桔梗の娘   作:猪飼部

9 / 26
第九回 黄家母子

 麗らかな夏の午後。冷夏ゆえか肌を灼く熱量はなく、ぽかぽかと暖かな陽射しが便坐(べんざ)の中庭を柔らかく、それでいて鮮やかに照らす。

 庭に据えられた凉亭(りょうてい)の長椅子には、日光の布団に(くる)まれて寝そべる少女が一人。小さな膝枕の主に頭を撫でられながら、心地良く夢と現を揺蕩っている。幼い頃にも良く母の膝枕でこうして午睡を堪能していたが、さすがに最近はそんな事もなくなっていた。

 

 少女の名は厳寿。字を慶祝、真名を蕣華という。

 

 遠く故郷の益州巴郡を夢に見て、今は南陽太守袁公路の元で、小さな同行者と共に客として迎えられている。元は長逗留する積りもなかったのだが、諸事情あって夏も(冷夏なりに)盛りのこの時分まで、こうしてのんびりと過ごす事となっていた。

 

「……ん、母上」

「はい、おかーさんですよー」

「ん、…………んん?」

 

 微かな、いや、微かどころではない違和感に微睡みから這い上がると、そこは現実でした。そう、ここは荊州南陽郡。故郷の益州巴郡では、ない。なんだかひどく懐かしい夢を見ていたような朧気な感覚が急速に遠退いていく。それと共に意識も体も目を覚ましていく。こんな昼日中に惰眠を貪るなんていつ以来だろう? 既に天穹よりも彼方へと去った夢の頃以来か。思いながら目を開く。見上げれば愛らしい幼女の笑顔。嗚呼、自分もこの娘と同じ年の頃、あの夢の中の頃はこうして良く母上に膝枕してもらって、膝枕?

 

「ぅわぁっ!?」

「きゃっ!」

 

 漸く自分の現状を完全に把握した蕣華は急いで幼女の膝から退こうとして、長椅子からずり落ちた。

 無様な音を立てて転んだ蕣華だが、特に怪我などはない。例えあったとしても、今はそんな事などよりも重要な事があった。

 

「大丈夫? 璃々ちゃん。重かったでしょ」

「だいじょうぶだよ」

「そう? それならいいんだけど。……それで、そう、うん……あ、あのね?」

「なぁにー?」

「うん、そのぅ……」

 

 歯切れの悪い蕣華に、にこにこと首を傾げながら続く言葉を待つ璃々と呼ばれた幼女。名を黄叙といい、宛県県令黄忠の一人娘である。母譲りの鮮やかな藤紫の髪を左右で結び、汚れを知らぬ露草色に輝く瞳は愛らしさを湛えている。

 今年で四つになったという、こんな愛らしい幼児に、いやまさか、夢現だったとはいえまさかそんな事を口走るわけがない。でも一応確認しておかないと、落ち着かない。そう、落ち着け、落ち着いてちょっと確認してみるだけだ。

 

「私、その、何も言ってないよね? 寝言というかその……」

「うふふ、おかあさんですよー」

「ぬおおおおおっ!?」

「きゃっ!」

 

 あまりの羞恥に思わず叫んでしまった蕣華を誰が咎められよう。半分以上夢の中だったとはいえ、大分年下の幼児に包容力という名の母性を感じたのだと気付いてしまったのだ。それ故にまろび出た無意識の使者『母上』という寝言。蕣華、まさかの完全敗北の瞬間であった。

 

 

 ――――

 

 

 第九回 黄家母子

 

 

 

「そう、桔梗がそんな事を」

「はい、焔耶姐の事もありましたし、紫苑さんも何かあれば自分を頼って欲しかったのだと思います」

「そうね、私も初めはそのつもりだったのだけれど、やっぱり益州は遠いじゃない? だから、あの人の墓参りも中々出来なくなるだろうし、それで一度故郷に戻ってよく考えようと思ったのよ」

 

