桔梗の娘   作:猪飼部

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第五回 像箭女孩

 未だ太陽が朝を告げぬ暁の刻限、それでもいつもならば空が明るくなり始めようかとする頃合いだが、この日は朝霧が立ち込め世界は仄暗く茫洋としていた。巴蜀の地において霧は珍しいものではないが、つい最近まではつんと冷えた冷気に、あっても僅かな朝靄の日々だった。これからは徐々に霧深い朝が多くなってくるだろう。

 そんな季節の移り変わりを感じさせる厳家の中庭で、蕣華はいつもと変わらず身体を解していた。

 

 

 春の到来。蕣華は一つ齢を重ね、十三となっていた。

 

 

「今朝も早いな、蕣華」

「お早う御座います、母上」

「うむ、お早う」

 

 珍しく早くに起きてきた母桔梗に溌剌と挨拶を交わす。いつもは厳家で最も遅くに起きるが、時折こうして早朝走に出掛ける前に起きてくることもある。更に珍しい事に今日は既に着替えも済ましてあるようだ。

 娘の視線に気付いた桔梗は軽く肩を竦めた。そろそろ県の巡察に出発する日が近づいている。それまでに片づけるべき仕事が捌けていないので早起きしてきた次第である。重要度のそれほど高くない仕事は出仕前に済ませる積りであった。

 蕣華も事情を察し、余り根を詰めぬよう母を労った。

 

「今朝は霧が深い。気を付けるのだぞ」

「はい。では行って参ります」

 

 元気良く母に応え、たった一つ、厳寿として生きる己がたった一つだけ前世から引き摺られた習慣である早朝ランニングに出掛けた。

 

 

 ――――

 

 

 

 第五回 像箭(しょうせん)女孩(にょがい)

 

 

 

 地を蹴る足裏の感触、機嫌良く跳ねる鼓動、じんわりと上がる体温、それを冷まそうと項の辺りから浮き上がり始めた玉の汗、それら全てに心地良さを感じながら城街を往く。

 高級官僚や有力豪族の邸宅が軒を連ねる区画を抜け、大路を横切り、水路を飛び越え、細々とした区画をするするとすり抜ける。縦横に江州を堪能するように駆ける。

 漸く明かりが茫洋とした世界に差し始めた中を軽い足取りで更に進む。陽の光が薄っすらと透ける霧に浮かぶ街並みはどこか幽玄な気配を漂わせている。

 

 早朝の静寂、それもいつもより静かだ。霧が音を吸い取っているんだ。そんな事を考えながら自分の呼気以外の音を探るように耳を澄まし心持ちゆっくりと走る。周辺に耳を向けながら進めば、其処彼処から人の気配を聞き取る事ができた。

 こんな朝でも人々の活動はいつも通りだ。陽の光に抗しながらも徐々に薄れゆく霧の向こうから、人々の営みが姿を現し始めた。

 蕣華もいつも通りに行き合う人々に声を掛けて行く。挨拶を返してくる声は殆どが子供、そうでなくとも若い声だ。早朝から商家や工房で準備を進めるのは年若い丁稚なのは何処も変わらない。彼等は毎日、陽が出る前からあくせく働く。万が一、朝餉に間に合わねば大変なことになるし、かと言って適当に済ませば、朝食抜きよりも酷い目に遭うのだから朝から気が抜けない。

 

 彼等の中には郷や里から奉公に出てきた子供も多い。

 朝の仕事と朝食が終われば、彼等の多くは書館(*93)へ登校し勉学に励む。書館では識字教育と、初級の算術を学ぶ。奉公へ出された子供達の真の目的はこれだ。教育が奨励されるこの地では、余程の理由がない限りは子供達は初等教育を受けられる。

 識字教育だけなら郷や里でも受けられるが、県校(*94)への進学を目指すのならば、県へ奉公に出す方が良い。進学ならずとも、県で学んできたというだけで箔が付くと考える庶人は意外と多く、そう考える者が多いのならば、実際に郷里では箔が付くのだ。

