ウルディオーネ《完結》   作:山中 一

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第二話

 フン族は一箇所に定住せず、大地を駆ける遊牧民族。その生活は基本的に家畜に囲まれたものであり、移動は馬と荷車で行う。男は馬を乗り回し、そして女子どもは荷車の中で暮らす。

 ルスカを運ぶ荷車の中にはルスカ以外の荷物はない。

 衣服もなければ食料もない。

 生活用品は必要なく、ただルスカのみがあればいい。

 帰ってくることは期待されておらず、ただ『まつろわぬ神』に取り入ることだけがルスカの使命であった。

 ガタガタと揺れる荷車は乗り心地が悪い。

 枯れ草がどこまでも続く平原を行く荷車の周囲を取り囲むのは魔術に精通した護衛達であるが、それも『まつろわぬ神』と出くわす直前までのものでしかない。そこから先はルスカ自身の才覚で乗り切らねばならない。

 死ぬだろう。

 死なねばおかしい。

 すべて、理解しているし覚悟していたはずなのに、いざ出発すると骨の芯まで恐怖が染み込んでくるような気持ちになってしまう。

 ――――もしも、あのときウルディンに助けを求めていたら、こうはならなかったかもしれない。

 もちろん、そのときはウルディンと共に追われる身となったであろう。

 ウルディンは殺され、ルスカは今以上の悪い扱いを受けて竜神の前に投げ出されたはずである。

 ルスカは、フン族という戦いに日々明け暮れる部族に生まれた女である。

 命の危険を感じたことがないということはありえない。

 だが、いざこれから死ぬとなると竦み上がる。

 運がない。

 生まれたときから、人生を選べる立場にはなかった。生き方だけでなく、死に方すら他者に規定される。それは、人ではなく、人形にも等しい在り方ではあるが、巫女や魔女など都合よく利用されるのが宿命であろう。ましてや族長の娘でもある。よほどの幸運に恵まれない限りは、真っ当な人生など望むべくもない。

 ルスカは背中を荷車の壁に預けて上を向いた。

 諦めにも似た境地で、自分の運命を受け入れる。

 『まつろわぬ神』が潜んでいると思われる地まで、そう時間もかかるまい。遠くから、不吉にして神聖な力の波動を感じて、全身の産毛が逆立つような悪寒を感じている。

 自分の命は後どれくらいだろうか。

 一日あるだろうか。

 運よく『まつろわぬ神』に気に入られて生き永らえるかもしれないが、どちらにしても元の生活には戻れないであろう。

 ガタガタと揺れる荷車の振動が、刻限が近いことを否応なく伝えてきて眠ることすら叶わず、ルスカはただじっとそのときを待ち続けるのであった。

 

 

 

 

 ■

 

 

 

 底冷えのする寒さでウルディンは目を醒ました。

 ルスカの薬の影響が残っているのか、身体の調子は頗る悪い。真っ暗な荷車の中では視界を確保するなどということは不可能であり、隙間から漏れてくる月光はまだ日の出前だということを伝えてくる。

 身体は薬と荒縄によって不自由だが、その分だけ頭は最高に冷え切っている。

 恐らくは怒りでいろいろとぶっ飛んでしまったのであろう。気温の低さのみならず、ウルディンの眼光もまた底冷えのする恐ろしいものであった。

 今までにないほど、怒っている。

 戦場で友人が殺されたときですら、ここまでの怒りは感じなかった。

 ――――あの馬鹿が。初めから何を諦めてやがる。

 ウルディンの怒りの矛先は、まずはルスカに向けられた。

 すました顔をしておきながら、間違いなく内心は恐怖でいっぱいだったはずである。幼い頃から知っているから、断言できた。あれは、助けを求められない性質の女である。いろいろと視え過ぎてしまうから、その分だけ余計な物を背負い込む。昔から変わらない。そんな物、さっさと捨ててしまえばいいだろうに。

 そして、怒りの矛先はウルディン自身に向けられる。

 外で語らったとき、ルスカの表情は明らかに助けを求めていた。

 それに気付かず、手を伸ばさなかったのはウルディン自身である。気付くのが余りにも遅すぎる。

「ぬ、ぐ、おおおおおお」

 ウルディンは後ろでに縛られた腕を解放するべく全身全霊を以て力を振り絞る。ミチミチと荒縄が音を立て、ウルディンの両手首に食い込む。

「あー、くっそ無理か」

 幾度か挑戦したが、さすがに荒縄を力ずくで引き千切るのは不可能であった。

 さて、どうしたものか。

 まだ夜なので、眠らされてからそれほど時間は経っていないように思えるが、ルスカの出立がいつなのか分からない以上はうかうかしていられない。

 しかし、力技で荒縄を抜けることはまず不可能である。如何にウルディンが怪力を誇ろうと、人間を超越しているわけではない。魔術でも使えれば話は別だったのであろうが、ウルディンは以て生まれた肉体のみが己の武器である。――――とすれば頭を使うしかない。

