桔梗の娘   作:猪飼部

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第八回 南陽太守

 豪奢な、それでいて品良く纏められた部屋。大きく間取られた窓枠に嵌った透明度の高い琉璃(るり)(*127)を通して、夏の残り香を纏う陽射しが広々とした部屋の奥に飾られた調度品までも明らかにしていた。一目見ただけで、それと知れる高級感を漂わす品々が並ぶ。しかし、そこに権勢を誇る様な驕りの気配は見えない。こういった場に縁のない庶人が迷い込んだとしても、圧倒されるのではなく、思わず感嘆の溜息を吐くであろう。正に上流階級の善き手本のような広々とした部屋で、二人の人物が飲み交わしていた。

 

 一方は親し気に、往年の戦友に接するかのように振舞う熟女。女性にしては大柄な部類であるが、漲る覇気はそんな彼女を更に必要以上に巨大に魅せる。強靭な意志を美貌に変えて象ったかのような秀麗な顔立ち。豊満と言う言葉では全く足りず、そこから更に逸脱し圧倒的な威容を魅せ付ける乳房を誇る褐色の女丈夫。

 一方は気だるげに、面倒な相手に接する、しかし決定的には嫌がってはいない様子の少女。今はまだ成長を待つ蕾のように華奢でありながら、そこらの満開の花々を掠れさせる可憐さを誇り、且つ瑞々しい気品をただ在るだけで発散している。それでいて、その幼げな容姿からは似つかわしくなく、老成した気配を漂わす儁才。

 

「なぁ~、美羽(みう)ぅ~、なんか面白い事ねぇのかよ」

「ない。さっさと揚州(ようしゅう)へ帰れ」

「つれない事言うなよ~」

「はぁ。何故、妾が昼日中から酔っ払いの相手をせねばならぬ」

「そりゃ、お前、俺の相手が務まるのは美羽くらいのもんだろ」

「業腹じゃ」

「ああ、いや。ここの新しい県令は中々良さ気な奴だったな。なぁ、あいつを俺にくれよ。いいだろ、おい」

「物のように強請(ねだ)るな阿呆が。そも、お主には公覆(こうふく)がおるじゃろうが」

 

 少女のその言に、元々鋭い女の眼がすぅっと細くなる。そして愉し気に告げた。

 

「ほぉん。美羽の見立てじゃ、(さい)に伍するか」

「さて、どうであろうな」

 

 にやにやと笑みを絶やさぬ女丈夫に対し、少女は澄ました顔で蜜酒(*128)を口に付けながら、少なくとも子育てならばお主よりも上であろうよ、と内心で呟いていた。

 少女のそんな内心も知らず、女丈夫は半身を乗り出し更に言葉を続けた。が、

 

「でもよ、もっと面白れぇ奴居んじゃねぇのか?」

「? 何を言うておる?」

「……あれ?」

「…………」

 

 暫しの沈黙が部屋を満たす。褐色の英傑が居るにしては珍しい光景であった。

 

「っれ~? っかしいなぁ、ここ来りゃ絶対面白いもんと遭遇できると思ったのによぉ」

「お主、そんな下らん勘の為に態々(わざわざ)こちらに寄り道して来たのかえ」

「んだよ、俺の勘は滅法当たるんだぜ? 知ってるだろ」

「ふん、だが今回は外れじゃの。お主の勘の行方は今頃とっくに洛陽よ」

「……はっ、なんだよ! やっぱ居たんじゃねぇか!!」

「歳喰って鈍ったの炎蓮(イェンレン)。そのまま寝込んで死んでよいぞ?」

「くっくっく、俺を寝台に縛り付けたきゃお前がそれを成せよ? 美羽」

 

 少女の直截過ぎる悪態に、しかし誰もが英雄と称えるに足る女は実に愉し気に返してきた。本心からそれを望んでいるが故に。それを喰い破る日を心待ちにしているが故に。

 それに対し、少女はしまったと顔を歪めて嘆息を吐いた。面倒この上ない悪癖を刺激してしまった。思えば幼少のみぎり、この豪放に過ぎる女に何故か見初められてしまったその日から、自身と敵対し、戦にて相食む事を暗に明にと要求してくるのだ。

 

「あれは妾が三つの頃であったか……」

 

 憶えず遠い目で独り言ちてしまった。常識と言うものが一欠片足りとも通用しない目の前の豪傑に遭わされた()に、当時の恐怖や混乱が甦り蜜酒がほろ苦くなった。

 何故、母君は目の前のこれを認め、自分を預けるを好しとしたのか今以って全く理解できなかった。自分の理解を超越した事態。今、自分の目の前で肩肘付いて機嫌良く酒を呷っているこの女に見初められたあの瞬間、あの時、自身の運命の道筋が書き換えられてしまったのだと、少女は強く信じていた。

 

「おお、懐かしい話だな? 美羽の初陣の事だろ?」

「何が初陣じゃ。幼児を戦場(いくさば)に拉致するでないわ」

 

 じろりと睨み付けて文句を言うが、相手は何処吹く風だ。

 

「あぁ~ん? 何言ってんだ。雪蓮(シェレン)は乳飲み児の頃から戦場を駆けずり回ってるぜ?」

「だからそれはお主が引き摺り回しておるだけであろうが! はぁ、初めて伯符に同情したわ」

「あいつも最近、ようやくモノになってきたな」

「此度の并州行にも従軍させたのであったな。どうであった?」

「おう、愉しそうに鮮卑共を血祭りに上げてたぜ」

「堕ちたか、伯符」

 

 女傑の三人の娘の中でも、長女は最も色濃くその血を受け継いでいると専らの評判である。最も似てはならない部分を強く継承してしまったと、少女は嘆息と共に嘆いた。似ているだけでは駄目なのだ。その形質を収めきれる器を持っておらねば、長くは生きられまい。並の英雄足らんとするならば過不足なかろう。大湖を収める器はあると見る。しかし、荒れ狂う大海を収められる程の器ではあるまい。