 庶人の県校への進学率がどれ程のものなのか蕣華は知らない。自身も年齢的には県校へ通っている時分なのだが、一年ばかりほぼ形だけ通って卒業してしまったので実態を余り知らないのだ。元々、母が家に招いた舎人(しゃじん)(*95)を家庭教師に五経(*96)の大要を修めていたので、県校に進学した時点で学ぶべき殆どを修得し終わっていた。いわゆる飛び級のような形で入ってすぐに卒業したのだった。こうした事例はそれほど珍しくもなく、仕官の低年齢化の影響なのか、寧ろ積極的に促進する為なのかもしれない。

 その後、郡国学(*97)へ進学する事もなかったので、学舎での思い出は殆どない。己の道は飽く迄も武の上にあると考えている為、そこに特に思う事もなかった。

 

 太陽がその威容を地平から浮き上がらせ世界がほぼ完全に形を取り戻した頃、蕣華はようやく折り返し帰路に就いた。

 

 

 ――――

 

 

 自邸のある区画にまで戻ってくると、(りょ)季陽(きよう)(*98)が珍しく朝早くに呂家の門前で伸びをしていた。群府で郡司空(ぐんしくう)(*99)を務める呂常(*100)の娘、読書と音楽をこよなく愛する年下の少女とも挨拶を交わす。

 眠たげな眼で(この少女は常時そんな目つきだが)挨拶を返し蕣華の姿が曲がり角の向こうに紛れるまで見送ってから家中へ引き返した。今日、書肆(しょし)に届く筈の新書を待ち切れずつい早起きして家を出たが、こんな時間から店が開いている訳もないと気付いての事だった。

 そんな事情など判る筈のない蕣華は、随分と珍しい事もあるものだ、と呂家の娘につと軽く思いを巡らせた。

 幼くして才媛と評判の少女。家族からも周囲からもその期待は高い。自分も且つて、短い期間ではあるが天才ではなどと一族の大人達から持て囃されていた時期があった。母がやんわりと否定して回ってくれたお蔭で大騒ぎにならず済んだが。 

 

 この時代、意外なほど世間の教育水準は高く、庶人でも識字教育ならば大概受けられるし、頑張れば中等教育も受けられるのだ。更に上を目指すとなれば困難を極めるが、最高学府である太学(*101)へ進んだ貧農出身者もいるのだとか。

 おまけに益州は学問が盛んだ。特に蜀郡は景帝(けいてい)(*102)治世の時、太守文翁(ぶんおう)(*103)が当時蛮地であった蜀に学問を広めた。この揚州(ようしゅう)廬江郡(ろこうぐん)舒県(じょけん)出身の偉人のお蔭で以来巴蜀の教育水準は高まった。

 そんな中で、単に下駄を履いた状態で人生を開始しただけの凡夫が天才扱いなど、後々失望されるのは目に見えているだけにきつかった。

 

 結局、自分の評判は秀才であるという評価に落ち着いた。それでも過分だと思ったが、自分に五経を授けてくれた師に「謙遜も過ぎれば厭味となりますよ」と窘められ、確かにそうか、と思い直し他人から見て過剰に謙るのは止めた。

 客観的に見て書館に上がろうかという年齢で曲がりなりにも五経を読み解けるのならば、確かに妥当な評価なのだろう。持ち上げられると反射的に謙譲してしまうのは、前世の民族性によるものなのだろうか。そう考えると苦笑が漏れてしまう。

 

 自分はそういった周囲の期待や評判に気疲れしてしまったが、季陽は泰然としたものだ。少なくとも傍から見ている限りは。書館を飛び越え、既に郡国学で学んでいる本物からすれば、態々気に掛ける程の事でもないのかも知れない。

 太学への進学も母が推薦しようかと話を持ち掛けたが、「ここが好きだから」という理由で固辞していた。呂郡司空が街道が修復された後も巴郡に留まった理由がこれだった。

 きっと近い将来、巴郡を支える一人となるだろう。自分も負けていられないな、と気を引き締めて邸の正門を潜った。

 

 

 ――――

 

 

 思えば昔から走るのが好きな娘だった。桔梗は自室で簡単な仕事を捌きながら、今朝方も元気良く走りに出た娘に想いを馳せていた。

 周囲の様々なものに興味を示し、また止まることを知らず次々とその対象を変え、あっちへこっちへと走り回った。

 体力は自分達夫婦に似て人一倍あるので、子守がへばってしまう事すらあった。

 常々まっしぐらに駆け回る娘を指して、最初に阿奔(アーベン)と綽名したのは誰であったか。

 

