桔梗の娘   作:猪飼部

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第七回 荊州南乱

 南蛮を発した蕣華とトラはさらに南へ進み、後漢最南の交州(こうしゅう)に渡った。そこで二人揃って生まれて初めての海に日が暮れるまではしゃいだり、噂を頼りに山へ分け入って非常に珍しい羚羊に遭遇したり、香蕉(バナナ)(*116)だけで腹が満たされるほど堪能したりと大いに楽しんだ。が、しかし街での生活経験のないトラは各地で騒動を巻き起こし、非常に大変な旅でもあった。特に貨幣経済を知らず、理解していないのが致命的であった。それでも交州蒼梧郡(そうごぐん)から荊州(けいしゅう)零陵郡(れいりょうぐん)へ移る頃には何となくではあるが、金銭の仕組みを理解し始めていた。

 

 季節は孟夏(四月)へ移り、蕣華達は荊州南部へと至った。

 

 

 ――――

 

 

 第七回 荊州南乱

 

 

 

 天気は快晴、風は微風、東側に瀟水(しょうすい)を眺めながら、江沿いに命芽吹く平野の中を細く長く続く街道を往く馬一頭、馬上には二人の少女。蕣華とトラである。

 肌を優しく撫でる薫風に多分に含まれた緑の香りに、良い土地だな、と心地良く馬を進める。しかし、トラには少々不評のようだ。

 

「はー、さむいにゃあ」

「そりゃあ、南蛮や交州に比べればね。夏入りしたと言っても、まだ四月だし……と言っても巴郡と比べてもまだ低いな」

「やっぱりさむいんにゃ」

「寒いってほどじゃないでしょ。でも、ま、これが冷夏って事なのかな?」

「れーか?」

「夏なのにそんなに暑くならないって事」

「にゃ?! そ、そんなことが……」

 

 戦慄するトラを可笑しそうに見守っていたら、視線に気付いたトラにじと目で睨まれてしまった。つい視線を逸らす。すると、左前方に豆粒ほどの人影を捉えた。

 

「ん?」

「どーしたにゃ?」

 

 不意に左方へ顔を向けた蕣華にトラが同じ方角へ首を捻った。すると、平野の向こうから誰かがふらふらと駆けてくるのが見えた。今にも倒れ込みそうだ。と、馬がそちらへ駆けだした。

 

「……賊か?」

 

 近づくにつれ、相手の様相がはっきりしだした。薄汚れたお粗末な武装の三十絡みの男。如何にもな風体をしており、やや虚ろな目つきで馬で近づく此方に気付く事もなくよたよたと何とか足を進めている。原因は肩口に刺さったままの薄刃の剣だろう。撃剣の使い手が好む造りの直剣だ。傭兵や用心棒という線もあるが、この男がどちら側にせよ、その先に荒事が待ち構えている事だけは間違いない。

 

「そこの者」

「……へぁ?」

 

 十分に接近してから声を掛けた。それで初めてこちらに気付いた男は、それでも十分に認識していないのか、鈍い反応でこちらを窺った。意識の焦点が合うと、ぼろぼろの抜身の刀ををこちらに向けてきた。矢張り賊徒の側のようだ。

 

「ひっ!? くそ、また女か!」

 

 撃剣の使い手も女性らしい。一人か? 少なくとも少数なのだろうと、男の反応から当たりを付ける。

 

「仲間を捨てて逃げてきたのか?」

「ち、違わぁ!! お頭達に援軍をだなぁ……!」

 

 適当に鎌をかけたが簡単に乗って来た。ちらりと背後の平野を見遣る。自分達が進んできた街道を越えれば直ぐに瀟水に行き当る。とても匪賊の根拠地があるとは思えない。野営地も見渡す限りありそうにない。この怪我で後何里進む気だったのか。河をも泳いで渡るつもりか? 恐らく、朦朧とした意識で進む方角を見失っていたのだろう。此方が何を確認しているのか、遅まきながら気付いたのだろう、きょろきょろと辺りを見回しだしたのが気配で知れた。

 

「あ、ああ、畜生」

「かってにおちこんじゃったにゃー」

「……うるせぇ」

 

 なんだかなぁ、と力が抜けるのを自覚するが放って置く訳にもいかない。少なくとも本隊と別働隊に分けられる規模の匪賊がこの辺りに潜んでいるのだから。そして、そいつ等と戦っている誰かが。

 

「で、お頭とやらは本当はどの辺りに居るんだ?」

「誰が言うかよ」

 

 力なくそう言った。言葉に力は篭もっていないが、それでも拒否した。ならば仕方あるまい。いや、どの道、賊徒を見逃す理由もないが。

 

「賊なんぞ止めて真面目に働けばどうだ?」

「…っ、今更、んな道に戻れるか!! どうせ、どうせ……!!」

「こんな所でつまらない賊徒として滅ぶより余程ましだと思うがな」

 

 力を込めて睨んで来た。先程の虚無的な、半ば抜け殻の様な半死者は立ち消え、一匹の賊徒が憎悪を込めた眼で此方を射抜いて来た。

 

「……“持っている”私に言われても癪に障るだけか?」

「ああ、そうだよ! てめぇなんぞに俺らの気持ちなんざわからねぇだろうよ!」

「勝手に代表して言うな。お前と似たような境遇でも、故郷を棄てざるを得なかった人達でも、懸命に生きている人達は居る。私ではなく、そんな人達が言えばお前は納得するか?」

「…………」

「それとも奪うか? かつての自分から」

「ああ、そうだよ。おらぁもう骨の髄まで山賊なんだよ」

「ならば是非もないな」

 

 そこではじめて蕣華は秋草を構えた。トラはきょとんとしていたが大人しく事の成り行きを見守っていた。それはすぐに終わった。怒声をあげて突っ込んできた男を、無造作に振るった(少なくともトラにはそう見えた)秋草の一閃で斬り伏せて終わらせた。

 なんだか覇気のない蕣華を見上げる。らしくなく見える。わざわざ男を挑発して立ち向かわせた意味も解らなかった。

 

「賊徒なら賊徒らしく死ねばいいと思っただけだよ。こいつがその道を選んで最後まで違える事がなかったのだから。辛うじて動いているだけの屍みたいな奴斬るのも嫌だったってのもあるけど……」

 

 言われてもやっぱりよくは解らなかったが、「んにゃ」と頷いておいた。それには追求せず、蕣華は男の、死体に刺さったままの剣に注目していた。

 剣身の薄く、やや短い小剣。投げつければそれっきりである撃剣最大の欠点を補填する為に、複数本携行できるように工夫された剣だ。無論、撃剣と言えど常に剣を投擲し続けている訳ではない。しかし、打ち合うに不向きな造りだ。多数に囲まれる状況では避けるだけでは追いつかなくなる事態も大いにあるだろう。

 

「欲しいにゃ?」

「いや、持ち主に返した方が良いだろうな、と思ってね」

「じゃあ、取ってくるにゃ」

 

 言うが早いか、ぴょんと馬から飛び降りて薄刃小剣を引き抜いて戻って来たトラを再び馬に乗せ、先を急ぐ事にした。

 

