乾燥した大地に冷たい冬の風が吹き渡る。
空は高く、どこまでも青空が続いている。
大地に響くは馬蹄の音。
固い蹄で土を耕し、騎馬の大群が一塊になって移動している。
「大将、来たよ!」
馬に跨るのは十歳になるかどうかという頃合の少年である。
金色の柔らかい髪と白くきめの細かい肌は、その外見からも周囲にいる大人達との人種の違いを露にしている。遙か未来、白人と称されるグループに属す彼は黄色人種に属する集団の中では異彩を放つ人物であるといえよう。
「言われなくても分かってる」
大将と呼ばれた男は典型的な黄色人種。黒髪黒目。一八〇センチほどの身長で、まだ十代だというのに身体には歴戦の猛者であると示す複数の傷が刻まれている。
「お前は俺達の戦をしっかりと目に焼き付けて置け、後々自慢の種にできるぞ。このウルディンの戦を目の当たりにしたってな」
にやりと笑った青年――――ウルディンは獰猛な、それでいて人好きのする笑みを少年に見せた後で馬の手綱を手繰り、自らが率いるフン族の一団を向き合った。
「お前ら、見ての通り金が馬に乗ってやって来たぞ!」
ウルディンの言葉に兵達が笑った。
金はもちろん、フン族の一団から一キロ先を走る騎馬軍団を指している。
彼らからすれば、あの集団は獲物でしかないのであろう。
「残念なことに、相手は小物だ。名誉もクソもねえかもしれねえが、討ち取った者には金をやる。ただし、首は持ってろよ。コンスタンティノポリスの守銭奴は首と金を交換だって言っていたからな」
獲物の名はガイナス。
ローマ帝国で活動したゴート族出身の将軍であり、今は反乱したとして命を狙われている人物である。
ウルディンの狙いはガイナスの首を対価として、東ローマ帝国から多額の金を得ることであった。
「いよっし、お前ら。一つ――――派手にやるぞ」
ウルディンが剣を抜いた。
真っ直ぐな両刃の長剣が、太陽の光を受けて煌いた。
「突撃!」
そして、雄叫びを上げてフン族の一団が獲物に向けて進撃を開始した。
敗走の最中に当代最強の蛮族たるフン族の一団に襲撃をされては、満足に反撃することも叶うまい。
強力な複合弓と他の追随を許さない馬術による騎射戦術は同じ騎兵のゴート族ですら対処は困難を極める。まして、今は敗走中である。一キロ程度の距離は無に等しく、ウルディンの率いるフン族の一団は瞬く間にガイナス率いるゴート族の一団を殲滅し尽くしてしまった。
「あっけねえ。宮殿の中に篭り切りで身体を動かしてなかったんじゃねえの?」
ウルディンは討ち取られた敵将ガイナスの首を見て、頭を掻きながら言った。死者に対して、弔うといった気持ちはこれっぽっちも出てこないらしい。この首はあくまでも金と交換するための道具でしかない。
「大将。首を送るんなら早くしないと。十二月って言ってもダメになるのはあっという間だよ」
「分かってる、アエティウス。皆まで言わずともな……おい、さっさとこの首なんかで包め。顔が分かれば、何でもいいだろ」
ウルディンの大雑把な扱いにアエティウス少年は苦笑いを浮かべる。
アエティウスはフン族ではない。モエシア属州のドゥロストルム(ブルガリア)の生まれで、父はスキタイ出身のローマ軍人フラウィウス・ガウデンティウス、そして母は貴族階級の娘という生粋の白人である。ゴート族やフン族で人質として生活してきたのだが、紆余曲折のうちにウルディンのところにやってきた。
「首を持って行ったとして、それで金が取れるんですか、大将」
「ダメなら一戦するまでだな」
「スティリコが出てくるかもしれませんよ」
「む……」
ウルディンが眉根を寄せる。
彼にしては珍しい行動であるが、それも相手が相手だけに仕方がないかもしれない。