 次女はよく知らぬが、この豪傑の持つ印象からは少々意外な一面が遺伝していると聞く。生真面目で仕事に手を抜かず、実直な人物であるという。

 三女は、末娘は、あれはあれで厄介な性質を母から譲り受けたと見える。

 

「美羽もこんな所でこそこそ悪巧みしてねぇで、早くこっち来いよ。愉しいぜぇ?」

「人聞きの悪い事を言うでないわ。妾はただ安穏と蜂蜜に耽溺できる日々の為に骨を折っているにすぎぬ」

「つまんねぇ事言うなよ」

「少なくとも、お主の愉しみの為に妾の人生と民草を浪費する積りなぞ一切ないからの」

「何処で育て方を間違っちまったのかねぇ……」

「端からじゃ、ど初っ端からじゃ。いや待て、お主などに育てられた憶えなぞないぞ」

 

 極自然に応えてから、はたと根幹からの間違いに気付き慌てて訂正するが、大女傑はにやにやと厭らしい笑みを浮かべるだけであった。確信的な笑みを。

 

「それでもお前は俺が見込んだ好敵手だぜ、美羽。お前はぜってぇ俺の期待を裏切らねぇよ」

「ふん、お主のその下手糞な予言気取りを覆す為ならば、妾の人生の幾許かを消耗しても構わぬぞ」

 

 老成した気配を漂わせながらも未だ未熟な大器と、既に完熟しながらも尚衰えを寄せ付けぬ英器の不穏な談笑は、陽が傾くまで続いた。

 

 

 ――――

 

 

 

 第八回 南陽太守

 

 

 

 先導に従って粛々と回廊を進む蕣華は今、柄にもなく緊張していた。南陽太守府官衙(かんが)中廷(ちゅうてい)を抜け、巴郡のそれよりも大きな郡堂を横切り、最奥の便坐(べんざ)――太守公邸――に至り、蕣華はひどく緊張していた。隣を歩くトラも、蕣華の身を覆う緊張が伝染し、訳も解らず身を硬くしながら付いてきていた。

 何故かは解らないが、南陽太守袁公路に招かれ、こうしてトラと二人、のこのことやって来た次第であるが、頭の中は混乱の極致であった。

 何故、自分の事を知っているのか? そして何故、自分を招こうとしているのか? 更には何故、南陽入りしたのが(より正確には(えん)入りしたのが)判ったのか?

 分からないことだらけである。

 ここまで自分達を先導して来た紀霊(きれい)(*129)と名乗る女性は多くを語らない。ただ己が袁家部曲を率いる者である事、主袁術(えんじゅつ)(*130)が面会を希望している事を端的に伝えてきた程度である。その姿さえ銀色に輝く重厚な鎧甲に覆われ、目深に被った兜と面頬から、顔立ちも分からない。声色で女性と知れたほどである。それでこんな所までのこのこと付いて来るのは、我ながらどうなんだろう? 事態のあまりの突拍子さに上手く頭が働いていなかったようだ。

 見れば、隣のトラも四肢が樫棒にでもなってしまったかのような有り様だ。全く以ってらしくない。だからいつものように頭を撫でて、四肢に血を通わせてやった。うにゃっ?と小さく驚いて、此方を見上げてようやく相好を崩してくれた。嗚呼、この笑顔だ。この笑顔と大熊猫(パンダ)のもふっとした白黒の毛皮さえあれば……

 

「大熊猫?!」

「ぅにゃっ?!」

 

 何時の間にか視界に入っていた大熊猫に、思わず驚きの声を上げてしまった蕣華。釣られて声を上げるトラ。声こそ上げなかったものの、前を歩く紀霊も流石に驚いたようで此方を振り返り、次いで回廊の外から上半身を乗り出し両肘を付いてこちらを窺う(回廊は半吹放ちになっており、腰程の高さの壁面が梁間を埋めている)大熊猫に視線を移した。

 

「主の舎人(しゃじん)が飼っておられる大熊猫です」

「撫でても大丈夫でしょうか?」

 

 端的に説明した紀霊に、既に手を伸ばしながら問う蕣華。内心、何を思ったか片眉を僅かに上げて、しかし即座に表情を消し、「大丈夫、だと思いますが」と答えた。ただ、その表情の変化は誰にも見えなかったが。

 その答えを聞いた蕣華が大熊猫に抱き着くのを見て、「撫でるんじゃないんだ」と漏れた紀霊のごく小さな呟きは、トラの耳にだけ届いた。

 

 

 ――――

 

 

 一頻り大熊猫を堪能した蕣華(とトラ)は、豪奢な、それでいて品良く纏められた応接間に通された。大きく間取られた窓枠に嵌った透明度の高い琉璃を通して、目映い夏の日差しが広々とした部屋の奥に飾られた調度品までも明らかにしていた。一目見ただけで、それと知れる高級感を漂わす品々が並ぶ。しかし、そこに権勢を誇る様な驕りの気配は見えず、部屋の主の品格が見て取れた。こういった物にまるで縁のないトラは、物珍しそうに眺めて回っていた。不用意に触れる事もなさそうなので、させたいままにさせながら、改めて蕣華はこの状況に思考を割いた。が、やはり満足な推測すら立てられなかった。

 

 ここまで案内し、今も部屋の入り口付近で静かに立ち尽くす鎧武者に改めて聞いても無駄であろう。宛県郊外で迎えを受けた時に聞いたが、芳しい答えは得られなかった。

 余計な事はしないし言わない。直立不動を貫く紀霊の姿に、常に友の両脇に侍る剣司と秤司の姿が重なった。そう思うと、紀霊の姿が銀製の見事な犬の彫像に見えてくる。ただ、その姿は德國(ジャーマン)狼狗(シェパード)というよりは寧ろ杜賓犬(ドーベルマン)に似る。艶やかな極短の毛並み、細身でありながら引き締まった筋肉質な肢体。鎧の中の姿は見えないが、既に蕣華の中では、紀霊は犬に例えるならば杜賓犬に確定していた。凛々しい杜賓紀霊を幻視し、うんうんと満足げに頷くのであった。