 午後も半ばを過ぎようとする頃、黄叙を県令公邸に送り届けた蕣華は、折良く早目に仕事の捌けた黄漢升と茶を囲んでいた。

 やや硬質な生真面目さを窺わせる部屋の内装は、恐らく前任者の調度であろう。蕣華の対面に座る女性にはそれほど調和していると言えないが、部屋の空気に堅苦しさを感じないのは、そこかしこに飾られた拙いながらもほんのりと暖かな画や書のお蔭だろう。この幼い力作達が、ともすれば息苦しさを覚えそうになる客間の空気の中に、ただ眺めているだけで自然と頬が緩む景色を創り出していた。

 これら偉大な書画の作者は今、蕣華の膝の上でにこにことご機嫌な様子で茶菓子を頬張っている。

 蕣華の膝上は、最近の黄叙のお気に入りであり、トラとの熾烈な領土争いの的でもあった。その抗争相手のトラも今ここには居ない。存分に堪能できるのだ、ご機嫌も鰻上りである。

 

「そんな時にね、美羽様にお声を掛けて頂いたのよ。それも、直接ご本人から」

「そうでしたか。それにしても、ご本人自ら勧誘に来られたとは、公路殿の本気具合が判りますね」

「あの時は突然の訪問だったから、正直かなり驚いたわ。でも、とても真摯に誘って頂いてね。それに、此方の事情も御存じだったみたい」

 

 話を聞いていると、袁公路の手は随分と長いようだと感じる。長沙郡を出奔した黄漢升の動向を、それも内情までもしっかりと把握した上での行動。今も睨み合う荊州牧と長沙太守を注視しているのならば、黄漢升の事は把握できもおかしくはないのだろう。しかし、益州の一太守の娘や、南蛮の幹部の事まで知っているのだ。党舅父(いとこおじ)は能吏が少ないと言っていた。袁太守の元を訪れたその日の晩餐の席で紹介された腹心と呼べるほどの郡官吏は、確かにそう多くはなかった。しかし、私兵に紀霊が居るように、表に出てきていない能臣が他に居てもおかしくはないだろう。

 

「流石にその場では決められなかったけれど、遠く益州への道中にも何があるかわからないし、袁家の傘下に入ればこの子にとっても安心だと思ってね」

「張羨はそれほど紫苑さんに執着しているのですか?」

「張羨は何処まで私を狙ってくるか判らないけれど、寧ろ韓玄(かんげん)(*137)の方が執念深いわね」

「ええっと、確か前太守韓玄との繋がりを張羨に疑われて出奔なさったんでしたよね?」

「ええ、そうよ。全く、私と韓玄の不仲を知っていた筈なのにね」

 

 漢升が官を捨てたその理由、それは現長沙太守張羨の疑心にあった。漢升は劉表と繋がりの深い前太守韓玄の代から長沙で郡兵を取り纏めていた。州牧と睨み合っている今、軍の掌握は平時より尚重大事であり、州との軍事衝突に公然と反対する黄漢升は頭痛の種であった。そこへ、誰が口を差し挟んだものか、韓玄を通じて劉表と繋がっているのではなどと疑われたのだ。張羨は決して無能な男ではないが、こと劉表が絡むと平静を喪う嫌いがある。

 しかし、これは漢升からすれば堪ったものではなかった。ただ疑われるだけではない。よりにもよって韓玄との関係を疑われたのである。

 

「本当、有り得ないわ」

「前太守とも折り合い悪かったんですね」

 

 意外な面持ちでそう零す。温厚で人当たりが良く、凡そ人といがみ合う心象からは遠い人物であるが、だからこそ妬み、忌み嫌う輩も居るものかも。と、心の中で納得していると、漢升から義姉の話題を振られた。

 

「焔耶ちゃんの事は知っているのよね?」

「それは……、焔耶姐の出奔の事ですか? 正直、詳しくは知らないんですよ。我が家に来た当初、ちょっと焔耶姐の繊細な部分に触れてしまった事もあって聞き辛かったというか」