 虫や草花、遠く聳える山々に、空を漂う雲、雨上りの虹などは特に気に入りで、虹の根を目指して駆け出した時は流石に胆が冷えた。何処まで行くつもりだったのだ。其処へは誰も行けぬし行ってはならぬと能々(よくよく)言い聞かせねばならなかった。

 

 また、自分の住む邸や街並み、そこに暮らす民草、行き交う商賈や遊侠にも興味津々であった。特に遊侠は傾いた格好をしている者が多く、娘の気をこれでもかと惹いた。

 古きを尊び見識ある儒者などは昨今の風潮を嘆いているが、順帝(じゅんてい)(*104)治世の頃より才幹ある者は奇矯な装束を纏いだした。それは己は他とは違うという強い自負の発露であったとされるが、それでも始めの頃は襟の素地に凝ったり、帯に変わった素材を用いたり、派手な簪を指したり、衣装の中の一点で自己主張を現わしていたが、時が下るにつれ派手に大仰になっていった。

 桔梗自身も漢が成ったばかりの頃ならば誰もが眉を顰める装束に身を包んでいる。いや、その頃であれば衣装云々の前に、そも女である自分が太守や将軍を務める事がまずあり得ないが。女性の社会進出は光武帝(こうぶてい)(*105)の漢再興を待たねばなるまい。

 ともあれ幼い娘の目には、庶人と一線を画す母や才子の衣装は強い興味の対象として映った。

 

 かと思えば机や箪笥、窓枠の意匠なぞを飽きもせず一日矯めつ眇めつ観察する事もあり、一体そんな有り触れた物のどこにそれほど惹かれる要素があるのかとんと解らなかったが、子供からすれば世界の全てが初めてに満ちており興味の対象となるのだろうと納得しておいた。

 後にそれが職人の卓越した技量や精緻な細工に感心しているのだと知り、それが発端となって桔梗も職人達の技術というものに注目するようになり、太守となった折、職人達を厚く保護し、結果として商業が盛んになった事を当の娘は知らない。

 

 

 

 そんな幼少の頃、娘は阿奔などと呼ばれつつも周囲に神童ではないかと持て囃されていた。自分も半年も経たぬ内に媽媽(マーマ)と呼ばれ一時は浮かれていたが、直ぐにそうではないと気付いた。

 

 この()は天才なのではない、早熟なのだ。

 

 地頭は良い方だろう。だが文人名士となれるほどの卓抜した頭脳を有してはいない。書館に入る前に『訓纂篇(くんさんへん)』は修めたし、算術も理解が早かった。『史記』や『山海図経』を好んで読んだりはするが、大体の内容を把握しているだけで一言一句違わず諳んじられはしない。五経を暗誦するなどは無理であろう。

 とは言え、自分よりも遥かに出来がいいのは間違いないので、中央から逃れてきた儒者を舎人に迎えて教育を施したりなどはした。

 五経を学ぶよりも洛陽の様子や社会情勢に大きな興味を示し、その儒者には辟易とされたようだが。しかし、基礎教養も疎かにしたわけではなく、完全暗誦こそできずとも五経のみならず論語、老経も大要を掴む程度には修め、「将来、郡太守程度ならば問題なく務められましょう。武は私には計ることはできませんが、それでも知よりも高くあることは明白。文武合わせれば更なる出世も決して望みが高いとは申しますまい」と太鼓判を押されるに至った。

 

 とは言え、やはり智者として立つには不足もあり、神童と騒ぐ一族連中にはあまり過大な評判を流布させぬよう釘を刺しておく必要があった。

 一通りの教育を終え、丁度、前任者が高齢のため職を辞して空いた文学(ぶんがく)主事掾(しゅじえん)(*106)の席に着く事となった慶祝の家庭教師、杜基(とき)(*107)を酒に誘った時にこんな話をした。

 

「知において単経伝授であれば暗誦までいけたと思われます。少なくとも能力的には」

「しかし実際にはできぬ、と? それは何故(なにゆえ)だ?」

「当人が暗誦するという事に価値を見出していないのです。簡単に言うとやる気が、そこまでのやる気がないということです。一言一句違わず諳んじるよりも、内容を理解し吟味する事が肝要であると考えているようです。個人的には賛同できますが、学徒としては通じないでしょうな。経師に鞭打たれるでしょう」 