 そんな蕣華の内心など及びもつかず、彫像の様に佇む紀霊。トラは正に彫像と思い込んでいるのか、調度品を順繰り眺める流れのまま、紀霊を観察し始めた。それに対しても身じろぎ一つしないのは立派だが、内心困っているであろうというのは察せられた。今は洛陽に居る筈の、普段、表情変化の乏しい親友のお蔭であろう。

 あ、ほら、やっぱり困ってる。紀霊と目が合い、確信を得る。兜の奥からでも良く判る程の困惑を浮かべていた。目が合ってしまったのなら仕方ない、もう少し二人の様子を眺めていたかったが、助け舟を出そう。

 

「トラ、紀霊さんをあまり困らせちゃいけないよ」

「にゃ?」

 

 紀霊、と諱で呼ぶ事に抵抗を憶えないでもないが、本人からは謙っているのか、姓名しか名乗られておらず、字を知らぬため致し方なかった。

 一方、声を掛けられたトラはというと、一瞬、何を言っているのか?という顔をこちらに向けて、再度紀霊に向き直り、まじまじと眺めまわした後、

 

「にゃ?! ぎんぎらのねぇねぇ!?」

「ぎんぎら?!」

「そうだよ、ぎんぎらのお姉さんを困らせないようにね」

「ぎんぎらのお姉さん?!」

「にゃ! ごめんにゃ!!」

「あ、いえ、どうかお気になさらず」

 

 客人二人のやりとりに戸惑いながらも、トラの元気過ぎる謝罪に何とか返事を返す鎧武者であった。

 

 

「こちらから呼び付けておいて、待たせて申し訳なかったの」

 

 あれから更に待つこと暫し、そう声を掛けながら、小柄な美少女が入室して来た。

 背中まで垂らされ、毛先だけ巻毛にされた春の陽射しの様に輝く金髪に、染み一つない白磁の肌、理知を湛えた翠玉の瞳、山吹色を基調とした丸い肩の露出した袒領(たんりょう)襦裙(じゅくん)(*131)を可憐に着こなす深窓の令嬢然としたこの美少女こそ、南陽太守袁術その人である。

 蕣華の対面にゆるりと座り、愛らしくも威厳に満ちた声で名乗りを上げた。

 

「妾が南陽太守袁術である。楽にしてたもれ」

「厳寿です。本日は御招きに……」

「ああ、よいよい。無理に呼び付けたのは此方じゃ。そのような口上は不要じゃ」

「あ……、はぁ」

 

 蕣華の発した定型の挨拶を、ひらひらと小さな手を振って止める南陽太守。その視線はとてとてと此方に近寄って来たトラに注がれていた。

 蕣華の隣に用意されていた椅子にぴょこんと座り、いつもの調子で元気良く名乗った。

 

「トラにゃ! ……にゃ?」

 

 そのトラの挨拶に特に反応するでもなく、じっと視線を注ぐ小さな太守に、トラが小首を傾げて疑問の声を上げた。

 

「いや、失礼した。トラ殿は南蛮から来られたのであったな」

「にゃ! 南蛮だいおー孟獲さまのみょーだいとして漢を観てまわってるにゃ!」

 

 そこまで一息に言って、蕣華を振り返るトラ。喜色満面、名代のくだりまで詰まらず言えたのが嬉しいのであろう。太守の面前ではあるが、蕣華はゆっくりと頭を撫でてやった。

 

「ふふ、仲睦まじいの。 聞いておった以上に良好な仲と見える」

「聞いていた、ですか?」

「うむ、ぬしも疑問に思っておるであろうから、先に話しておくとするかの」

 

 そもそもの発端は零陵郡での郭石との一件であった。袁公路は元々、自称将軍の山賊区星の動向を監視していた。無論、その重要な配下の一人である郭石の足跡も追っていた。そこに営浦県県令が郭石を討伐したとの報が舞い込んだ。袁術陣営の誰も信用しなかったが、ともかく事実確認だけは為された。結果、討伐者以外の情報は事実であることが確認された。

 となると、次は誰が実際に郭石を討ったのか、である。そこで追跡調査が行われ、思いのほか簡単に割り出された。

 

「そんなに簡単にですか?」

「おぬしら目立つからのぅ。自分で気付いておらなんだか? 異民族、それも荊州ではまず見ない南蛮人の子を連れて、行く先々で(はしゃ)いでおれば嫌でも目に付くであろ?」

「いえ、はしゃいでいた訳では……」

 

 トラが平常通りだっただけなのだ。が、それは周囲から見れば正しくはしゃぎまわっているとしか映らない。

 

「ともあれ、それで興味が湧いての」

「そうでしたか」

「異民族の娘を供に付け旅する遊侠の士。或いは逆かも知れぬがの」

「ぎゃく?」

 

 太守の言に、トラがまたも小首を傾げた。

 

「トラ殿が南蛮大王の名代であるとなれば、厳寿は護衛兼案内役とも見れよう」

「なるほ、ど……」

 

 成る程確かに、と納得する過程で蕣華はある事に気付いた。いや、思い立ったというべきか。王の名代。これは気軽に言い触らす事ではなかったのではないか。

 

「当然、洛陽には赴くのであろ?」

「……はい」

 

 そんな蕣華に袁公路が声を掛ける。見れば全てを察し、見透かしている様子であった。確かに洛陽には行く。しかしそれは友に会う為であったのだが、今や別の意味を持ってしまっていた。いや、元々持っていたものに漸く気付いたのだ。