「それって、彼女の髪の事かしら?」

「はい。私は格好良いと思ってるんですが、本人は気にしてるようで…って、紫苑さん?」

 

 何故かあっけにとられた後、くすくすと笑いだした漢升に、何か可笑しな事を言っただろうか? と問い掛けると、そこから先は聞き逃せない事実を告げられた。

 

「焔耶ちゃん、吃驚したでしょうね」

「はぁ」

 

 どうやら義姉の髪には何やら曰くがあるらしい。が、その中身が良く判らない。珍しくはあるが……、と不意に漢升が襟を正して此方を見据えた。

 

「そうね、蕣華ちゃんなら知っておいてもいいでしょうね。 璃々、少し大事なお話があるからお庭で遊んでらっしゃい」

「はーい」

 

 返事は元気良く、しかし少々名残惜しそうに蕣華の膝から降りて「またあとでね、蕣華おねーちゃん!」と笑顔で退室していく黄叙に、手を振りながら笑顔で応え、改めて漢升に向き直った。

 微笑ましく二人の遣り取りを見守っていた漢升も、愛娘が部屋を出ていくのを見送ると此方に向き直り、話を続けた。

 

「あの()のあの髪こそが、彼女が長沙に居られなくなった理由なのよ」

「どういう事ですか?」

「当時の長沙太守韓玄は、漢への忠心高く、その点では評判の高い男だったわ。でも、そこが行き過ぎて偏屈な人物でもあった」

 

 当初から韓玄は魏文長の事が気に入らない様子であった。当時、誰もがその事に首を傾げていたが、特に実害がある訳でもなく、文長側からも馬の合わない上役位の認識であった為、それほど問題視されてはいなかった。

 ある時、武陵郡澧水(れいすい)流域から洞庭湖(どうていこ)を越えて澧中蛮(れいちゅうばん)が長沙を(こう)した。これに呼応する形で長沙蛮も叛乱を起こし、長沙郡は上へ下への大騒ぎとなった。

 太守韓玄自ら兵を率いて鎮圧に乗り出したが、乱の勢いは衰えず長期化した。

 

「当時、私は長沙蛮に占拠された益陽県(えきようけん)の奪還を、焔耶ちゃんは韓玄に従ってさらに北上し澧中蛮に対応していたわ。最も、焔耶ちゃんは実際には殆ど用いられなかったそうよ」

「何故です? それ程の大乱ならば、日頃の不仲など捨て置いて武勇優れた焔耶姐を前線に出すべきでしょう」

「私もその場に居なくて又聞きなのだけれど、韓玄は徹底して焔耶ちゃんを信用してなかったようね。それも最初から」

「最初、から? それは、仕官した時からという事ですか?」

「ええ。 痺れを切らして食って掛かった焔耶ちゃんに韓玄はこう言ったそうよ『反髪の相なぞ戦に出せるか』と」

「…………なんです? それ」

「髪色が二色に分かれているのは二心ある表れ、だそうよ。焔耶ちゃん、その場で韓玄を……って、蕣華ちゃん? どうしたの?」

 

 話の途中でガタンッと荒々しく立ち上がった蕣華に、漢升は訝し気に問うた。

 

「いえ、ちょっと南郡に」

「待って、落ち着いて蕣華ちゃん」

「大丈夫です、落ち着いていますし私は冷静です。何も劉表と事を構える訳ではありません。ただ、韓玄の首を落として来るだけですから」

「駄目よ、全然冷静じゃないわ。とにかく落ち着いて、平静になって」

 

 何とか蕣華を宥め賺して再び席に着かせると、溜息を吐いてぼやいた。

 

「桔梗でもここまで切れ易くはなかったわよ」

「う……、すみません」

 

 母の名を出されて項垂れる少女の姿に、今度はくすりと笑みが漏れた。漢升は目の前の娘の幼い頃しか知らないが、その当時も母である親友に非常にべったりであった。

 初夏のある日、袁公路に母子共々晩餐に招かれ、太守公邸に赴いたあの晩、蕣華が袁公路の元を訪れたその日の晩餐の席で、若き日の親友に再会した時は非常に驚いたものだ。すぐにそれが成長した親友の娘であると気付いたが、その時は随分と立派に成長したと思っていたが、根っこのところは