「ふむ」

「それが許されるのは郡国学にまで進学し、暗誦を完璧に熟し、章句(しょうく)を修めて、その後からとなります。が、ご息女は恐らくここで躓くでしょう」

「と言うと?」

「章句、つまり経典解釈は解者によって様々で、ご息女にもご息女なりの、幼いながらの解釈があるでしょうし、今より深く学べばそれはより強固となるでしょう。しかし、章句の段階では師の解釈を学ぶ事のみが重要で、そこで自説を展開するのは許されないのです。『お前はまだその段階に達していない』という事です」

「あれも、ああ見えて気の強いところがあるからな」

「流石は壮烈将軍殿の娘御ですな。武の人ならばそれでも好いのかも知れませぬが、文の道には向きません。少なくとも、内心でどう考えていようとも億尾にも出さず機を探れるようにならねばなりません」

 

 それはある程度武人にも必要な資質であるのだが、智者のそれは我等とは比較にならぬ程の腹の探り合いがあるのだと思えば、成程、娘が文の道で大成するのは厳しかろう。

 以来、桔梗は娘に対して武の鍛錬をより厳しく施すようになったのだった。

 

 

――――

 

 

 矢張り我が娘は天才ではなかったと、見誤る事のなかったのは喜ばしいが、一方で早熟である事も確かでありそれが五経を学んで以来、より顕著な問題となってしまっていた。

 道理をよくし、礼節を重んじる姿勢は大人達からは大層評判が良かったが、同年代の子供達からは精神的な距離がより離れてしまい、子供達の中に混じると浮いた存在になってしまっていた。結果、娘には友と呼べるほど近しい関係を結んだ相手が出来なかった。気にしていない風を装ってはいるが、そこに寂しさを感じているのは明白だった。

 どうにかしてやりたいとは思うが、こればかりは自分が出張ってどうにかなる類の問題ではなかった。そう解かっていても何とかしてやりたいと思うのが母心だ。

 そんな折、閬中(ろうちゅう)県に住む友人が同じように子育ての悩みを持つことを知った。その頃は手紙での遣り取りしかなかったが、その中で娘の事に触れたところ、蕣華と同年代の第二子が矢張り友人に乏しいと零してきた。

 折しも巴郡で板楯の乱が大きくなり、軍への復帰を強く要請され始めていた時であった。戦に出るようになれば今迄のように娘と過ごす事は出来なくなる。

 これを好い機会として閬中の友・黄公衡の元に預け、あわよくば先方の家の娘と友誼を結んでくれればと送り出した。結果として乱は半年程で治まり、娘はすぐさま邸に戻る事となったが、嬉しい事に黄家の娘のみならず、図讖で名を成す周家の娘とも真名を預け合う程の友となっていた。

 そして、その間に我が家で預かる事となった魏文長ととも互いに良き関係を築くに至り、桔梗の憂いはすべて消えたのだった。

 

 

――――

 

 

 厳邸の庭に剣戟の(正確には薙刀と槍の)激しくも甲高い音と、母娘の裂帛の気合いが木霊していた。

 大薙刀“秋草”を奮う蕣華に、素槍で応じる母桔梗。戦場で最も相見える機会の多い武器の一つである。

 出立を間近に控え、母が喫緊の仕事も捌き終えてからは連日こうして鍛錬に励んだ。

 

 愛用の得物を奮う蕣華に対し、母親は何の変哲もない素槍で娘の鋭撃を捌いていく。簡単に、とまではいかないが、それでも致命の一撃――一本を取られる事無く渡り合う。しかし、蕣華に焦りはない。徐々にだが、確実に戦況は蕣華に傾いている。一合打ち合う毎に着実に。

 袈裟斬りの一閃は一寸深く切り込み、反撃の一突きを半身を捻って避けつつその捻りを秋草に乗せて横に薙げば母の反応を半瞬遅らせ、弧を描きながら上段に構え振り下ろす連撃は一歩分強く踏み込み、刃を返しての振り上げは寸毫の間も置かず繰り出された。

 そして、一合毎に追い詰められる度、桔梗の笑みは深くなった。手練れと渡り合う歓喜と愛娘の成長を実感する喜びに溢れた笑顔だ。

 