 

「姉ー?」

 

 俄かに固まった蕣華を、心配そうに見上げるトラにも碌に反応できずに黙考するが、上手く頭が働かない。妙な焦りが足元からゆっくりと、むずがる様に這い上がってくる。

 

「トラ殿」

「にゃ?」

 

 そこへ袁公路からトラに声が掛かった。先程から何やら自分に関する話が為されている事には気付けても、その肝心の中身がいまいち見えてこないトラは、若干の不安を憶えながら自分と同じくらい小さな、しかし随分と大きく感じる南陽太守に向き直った。

 

「王の名代という大役。その身に浴する栄誉は無論のこと、御身に掛かる重責もまた想像を絶する事でありましょう」

「う、うにゃ……?」

「恥ずかしながら、旅の途上にて現在の漢の恥部をお見せしてしまったと聞き及んでおります。漢の臣下として、謝意を述べさせて頂きたい」

「き、気にしてないにゃ。あ、頭を上げてほしいにゃ」

 

 慣れない、というよりも生まれて初めての扱いを受けて、しどろもどろになりながらも何とか受け応えるトラ。その焦りは、見た目、自分とさほど変わらぬ幼さでありながら、自分と大きく掛け離れた大人(たいじん)さを見せ付ける袁公路が相手である事も大きく関係していた。

 

「ここ南陽より洛陽への道中は、我が袁術の名を以って安全を確約させて頂きますぞ。無論のこと、当郡に滞在の間も、どうぞ心安らかにお過ごし下され」

「ぅ、はにゃぁ」

 

 言葉を交わす度に自分がとても小さく思えてしまい、トラはどんどん意気消沈していった。

 トラは言うまでもなく蕣華の事が大好きだ。その蕣華が、時折見せる“大人(おとな)な”一面がある。畏まった物言いで、偉そうな連中に堂々と対応する蕣華の姿はとても格好良く見えた。トラはそんな蕣華の姿にも仄かな憧れを抱いていた。いつか自分もああなれるだろうかと、こっそり思い描く事もあったりしたが、自分には縁のないものだとも理解していた。しかし……。

 

 しかし、今、目の前にトラの理想像が在る。蕣華より尚堂々とし、凛として、立派な、大人よりも大人びて見える自分と同年代の少女。

 自分に語り掛ける南陽太守の姿は蕣華よりも大きく見え、自分はなんだか豆粒よりも小さくなってしまったかのように感じてしまう。心細く、足元がおぼつかない感覚に陥る。そんなトラがいま世界で一番求めるもの、温かな掌、いつも優しく自分の頭を撫でてくれる蕣華の掌が、いつもよりも優しく優しくトラの頭を愛でてくれた。

 

「袁太守様、どうかその辺りで」

「ふふ、すまぬな。意地悪をするつもりはなかったのじゃが」

「姉ぇ~」

 

 若干涙目になってしまっているトラを抱き寄せて、膝の上に座らせてやって少しだけ覆うように背後からやわく抱き締めてやる。それでやっとトラの身体から強張りが抜け、ふにゃりと背を蕣華に預けてきた。

 対面にて微笑まし気に二人の様子を眺める袁公路が、溜め息の様に言葉を吐いた。

 

「それにしても、ほんにぬしら仲が良いの」

「勿論です」

「トラも姉ー大好きにゃ!」

 

 トラの声に張りが戻ったのをみて、公路は徐に頭を下げた。

 

「トラ殿、先程の非礼、どうかご容赦下され」

「にゃー、気にしてないにゃ」

 

 一瞬、身を硬くしかけたトラだったが、背中(せな)に感じる温もりがもたらす安堵によって、自然体で応える事ができた。

 

「とは言え、これで尻込みされてしまうようでは、矢張り心配じゃの。とても皇帝陛下と謁見できるとも思えぬ」

「う、それは……」

「えっけん?」

「トラは美以の代わりに漢に来ているのだから、漢で一番偉い人に会うんだよ」

「だいおーのみょーだい」

「そう」

「じゃ、こーてー…へーかに芽衣さまのおみやげ渡すにゃ?」

「土産?」

「献上品であろ。まさか手ぶらで陛下の御前に(まみ)える訳にもいくまいて」

 

 成る程、言われてみればそれはそうだ。いや、言われる前に気付くべき事であった。

 それにしても流石は兀突骨である。元々、孟獲の思い付きで旅に出る事となったトラである。確かに孟獲の代わりに漢を見聞せよと言われたが、正式に漢への使者として派遣された訳ではない。しかし、旅の途上で南蛮大王の名代であると折に触れて名乗っていたのでは、周囲はトラを南蛮の使者と見るだろう。その幼さと言動の自由闊達さから本気に取られる事は少なかったが、それでも事実として残る。知らず既成事実を積み上げ、洛陽への道筋を築き上げていたのだ。迂闊な自分に溜め息が出そうになる。

 兀突骨はこのような事態になる事もある程度は予見していたのだろう。トラに大切なお土産と言い含めて、献上品として通用する品を持たせていた。

 

「それにしても流石、芽衣。助かった」

「話に出ておるその御仁は?」

「兀突骨と申しまして、南蛮大王の後見人です」

「兀突骨……。確か、若年でありながら先王の代からの重鎮であったな。領国を一つ任されるほどであるとか」

「よくご存じで」

 

 蕣華の感嘆に、にやりと笑みで返すに止め、この迂闊な南蛮使者達に確認作業を続けた。

 

「それで、肝心の品じゃが」

「あ、トラの、というか荷物は全部馬に括ってあります」

「ならば、客間に運ばれておろう。後で確認に行くとしようかの」

「にゃ」

 