「よし。じゃ、取り敢えずこいつが来た方角へ向かおうか」

「元気ないままでだいじょうぶにゃ?」

「ん、もう大丈夫だよ。ありがとね」

 

 いつもの様に頭を撫でてやると、にゃあと喜んできた。そんなトラの様子に元気付けられる。相手の意気を取り戻させるためとはいえ、馬鹿な事を聞いた。相手の経歴など判らない。だからこそ、適当に聞くべきではなかったか。

 

 

「でもほんと、賊徒なんてさっさと止めれば良かったんだけどな。止められれば……」

 

 最後に視線だけで振り向いて、小さくそう呟いた。

 

 乱世はもう来ている。

 巴郡は概ね平和だ。南蛮に混乱はなかった。交州は驚くほど発展していた。荊州に入ってようやく蕣華は漢の現状の、その一端に触れたのだ。

 乱世は既に来ている。まだ大波になっていないだけで、既にその波は打ち寄せているのだ。

 

 

 ――――

 

 

 小さな丘の向こうから剣戟の音が響いて来たのを聞きとめた蕣華は更に馬を急がせ、すぐさま丘の頂上に達した。そこから見えたのは、一人の少女が四人の匪賊と渡り合う姿だった。周囲には三人分の死体。少女の戦果だろう。

 その小柄な少女は、見た目に適わぬ俊敏な戦いを展開していた。両手に薄刃の小剣、腰には左右三対の皮革製の鞘、剣が収まっているのはうち一つ。矢張り打ち合うのを嫌って大きく間合いを開けるような回避で、縦横に踊る様に剣を奮っている。相手の刺突を背後へ跳躍する事で躱しざま、投げつけた剣は賊の首元に突き立った。賊が倒れる前に着地した少女は、傍に転がっていた死体に突き刺さったままだった剣を引き抜き、双剣を構え直した。ざりっ、と編み上げの長靴が踏みしめた大地が鳴った。肩は上下しているが、足元はまだまだしっかりしている。

 

 上手いな。敵の動きと自分の位置と周辺情報を正確に把握している。技量自体には目を見張るほどのものはない(賊からすれば十分な脅威を備えているが)が、戦い方の巧みさで実力以上の力を発揮している。とても智に生きる者とは思えない。いや、その智力が発揮されているからこその戦果か。

 そう、彼女は智者だ。深く被った牛仔帽(*117)の下の顔は見えないが、肩口までふわりと広がる樺色の髪には見覚えはない。だが、今生では初めて見るその制服には見覚えがあった。帽子と同色の墨色の色調こそ記憶にないが、その意匠は間違いあるまい。

 

 っと、いけない。少女の戦いぶりに感心してる場合ではない。何をしに来たのだか。

 蕣華が気を入れ直すと、残り三人の賊が悪態をつきながらも少女を包囲しようと駆けずり回っていた。

 

「ちっくしょう! このちびが!!」

「こんな無様、お頭には見せられねぇぞ」

「おお、そうだ! じき援軍が来る。俺たちはどやされるが、おめぇはもうお終いだぜ」

「来ないよ」

 

「は?」

 

 そう疑問符をあげた賊の一人は、何処からか飛来した少女の小剣に貫かれて絶命した。

 予想外の出来事に、皆止まった。まるで時間を縫い止めたようだな、と馬鹿な事を考えながら愛馬を戦場に滑り込ませた。

 

「トラ、すいさんにゃ!」

「ん、じゃあトラがやる?」

「いいにゃ?」

「いいけど、生かして捕らえた方が良いかな?」

 

 と言いながら少女に顔を向けると、既に構えを解いて成り行きを見守っていた少女は頷いて見せた。

 

「んな、なんだてめぇら!!」

「お待ちかねの援軍だよ」

「来ねぇっつったのはおめぇだろ!」

「お前達にはね。それよりいいのか?」

「は?」

「にゃにゃにゃー!」

 

 ずごん!と交州で新調した戦棍“虎侍(こじ)独鈷(どっこ)”がやはり疑問符をあげた賊の腹にめり込み、そのまま二丈(約4.6m)程も吹っ飛ばして悶絶させた。

 

「んな……」仲間の惨状を目で追った男は、その隙を突かれて自分も同じ末路を辿った。

 

「御披露目の相手としては物足りなかったかな?」

「にゃー、歯応えないにゃ」

 

 元気良く駆け戻って来たトラに声を掛ける。蒼梧郡広信県(こうしんけん)でトラに贈った新武器は良く手に馴染んでいるようだ。南蛮大王自慢の虎王独鈷を小振りにしたような戦棍は、目にした瞬間からトラの気に入りで、毎日時間を作っては振るっている。

 

「活躍の機会はまだあるさ」 

 

 そう言いながら撃剣使いの少女の方を向けば、剣を収めて此方に寄って来ていた。目の前まで来ると、丁寧に作揖(さくゆう)(*118)し、礼を述べてきた。

 

「御助力感謝致します」

「顔をお上げください。こちらこそ、もっと早く駆け付ければ良かったのですが、貴女の戦いぶりに少々見惚れてしまいまして」

「お恥ずかしい。貴女ほどの武人にそのように言われる程の武は持ち合わせておりませんよ」

「いや、実に巧みでした。智に生きる人の戦い方も良い参考になります」

 

 蕣華のその発言に少女は瞠目した。続く言葉と視線で納得した。

 

「水鏡女学院の名は故郷の益州にも届いていますよ。私の場合は恩師の妹さんも通っているそうで、よく話を聞きましたから」

「それにしても風聞のみで私の装束から見抜くとは、お見逸れしました」

 

 少女は再び頭を下げ、そして上げた時には頭髪と同色の樺色の瞳に強い興味の輝きを宿らせて名乗りを上げた。

 

「我が名は徐庶(じょしょ)(*119)。字を元直(げんちょく)と申します。お察しの通り、この春に水鏡女学院を卒業し、今は旅の身の上です」

「私は厳寿、字を慶祝と申す者。私も春に故郷を出でて今は大陸を見聞して回っています」

「トラだにゃ! なんばんだいおー孟獲しゃまのみょー……みょ?」

「名代」

「みょーだいとして漢のししゃつちゅーにゃ!」

「南蛮大王の…!?」

「にゃ!」

 

 徐元直の驚きに、誇らしく元気に返事を返す。

 

「それに厳と言うと、もしや巴郡の…?」

「太守厳顔は我が母です」

 

 此方も誇らしげであった。

 

 

 ――――

 

 

「見えてきました。あの村塢(そんう)(*120)です」

 

 村塢、と言う言葉通り、その村は周囲を塢壁(うへき)で囲まれていた。いわゆる環濠集落の形態であるが、村塢は漢朝の戸籍から消えた棄民達が寄り集まった自衛共同体であり、王朝から自立(若しくは孤立と言っても良い)している。

 簡単な自己紹介の後、なんとか話せる程度に回復した賊を尋問したのち縛り上げ、徐元直に請われてその案内の元、ここまでやって来た。馬上にトラと徐元直、蕣華は賊二人を担いで歩いている。

 