「くはっ」

 

 その笑みからつい笑い声が漏れたのは、蕣華の刃が己の首筋を捉え、寸でのところで静止した時だった。

 

「見事だ。よくぞここまで成長したものよ。母は嬉しいぞ、蕣華よ」

「有り難う御座います。でも母上がいつもの得物だったらこれほど上手くはいきませんでしたよ」

「それを言うならば、お主が馬上であれば最早わしには勝ち目はあるまい」

「いえ、そこまでは……」

「好い好い、子が己を越えてゆくは親の悦びよ」

 

 そうまで言われて蕣華は照れたように賛辞を受けた。いや、実際照れていた。

 確かに馬上における蕣華の武威は、徒歩におけるそれとは一段違うと言える。乗馬を教えたのは勿論桔梗だが、生来の動物好きからか非常に熱心に鍛錬し、今や巴郡は勿論の事、恐らくは益州でも並ぶ者はないのではなかろうかと噂されるほどに上達していた。馬術に対して特段の才覚があった訳ではないが、馬に対する特段の愛情ならばあった。自らの騎馬の世話は可能な限り自分で熟すし、よく語り掛け、暇さえあればその背に乗って江州郊外を風のように走り回った。因みに、その時もっともよく足を運ぶのは、江州葬地に埋葬された父の墓所である。

 

 無論、鍛錬は馬術だけではない。いや寧ろ、蕣華が必要以上にのめり込んだだけで、実際には武器を取っての武芸にこそ重きを置かれていた。

 桔梗の最も得意とするのは弓である。しかし、娘に武の手解きを始めた時、最初に教えたのは剣だった。次いで槍、その次が弓。三種の基本的な武器を教えた後、薙刀、戟、朴刀、刀、棍、変わったところでは匕首や鏢、硬鞭・軟鞭に鴛鴦鉞など様々な武具を一通り教えた。そして選択を迫った。これまで教えた武器、或いは未知の武器でもよいから一つを選び、以後その武器を修練せよ、と。

 己の得意を教える事はなかった。夫の得物もだ。果たして娘が選び取ったのは薙刀であった。

 あの瞬間の事は今でも鮮明に想い起せる。歓喜に一瞬固まった自分を見つめる娘の不思議そうな眼差しも。きっと娘が弓を選んでいたらああまで心が揺り動かされはしなかったろう。父の記憶などほとんどないであろう一人娘が、その父が最も得意とした得物を選び取った。娘の中に、契りを交わした男の血が確かに息衝いているのを強く感じたのはあれが最初だったように思う。

 亡き夫の愛用した大薙刀をその由来を語って渡した時の、娘の嬉しそうな、或いはまた切なそうな、それでいて愛おしげな表情(かお)にどれ程の想いが込められていたかは分からない。だがきっと、その時の自分と大差なかろうと、そう思った。

 

 

――――

 

 

 出立を明日に控えたこの日、蕣華は父の墓所を訪ねていた。度々訪れて墓参りしているが、故郷を旅立てば当然それも出来なくなる。だから朝早くから馬を飛ばして父に会いに来たのだった。

 今日はその手には白い陶塤(とうけん)(*108)があった。両手に丁度良く収まる卵型の土笛。前面に見事な職人技で朝顔の図柄が象嵌されており、蕣華のお気に入りの一品であった。

 母桔梗の影響もあって、蕣華は音楽、殊に笛が好きだ。母の見事な演奏にはいつも心を蕩けさせている。

 

 ()(*109)を手にした桔梗からは普段の豪放磊落な威気は影を潜める。視線を落とし、そっと笛に唇を当てるその様からは、武の道に生きる豪傑を見出す事は出来ず、気紛れに地に舞い降りた天女を幻視させた。

 その天女から紡がれる繊細で嫋やかな、しかしどこか雄飛(ゆうび)さを纏った楽の音。ただ美しいだけではないと、幽玄の神気の中に熱い血肉を通わす調べが身を包む。

 その有様は只々美しいのに、奏でる笛の音は確かに武人の厳顔が息衝いている。だが、そこにちぐはぐさはなく、調和のとれた一つの世界が顕われていた。それは、命芽吹く柔らかな朝陽に照らされた峻厳な山間を切り裂く様に飛ぶ猛禽の美。