 トラの荷物はそれほど多くはなかったが、まさかそのような貴重品を積んでいたとは……。乱雑な扱いはしていないが、まさか破損などはしていないだろうか? 俄かに気になりだし、そわそわし出すのを必死に抑える蕣華に、袁公路は気にもせず先を続けた。

 

「ところで、先触れは出ておるのかや?」

「……どうでしょう? 芽衣が献上品まで気を回していたのなら、いやでも」

「妾の方で確認しておこう。先使いが出ていないようであれば、南陽より使者を出してもおこう」

「お手数お掛けします」

「ありがとにゃ」

「それと」

 

 深々と頭を下げる二人。手間の掛かる二人の頭頂を、取り分けトラを眺めながら、ふむ、と一息。

 

「良ければ、トラ殿に謁見の際の手順礼節の類を教授してせんじようかの」

「! よろしくお願いするにゃ!!」

「う、うむ、それでは……」

「お嬢様~、そろそろ宜しいでしょうか?」

 

 思ってもみなかったトラの勢いに、少々驚きながら今後の予定を詰めようとしたところ、部屋の外から声が掛かった。

 

「む、七乃(ななの)かや。もうそんな時間かえ?」

「はいー、そろそろお仕事に戻ってくさだいよぅ」

「うむ、すぐに向かう故、七乃は先に戻っておれ」

「はーい」

 

「ふむ、では続きは今夜にでも詰めようかの。夕餉も共にしようぞ」

「はい、お手数お掛けします」

「ありがとですにゃ!」

「よいよい、それでは後での」

 

 微妙に変わったトラの言葉遣いに、何とも微笑ましいものを愛でる柔らかな笑みを浮かべて応じる袁公路。その視線が己が配下に向いた時には、既に賢能な太守の顔になっていた。

 

「しょ…」

「美羽様っ!」

「……はぁ、紀霊よ、後は任すぞえ」

「はっ」

「それではこれで失礼する。何かあれば紀霊に申し付けてたも」

「にゃー」

 

 袁太守が入室以来、より完璧な彫像と化していた紀霊が直立不動のまま鋭い返事を発した。ただ、直前の不可解な遣り取りに心の中で首を傾げながら蕣華は袁太守を見送った。

 

 

 ――――

 

 

「ねー、美羽ー。誰が来たのー」

 

 袁術――美羽が郡堂を目指し回廊を進んでいると、向かう先から半吹き放ちの回廊壁面上に腰掛けた褐色の少女が声を掛けてきた。

 健康的な小麦色の肌、猫のような好奇心を映す真空色(まそらいろ)の瞳、桃色に輝く髪を非常に大きく特徴的な唐子(からこ)(まげ)に結い上げ、余り肌を露出しない美羽とは対照的に活動的な桜色の短衣に身を包んだ美少女。美羽とはまた違った魅力を湛えた(そん)尚香(しょうこう)(*132)の問い掛けに、歩を緩める事無く通り過ぎざま答えた。

 

「客じゃ。厳寿と言うての」

「げんじゅ?」

 

 軽やかに回廊に降り立ち、美羽に付いて来ながら先を促す孫尚香。

 

「長沙に区星がおるじゃろう?」

「うん、そいつ頂戴」

「いや、いきなり何を言うておるのじゃ」

「人材として欲しいんじゃないよ。首級(くび)が欲しいの、首級が」

「……全く、孫家の女というのは」

 

 げんなりとする美羽に、尚香は可愛らしく頬を膨らませて抗議してきた。

 

「なによー、だってシャオだけ初陣もまだなのよ! おかしくない?!」

「あれもああ見えて子育てに関しては色々と考えておるのじゃろう」

「むー」

「まぁ、考えておこう。どの道、郡として兵を出す訳にもいかぬしの」

「ほんと! もー、だから美羽って好き!!」

 

 満面の笑みで飛び付くように抱き着いて来た尚香に、「確約はせぬからの」と釘だけは刺しておいた。

 

「それで、その厳寿?と区星がどう繋がるの?」

「うむ、その厳寿がな、区星の配下の一人を、率いる軍勢諸共討ち取ったのじゃ」

「へぇ、やるじゃない」

「それになにやら面白そうな人物であったからの、興味が湧いて足労願ったという訳じゃ」

「変な奴なんだ」

「何故そうなる?」

「だって、美羽の集める人材って皆そうじゃない。張勲とか紀霊とか……」

「妾の周りに居るのはあやつ等ばかりではなかろう」

「否定しなかったねー」

「厳寿は一見すればただ生真面目なだけの武人なのじゃが……」

 

 尚香の突っ込みも軽やかに無視して話を続ける美羽であった。

 

 

 ――――

 

 

 袁公路が辞して暫し、蕣華達も応接間を後にして、紀霊先導の元、今夜(から)世話になる客間へと足を運んでいた。済し崩し的に逗留する事になったが、先方はもとよりその積りであったのだろう、紀霊からはお気になさらずとの言葉を戴いた。

 

「……白虎だ」

 

 そして、来た時とは別の回廊を進んでいた蕣華が目にしたのは、矢張り白黒の毛並みを誇る獣であった。大熊猫と白虎、なんだろう、ひどく憶えがある気がする。

 

「あれも舎人の飼っておられる獣です」

「その舎人とは、どういった方なのか窺っても宜しいでしょうか?」

「はい、揚州刺史(そん)文台(ぶんだい)(*133)殿の御息女で孫尚香という方です」

「江東の虎……」

「ご存知でしたか、益州にまで名が轟いているのですね」

「ええ、一度ばかり孫刺史に追い散らされて、益州まで逃げ落ちてきた匪賊を討伐した事がありまして」

「それは、孫文台殿からそこまで逃げ延びた賊共を褒めてやるべきでしょうか」

「ははは、それはいい。そうしてやれば良かったですね」

「?」

 