 

「変わらないのねぇ」

 

 現在の君主袁公路はこの事に関して、孝心高過ぎて美徳が即ち欠点ともなっておる、と評していたが、それでも好いのではないかと、照れ臭そうにしている少女を眺めながら漢升は感じていた。

 

「でも、私の呼び名は変わってしまっていたわね」 

「う、いや、あれはその」

 

 あの再会の席での蕣華の第一声は「紫苑小母様!」であった。在りし日は「紫苑お姉さん」だった。時の流れとは斯くも無常であるが、それを認めぬ黄漢升は笑顔で「紫苑さん」と改めさせたのだった。生まれて初めて笑顔に恐怖を覚えた蕣華は、あの時の寒気を思い出し言葉を詰まらせた。

 その後、大幅にずれた話の流れを修正し、義姉が巴郡に来た理由と、漢升が官を捨てた訳を知った。

 

 魏文長は、韓玄の言葉を聞くと反射的に殴り倒した。そして、気絶した韓玄を捨ておいて一隊を率いて出陣。あっという間に澧中蛮を蹴散らし洞庭湖の向こう岸まで押し返したのだった。そして、返す刀で益陽まで進軍、怒涛の勢いで急襲して来た魏延隊の攻勢に、長沙蛮は大した交戦もなく退いた。

 こうして、乱は治まった。収まらなかったのは韓玄である。意識を取り戻した時には澧中蛮は退却しており、制止する間もなく長沙蛮征伐にまで向かわれ、慌てて追いかけるも、追いついた時にはやはり長沙蛮も退いた後だった。面目は丸潰れ、喝采を浴びるのは理不尽な(当人はそう思っていないが)理由で遠ざけていた反髪者。

 蛮族を蹴散らした英雄に与えられた褒賞は、太守暴行の罪科だった。

 流石にこれには反発する者が多く、太守韓玄の評判は地に落ちた。それでも決曹掾(けっそうえん)(*138)を引き連れて文長を獄に繋ごうとしたが、その動きを察知していた漢升が親友への手紙と共に文長を逃がしたのだった。

 

「それで今度は紫苑さんに鉾先が向いた訳ですか」

「そういう事。最も、私が焔耶ちゃんを逃がしたという確たる証拠は無かったから、公然と罰せられる事はなかったけれどね」

 

 それでも、何かと有形無形の嫌がらせが続いたが、文長捕縛未遂を契機に評価を谷底に投げ捨て続けた為、程無く韓玄は罷免された。しかし、能力は決して低い男ではなかったので、劉表に拾われその幕下に加わった

 そして、そこまでの事があったにも拘らず、現太守張羨は漢升と韓玄の繋がりを疑ったのである。憤懣と呆れで言葉もなかった。

 一連の話を聞き終わり、蕣華が最初に発した言葉は、

 

「矢張り、韓玄の首を落としましょう」

「どうしてそう直ぐに首を落としたがるの」

「ちょっと待って下さい。私は何も好きで首を落としたがっている訳ではありません」

「そうなの?」

「ただ、後顧の憂いを断つには首を断つのが最善だと愚考しただけで……」

「愚考……、そう、愚考ね」

「あ、あれ?」

 

 漢升の反応に焦りを覚える蕣華。冷静に鑑みてみれば、確かに自身の言動はまるで危険人物のそれである。身内を害する者に対する容赦の無さが浮き彫りになった形だが、故郷に居た頃はそのような不埒者に遭遇したことなど無かった為、蕣華自身も知らなかった己の一面に、今更ながらに戸惑いを覚えるに至った。

 そんな蕣華を、少々危うげに見詰める漢升。この娘には、普段は億尾にも見せぬこの激情を抑えられる者が必要だと感じていた。蕣華とは別の側面を見られる者が良いだろう。となれば智の道を往く者。生憎と自分には当てがないが、これから先も続く目の前の少女の旅路で、そのような者と出会える事を心中で静かに祈った。