スティリコは、斜陽の帝国たる東西ローマ帝国に於いて唯一蛮族に対抗できる将軍と言っても過言ではない人物である。
分裂状態にあったローマ帝国を纏め上げたテオドシウス一世に仕えた。ローマ統一に於ける最後の戦いであるフリギドゥスの戦いの功労者であり、
帝国そのものはテオドシウス一世の死後、二人の息子――――アルカディウスとホノリウスにそれぞれ東西の領土が与えられ、分割統治の状態となっており、スティリコ自身は西ローマ帝国ホノリウスの後見人をしている。
好戦的なウルディンだが、それと同時に計算高い一面もある。
フン族全体の指導者ではないウルディンでは、スティリコに正面から挑んでも勝算は低い。
何せスティリコは、西ゴート王アラリック一世ですら寄せ付けないローマ帝国の楯とも言える人物なのだから。
「まあ、今回は大丈夫だろう」
「本当に?」
「ああ」
そして、ウルディンはスティリコは出てこないだろうと考えていた。
いくつか理由があるが、やはりスティリコ自身にも敵が多いというのが最大の理由であった。
今回、ウルディンが討ち取ったガイナスという将軍。実はもとはスティリコの腹心であった。
状況は聊か複雑なのだが、スティリコが属する西ローマ帝国と今回ガイナスの首を欲するコンスタンティノポリスを抱える東ローマ帝国は、政治体制が完全に分離しているわけではなかった。無論、皇帝はそれぞれ立っているものの、東西に分離してまだ十年と経っていない。スティリコが、東西の兵を纏めて蛮族退治に出るくらいには両者の関係は近しい。
ガイナス討伐も結局はスティリコを巡る東西の陰謀の結末でもあった。
西ローマ皇帝ホノリウスにスティリコという後見人がいたのと同様に東ローマ皇帝アルカディウスにもルフィヌスという後見人がいた。
このルフィヌス。非常に権力欲の強い人間であったようで、多くの民衆から恨まれていた人物であるが、ローマ軍に影響力を持つスティリコの失脚を狙った陰謀を画策していたのである。
そのルフィヌスをスティリコはガイナスを利用して暗殺し、この陰謀を切り捨てた。
しかし、スティリコにとっての誤算はガイナス自身もまた反スティリコであったことだろう。
後に反スティリコの姿勢を強めたアルカディウス帝に寝返り、スティリコ暗殺を企てるなどし、結局は東ゴート族のトリビギルドが起こした反乱に呼応して挙兵するも敗れ、ここに屍を曝している。
この騒動は、有能なスティリコを排除するための策謀が根幹にあったものだが、黒幕でもある東ローマの皇帝は最後まで穴熊を決め込むことだろう。
この交渉は東ローマ帝国との交渉である。
西ローマ帝国の将軍であり、東ローマ帝国に命を狙われたスティリコが出てくることはまずあるまい。これが、数年前ならば別だが、今や東ローマ帝国のゴタゴタにスティリコが出張ることはないはずである。
そして、交渉は恙無く終了した。
莫大な供物をガイナスの首と引き換えに手に入れたウルディンは意気揚々と馬に揺られている。
ローマ帝国――――東も西ももうダメだろう。
大いに乱れた時代だということは遊牧民族であるウルディンにも分かる。定住することをしないフン族の生活では中々実感できないが、石造りの街並の中で定住する人間たちにとっては略奪者は生活資源を奪い尽くす魔物に等しい存在であり、今はフン族のみならずゴート族やアラン族、ブルグント族、フランク族、ヴァンダル族、スエビ族などなど様々な部族が収奪を繰り返す民族移動が加速している最中である。定住生活を送るローマ帝国は、富が同じ場所にあるので狙いやすい。ウルディンたちからすれば、狙ってくれと言っているようなものであった。
おまけに定住者たちはそう簡単には移動できない。
毎年毎年略奪されることを覚悟して、その地に住まわねばならないのである。