「高さはそれほどでもないけど、結構立派な土塁ですね。三十戸に満たない集落とは思えないな」

「ええ、それだけあそこに暮らす方々の決意が強いという事でしょう」

「そこを山賊に狙われた、か」

「なんでにゃ?」

 

 トラの疑問に元直が答えた。

 

「拠点とするに都合がいいのです。営浦県城(えいほけんじょう)に程近く、戸籍を棄てた人達の共同体だから官軍に助けを求める事も出来ないし」

「自衛団も大した数はないだろうし、よく引き受けましたね」

「私も故郷を逃げ出した身ですから。新天地で頑張っていこうとしている方達を見捨てる事は出来なかったんです」

 

 こうして乱れている荊州からもまた逃げようとしている私では頼りないでしょうが。と、力無く自嘲して続けた元直になんと声を掛けたものかと考えていると、集落の方から声が掛けられた。

 

「先生ー! 御無事でしたかー!!」

 

 見れば素鎗を持った若者が、土塁の上から手を振って声を張り上げていた。

 

「御心配お掛けしました! それと、頼もしい助っ人の方をお連れしました!」

「おお!!」

 

 若者が改めて此方を見遣る。大の男二人を軽々と担ぎ、立派な軍馬を伴った蕣華の姿に喜色満面。すぐさま後ろを振り返り、村塢中に聞こえるような大声で吉報を伝えた。

 

 

 ――――

 

 

 塢主の家へ案内され、歓迎もそこそこに件の山賊に対する軍議がその場で開かれた。塢主(うしゅ)(*121)と自衛団の代表者もその場にいる(ついでに捕虜とした二人の賊も転がっている)が、発言するのはもっぱら徐元直と蕣華、時々トラといった具合だ。

 

「斥候部隊が全滅したわけだけど、連中の行動に変更はあるでしょうか?」

「捕虜の話からすると、賊の頭目はどうも堪え性のない女のようですから、この村塢が得た助っ人が少数と知れば結局は数で押し潰してこようとするのではないでしょうか?」

「こっちの数わかるのにゃ?」

「戦闘痕を見れば、斥候を屠ったのが少数であると知れるでしょう」

「そういや、連中の死体野晒しのままだしな」

「それでなくとも、この周辺に官軍以外でそれなりの規模の軍集団には目を光らせていると思います。わざわざ脅しを掛けて猶予を与えたのは、この近辺で今後自分達の脅威として立ちはだかる勢力が居るか見極める為もあるのかと」

「成る程。一緒くたに潰してしまえば、後の活動が楽になると」

「? 官軍はむしかにゃ?」

「そう言えばそうだ。ここが国に頼れないとしても、山賊が派手に活動すれば放ってはおかれないでしょう」

「それが、現在荊州南部三郡は武陵郡(ぶりょうぐん)を巡って州軍と睨みあっているのです」

「ええ…」

「?? 意味わかんないにゃ」

 

 突然出てきた意味不明な荊州の現状。その詳細を聞いて蕣華は思わず頭を抱えた。

 

「現在の長沙(ちょうさ)太守張羨(ちょうせん)(*122)と荊州牧劉表(りゅうひょう)(*123)は折り合いが悪く……」

「いや、折り合いって」

「張羨は民心を掴み郡政に励んでいたのですが、劉表からは全く評価されず無礼な扱いを受け続けたと聞きます。その恨みが積もり積もって、かつて歴任した桂陽(けいよう)と零陵二郡の民心をまとめ上げて、劉表に対して公然と『州牧として相応しくない』と叛してしまったのです。それに激高した劉表は南郡(なんぐん)江夏郡(こうかぐん)をまとめて対抗しているのです」

「いやいやいやいや、それで国から預かった官軍を動かしてるの? 両者とも?」

「信じがたい事でしょうが」

「ええー」 

「わけわかんないにゃー」

 

 完全に内乱状態じゃないか。そりゃ山賊への対応など鈍くもなろう。棄民も出よう。予想外にして想像以上の惨状に、蕣華は暫し山賊退治の事を忘れて唖然としていた。驚きのあまり、徐元直への口調が普段の物になっているのにも気づけなかった。

 

「いや、もうここの現状は一先ず脇に置いておこう。今は山賊をどうにかしないと」

「そうですね」

 

 改めて本格的に尋問し、賊から聞き出したところ、山賊の頭目は名を郭石(かくせき)(*124)と言い、普段は百人程を率いて近辺を荒らし回っているが、一声かければ五百からなる荒くれが集うのだという。近年の荊州南部の乱れを利用して伸し上がって来たこの女悪漢は更なる勢力拡大を目論んでおり、その為の拠点の一つとして目を付けられたのがこの村塢であるという。

 

「で、明け渡すよう脅しを掛けてきたわけだ」

「なるべく無傷で手に入れたいでしょうから、いつもの襲撃の様に村内で暴れ回るわけにもいかなったのでしょう。無論、それ以外にも狙いがあるからこそ、このような悠長な真似をしているのですが」

「さっき言ってた先の障害となる勢力の見極め、か」

「まだあります」

「にゃ?」

「頭目の名を聞いて思い当たることがありました」

 

 桂陽郡で暴れ回る山賊に周朝(しゅうちょう)(*125)という男が居る。千を優に超える賊を率いる大頭目で、県が招集できる程度の兵では手も足も出ず、郡が討伐に乗り出すもこれとは真面に戦わずのらりくらりと躱して悪事を重ねている。

 この男には恋人がおり、その情婦もやはり山賊を率いて此方は零陵郡を、まるで周朝と競い合うように荒らし回っているのだとか。

 

「もしかして、その恋人というのが」

「郭石と言う名と聞き及びました。周朝と同程度の賊を率いている筈です」

「いきなり倍に膨れ上がったな」

「うそついたにゃー」

 

「せ、千人なんて、そんな集まったの見た事ねぇよ!?」

「本当かよその話!」

 

 元直の説明に間の抜けた顔で呆けていた賊二人は、トラの言に反応して再起動を果たし逆にこちらに詰め寄って来た。それに「にゃー?」と疑問の声を上げるトラに元直が説明を続けた。

 

「恐らく、この二人は比較的最近になって郭石の勢力に取り込まれた連中なのでしょう」

「頭目の全貌を知らなかったって訳か」

「それなら万一こうして捕まっても、重要な情報が敵に漏れるのを防げますから」

「誤算は、元直殿の様な情報通が此方に居た事か」

「すごいにゃー」

「い、いえ、それほどでも」

 

「しかし、五百が千となると相当厳しいけど、実際どの程度の戦力を引き連れてくると思う? それと、郭石の勢力に対抗できそうな豪族は近辺に居るのかな?」

「零陵に限らず荊州南部は異民族が多く、自衛の為に部曲を抱える豪族は多いのですが、昨今の王朝や州の乱れから郭石らに限らず匪賊が蝗の様に湧いております。更に、今やこの村塢の様に後漢王朝にも地元豪族にも従わない不服従民も増え、情勢は混沌としています」

 