 

 

 ――――

 

 

「姉ー!!」 

「おか―さーん!!」

 

 二人の話が一段落着いたところで、愛らしい闖入者達が客間に文字通り飛び込んで来た。

 袁公路の元で宮廷作法を調練されていたトラが慶祝目掛けて、その後を追って慌てて黄叙が母の元へ走り寄る。

 

「トラ、今日はもういいのか? お疲れ様」

「にゃー」

 

 トラが慶祝に抱き着いて労ってもらう。

 

「おかーさん!」

「あらあら、璃々ったら」

 

 そして、黄叙は母にしがみ付く。奪われないように、母の愛を一身に受け取る為に。

 そんな娘の様子に、もう少し娘との時間を取ろうと思い、優しく抱き上げてやりながらあやす黄忠――紫苑。

 

「おかあさん」 

「うふふ。はい、おかあさんですよ」

 

 何故かぐらりと少し傾いだ慶祝に、にゃ? と不思議がるトラをそっと見詰める。

 娘がここまで自身を求める原因となった南蛮の少女との出会いは、蕣華との再会の席でのことだった。

 一頻り慶祝との再会を懐かしんで、視線を南蛮の少女に移すと、妙にもじもじしていた。どうかしたのか声を掛けようとしたその時、此方を「はは」と呼んで我慢できないという風に抱き着いて来たのだ。それを隣で見ていた娘は、暫し呆然とした後、はっと気付き「だめー!」と叫びながらトラを両手で押し退けたのだった。

 以来、二人は不倶戴天の敵同士という訳である。困ったものだと、慶祝と共に苦笑しながら見守っている次第である。娘が慶祝に懐いている何割かはトラへの対抗心もあるのだろう。よく彼女の膝上を巡って火花を散らしたりなどしている。

 そのトラも今は慶祝に夢中で此方には見向きもしない。娘の此度の心配は杞憂だったが、しっかりと抱き締めてやる。

 

 そも、何故トラが自分を母と呼んだのか? それは南蛮の習俗に関わる問題だった。

 南蛮では誰が誰の子であるかは重要視されないらしい。出産経験のある女性は基本的に子供達皆の母として扱われるのだとか。皆で産み、皆で育てる。誰もが母であり、誰もが兄弟姉妹である。このような育児方を確立する為、長きに亘り同時期に子作りに励み、同時期に一斉に子を産む周期を代々繰り返してきた結果、発情期と呼べる体質を得るに至ったのだという話だ。

 更に、トラは同年代の孟獲が大王に戴冠した事で、矢張り同世代の子等と共に新都へと移住し、親世代と離れて暮らしていたらしい。母が恋しくなるのも当然と言えた。

 

 とは言え、黄叙には全く関係ない話である。自身の母が、唯一無二のおかあさんが、いきなり見知らぬ年上の少女に母と呼ばれるなどあり得ない事だった。母の娘は自分只一人なのだから。正に青天の霹靂。ここに、馬爾濟斯(マルチーズ)と茶虎猫(慶祝談)の仁義なき戦いが勃発したのだった。

 慶祝の膝上でのおしくらまんじゅう、おやつの早食い競争、字の書き取り、かけっこ、お手玉等々、何でも対抗し合うが、根っこのところでは何だかんだ楽しそうにしているので心配はしていないが。

 このようにして、二人の間には奇妙な友情が芽生えていたのだった。

 

 後日、トラが荊州を離れる日には、二人抱き合いながら再会を誓う姿があった。

 

 

 ――――

 

 

「今日は早かったね」

「にゃ! 美羽にきゅーだい点を貰ったにゃ」

「凄いじゃないか!」

「にゃ~」

 