 この人、冗談とか言うんだな。と思いながら笑って応じると、不思議そうな視線を感じ、はたと止まった。何か面白い事でもあっただろうか? と言わんばかりの空気を感じる。くそぅ、天然か。少し頬を紅潮させながら、咳払いで誤魔化して話題を転換した。

 

「ところで、御厄介ついでにお願いしたい事があるのですが」

「はい、何なりと」

黄忠(こうちゅう)(*134)という方をご存じありませんか? 元は長沙に仕官しておられたのですが、最近になって故郷の南陽に戻ったと聞き及びまして」

「黄県令ですか? 御知り合いでしたか」

「県令? 紫苑(しおん)小母様がこの宛県の県令?」

「はい。正確には守県令ですが、美羽様が先頃中央に上表しましたので、直に正式に任官されるかと」

 

 出立直前に母から「紫苑の奴、長沙の官を捨て故郷に戻ったと手紙を寄越してきおった。どうせなら此方まで来れば良いとは思わんか?」と酒の席で軽く話題に出された時には、そう遠くない内に巴郡へ渡ってくるだろうと呑気に考えていた。故郷へは一時の羽休めであろうと。しかし実際には仮とは言え袁公路の御膝元で県令を務めているという。

 本来、郡県の長官は朝廷が任命するのだが、刺史や太守が令や尉の官を仮に任命する守官というものが度々あった。故郷巴郡でも江州県県令の黄公衡は、元は厳太守が守した守県令であり、後に中央に上表する事で正式に県令として認められて印綬を授かった。

 黄漢升は南陽郡宛県の守県令である。任命したのは当然、袁公路であろう。素直に読み解けば、黄漢升は袁公路の配下となったのである。

 

「連絡を入れておきましょうか?」

「お願いします」

 

 半ば呆然としながらも、紀霊の言葉に反射的に応じていた。

 ゲームとは違う。当たり前だ。考えるまでもない事柄だ。だが、実際にはどうだ、たったこれだけの事で戸惑っている。

 黄漢升とは幼児の頃に会っている。その時分には()()に強く引っ張られていた為、随分と緊張していた憶えがある。その時の印象は、イメージ通りだった。イメージ。そう、これが厄介だ。普段は意識に上る事もなくなったが、決して忘れた訳ではなかったのだ。今もまだ頭の中にこびり付いている。指先まで力を込めて擦っても、或いは細部にまで目を光らせ丹念に磨いても、尚落ちない古い油汚れの様に無意識の領域にへばり付いている、イメージ。

 袁公路等も随分とイメージとかけ離れている。しかし、党舅父(いとこおじ)から予め聞いていた為か、割とすんなりと対応できた。

 孟獲は脇に一人増えていたが、母の周囲にだって恋姫未登場の歴史上人物はわんさか居るし、本人は大してズレはなかった。

 黄漢升も人物像はイメージ通りだ。だが、立ち位置が大きくズレている。恋姫とだけではなく、演義とも、正史ともかけ離れている。幼少の頃に得たイメージと実像の合致が、たったこれだけの違いに対して、意識の足を引っ張ったのだろうか。

 

 たったそれだけの事で固まるな厳慶祝。しっかりしろ。お前は今を生きる厳顯義の娘なのだぞ。今でない時の事などに今更引っ張られてなんになる。

 

 

「……根が深いんだな」

「何か仰いましたか?」

「いえ、何でもありません」

 

 自分の中にあるモノは、自分で思っていた以上に大きくとぐろを巻いていた。今はそれに気付けただけ良しとしよう。とは言え、これから先、より多くの人と出会うだろう。見知らぬ知っている人物とも、そうでない人物とも、一々狼狽えてはいられない。気をしっかり持たなければ。

 

「ねぇ、貴女が美羽の言ってた厳寿?」

 

 快活な少女の声に振り向けば、特徴的な髪型の美少女がそこに居た。

 

「……畳み掛けるなぁ」

「? なぁに?」

「いえ、失礼。何でもありません。 確かに私が厳寿です。字を慶祝と申します」

「そ、シャオは孫尚香よ。字はまだつけてないから、尚香でいいわ」

「そうですか、貴女が」

「あら、シャオの事、聞いてたの?」

「はい、あそこに寝そべっている見事な白虎と、大熊猫の……」

 

 と、白虎の方へ視線を向けると、そこには虎に跨るトラの元気な姿が……。

 

「ちょっと、シャオの周々(しゅうしゅう)になに勝手に乗ってるのよ!!」

「にゃ?」

「申し訳ありません。駄目でしたか」

「紀霊ぃ~」

 

 反射的に声を上げた孫尚香に、努めて冷静に謝罪してくる紀霊。頬を膨らませながら不満を表す少女に重ねて愚直に謝罪すると、気が抜けたように鞘を収めた。

 

「申し訳ありません」

「はぁ、もういいけど」

「ほらトラ、降りて」

「にゃ、ごめんだにゃ」

「いいわ、周々が背を許したんだし。シャオも怒鳴ったりして、淑女として相応しい振る舞いじゃなかったしね」

 

 トラの謝罪に鷹揚に応える孫尚香の姿に、感情の切り替えはやいなぁ、と感心しながら眺めていると、改めて此方を振り返って来た。その瞳に宿る輝きに、若干嫌な予感を憶える。悪戯に無上の喜びを感じる猫のような瞳だ。

 

「それに蛮ぞ……嘘、嘘、何でもない、だからその物騒な殺気をしまって!」

「尚香殿、おかしな試し方をしないで下さい」

「はい、ご免なさい」

 

 やれやれ、受けた印象通りの困った性質の御仁のようだ。素直に頭を下げてはいるが、実際にどれ程反省しているだろうか怪しい所である。

 

「それにしても、確かに面白いかもね」

「なにがです?」

「美羽からいろいろ聞いたの、貴女の事」

「色々、ですか」

 