「純粋に千の軍勢に対抗できる豪族も居ない事もないですが、当てにはできませんね」

「ふむ」

「しかし、郭石もまたこのような情勢下では軽々に全勢力をこの村塢に傾ける事はしないでしょう。恐らく五百を以って圧力を掛けてくるかと」

「それでも半分持ってくるんだね」

「捕虜の出した数字にはそれなりに検討する価値があるかと」

「ああ、今回出す全戦力としては五百と」

「五百なら姉ーだけでじゅーぶんにゃ!」

「簡単に言わないの。それに五千や万の中の五百を蹴散らすのと、五百しかいない五百を殲滅するのでは訳が違うよ」

「三々五々散ってしまいますからね。それにしても、如何に山賊と言えども五百という数に動じないのですね」

「いや、山賊だからですよ。これが真っ当な調練を受け軍規で統制のとれた五百なら大言は吐けません」

 

 蕣華のその自信に、顎に手を当て僅かな時間、沈思して元直は方針を決めた。

 

「ふむ……、それなら慶祝殿に侵攻してくる五百を蹴散らしてもらいましょう」

「え、でもそれじゃこの場しのぎにしかならないんじゃ」

「攻め寄せてくるのは五百でしょうが、まず間違いなく残り五百も近くに潜んでいる筈です」

「それは、豪族が、或いは異民族が反応するかもしれないから?」

「そうです。慶祝殿の仰る通り、我々、いえ慶祝殿がこの村塢に何時までも留まっていられないのですから、ただ攻めてきた連中を蹴散らしても意味がありません。そしてそれはこの村塢単独戦力で成したとしても同じです」

「郭石か」

「そうです。彼の女が居る限り、根本的には解決しません。郭石、それと周朝はただの賊ではないのです」

「じゃー、どうゆう賊にゃ?」

「長沙郡に区星(おうせい)(*126)という“将軍”を自称する盗賊の巨帥がいます。確証はありませんが、私は周郭両名がこの巨帥の配下ではないかと睨んでいます」

「……なんかどんどん話が大規模になっていってない?」

「ええ、そうですね。これは私が見立てた話ではありませんが、この区星と言う賊、国家に対して大規模叛乱を目論んでいるのだとか」

 

 ここまで来て遂に蕣華は頭を抱えた。実際に頭痛に見舞われた気分になるほどに酷い。荊州の為政者達は何をしているのか。下らない、個人的な事で安んじるべき領地を乱れに乱れさせるなど言語道断である。蕣華は今、荊州牧と長沙太守を極自然に諱で呼びつけてしまう程に憤っていた。

 

「劉表と張羨はその事は?」

「どちらにも水鏡女学院から警告が発せられました。張羨は流石に警戒しているようですが、劉表は……正直、判りません。少なくとも、何らかの行動を起こしたとは聞き及んではいません」

「益州じゃそれなりに良い評判を聞いてたけど」

「確かに手腕も良く、学問の振興とそれに伴う学士の庇護など見るべきところも多くありますが、実際にはそれ以上に野心の強い男ですよ。彼の元には豊富な人材が揃っていますが、それも劉表の徳の元集ったなどと流布させていますが、あの手この手で掻き集めた家臣団です」

 

 魯恭王(ろきょうおう)の後裔は野心がないといけない家系なのかも知れない、と詮無い事を考える蕣華であったが、徐元直の言葉で現実に引き戻された。

 

「話を戻しましょうか。私はこの機に郭石を討ち取りたいと考えます。その為の策をこれより授けます」

 

 

 ――――

 

 

 日が高くなった頃、人口百人程の村塢の目前に五百もの軍勢が詰め寄せていた。装備・装束はまとまりがなく、隊列なども碌に組んでいない。緊張感もなく集落に向けて進んでいた。烏合の衆といったところだが、小さな集落には致命的な外敵であった。

 郭石率いる山賊、と言ってもこの場に郭石はいない。元々、この程度の規模の集落を落とすのに態々出張る事もないと侮っていたが、斥候が返らず、誰かにやられた痕跡を見付け、村塢に攻め寄せる直前に改めて十人ほどを先行させると、村塢の正門上に白旗が翻り、門が開け放たれているとの報告を受けた為だ。

 斥候は旅の武芸者か何かにやられたようだが、そいつ(或いはそいつ等)はちんけな村一つの為に自分達と本格的に事を構える事無く去ったのだろう。賢明な判断だ。

 

 脅しは利き、豪族も自衛以外には動かない、官軍は州と睨みあっている。全く楽な仕事だ。予定していた五百で集落をさっさと要塞化させる為、材木等も一緒に運ばせていた。おかげで進みは遅いが別に何の問題もない。村塢の門に一人の騎馬武者が姿を現しさえしなかったら……。

 

「全く、姿が見えてからたったこれだけの距離を何をのろのろとしているのかと思えば、何か運んでいるな? 拠点化する為の建材か何かか? 気の(はや)い事だ」

 

 門の陰に身を寄せて待っていた蕣華は、賊徒共の顔がはっきりと見分けられる距離にまで接近してきた所でその姿を見せた。

 

「なんだぁ? てめぇは!!」

「婆のしょぼくれた狗共に名乗る名はないね」

「ばっ、お前殺されるぞ!?」

「へぇ、そりゃ面白い。殺れるものなら殺って欲しいものだ。出てきたらどうだい?」

「いや、ここにゃいねぇけどよ」

 

 居れば話は早かったのだが、まぁ、仕方ない。元々その可能性の方が高かったのだ。ならば予定通りに目の前の山賊共を蹴散らすとしよう。頭目はそれなりに名を売っているようだが、率いる山賊はそこらの一山いくらと変わらない。斥候に出ていた連中の質からそうであろうと判断していたが、実際に対峙して矢張り自分の脅威にはならないと確認できた。何の問題もない。

 

「なんだ、随分と臆病なんだな。ま、お前等の面を見ればそれも納得だが」

「てめぇ、さっきから随分と調子こいてやがるが、この数とやる気かよ?」

「今更、謝っても遅ぇぞ?」

「羽虫がどれだけ寄り集まろうとも羽虫は羽虫。猛禽に敵うなどと、お前達こそ恥ずかしい勘違いは止めにすることだ」

 

「ってめぇええ!」「ぶっ殺すぞ!」「あああっっ!」

 「殺せぇえええ!!」「調子乗りやがって!」

「餓鬼がぁ!」「死ねや、おらぁ!!」「馬鹿が!!!」

 

 蕣華の挑発に、雪崩を打って襲い来る山賊共。だが、蕣華はそれよりも早く動いていた。相手が勢いに乗り切る前に此方が騎馬の勢いを活かして最前の数人を一閃の元に血祭りにあげた。

 そのまま中央を文字通り切り裂いて駆け抜ける。直前まで完全に油断しきり、命の取り合いに対して心も肉体も何の準備も出来ていない烏合の衆など、何らの脅威どころか障害にすらならずただ命を散らしていった。

 そうして彼女が通り抜けた後には、やけに障害物の多い赤い道が出来ていた。

 殊更にゆっくりと馬を返して振り返る。

 

「どうした? 掛かってこないのか?」

 