 しかも袁公路に真名を許されている。蕣華自身は、執務外でまで官名で呼ばれるのは堅苦しいと言われ字で呼んでいるに留まっている。

 トラは本当に凄い。対して、自分はここ最近腑抜けている。今日なども、昼日中から惰眠を貪るなど、巴郡に居た頃はなかった事だ。況してや、トラよりも年少の子に向かって、……いや、もうよそう。

 

「後は芽衣の到着を待って洛陽入りか」

「にゃ。それまでにより完ぺきにしておくにゃ!」

「ふふ、その意気だ」

 

 そう、洛陽へ行く日は近い。自分も何時までも弛んではいられないと、蕣華は一人密かに気合いを入れ直した。

 

 

 ――――

 

 

「そろそろ戻って来る頃だと思っていたわ、慶祝!」

「尚香……」

 

 漢升の元を辞し、郡府官衙(かんが)に戻って来ると、中庭である中廷(ちゅうてい)の半ば程で孫尚香が立ちはだかった。

 随分と張り切った様子(いつもこうだ)の尚香に対し、少々疲れた様子の蕣華。出会ったその日に手合せして以来、幾度となく繰り返されてきた光景だ。どういう気に入りられ方をしたものか、度々、それもあの手この手で挑みかかってくる。しかし、ここ最近は挑まれる事もなくゆるゆるとした日々を送っていた。久し振りの襲撃である。いや待て、今日は随分と堂々と正面から来たものだ。非常にらしくないと感じた蕣華は、振り返りもせずに背後からの一撃を後ろ手に掴んで防いだ。

 

「あ~」

 

 背後からの焦っているにもかかわらず、何処か間延びした声には反応せず、即座に跳び掛かって来た尚香に今し方得たばかりの得物を振るった。本来の持ち主と共に。

 

「あ~!?」

「ぅえぇっ!?」

 

 矢張り間延びした声で連節棍の穀物(打撃部)と化した軍師が尚香に頭上から襲い掛かった。

 

 

「もー! 絶対上手くいくと思ったのにぃ!! (のん)!」

「可笑しいですねぇ、かなり気が緩んでると思ったんですけど」

「丁度さっき気を入れ直したばかりでね」

「それでも上手く不意を付けたと思ったんですけどね~」

「お蔭様で不意討ちには滅法強くなったよ」

「それより穏、早くどいて」

 

 二人折り重なったまま平然と話を続ける十代後半の女性に苦い声音で告げる尚香。

 それに対し、のんびりと応える穏と呼ばれた見事な肢体の女性。名を陸遜(りくそん)(*139)、字を伯言(はくげん)。尚香が呼び掛けるは真名の穏。

 肩口で切り揃えられた明るい若竹色の髪、穏やかに垂れた濃藍の瞳はほわほわとした雰囲気の中に確かな知性を感じさせる。胸も尻も大きく、それに見合うだけの身の丈を包む露出の多い衣装は、振袖を除けば身体の線を良く浮き上がらせている。揚州、特に呉郡の才子が好んで纏う意匠の衣服だ。

 呉郡四姓陸氏一の才媛。現在は給事太守府(きゅうじたいしゅふ)(*140)という特定の職掌を持たない侍従のような微妙な地位にある。これは郡府内に居られるように図られた仮置きのものである。ありていに言えば客将として南陽に在籍している訳ではあるが、これは真名を預けている孫尚香に付いているためではない。将来的には、師と仰ぐ人物の仕える孫家に正式に仕官する事になるだろうが、現在のところは袁家に仕えるまだ幼い族妹の補佐の為であった。

 彼女ともやはり最初の晩餐にて出会った。伯言とその族妹も太守便坐に寝泊まりしている(族妹はかなり期待されているという事だろう)ので、顔を合わせる機会も多く、それなりに友誼を結んでいた。

「すみません、小蓮様~。紫燕(しえん)が絡みついて~」

「あー、もー! 慶祝!!」

「はいはい。 大丈夫?」

「トラも手伝うにゃ」

「御二人とも有り難う御座います~」

 