時代が悪かったともいえるが、遙か古代から連綿と続いてきた世界の中心にも等しい大帝国が落日のときを迎えようとしているのが肌で感じられる。――――もっとも、ローマが滅んだところでウルディンが思うところは何もない。略奪すべき美しい女が別の者に奪われる可能性が増えるというのは、悩みどころだが。
いずれにしても、異民族の襲撃に対抗できる数少ない戦力であるスティリコをぞんざいに扱っている時点で、ローマ帝国は東西共に落ち目になっているに違いない。
馬に揺られながら、平原を進む。
コンスタンティノポリスを出て西へ。
東ローマの領域から出るのが、一応の約束である。ゲルマニアの辺りで略奪でもするかと、思っていたところであった。
「うん?」
ウルディンの鋭敏な嗅覚が、遠くから流れてくる異臭を嗅ぎ取った。
「妙な臭いがするな」
「そうですか? 特に気付きませんけど」
アエティウスは奇妙そうな顔をしてウルディンを見た。
アエティウスの鼻には、ウルディンが言うような臭いは嗅ぎ取れない。
「よし、おい。誰か、ひとっ走り見てこい。この先に、村があったはずだ」
強いて言うなら、焦げ臭い――――油混じりの何かが焼けた臭いである。
ウルディンはその臭いを知っている。
彼の嗅覚が異様に鋭いというだけで、近付けばほかの面々も気付くであろう。それだけ、この臭いは彼らにとって慣れ親しんだものであったから。
名もなき小村。
略奪するほどの財貨があるわけでもなく、食料も取れるほどのものはない貧しい村ゆえに見逃してきた場所である。
それが、今壊滅していた。
小屋ともいうべき家屋は崩れ落ち、炭化しているものもある。崩れただけならば再利用もできようが、燃えてしまえば使い道のないゴミにも等しい。
「こりゃまたどうしたってんだ?」
ウルディンが戸惑ったのは、決して村が滅亡したことにではない。
そんなものは見慣れてきたし、ウルディン自身が滅ぼしてきたこともある。ただ、大地が抉れるような、そんな破壊痕を残せるような力は持ち得ない。
「大将、何か妙ですよ、これ」
「みりゃ分かる」
この村だけを、大災害が襲ったかのようではないか。
「ふむ……」
警戒しつつ、ウルディンは馬を走らせた。
小さな村を一周するのは容易い。
一通り見て回ったが、村の有様はひどいものであった。
「どうもあれだな。これは、人間の手によるもんじゃねえな」
「どういうことですか?」
「まず、こんな風に地面を抉るのは無理だ。わざわざ掘る必要性もねえし、見たところ、こう……砂を掬う感じで地面を掘り返してやがる」
強烈な一撃で地面が吹き飛んだ、というようにも見える。
「それに、身体の半分がねえ死体がいくつかあった。腕だけ落ちてるってのもな。災害や略奪なら、そんな死に方はしないだろ」
「じゃあ何? 人間を頭から食べちゃうような化物がいるってこと? おまけに、地面をこんな風に抉るような?」
「さあな」
ウルディンは脳内で警鐘が鳴り響くのを自覚して、冷や汗を流した。
言葉にできない何かを感じている。具体化できないのがもどかしい。
「日が暮れる前に、合流地点まで行くのが得策か」
この異常事態は、ほかの連中と共有する必要がありそうである。
多少強行軍にはなるが、この村に留まる危険性を思えば早々に移動してしまうのがいいだろう。
ウルディンは配下に指示を出して、村からの移動を始めたのであった。
想定外だったのはその先である。
さすがに、これはウルディンを驚愕させるには十分であった。
思ってもみなかった。
まさか、――――フン族の仲間たちもまた怪物の餌食になっていようとは。
■
「やられたのは三分の一か」
「大損害ですね、大将」
冬の大陸は冷える。
火を焚いても、身体の芯に届かんとする冷気は辛い。動物の皮のコートを着込み、寒さに耐えつつ、ウルディンは見回りを行っていた。