 色々と話す時間など無かったのだが、先程の会見はトラ絡みの事が殆どだった。と言う事は、袁太守が自分の事を知ったのは郭石討伐よりも前? 将軍府にて臨時任官を受けたりなどはしたが、正式に仕官していた訳でもない小娘の事まで知っているのだ。母の事はどれ程知っている? 益州の事情については? 何故、益州の事に関心を寄せているのだろうか? 考え始めると切りがない。

 

 そして、既に猫の瞳を取り戻して此方を見詰める孫家の末娘にも溜め息が出た。

 

 

 ――――

 

 

「七乃や」 

「なんですー? 美羽様」

「ぬしは厳寿をどう見る?」

 

 執務室にて、木簡の山に埋もれるようにして仕事を熟しながら、美羽は脇に据えられたもう一組の机で齧り付くように木簡を捌く腹心へと不意に問い掛けた。問われた女性は困ったような笑顔を浮かべながら、気軽に主へと答えた。

 女性の名は張勲(ちょうくん)(*135)、字を功路(こうろ)(*136)、真名を七乃という美羽の懐刀である。短めに清潔に纏められた紺青色の髪、奥までよく覗けば偏狂な輝きを灯す紫紺の瞳、緩く、且つ何を想っているのか不明な笑みを象る唇、何処か胡乱気な印象を与える女。主の為だけに存在し、それ以外はどうでもいい女である。

 

「えーっと、私、まだ厳寿さんとお会いしてないんですけどー?」

「じゃが厳寿と僅かにでも接した者達から話を聞き集めておろう?」

「そうですねー、大体は真面目な人柄っていうどうでもいい感想でしたけど、徐庶さんという人から美羽様好みのお話が聞けましたよー」

 

 郭石討伐の報を受けて、現地にまで飛んで調査を行ったのは、美羽の片腕であるこの張功路であった。そこで厳慶祝の存在を知り、南陽への帰路を急ぐ中、可能な限り慶祝の情報を集めたのである。トラを伴う慶祝の発見は難しくなく、その後の追跡は容易だった。

 

「郭石を討った場に元々居合わせていた水鏡女学院卒業生であったな」

「はいー。その郭石討伐では、厳寿さん矢鱈と強かったらしいですが、その割に“武人としての我”をほとんど感じなかったそうです」

「“武人としての我”?」

「徐庶さんが厳寿さんに授けた策は排泄物を利用したものだったそうなんです」

「排泄……?」

「嫌ですよねー? そんなもの戦場にばら撒くなんて。只でさえ、武に自信を持つ人って策を軽視しがちなのに。そんなばっちくてせこい事しなくても我が武があれば~、ってなるじゃないですか」

「流石の薔薇花(しょうびか)も躊躇するであろうな」

「ですよねー。でも厳寿さん、全く異論も唱えずその策を実行したそうですよ」

「ほう、郭石の首級を営浦県令にくれてやったとは聞いておったが」

 

 異民族に対して礼を尽くしたり、敬意を払って接する能吏の話は時折聞くものだ。しかし政治的な思惑もなく家族の様に愛する者の話は聞いた事が無かった。更には一騎当千と目される武勇を誇りながら、武人としての我も感じさせぬという。漢人としても、武人としても一風変わっていると言える。

 

「矢張り面白い奴じゃの」

「……美羽様、厳寿さんの事欲しくなりましたか?」

「うむ、欲しいの」

「段々、孫堅さんに似てきましたねー」

「不吉な事を言うでない!」

「でもでもー、余り強い人掻き集めちゃうと、孫堅さんが乗り乗りで攻めて来ちゃうかもしれませんよ?」

「そうならぬように、あれこれ手を打っておるのじゃ。しかし、もしもの事態はあるものであろ? これは転ばぬ先の槍というやつじゃ」

「厳寿さんの得物は薙刀ですけどねー」

「そこはこだわる所ではなかろう?!」

「何にせよ、靡かないと思いますよ?」

「ああ、母離れ出来ておらんらしいの。孝心高いのは美徳の一つではあるが、行き過ぎれば何事も欠点となる」

「孫堅さんをはじめ、美羽様の周囲には行き過ぎた人が多いですからねー」

「お主の忠もな」

「いやですよー、美羽様ったら。まだまだ足りないくらいなんですからー」

「何処に行き着く気なのじゃ、お主は」

 

 ちくりと刺した釘にさらりと笑顔で返され、げんなりとしながら先の友の言葉を思い起こす美羽であった。

 

 

 

 第八回――了――

 

 

 ――――

 

 

「用意しておいてよかったにぃ」

 

 遥か南陽から届いた急ぎの手紙に目を通し、そう独り言ちるのは南蛮新王の後見人である長身の女傑であった。

 兀突骨――芽衣は、慶祝の予定の中に洛陽行きが含まれていると聞いた時から、こうなる事を予想していた。トラが一人で言い触らす分には問題なかったかもしれない。しかし、慶祝が共に居ると状況が変わってくる。彼女は目に留まる存在だ。乱れた地にて有為の人材を求める立場ある者達からすれば、食指の伸びる存在であろう。その武は即戦力として望ましく、その生まれから官吏への対応も淀みなく熟せる。のみならず、異民族を蹴散らす事も、懐柔する事も出来る。多少欠点があったとしても軽く無視できるだけのものを持っている。

 その厳慶祝が南蛮大王の名代を自称するトラを大切に扱っているのだ。トラにも衆目の目が留まるのは自明だと芽衣は考えた。だから、トラに渡した荷物の中に目録と宝物(ほうもつ)を忍ばせておいた。

 洛陽へ至る前に余裕をもって気付ければ、こうして目録の品々を送り届ける事が出来る。直前にやっと気付いた場合でも、最低限体裁を整えられるだけの宝物を忍ばせておいたが、どうやらより良い方向へと行けそうだ。