 

 

 スフィ~ヒョロロロ……ピヒー

 

 その母の血を受け継いだ蕣華の奏でる笛の音と言えば、死に掛けの隼の嘴から漏れ出た末期の一鳴き。いやさ、干乾びた隼の死骸を撫で摩る枯風の如くと言ったところ。

 

 有り体に言って才能が無かった。努力で補う余地も無いほどに。

 

「うぅ……、申し訳ありません、父上。全然上達しなくて……」

 

 せめて一曲くらいは真面に吹けるようになりたいと、空しい努力を続けているのだが一向にその成果は表れなかった。唄は少なくとも人並みには歌えるのだから、音楽的才能が全く無い訳ではないと固く信じて頑張っているのだが、結果は常にご覧のありさまだった。

 それでも蕣華は諦めない。歌謡については益州では誰も寄せ付けない実力を誇る焔耶も、楽器はからっきしであるという事実には目を伏せながら。

 

 父の話は色々な人から聞いたが、そう言えば楽才についてはどうだったのであろうか?聞いた事がない。

 じっとりと墓碑を見詰めるが答えは当然出ない。……ふぅ、と一息つき詮無い疑問を吹き散らす。そもそも今日はそんな事を確認しに来たのではないのだ。気を持ち直し、襟を正して父に語り掛ける。

 

「父上、私は明日、この巴郡を離れる事にしました……」

 

 ゆっくりと、本当に父が目の前にいて語り聞かせるかのように言葉を紡いでいく。今迄の事、現在の自分の想い、これから向かう先への不安と期待、一つ一つ言葉に乗せる毎に静かに気分が高揚していく。

 父のことは殆ど憶えていない。赤子だった当時、世界は茫洋としていて、ふわふわと常に夢見心地だった。だが、それでも大きく堅いごつごつとした手、逞しい丸太の様な腕に優しく抱かれていた、記憶とも呼べない感覚が今も自分の中に残っている。その感覚を思い起こすといつも心が温かくなる。今も、あの感覚に包まれながら父と話していた。

 どれ程の時間が経ったか、いつか蕣華の口から言葉が漏れる事もなくなり、静かに墓前に佇んでいた。

 祈るように瞑目し、心の中で最後の語り掛け。ゆっくりと眼を開ける、晴れ晴れとした顔で、きっと父が誇りに思うような顔立ちで。 

 

「それでは父上、行って参ります!」

 

 

 

 第五回――了――

 

 

 ――――

 

 

「それでは母上、行って参ります!」

 

 元気よく宣言し、脇目も振らず一目散に愛馬を駆って駆け出して行った娘を見送って、桔梗は暫し、江州県南門に独り佇んでいた。

 蕣華の見送りに来たのは母桔梗のみであった。魏延――焔耶は折悪く久し振りに要請の舞い込んだ氐蛮討伐の軍編成に追われている。桔梗もゆっくりはしていられないのだが、親友の黄公衡の計らいで今こうして豆粒よりも小さくなった娘の後姿を眺めていられる。

 黄公衡の娘、黄崇――紅玉は既に閬中県に戻っている。次に会うのは蕣華が世に立った時だねー、と軽く言っていたのが何ともらしかった。

 周羣――未究は、出立の直前に手紙が届いた。そう言えば、未究には旅立つことを知らせてなかったな等と考えながら手紙を開くと、そこには彼方の近況や此方の息災を窺う特に変哲のない手紙であった、にも拘らずどうして自分には知らせないのかと責められているような気分になり、蕣華は慌てて返事を書いた。

 そして董和――鋼は今、洛陽に居る。上計掾に任じられ、年が明けると巴郡を出立した。私の方が先に巴郡を出る事になったな。出立前夜に薄く笑いながらそう言った鋼に、洛陽で再会しようと約束した。

 

 

「行ってくるが良い、蕣華よ。大陸を見定める為に、そしてお主を世に知らしめる為にな」

 

 もはや影も見えなくなった娘に向かって、桔梗は激励を送った。

 

 

 




*93書館:書舎、小学とも呼ばれた。八~十五歳程度までの子供が通う初等教育機関。三千から八千字程度の識字教育と六甲や九九などの算術を教わる。

*94県校:書館を終えた(或いはその程度の学力のある)十五歳程度までの子供が通う中等教育機関。孝経、論語、書経などを暗誦した。県にあるので県校という。侯国にあれば侯国校となる。