しばらくは動けそうにない。
人と馬をやられた。
数あるフン族の中の一団であり、フン族全体を脅かすものではないが、ウルディンが属するコミュニティそのものが、今消滅の危機にあるのは言うまでもなかった。
機動力を失った遊牧民族に勝機はない。
ウルディンがコンスタンティノポリスから得た資産を活用して、ほかの部族と折衝を行えばまだ何とかなるかもしれないが、五分五分であろう。場合によっては、殺して奪うという話にもなりかねず、金を持っていることが逆に滅びを加速するかもしれない。
動ける男は見回りに就き、女子どもは負傷者の治療と介護を行う。人手は圧倒的に不足しており、負傷せずとも怪物の気に当てられて、気が狂ったものまでいる始末である。
「あ、ウルディン」
ウルディンが馬を進めているところに現れたのは、一人の少女であった。
肩口で切り揃えた艶やかな髪が風に流れ、夜の闇よりも濃く輝く黒の瞳が焚き火の光を受けて赤く光る。
「ルスカ。珍しいな、魔女のお前が表に出てくるなど。まさか、ついに俺の妻になる覚悟ができたか?」
「安心してウルディン。それはない」
にべもなく答えたルスカにウルディンは気を悪くした様子も見せない。
「照れなくてもいいぞ?」
「むしろ本心。女遊びが過ぎると刺されて死ぬよ。そしたらフン族を束ねるなんて大層な夢、絶対に叶わない」
「心配するな。俺を誰だと思っている。女も地位も、奪い尽くすだけだ。無論、まずはお前からだが」
と、ウルディンはルスカに馬を近づけて手を伸ばす。
その手をルスカは持っていた木製の棒で叩いた。
「痛いじゃないか」
「自分の身は自分で守るもの」
ウルディンは叩かれた手を振って痛みを飛ばす。見れば叩かれた場所が赤みを帯びているではないか。
「で、魔女が外に出てくるってのは、どういうわけだ?」
「こんな状況だからね」
「それもそうだが……お前が雑務に駆られることもないだろう」
「これでも治癒の魔術が使える。役に立つから当然」
魔術というのは、どうにもウルディンは苦手である。
拳と拳、剣と剣、弓矢と弓矢。
己の肉体と武具を以て勝敗を分かつのであれば納得もいくが、見えないところから訳の分からない攻撃をされるというのは反則ではないか。
幼い頃からこの魔女と親交のあったウルディンは、実はかなりのやんちゃをしていたルスカの
もちろん、実際に戦えば十中八九ウルディンが勝つであろう。理由はない。負ける気がしないだけである。
「族長たちが呼んでる」
「面倒だな」
「あたしも呼ばれてる。今回のことは、あたしも無関係ではいられないから」
「何?」
ウルディンは怪訝な顔をする。
悲しみを押し殺したかのようなルスカの表情が、嫌に瞼の裏にこびりついた。
集ったのは五人の族長。
ウルディンを除けば、若くても三十代の後半ほどの老人たちであった。
この時代、フン族には特定の王は存在しなかった。
それぞれの指導者たちが個別に集団を率いて活動していたために、時には二つの勢力に分かれて抗争することすらあった。
そもそも、フン族という言葉が一つの民族を指すのかどうかも異論がある。
複数の民族を寄せ集めた共同体――――というよりも、外の世界から来た蛮族という意味合いを持たせてフン族と呼び習わしたともされるため、特定の民族を指す呼称ではないという意見すらもある。
いずれにしても、彼らがアラン族やゴート族を従える現状では最大級の遊牧民族であり、同時に複数の土地を荒らしまわる程度には統率の取れていない集団であるという点は確かなようである。
もちろん、歳若いウルディンには自分達の民族の出自などどうでもいい。
古くは漢を脅かした匈奴を祖とするとも言われるが、そんな昔の話には興味はない。