 

「漢の都、楽しみだにぃ」

 

 そも、初めから慶祝に口添えしておけば良かったものをこのような手段を取ったのは、献上品運搬と先触れの使者として自身が洛陽へ赴く口実を得る為であった。

 南蛮大王後見人兀突骨。

 ちょっと羽を伸ばしたいお年頃であった。

 

 




*127琉璃:ここではガラスの事。前漢の歴史家、班固(はんこ)の著作『漢武故事』(晋代、或いは南斉代の書と言う説有)に、既にこの時代の扉に板ガラスが使用されていた事を示す記述がある。ガラス製品自体は戦国時代の楚で既に生産技術を得ていたようだ。

*128蜜酒:蜂蜜酒の事。紀元前八世紀の西周(せいしゅう)時代には存在を確認できる。また、紀元前七千年紀の賈湖(かこ)遺跡から発掘された酒器から検出された酒の成分の中にも蜂蜜が含まれていた。

*129紀霊:袁術配下の武将。記述に乏しく、出身地も判らない。
演義では山東出身の袁術配下の将軍として登場する。関羽と渡り合う程の武勇を誇るが、張飛に討ち取られてしまう。人心を喪った袁術に最後まで従う忠義の人でもある。
本作では袁術の部曲を纏める武人として登場する。

*130袁術:豫州汝南郡汝陽県(じょようけん)出身の群雄、仲王朝初代(同時に最後の)皇帝。四世三公を誇る名門袁氏の生まれ。若い頃は遊侠として振舞った。劉宏崩御の混乱時や反董卓連合までは族兄の袁紹と基本的に協調路線を取っていたが、連合崩壊後は対立。皇帝劉協の境遇を見て漢室の命脈尽きたと判断。新朝「仲」を興し、その初代皇帝を僭称するが、その支配下で暴政を布き、当然のように人心は離れ、臣下からも見捨てられた。周辺諸勢力との争いでは敗戦を重ね、飢饉も重なりあっという間に追い詰められた。そこで帝位を袁紹に譲り、その庇護下に入ろうと目論んだが、袁紹領へ落ち延びる途上で病死した。
恋姫では蜂蜜大好きな暗君少女として登場する。物語開始当初は孫策を支配下に置いていたが、あっさりと下剋上を許し、トラウマを負ったうえで所領から追い出され放浪する羽目になった。
本作では英明な南陽太守として登場する。主人公とは何ら関わりのないところでも“原作”とは差異があるという事を端的に示している。

*131袒領襦裙:上衣下裳と呼ばれる2ピーススタイルの漢服・襦裙の一種。襦は上着。丈の短い上衣で、襟の形によって名称が変わり、袒領とは大きく開いたUネック襟の襦裙。裙は裳(スカート)。襦を掛けた上から裙を巻いて帯で締める。
時代により細かな変遷があり、様々な襦裙がある。また、同時代でも個人によって着こなしに差が表われた。
袒には『胸元を露わにする』以外にも『肩を肌蹴る』という意味もあるので、袁術の着る袒領襦裙は胸元ではなく、肩を露出させたタイプとする。

*132孫尚香:京劇截江(せっこう)奪斗(だっと)に登場する孫権の妹で、劉備の夫人。孫権の計略により偽手紙に騙され阿斗(あと)を連れて母の見舞いに呉へ帰ろうとするが、趙雲と張飛に阻まれ阿斗を奪い返されてしまう。
正史における劉備の妻・孫夫人に尚香の名を充てた人物。
演義では孫仁と名付けられている。

*133孫堅:揚州呉郡富春県(ふうしゅんけん)出身の群雄。黄巾征伐を始めとして、叛乱があれば各地に派遣され多くの軍功を挙げた。反董卓連合が起つと、碌に闘わない諸侯を尻目に戦闘を重ね、遂に董卓に遷都させるまで追い詰め、洛陽入りを果たした。反董卓連合瓦解後は袁術と共に割拠し、袁紹派の劉表との戦いにおいて、劉表旗下の黄祖の配下に、一人で居るところを射殺された。
恋姫では恋姫英雄譚(真に非ず)でデザインされ、享楽的で、怠惰を許さず、好奇心旺盛な豪傑中の豪傑として描かれるようだ。かなりの戦狂いでもある模様。新シリーズ革命にて登場するかも知れない。
史実では袁術の上奏によって反董卓連合時に豫洲刺史に任じられたが、本作では揚州刺史に(ついでに破虜(はりょ)将軍にも)早々と任じられているとする。

*134黄忠:荊州南陽郡出身の武将。始め劉表に仕え、中郎将に任じられていたが、劉表死後に曹操によって韓玄配下の行裨将軍に任じられた。赤壁後に劉備に帰順し、劉備入蜀の際に大いに軍功を挙げ討虜将軍に任じられた。定軍山の戦いで夏侯淵を討つなど劉備郡の中でも抜きんでた軍功を挙げ、最終的に後将軍にまで上った。
恋姫では蜀ルートのヒロインとして登場する。無印時代から活躍する最古の熟女ヒロインだが、他の熟女ヒロインよりは若い模様。また、唯一の子持ちでもある。
本作では袁術の要請で南陽郡治・宛県にて県令に就いている。

*135張勲:袁術配下の武将。袁術に大将軍に任じられ、皇帝を僭称してからも袁術に従った。袁術が敗走を重ねる中、張勲も逃げ延び続けた。袁術没後に孫策の元へ落ち延びる道中、劉勲に捕らえられた後、足跡が消える。
恋姫では袁術軍唯一の配下として登場する。主を非常に大切に想っているが、割と毒を吐いて馬鹿にする一面もある。
本作でも原作とほぼ同じ立ち位置で登場するが、袁術が強化されている為、主をおちょくる一面は薄くなっている。

*136功路:張勲の字。本作独自のもの。

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