「な、なんだこいつ。やべぇぞ」

「馬鹿野郎! どれだけ強かろうが向こうはたった一人だ、囲め!! 馬を走らすな!!」

 

 そう言われて群集に突っ込む奴など居ない。右回りに外縁の敵を屠っていく。村塢の正門に戻って来る頃には、山賊は恐慌状態に陥っていた。此方に掠り傷一つ負わせられず、味方だけがただ無残に斬り捨てられるのだ。あっという間に戦意は萎えていった。これには蕣華の戦い方も一役買っていた。

 蕣華は敵の四肢を(時には胴さえも)両断する事が多い。この時、寸断された腕やら首やらが四方に飛び散るのだ。前方で味方の悲鳴が上がったかと思えば、その肉体の一部が血の雨と共に降ってくるのだ。これは堪らない。戦の狂騒に乗る事も出来ず、ただ死をぼとりと突き付けられるのだ。大した覚悟も持っていない賊徒には一溜まりもなかった。

 また、そのような派手な屠り方をすれば、蕣華自身も戦えば戦うほど血に塗れていく。ただ其処に己の血だけがなく、捕食者の笑みを浮かべた紅の荒武者と化す。五百の山賊の心を圧し折るに充分な恐怖の体現が戦場を駆け抜けた。

 

「やっぱ、やべぇえええ!」

「に、逃げろっ!!」

「はっ、なんだなんだ情けない奴等だ! 所詮うらぶれた婆に跪くような屑共だな!」

「ひぃいいっ!」

「この様子では周とかいう賊も虚名頼りの木偶であろうな!」

「たた助けてくれ!!」

 

 このまま本隊毎撤退されては意味が無いので、入念に挑発しておく。できるだけ数を減らしながら、挑発を聞き届けたであろう連中はそれなりに逃がす作業を、山賊どもが散り散りになるまで続けた。

 

 

 ――――

 

 

「こ、ここ、この私を虚仮にしただけでなく、愛しいあの人まで馬鹿にしやがったてぇのかい?!」

 

 山賊本隊が(たむろ)する小さな盆地に、妙齢の女の怒声が轟いた。零陵を荒らし回る山賊の大頭目郭石である。

 まさかの村塢奪取失敗に加え、それを成したたった一人の小娘があろう事か、自分とその恋人を散々に扱き下ろした事を知った女悪漢は、かつてないほどの憤怒に燃えていた。

 

「行くよお前等! その小娘ばらばらに引き裂いて胆を豚に喰わせてやる!!」

「ま、待ってくだせぇ お頭!」

「待てだと?! 小娘一匹怖気づいたんじゃなかろうね!」

 

 引き留めた配下の襟元を引っ掴み、ぎりぎりと締め上げて喚き散らすが、その配下も何とか冷静になってもらおう大声で言葉を尽くす。

 

「その小娘、間違いなく一騎当千の化け物ですぜ! 散り散りになった連中を集めて腰据えて掛かった方が……」

「この私が負けるってのかい? 逃げ散った連中なんざ役に立つかい! そいつ等の落とし前は後で付けるよ!!」

「周の兄ぃの事まで知ってやがるんですぜ!」

 

 その言葉に、郭石が動きを止めた。一瞬前までの激情が嘘のように静かになる。

 

「こっちの事に随分と詳しいようだねぇ」

「となりゃ、お頭達を討ち取る為に万全を期してるとしてもおかしかねぇ」

「となると伏兵かい? おい! 近辺の豪族に動きはないんだね?」

「そいつは間違いありやせん!」

 

 脇で経過を見守っていた別の配下に確認を取るが、考えていたような状況にはなっていないようだ。ならば他には……

 

「ふむ、小娘と同程度の奴があと何人か居るのかも知れないね」

「そりゃ、下手な援軍よりやばいっすよ」

「ふんっ、どれだけ強かろうと少数にできる事なんざたかが知れてるよ。だが、今回はこっちも村そのものに手を出すのは避けたいからね……」

 

 郭石はしばし考えを巡らすと、がしがしと頭を掻いて目の前の配下に命を下した。

 

「ちっ、しゃあないね。散った連中を呼び戻しな。こっちも万全を整えて攻めるよ」

「へいっ!!」

 

 ――――

 

 

 陽が中天を過ぎ暫く経った頃、村塢正面の戦場後に泰然と佇む蕣華の元にトラが戻って来た。

 蕣華と共に村塢の門陰に潜んでいたトラは、蕣華が賊を蹴散らした後に姿を現し、そのまま逃げ惑う賊共の中で最も大きな群れを追跡し敵本隊の場所を偵察していた。蕣華、正確には徐元直からの指令で敵情を探り、すぐさま逆襲してくるのか、或いは、可能性は低いが撤退するのか、それを見極めて戻って来た。

 トラはこう見えて優秀な斥候だった。その資質があった。蕣華がそれに気付いたのは交州の山中にて羚羊を探し求めていた時だった。獣の通った僅かな痕跡を発見し、自身の痕跡は可能な限り無くし、気配を殺して目標に近づく。野生児であり、日常的に狩猟生活を送っている南蛮人ならばこれくらいは誰でもこなせるというトラの言には驚きと共に妙に納得した。ただ、南蛮兵はこの特技を戦に活かすという発想は無いようで、トラに斥候の重要性を説いてもきょとんとされるだけだった。しかし、「姉ーのやくに立つにゃら!」と張り切って斥候としてのいろはを旅路の馬上で聞きかじっていた。

 そして、今正にその資質を開花させ、見事役目を果たして帰還したのだった。普段は騒がし過ぎるくらいに元気なトラの成果に、喜色満面で蕣華は出迎えた。

 

「姉ー、賊はぜいいんしゅーごうしてこっちに向かってくるにゃ!」

「有り難う、トラ。お疲れ様だったね」

「にゃ! 鹿や猿にくらべればらくしょーだったにゃ! 連中にぶすぎにゃ!」

 

 這う這うの体で逃げ惑う賊徒と、警戒を怠れば無残な死がすぐ横にある野生の獣では確かに比べ物になるまい。それでも油断せず、気配を殺しきっていたからこその成果であろう。今もこうして傍に居るだけで元気満身な気配を発散させているトラの初働きに、蕣華は下馬して、頭をいつもよりも愛情を込めて撫でてやった。にゃー、と喉を鳴らすトラを一頻り堪能した後、報告の続きを行った。

 

「連中は何処に居るの?」

「あっちの方、十里(約4.14km)くらいにゃ」

 

 言いながら南西の方角を指し示すトラの指を辿る。十里、それほど起伏もない、逃げ散った連中を糾合すれば八百は超えてくるだろう、軍集団としては大した数ではないが整然と行軍できるとも思えない、敵頭目の聞き出した性質から急がせるだろうか、しかし再集結を選択したのならある程度は冷静に事を運ぶか、それでも到着して即交戦は間違いない、となれば十分な余力を残した行軍、小休止を挟むだけの堪え性がなければ一時(約二時間)は超えまい、それでも半時(約一時間)を割る事はまずあるまい。

 