集まった五人の族長は、偶々共同で移動していた人物達であった。
怪物の襲撃に際して、なす術なく粉砕された事実を前に意気消沈してしまうのも無理からぬ話であろう。
「やはり、被害は甚大ですな」
「おまけに、今は冬。どこも食糧難であることに変わりはありません。略奪するのが手っ取り早いが、この戦力ではそれも難しい」
「ウルディンが持ち帰った金をどこまで活かせるか」
鬱々とした話に、ウルディンはさすがに飽きてくる。始まってから、ほんの僅かの時間すら経っていないというのに、もう眠気が襲い掛かってくる始末である。
「先のことは今はいい」
発言をしたのは、最長老の族長であった。
「まずは、我等を襲った『まつろわぬ神』のことだ」
しわがれた声で、最長老は言った。
――――『まつろわぬ神』。
聞き覚えのない言葉にウルディンは内心で首を捻る。話の流れからそれが怪物のことだというのは分かるが、何者であろうか。
「なあ、その『まつろわぬ神』ってのが、ここを襲った竜の正体か?」
ウルディンが率直に尋ねた。
怪物が、竜の姿をしていたとは聞いていた。ありえないとは言わない。神々や魔物の類がごく当たり前のように信じられている時代であるから、そのような存在が出てきたとしても疑いはしなかった。事実、竜であれば地面を抉ることもできただろうと納得すらしたくらいであった。
最長老は頷き、深々と愁いを帯びたため息をついた。
「『まつろわぬ神』は数多の神話の中から降臨する正真正銘の神々。そこらの獣とは訳が違う。人間では、あの方々には敵うべくもない」
「なんだそりゃ、本気で言ってるのか? 歳取りすぎてぼけたか?」
「ウルディン、ぼけたのは事実だけど、それは言い過ぎ」
「ルスカよ、ぼけとらんぞ」
端で控えるルスカに最長老が苦言を呈す。
突如として現れた竜の正体を『まつろわぬ神』であると見破ったのは、その道に精通するルスカであった。
「『まつろわぬ神』は実在する。そして、人間では決して勝てないのも事実」
ルスカがウルディンに言い聞かせるように言った。
「ふん、そうかい」
いるならいるで別にいい。
しかし、決して勝てないなどと戦ってもいないうちに言われるのは鼻持ちならない。実際に、この地に集った戦士の三分の一が叩きのめされたわけだが、それもウルディンがいないところでの話である。――――俺がいれば、決してこのような敗北はなかった、とウルディンは心の裡では確信していた。
「で、どこぞの神様にしてやられたわけか」
「どこぞというか、今のサーサーン朝のあたりから流れてきた神。原初の竜の一柱」
「正体なんぞ何でもいいがな」
ウルディンは不遜な態度を改めることなく、戦利品の葡萄酒を口に運んだ。
最長老は幼い頃からの馴染みであるから別とはいえ、ほかの三人はこれといって敬意を払うべき存在ではない。率いる集団はほぼ同数であったが、神様の襲撃を受けた今では、ほぼ無傷のウルディンの勢力が最大勢力となっている。
立場は同格であり、力はウルディンが上である。
「そもそもどうして竜はここを襲った?」
「気まぐれか食べ物を欲したか、あるいは人間を恐れ戦かせるためかもしれぬが、神々の考えはわしらには到底分からぬ」
ましてや相手は竜。何がしたかったのかを把握することすらも困難を極めるであろう。
「竜だか神だか知らねえが、ずいぶんとしけた面を曝してんのは、勝てねえとか勝手に諦めてっからか」
「『まつろわぬ神』には武器も魔術も効かない。神々に届く最高位の力でないとダメだし、用意できたとしても敵わない。災害相手に、人の力で立ち向かえるはずがない」
ルスカが呟くように言った。
「やってみないと分からないだろ」
「その結果が、今のあたし達の現状なんだよ、ウルディン」
厳密には立ち向かったというわけではない。