 伯言の振るう九節棍“紫燕”は中々に扱いの難しい武器だ。軍師と言えども賊徒程度ならば自力で蹴散らせれなければ、孫家に仕える事もできないらしいが、それにしても武器の選択を間違えているのではなかろうかと思いながら、身に絡まった連節棍を解いてやる。

 

「伯言さんも毎度大変だね」

「いえいえ~、そうでもないですよぉ。中々に得るものも多いですし~」

「そうよ! それに穏がシャオの補佐をするのは当然でしょ!」

「でも今は公紀(こうき)ちゃんの補佐の為に南陽に来てる訳でしょ?」

「う……」

 

 蕣華に突っ込まれ、少々分悪く怯む尚香。何といっても、伯言は未だ正式に孫家の配下となっている訳ではないのだ。

 

「それにしても、シャオも懲りないにゃ」

「うっさいわね」

「ん?」

「にゃ?」

「トラ、何時の間に尚香とそんなに仲良くなったの?」

「ふふん、美羽の元で作法教室してる時にね」

「ああ、尚香も習ってるのか」

「違うわよ!」

「シャオのれーぎ作法もなかなかと美羽が言ってるにゃ」

「嘘っ!」

「慶祝、そこに直りなさい」

「えぇー」

「今のは慶祝ちゃんが悪いと思いますよ~?」

 

 弓腰姫とまで仇名される尚香の普段を見ていれば当然の反応だと思うのだが、どうにも不服のようである。尚香が尚も不満をぶつけようとすると、そこへ袁公路が郡堂の方から此方へ近づいて来た。

 

「これは公路殿、どうしました?」

「どうしたもこうしたも、またぞろお主等が騒ぎを起こそうとしておると報告を受けたのじゃが」

「ちょっと待って下さい。それって私も入ってるんですか?」

 

 今度は蕣華が不服そうに抗議する。

 

「まぁ、(おも)たるは小蓮じゃが」

「にゃはは」

「むー」

「それにしても、わざわざ太守が直々に来ずとも」

「孫家の女が問題を起こせば妾以外には対処できぬからの」

「ああ、成る程」

「なに、その目は」

「いや、なんでも」

 

 蕣華の当然の疑問に、公路も当然と答えた。妙な説得力に尚香を眺めながら納得する蕣華。そう言えば、大体において尚香が何かすれば公路が出張って来ていた。伯言がやんわり止めようとしていた時も、最後には公路がやって来て事を収めていた。思えば、伯言のあれは公路が尚香の元まで来るまでの時間稼ぎだったのだろう。

 

「尚香、余り迷惑かけるものじゃないよ」

「あのね、シャオはいつも仕事ばかりで息の詰まってる美羽に息抜きさせてあげてるの」

「どんな言い様だよ」

「その点も否定せぬが」

「しないんですか?!」

 

「それにしても、慶祝が来て以来、ちと頻度が高過ぎるのじゃが?」

「だって、何時まで経っても区星の頸を奪りにいけないんだもん」

「ああ、その事か。仕方あるまい、今は薔薇花を遣いに出しておる故、戻るまで待つのじゃ」

「あ、そうだ!」

「ん?」

「慶祝がいるじゃない!」

「いや、それは駄目でしょ」

「何、大軍の指揮に自信がないの? 何事も経験でしょ。それに慶祝は区星の手下も殺ってるんだし、因縁もばっちしじゃない」

「ばっちしって……」

 

 いきなりの無茶振りに否定で返すが、尚香は諦めず挑発も交えて食い下がって来た。余程賊征伐に出たいらしい。しかしそこに、公路から矢張り駄目出しが入った。

 

「駄目じゃ」

「なんでよー」

「慶祝が妾の部曲を率いて見事区星退治などしてみい。また薔薇花の自己評価が地に落ちてしまうであろ」

「どんだけめんどくさいのよ……」

 

「なに、どういう事?」

「紀霊さんは、内気で恥ずかしがり屋さんで自己評価が螻蛄(おけら)並と専らの評判なんですよ~」

 