「トラが見た時、どれくらい集まってた?」

「一番おっきなかたまりしか戻ってなかったにゃ」

「どれくらい散ってたか分かる?」

「にゃ……、西にも東にも逃げてったやつらがいたにゃ」

「ふむ……」

 

 となれば再集結にはそれなりに時間が掛かるか、万全を期すならかなりの時間が、堪えきれなくなれば時間的余裕は少なくなるが敵数も減るだろう、それでも七百は来ると見た方がいいだろう。

 しばし黙考する。この場に徐元直が居れば直ぐに対応を弾き出すだろうが、生憎と彼女はここには居ない。夜までは時間を稼がなければいけない。

 

「……よし。それじゃ、村塢の人達に予定通り準備に掛かるように言ってきて。そしたら、トラは暫く休んでていいよ」

「わかったにゃ!」

 

 疲れを見せずに村へと駆けて行くトラの背中を見送ってから、視線を山賊共の居るだろう方向へ向けた。

 このまま敵駐屯地に単騎で突っ込み郭石の首を討てばそれで終わりだ。自分以外の戦力がこの場に在れば、有力な選択肢だ。しかし、村塢の自衛団は蕣華から見てとても戦力とは言えない。

 

「郭石が私を十二分に警戒してくれる事に期待するか」

 

 ふぅ、と溜め息を吐きつつ独り言ちた。

 

 

 ――――

 

 

 陽が傾き地上が朱味を帯び始めた頃、八百と五十にわずかに届かない山賊の群が遂に村塢の前に現れた。

 先頭には郭石と思しき女。体格的には見るべきところは特にない。周囲の男共より頭一つ分は低く、よく引き締まった肉体の上にはうっすらと程良く脂肪が乗り、特に胸部は己の性別を充分に主張している。顔付きは険が強いが、切れ長の黒い目と細く長い眉はこの山賊にまずまずの美を与えていた。肩まで伸ばされた波打つ深黄(こさき)色の髪は、今はべったりとした橙色に見えた。

 鎧甲の類は纏っていないが、その手には特徴的な蛇尾傘槍(だびさんそう)が握られていた。槍頭下部に下向きの短い鈎が四本、更に下部に上向きの長い鉤が二本、下向き鉤を覆うように伸びている。見た目にも奇怪で扱いの難しい武器だが、使いこなせば攻守ともに優れた武器である。

 随分と珍しい得物を振るう女悪漢は、元々険のある顔を不機嫌そうに更に顰めていた。ここに到達する前から臭い始めていたが、目の前に来ると最早我慢できずに悪罵した。

 

「臭い! 臭いったらないね! なんなんだい、忌々しい!!」

「糞尿の臭いっすね。なんでこんなもん撒きやがったんだか……」

 

 山賊共の眼前には踏み荒らされた糞尿の臭い滾る戦場後。よく見れば(見たくもないが)、倒れ込んだ草々の其処彼処に糞が降り掛かっている。

 その戦場後の両側を囲むように手下共の無残な死体が、踏み荒らされていない茂みとの境界とばかりに並べられている。片づける時間もなく、戦場の邪魔にならぬよう脇に除けただけのような様相だが、それで肝心の場に糞を蒔くなど意味が不明である。

 そして、糞尿の野の向こう側には、脇に篝火を焚いて悠然と単騎で佇む馬上の少女。心なしか嫌そうな顔をしている馬と違い、うっすらと笑みを浮かべ平然としている若武者を睨み付ける。

 斥候の報告通りではあるが……。

 

「本当に伏兵は居なかったんだろうね?」

「へ、へい」

 

 どうだかね。心中で疑問の声を挙げながら周囲を軽く見回す。この臭いだ、偵察など早々に切り上げたに違いない。糞尿を避けて茂みを行けば、何を喰らうか判ったもんじゃない。ええい、忌々しい!!

 

「ふん、伏兵があったとしてもどうせ村の連中だろうさ。問題にもなりゃしない。あの小娘さえぶっ殺せばそれで終いだ」

「ですね」

「よし、行きなお前等!」

「へ?」

「何、ぼっとしてんだい?」

「い、いや、ここを突っ切るんですかい?」

「当たり前だろうが! こんなあからさまな事されて、茂みの罠にかかりゃ一発でお陀仏だよ!! いいから行きな!!」

「へ、へい! いくぞ、てめぇら!!」

 

 郭石の怒号に、いやいやながらも突貫を始める山賊達。それを見て、さすがの蕣華もほんの僅かだが彼等に同情した。とは言え、彼女の中には微塵の容赦もない。罠に掛かった獲物はただ仕留めるのみだ。愛馬の首筋を撫でて宥めながら山賊共が十分深みに嵌るのを待つ。

 あと数歩で先頭の賊が自分の殺傷圏内に入るというところで、脇の篝火に突っ込んでおいた松明を手に取り、糞野の中央へ投げ入れた。

 そして、悪臭の中、先陣を切ってきた賊を一瞬で切り伏せ篝火をそちらに倒し込むと、中央と先頭で火の手が上がった。

 

「糞尿の上からさらに油撒いていやがったのかい?!」 

 

 糞尿は油の匂いを誤魔化す為と、周囲に罠の気配を匂わす為だったのか。本命は逆。火に巻かれ絶叫を挙げる手下の姿を目の当たりにして、ようやく思い至った。確かにあからさまに過ぎたが今更だ。火の勢い自体はそれほどでもないが、悪臭と熱波で一気に大混乱に陥っている。まだ火の届いていない所に居る連中も慄いている。

 

「ええい、くそっ! 脇を抜けて行くんだ!!」

 

 まだ糞野に足を踏み入れていなかった手下共に指示を出すが、火から逃れようとする連中も死体を跨いで我先に茂みに踏み入っていた。そこでかち合えばまた多少混乱するだろうが仕方ない。だが、そうはならなかった。

 茂みに進入した者共も、ぎゃっ!と悲鳴を上げて倒れ込んでしまったのだ。

 茂みの死体沿い、そして、山賊側には板から飛び出させた竹釘の罠が張られていた。それ程の数は用意できなかったが、設置個所を限定する事でそれなりの効果を発揮していた。山賊が最初に糞野を選択してくれた事でその効果は本来のものよりも大きくなっていた。

 

「こ、こっちにも?! ええぃ、悪辣な!!」

 

 だが、まだ終わりではなかった。更なる追い打ちとして西側の茂みの奥から喊声(かんせい)と銅鑼、多数の金属を打ち鳴らす音が響き渡った。落ち着いてよく聞けば、声を上げている者は多くて数十、金属音も一か所に固まっている。しかし、この場である程度落ち着いて居る者など郭石以外には居なかった。最早、恐慌状態に陥った山賊共は我先にと逃げ出してしまった。あっという間に半数以下に減った手下共に喝を入れようと口を開いたところに、なんと炎の糞野を駆け抜けてきた騎馬武者が目の前に現れた。

 

 ぶるるっ、と実に不機嫌そうに鼻を鳴らす愛馬を宥めすかして、敵頭目に向き直る。

 