*95舎人:貴人に招かれた食客の事。後に官職名となった。古くは『周礼』の地官に記述が見え、秦漢では太子舎人、魏晋では中書舎人、唐では中書舎人、太子中舎人、太子舎人、起居舎人、通事舎人、太子通事舎人が置かれた。ただ舎人とある場合もあり、これは職掌の詳細が良く判らないが吏卒であろう。

*96五経:儒教の基礎経典とされる五種の経書。易経、書経、詩経、礼経、春秋経の五書。楽経を加えて六経とする事もある。

*97郡国学:郡毎に置かれた高等教育機関。五経や礼楽を学ぶ。暗誦の後、章句に入る。別の地方からの入学も認められていたらしい。

*98呂乂:荊州南陽郡出身の政治家。入蜀後の劉備に仕え、はじめ典曹都尉に任じられたが、のちいくつかの県令、郡太守を歴任した。慈悲深く、善政に努めた為、任地の民は官民共に彼を敬愛したという。尚書令にまで上ったが、法家思想が強く出て以前より名声は劣る事となった。常に謙虚であり質素倹約に努め、清能と評された。
演義には登場しないが、似たような経歴を持つ呂義(りょぎ)という人物が登場する。
本作では、厳寿よりも年下の少女でありながら既に郡国学で学ぶ才女である。

*99郡司空:治獄(刑徒の管理)と刑徒を用いた治水及び各種土木工事を掌る。後漢に入ると地方の司空は殆どおかれなくなったが、本作の巴郡に於いては治獄の職掌を外し、治水・土木工事事業の部署として存続しているとする。

*100呂常:呂乂の父。劉焉の南陽太守時代の旧吏であったらしい。劉焉を益州に送り届ける任を受け同道したが、その後南陽へ帰郷しようと劉焉の元を去る。しかし街道が閉ざされ帰郷できなくなり益州にとどまった。
本作では、巴郡巫県を抜ける道が災害によって閉ざされ、視察に来た桔梗を頼りそのまま郡吏となったとする。

*101太学:洛陽にある最高学府。生徒は太常により特別選抜された十八歳以上の男子からなる博士弟子と、地方長官からの推薦を受けた者と六百石以上の官吏の子弟からなる太学生(諸生とも呼ばれた)の二種に分かれた。

*102景帝:前漢第六代皇帝劉啓(りゅうけい)。文景の治と賞される善政を布いた名君。

*103文翁:揚州廬江郡舒県出身の政治家。景帝末年に蜀郡太守に任官。当時、蜀は蛮地の気風が強かったが、学舎を立て教育を奨励した。学徒には兵役や労役を免除し、才覚ある者は官吏として登用した。蜀郡の教育水準は跳ね上がり、その功績は長安に届き、景帝は全州の郡国に学官を立てた。

*104順帝:後漢第八代皇帝劉保(りゅうほ)。先帝の外戚閻氏を排除する為に尽力した宦官達を厚遇し、財を継承できる養子まで認めた。宦官禍の先駈けとなったと評されている。おまけに梁冀にまで権力を与えてしまう失着を犯している。

*105光武帝:後漢初代皇帝劉秀(りゅうしゅう)。王莽が禅譲(簒奪)により新朝を開き混乱した漢土を再統一し後漢を開いた大英雄。
本作では劉秀を史上初めてにして最高の女傑として、女性台頭の先駈けとなったとする。

*106文学主事掾:郡国学の学長。郡吏である。配下、というか実際に教鞭を執る教授に文学掾、または郡文学博士がある。

*107杜基:豫州潁川郡定陵県出身の名士。杜襲(としゅう)の兄。
本作では妹と共に荊州に逃れていたが、その後、一人益州まで渡ってきて厳家の舎人となったとする。

*108陶塤:卵型の土笛、(けん)の一種。陶製の塤で陶塤。頂点に吹き穴があり、側面に孔数八、小指以外の両手の指で押さえる。サイズが大きくなるほど音が低くなる。

*109篪:竹製の横笛。全長一尺四寸、直径三寸、孔数七、或いは八が普遍的なサイズ。

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