 二人の話し振りから疑問に思い、伯言にこそこそと小声で尋ねると、ひそひそ声で応えてくれた。それにしても螻蛄並みと来たか。

 その間にも二人の話は進み、何とか纏まったようだ。

 

「既に郡境を超え南陽に入ったとの報せを受けておる。もうじきじゃ、それまで待っておれ」

「分かったわよー」

「公路殿、それでは」

「うむ、兀突骨殿も無事南陽入りしたという事じゃ」

 

 いよいよ洛陽へ赴く日が近づいて来た。自然と身が引き締まるのを感じた。見ればトラも期待と不安の入り混じった表情(かお)をしている。自分も似たようなものだろう。

 漢の中心、腐敗の蠱毒壺。鬼も出よう、蛇も出よう。そんな評判ばかりが耳につく。だが、実際に行ってみなければ結局何も解らないのだ。案外、拍子抜けするような安穏とした滞在になるかもしれない。自分でも欠片も信じていないそんな想定に、少しだけ頬が緩んだ。

  

 

 

 第九回――了――

 

 

 ――――

 

 

「ぅおーい、帰るぞ。祭、雷火(らいか)

「お母様!」

 

 鷹揚に近づいて来た孫堅――炎蓮に、名を呼ばれた二人よりも先に反応したのは彼女の末の娘であった。

 

「おう、小蓮。元気だったな? 流石、俺の娘だ。そうでなくっちゃいけねぇよ」

「うん! シャオは何時でも元気一杯だよ!!」

 

 実際に元気良く母に抱き着きながら答える尚香。そんな二人を暫し微笑ましく見守ってから、炎蓮に呼び掛けられた二人の内、小柄な少女のような女性が声を掛けた。

 

「それで、結局面白いものは何だったのです?」

「んぁ、……空振りだったわ」

「おや、大殿の思惑が外れるとは」

「ま、偶にゃそんな事もあらーな。今頃は洛陽だとよ」

「では入れ違いでしたか」

「おお。 雷火、最近になって洛陽入りした面白そうな奴探しとけ」

「…………。では、我が弟子を放っておきましょう。そういった人材を嗅ぎ付けるのは得意な奴ですので」

「よし、任すぜ」

 

 余りにもざっくりとした指示に、流石に眉間を指先で揉みながら腹心が答えると、この場に居た最後の一人、炎蓮の娘でも配下でもない一人が声を上げた。

 

「あの~、それって慶祝ちゃんの事でしょうか~?」

「慶祝とな? 何者じゃ?」

「はい~、夏の間、暫くこちらに逗留してた方で――」

 

 炎蓮配下のいま一人、褐色の熟女が聞き返すと、陸伯言は厳慶祝の事を話し始めた。

 

「んー、面白そうではあるが、思ったより小粒かぁ?」

「では如何致します?」

「それでも一応探させとけ」

「はっ! 礼を言うぞ、穏。これで(パオ)の奴めの負担も減るじゃろう」

「いえいえ~、お役に立てて何よりですぅ」

 

 揚州刺史孫文台とその一党が厳寿という少女を知った、これが最初の契機であった。

 

 




*137韓玄:出身地不明の政治家。荊州四英傑の一人で長沙太守。劉備に攻められ降伏した以外の事は殆ど記述のない人物だが、演義では短気で疑り深い人物として描写される。

*138決曹掾:役所の刑罰を掌る郡吏。

*139陸遜:揚州呉郡呉県出身の政治家、武将。孫権に仕え、賊征伐で功績を積み、荊州の関羽を油断させ討伐を成功に導く大功をあげた。夷陵の戦いでは大都督に任じられ、周囲の不満を余所に慎重に慎重を重ね、遂に火攻めを以って呉を勝利に導いた。その後も呉の重臣として活躍し、丞相にまで上ったが、後継者問題が沸き上がると孫権との間で不和が生じ憤死した。
恋姫では知識欲旺盛で、優れた書物に性的興奮を覚える困った性癖を抱えるのんびりとした軍師として登場する。

*140給事太守府:固定の職掌を持たない太守の侍従的官吏。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。