「郭石だな?」

「小娘が!? 狡すっからい手を打ちやがって!!」

「ここまで上手くいくとは思わなかったよ。あっという間に瓦解したな」

「それでも、これだけの手勢が残ってりゃこの村落とすくらいわけないよ!!」

「お前が無事ならば、だろう?」

()れるつもりかい?」

「お前こそだよ」

 

 両者の間で言葉が交わされる間にも殺気が膨れ上がっていく。やがてすぐにそれは臨界に達し合図も何もなく殺し合いが始まった。

 

 馬上からの大上段を下部上向きの長鉤が受け止めた。力任せにではなく、受けると同時に引いて力を受け流しながら受けきってみせた郭石に、蕣華は相手の評価を一段改めた。油断や慢心はなかったが、少々見誤ってはいたようだ。秋草を引こうとすれば、上部下向きの短鉤に引っ掛けて此方の体勢を崩そうと力点をずらしながら引っ張る所なども巧者振りが光る。だが、

 

(ふんっ)!」

「んなぁっ?!」

 

 だが、それを満身を込めた膂力で跳ね退け、絡んだ蛇尾傘槍ごと郭石を振り上げ、大地に叩き付けた。

 

「ッかっはぁ……!?、ば、化け物め」

「おいおい、私なんぞに向かって化け物などと評するような体たらくで天下を窺うような大乱を引き起こす気だったのか? 身の程知らずにも程があるぞ」

「くっ……」

 

 衝撃と痺れにがくがくと震える身体を無理やり引き起こしながら、それでも戦意萎えず蕣華を睨む郭石とは裏腹に、二人の一騎討ちが始まってから周囲を囲んで見守っていた残りの山賊達は、最後の支えを半ば失い今度こそ完全崩壊しようとしていた。

 無論、それを黙って許す郭石ではない。伊達に多くの山賊を率いてはいないのだ。手下共の及び腰な空気を敏感に察知し、蕣華に向かって槍を構えながらも即座に怒号を以って命じた。

 

「ぼさっとしてんじゃないよ! 茂みに隠れた連中をぶっ殺してきな!! 大した数じゃないよっ!!」

「へ、へいっ!」

「にゃーっ!!」

 

 しかし最高の機を狙ったかのような横槍が入れられた。村塢の自衛団と共に茂みに潜んでいたトラが、密かに山賊の群れに接近して来ていたのだ。蕣華に予め命じられていたわけではない。ただ、蕣華の役に立ちたい一心で、蕣華が褒めてくれた自身の技術を発揮して、最高の働きをして魅せた。

 

「にゃにゃにゃにゃにゃにゃにゃー!!」

 

 トラはそれほど武勇に優れている訳ではない。だがもともと及び腰になっていたところに、完全に不意を討たれた賊徒共は為す術なくトラの奮う虎侍独鈷の元に沈んでいった。

 

「な、なんだこの蛮族の餓鬼、どこから湧いがぎゃっ?!」

 

 予想外の闖入者に呆然と目を奪われた郭石は、最後まで言葉を続ける事は出来なかった。

 

「おい」

「っが……、私の腕が…ぁ……」

「お前今、トラに向かって何と言った? 蛮人は貴様の方だろうが」

 

 馬上からの冷えた声に応える事も出来ずに、失くした右腕を押さえて蹲る郭石の首元に秋草の刃を当て、すとん、と驚くほど静かに落とした。

 

 

 ――――

 

 

 頭目の首が落とされ、完全に心が圧し折れた山賊の残党は、無様な悲鳴を上げながら一目散に逃げだしたが、それも叶わなかった。

 朱色の空が半ば以上暗い藍色に染め直された中、急ぎ駆け付けた営浦県の県兵達に追い回され狩られる羽目に陥ったのだ。その県兵を率いて来た営浦県令の脇に控えるのは徐元直その人であった。

 

 抗戦するような気概もなく、逃げ惑うしかできない残党を眺めて、終わったな、と肩から力を抜き、此方へと駆け寄って来る徐元直を、すでに傍に寄って来ていたトラと共に出迎えた。

 

「お疲れ様でした、慶祝殿」

「元直殿こそ、本当に官兵を、それも日が落ちきる前に引っ張って来るとは感服しました」

「感服したのはこちらの方ですよ。官兵など必要なかったようですね」

「それこそ貴女の策あっての事ですよ。連中、面白いくらい罠に嵌ってましたよ」

「それは、是非とも自分の眼で見たかったですね」

 

 互いにほんの少し前に纏っていた緊張の痕跡すら見せずに言葉を交わし合う。笑顔も覗かせ、街角で談笑でもしているかのような空気は、異臭漂うこの場に非常に似つかわしくなかった。

 

「それに、トラが良い仕事してくれましたから」

「にゃ! トラ、頑張ったにゃ!」

「ああ、よく頑張ったよ」

「そう、トラちゃんもお疲れ様」

「にゃー」

 

 真っ平らな胸を誇らしげに張るトラに、柔らかな笑顔で労う元直を眺めていると、なんだか無性に嬉しくなる蕣華であった。

 

 こうして、とある村塢を巡る山賊との戦は幕を閉じた。

 

 

 

 第七回――了――

 

 

 ――――

 

 

 山賊が追い立てられ脅威が目の前から去った村塢の者達と簡単な挨拶を済ませ、蕣華とトラは元直と手早く口裏を合わせて県令に謁見し、此度の一件は落着と相成った。

 

 そして今、蕣華達は営浦県に滞在していた。

 蕣華とトラにはもともと旅の進路上にあった為、特に問題はなかったが、荊州を抜けようとしていた徐元直も営浦県に留まっていた。否、彼女こそがこの地に滞在する最も強い理由があった。

 

「それにしても、良かったのですか?」

「問題はありません。何もずっと仕える訳ではありませんから」

 

 元直が営浦県に滞在する理由。それは、営浦県令に客将として暫くの間、智恵を貸すという条件で賊討伐の兵を出陣させたからであった。

 この場に長々と逗留する積りもない。すでに幾つか献策したい事案があり、具体的な方策もほぼ練り終わっている。それを果たせば再び身軽な身の上だ。

 

「そうは言いますが……」

「ふふ、大丈夫ですよ。私がその気になれば、止められる者など此処には居りませんから」

「ならいいのですが」

「それよりも、此方こそ申し訳ありませんでした」

「? 何がです?」

「郭石の首級(みしるし)です」

「ああ、いいんですよ。あんなもの」

 

 条件はそれだけでなく、郭石討伐の手柄の全てを県令のものとする事も含まれていた。更に言うならば、郭石は討たれるものとして話を持ち出したのだった。頭目亡きあとの山賊を、頭目喪失の混乱から立ち直る前に叩くという名目で県令は兵を出す決断を漸くしたのだった。

 この交渉の際、村塢の事は一切話に出さず、ただ一騎当千にあたる旅の武芸者が郭石を討たんと、山賊退治に乗り出したと切り出したのだ。県令はその尻馬に乗るだけで良いと、知己である武芸者から郭石討伐の執り成し図れると、何となれば己が智謀を駆使すれば県令を勝利者にするは容易いと、あの手この手で県令の腰を持ち上げ戦場まで馳せ参じたのである。

 

