った破産農民等が奴婢に落ち、豪族や富豪に召し抱えられた。

*73臘賜:いわゆる冬のボーナス。毎年農暦十二月()日に皇帝が百官に対し賜与された年末賞与。大将軍・三公は錢二十万銭、牛肉二百斤、粳米二百斛。特進・列侯は十五万銭。九卿は十万銭。校尉は五万銭。尚書は三万銭。侍中・将・大夫は二万銭。その他千石・六百石級官は七千銭。虎賁郎・羽林郎は三千銭。

*74斗食:秩禄百石に満たない下級官吏。一日に一斗二升を受けた事が官名の由来とか。後に貧困層やその生活を指す語ともなった。

*75左史:秩禄百石に満たない下級官吏。秩禄は斗食より更に低い。

*76部郡従事:郡行政を検察する州吏。中央からではなく州から派遣される。郡毎に定員一名。但し中郡以上で、小郡には基本的には置かれない(小郡には郡督郵が巡行したのであろうか)。監察官の原則に従って同州の人が任命され、本籍地に派遣される事はない。
蜀漢においては、朝臣の大夫や議郎と並列し、かつ校尉・中郎将を兼ねる者もあった重職であった。

*77郡別駕:郡太守の春の行部(巡察)に随行する補佐官。太守とは別の駕(車)に乗る事を赦された。所轄地を円滑に統治する為、郡国内でも特に名望高い名士が任命された。

*78郡主簿:公文書、簿籍(帳簿)を掌り、庶務を統轄した。本来の地位としてはそこまで高くはないが、秘書の様な立ち位置で行政長官に仕える為、特に目を掛けられた者が就く事が多く、文官(時には武官も)が出世街道に乗る為の地位として重要視された。

*79趙筰:益州巴郡安漢県出身の名士。巴郡の別駕従事を務める郡属吏の筆頭。郡内でも特に名望高い見目麗しい妙齢の女性。
 史実では劉璋旗下の巴郡太守。劉備(りゅうび)入蜀時に厳顔将軍と共に張飛(ちょうひ)軍と相対するが敗北。後に劉備旗下の益州別駕従事となった。劉備に帝位に即くよう言上した中の一人として名前が挙がっている。
 本籍県までは不明だが、巴郡安漢県の豪族に趙氏があるので出身地とした。

*80張納:益州巴郡充国県出身の名士。巴郡の主簿を務める郡属吏の上級幹部。
 史実では中平五年当時の巴郡太守。碑文収録書『隷釈』に現職の太守であった張納を称える「巴郡太守張納碑」が建立されたと記録されている。本籍地は不明だが、巴郡充国県(後の南充国県)の豪族に張氏があるので出身地とした。

*81郡小府:郡中の御物、衣服、珍宝、御膳管理を掌る。

*82升:後漢の一升は約200ml。

*83石:後漢の一石は約20L。

*84斗食と左史の月俸、及び穀・銭支給額とその補正は『續漢志百官受奉例考』参考。計算上、斗食の年俸は百三十二石となるが、これは光武帝が官吏俸給額改定を施行し、官秩千石以上は減与、官秩六百石以下は増与された為である。尚、左史はそれでも百石を超えない。

*85関内侯:漢代の二十等爵において列侯に次ぐ十九位。列侯と違い必ず食邑が与えられる訳ではなく、関内の邑の租税のみが与えられる場合が多かったようだ。厳顔は後者のケースによる。

*86頃:後漢の一頃は約31740.0㎡。

*87家宰:家長に代わって家政を統括する家従の長。邸の管理からその家の事業や荘園経営の取り纏めまで一切を仕切る。

*88黄権:益州巴郡閬中県出身の政治家・武将。厳顔の飲み友達で、共に同年代の娘を持つ。厳顔復職時、厳寿を一時預かる。その後、厳顔に誘われて江州守県令及び、将軍府の長史に就く。
 史実でははじめ劉璋に仕えており、劉備の入蜀に反対した一人。劉備に攻められても防備を堅くし決して降伏しなかったが、主の劉璋が降ると自身も劉備に降った。その後は劉備に重用されたが、関羽の敵討ちの為の呉攻めに反対し、またも主に進言を受け入れられず劉備と共に進軍した。しかし敗戦の折、退路を断たれ取り残されてしまい已む無く魏に降った。魏でも重用され、司馬懿に高く評価された。

*89黄崇:公権の娘。上に兄が一人居る。厳寿が得た最初の友。共に友人の居ない事を気に掛けていた厳黄両家の親は引き合わせた甲斐があったと密かに祝杯をあげたとか。兄と共に閬中県の県吏として働いている。
 史実では父と共に劉備に仕えた。父が已む無く魏に降った際、残された黄崇ら家族を処罰するよう進言されたが、劉備はこれを退けた。その後、尚書郎まで上ったが、蜀漢の命運を決める戦にて、諸葛(しょかつ)(せん)旗下で魏の鄧艾(とうがい)軍と戦い綿竹(めんちく)にて戦死した。

【挿絵表示】


*90仲峻:黄崇の字。本作独自のもの。

*91檀石槐:鮮卑族の偉大な大人。非常に勇猛であり、知略に富み、また公平な人柄であった。強大な指導力を発揮し、長年に亘り漢に侵攻し略奪の限りを尽くした。
 本作では史実よりもやや早く死去している。

*92周羣:益州巴郡閬中県出身。厳寿が閬中で得たもう一人の友。幼い頃から母に倣って図讖術を修める。自邸の庭に建てた櫓の上で、日々大陸の行く末を占っている。
 史実では、はじめ劉璋に師友従事として仕えた。後に劉備に儒林校尉として仕えた。多くの予言を的中させたという。

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