突然現れた竜神を相手にして、剣や弓を手に応戦する者も確かにいたが、それはほとんど目立たなかった。何せ、圧倒的に過ぎた。そこにいるだけで戦意を挫く怪物であり、まさしく自然災害の化身であった。立ち向かうという発想すらも出てこないまま、一方的に嬲られて終わったのである。
「しかたあるまい。ウルディンはかの神を直接見ていないのだ」
「血気に逸るのも若者の特権だが、君は一部族を束ねる者でもある。もう少し、全体を見た発言をしてはどうかね」
その指摘にウルディンは苦々しげな顔をする。
もとより、この最長老以外の族長達とは反りが合わない。
「じゃあ、教えてもらおうか。全体を見たあんた達は、これからどうするつもりだ? その竜神とやら。まだ、その辺にいるんじゃねえのか?」
ウルディンに問われて族長達は一様に押し黙った。
絶対に勝てないと分かっている相手を討伐しようという勇気があるわけでもなく、また潔く滅びを受け入れることもできない宙ぶらりんの状態。それが、今の彼らである。どうにかしたいという思いはあるが、どうしたらいいかという考えには至らない。
「わしらにはどうすることもできぬ。だが、ルスカならあるいはと思ったがの」
「何?」
ウルディンがルスカを見た。
「我が一族は古き地母神の血を引く一族。放浪の中にあって、神の血統を守り続けてきた。ルスカの類希なる魔術の才覚はその血に由来するものだ。魔女として、そして巫女として神と交わることはできるかもしれぬ」
「てめえ――――」
ウルディンは信じられないものを見たというように目を見開いた。
最長老に明確な殺気を向ける。
「自分の孫娘を、生け贄に仕立て上げるつもりか?」
「言い訳はするまい。わしには、この部族を守る使命がある。そして、お主にもな」
「なんだと!?」
思わず立ち上がりそうになるウルディンを制したのはルスカであった。
「ウルディン、うるさい」
「お前な、自分がどういう状況にあるのか分かってんのか? あ?」
「分かってる。これが、あたしの仕事」
「んな仕事は認めねえ」
駄駄を捏ねる子どものような言い草で、ウルディンは言った。しかしながらそれが子どもならば笑えるものだが、ウルディンのような屈強な戦士ともなると笑い事ではない。この男の我の強さを知らぬ者はいない。そして、武芸に於いても勝る者は皆無である。ここで暴れられては、ルスカを生け贄にする以前に一団を統べる者がいなくなってしまうという事態もありえる。
現にウルディンの殺気は膨れ上がる一方である。
すべてのフン族を纏め上げるという大望を、実行に移しかねない。
「あんた、どうしても聞き分けないの」
「なんであれば、ここでお前を奪ってやるよ」
「そう。それは無理ね」
ルスカは呆れたとでも言わんばかりにため息をつき、そして唇を動かした。
何と言ったのかはまったく聞き取れなかった。音ということしか分からない。ウルディンの知らない言葉。それが紡がれた瞬間に、ウルディンはとてつもない倦怠感に襲われた。
「な――――に?」
がくん、と前のめりに崩れ、地面に手を突いた。
「てめ――――何をした?」
「葡萄酒に仕込ませてもらった。どうせ、あんたは暴れるだろうから。魔女特性の薬。半日くらいは痺れると思うけど、害はないから」
ルスカはそう言うと立ち上がった。
「じゃあ、あたしは準備してくるから」
そう言い残して去っていく。
――――待て。
叫ぼうにも声がでない。
視界すら揺れる。
酩酊状態に近いかもしれないが、こちらは不快感がさらに強い。調合したのはルスカだろうが、性格の悪さが滲み出るような薬である。
ウルディンはそのまま族長達によって後ろ手に縛られて、荷車に押し込まれた。
日が出る頃には解放してやる。頭を冷やせと言葉を投げかけられて。