 こうして少数ながらも全てを騎兵で纏めて押っ取り刀で駆けつけてみれば、正に郭石は討たれ戦意を喪った山賊の残党が呆然とあるだけであった。それでも急遽掻き集めた県兵より数は多かったのだが、直前まで殆ど一人に翻弄され続けた山賊達にこれ以上抗う意気などある筈もなく、ただ追い立てられ狩られるだけの木偶と化していた。

 思った以上の状況と戦果に気を良くした県令は、元直の進言・忠言によく耳を傾けるようになり、一連の流れの中で小規模な村塢の存在などは問題とする事もなく簡単に黙認される事となった。

 

 誰にとっても満足のいく結果が訪れたが、元直は蕣華の、そしてトラの奮戦が無かった事になったのを気にしていた。一方の蕣華は、下手に名が売れる事で動き難くなる可能性を疎んでいた為、寧ろ助かったと言った心地であった。

 

「旅は身軽な方が好いですからね」

「そう言って頂けると助かります。 旅と言えば、御二人はこれからどちらを目指すのですか?」

「まずは洛陽に……、と、その前に南陽もよく見てみようかと思います」

「南陽、そして洛陽……ですか」

 

 つと黙考に沈む元直。なんであろう?と思いつつも、蕣華も訪ねたい事が、そして提案したい事があって口を開いた。

 

「元直殿は此方の務めが済まわれたら、どちらへ向かわれるお積りですか?」

「元々は交州まで逃れようかと考えていました」

 

 元直は蕣華の言に何かを感じ取ったのか、僅かに期待を込めて返答し続く言葉を待った。表面上は何も気取らせず平然としたものだったが。

 

「交州、ですか。確かに思った以上に安定し、発展していましたが」 

「そう言えば、慶祝殿達は交州を巡ってこられたのでしたね」

「ええ、まぁ」

 

 

「……あの、もし良かったら、巴郡に渡り母に御助力願えませんでしょうか? ……元直殿?」

「……あ、いえ、失礼しました。巴郡、ですか」

 

 思っていたのと若干違う提案に、一瞬、反応を示せなかった自分に苦笑しつつ答えた。

 

「そうですね、巴郡も安定していると聞き及んでいますし、なにより慶祝殿の御母堂でしたら何らの憂いもありません」

「そうですか! 良かった!!」

「しかし、私のような若輩でかの壮烈将軍の力になれますかどうか……」

「何をおっしゃいます。 それにお恥ずかしながら、母は安遠将軍府を開府以来、軍師らしい軍師が傍に居たことがないのです」

「そうだったのですか? 寡聞にて存じませんでした。幾度も異民族を跳ね除けた武勇は伝わっておりましたが……」

「今迄は母の経験と戦場勘でやってこれましたが、これから先の事を考えると……」

「昨今の乱れが益州にも届けば、異民族を睨むだけでは確かに足りなくなるでしょうね。益州にも魯恭王の後裔が鎮座している事ですし」

「はい。実際に州牧が何を考えているのかは、私などには考えの及ばぬところですが、元直殿が母の傍に居てくれたら心強い限りです。母に宛て紹介状を書きますので」

「ふふ、それでは、ここでの務めを早々に片付けて向かわせてもらいますね」

「宜しくお願いします」

 

 晴れ晴れとした顔で嬉しそうに母の事を託してくる蕣華に、元直は気持ちを切り替え、まだ見ぬ益州巴郡を想い、己の往く先を見据えた。己の智が世に出る時が来たのだと。

 今の大陸では、これから乱れゆく大陸の情勢下では求められるは権謀軍略。平穏な世であれば政への道を進めたであろうが、己の資質を顧みれば、軍略こそを求められるだろう。嗜好よりも優先されるべき戦場の才覚。それを嫌って隠遁を選んだが、結局は軍師の道を歩みだそうとしている。

 しかし、今はそれほど悪くない気分だ。欲を言えば、目の前の少女と同道したかったが、他ならぬその少女が何よりも大切に想っている母親を己に託して来たのだ。ならば応えたいと思った。自分でも驚くほど素直に。

 

「ふふ、楽しみです」

 

 人知れず零れた呟きは、風に乗って西に流れていった。

 

 

 




*116香蕉:交州から漢王朝へ献上された品目の中にバナナの記述がある。

*117牛仔帽:いわゆるテンガロンハットの事。カウボーイハットとも。

*118作揖:拱揖(こうゆう)とも。両手を重ねて拱手を形作り、敬意を示すため頭を下げ礼をする。

*119徐庶:豫州(よしゅう)潁川郡(えいせんぐん)長社県(ちょうしゃけん)出身の軍師、政治家。戦乱を嫌って故郷から荊州へ逃れ、司馬徽(しばき)の元で学んだ。この時、彼の諸葛亮と親交を結ぶ。劉備に仕え、諸葛亮を推薦した。母が曹操軍の捕虜になると劉備の元を去り、魏に仕え御史中丞にまで昇った。
本作では軍師の才が高いが民政を好む、厳寿よりやや年上の少女として登場する。

*120村塢:塢壁とも(集落を囲む土塁も塢壁と呼ぶ)。自衛村落共同体。主に土塁などで集落の周囲を防御した環濠集落の形態をとる。漢代、特に後漢末期に多く発生した。大量に流出した棄民が自衛の為に寄り集まった自衛共同体であり、国家から自立している。自分達の手で推戴した指導者の元、規律を保った生活を送ったとされる。幾つかの村塢が集まり、それら全てを支配する指導者が現れ大村塢として大規模化する事もあった。

*121塢主:村塢の長。いわゆる村長。国家庇護の元にないので、村塢を築いた塢衆(うしゅう)(いわゆる村人)が自分達で推戴する。

*122張羨:荊州南陽郡出身の政治家。零陵・桂陽太守を務め民心を掴んでいたが、劉表に嫌われ敵対していた。のち長沙太守となり、自身が太守を務めた三郡を纏め合わせて劉表に対して叛乱を起こした。劉表が袁紹に呼応すると、張羨は曹操と結び、両者は激しく争ったがその最中、病没した。

*123劉表:兗州(えんしゅう)山陽郡(さんようぐん)高平県(こうへいけん)出身の政治家。若い頃は清流派閥に属し八俊と称された。はじめ何進に仕えたが、後に刺史として荊州に入り、長きに亘り荊州の地を治めた。学問を奨励し、多くの学士が荊州に集い、劉表治政の間大いに学問が発展した。優柔不断であったなど批判も多いが、周辺地域から常に狙われ続ける荊州を存命の間は保つ事ができた政治にも戦略にも高い能力を示した。

*124郭石:荊州桂陽・零陵郡で暴れ回っていた賊。周朝と共に区星に呼応して乱を起こしたが、孫堅軍にあっけなく討伐された。

*125周朝:荊州桂陽・零陵郡で暴れ回っていた賊。郭石と共に区星に呼応して乱を起こしたが、孫堅軍にあっけなく討伐された。

*126区星:荊州長沙郡で大規模な反乱を起こした賊。孫堅軍にあっけなく討伐された。将軍と自称していたようである。

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