 ウルディンは、まず息を殺して外の様子を窺った。

 真冬の大地は死の世界と同じく静まり返る。虫の声すらしない夜の世界で、人間の息遣いは当人が思っているよりも響く。ウルディンは常人では聞き分けられないような僅かな物音でも聞き取り、外の様子を探ることができる。

 狩猟と略奪を生業とする中で自然と鍛えられた能力であった。

 耳を澄まし、荷車の外を探る。

 すると、微細な空気の流れから見張りが二人ほどいることが分かった。

 ざらざらとして荷車の床面。

 ささくれ立ったそこは、荒縄をこすり付けるのに都合のいい場所であった。

 静かに少しずつ、ウルディンは荒縄の表面をこそぎ落とす。

 荷車そのものが、それほど綺麗に作られていないので、こういった形で利用できるささくれはいくらでもある。見張り番に気付かれないように、細心の注意を払ってウルディンは荒縄を削り切った。

「よし、じゃあ後は表の連中を片付けるだけか」

 小さく呟いたウルディンは身体の調子を確かめるように両手を握って開く。微妙に痺れは残っているが、影響は軽微であろう。

 ウルディンは立ち上がり、床板を思い切り踏み鳴らした。

「なんだ!?」

「おい、まさかもう目を醒ましたのか!?」

 魔女の薬で眠らされていたことを知っているのであろうか。

 見張り番は案の定、ウルディンの様子を確かめるために荷車の中を覗き込んだ。

 そして、目が合う。

 月光のみの薄い暗闇の中である。

 もちろん、中を完全に見通すことは不可能である。しかし、ウルディンという希代の猛者の眼光は漏れ出る月光を反射して狼の如く煌いた。

「よう」

「な……!?」

 ウルディンは一人目の頭を鷲掴みにするとそのまま荷車の中に引きずり込み、顎を殴りつけて気絶させた。

「お、おい、ウル……」

 そして、二人目の胸倉を掴んで同じように引きずり込み、その場に押し倒した。

「おう、オメエか」

 見張り番はウルディンとも知己の間柄の青年であった。特別中がいいというわけではないが、会話を交わすくらいは日常的にしている。

「ちょうどいい。知り合いを殴り飛ばすのは気分が悪いからな。俺の質問にキリキリ答えてくれんなら、殴らねえでいてやる」

「な、なんだ……し、質問?」

「おお。ルスカはどうしてる?」

「ま、魔女殿か。そ、それなら、術師共に囲まれて、何処かに発たれた、ぞ? 此度の魔物の件に対処するためと聞いているが……?」

 その答えを聞いてウルディンは眉を吊り上げた。

「そうか。なるほど、分かった」

 ルスカはもういない。それだけ分かれば十分であった。少なくとも、ここから発つ理由としては。

「な、なあ、おい」

 胸倉を掴んだまま押し黙ったウルディンを恐れたのか、男が震えた声で話しかけてきた。

「答えたぞ。俺は答えた。早く放してくれ」

「あん? ああ、そうか」

 ウルディンはそこで初めて、まだ男を掴んでいることに気付いたようであった。

「そういえば、質問に答えたら殴らないでいてやるって言ったか」

「ああ、そうだ。そう言った。だから、早く――――」

「そりゃ、気のせいだ」

「な――――ごッ!?」

 ウルディンが真上から振り下ろした拳が男の顎を打ち、一撃で昏倒させてしまった。

「騒がれたら面倒だっての」

 殴った手を振ってウルディンは手首の調子を整える。

 殴り合いには慣れているものの、拳で相手の固い部位を殴るのは関節にかかる負担が大きすぎる。

「さて、どうしたもんかね」

 呟くものの、答えはすでに出ている。

 ルスカを連れ戻す。

 反対する者がいるのであれば、斬るしかあるまい。

 ウルディンは殴り倒した知人の腰から長剣を拝借すると、自らの腰に差して荷車の外に出た。

「さて、最長老のクソジジイ。覚悟しとけや」

 獰猛な笑みを浮かべてウルディンは最長老のいる場所を目指して地面を踏みしめるのであった。

 

 

 すっかり夜が更けて、フン族の駐屯地は静まり返っている。

 四方を守る見張りが篝火を焚いているので、完全に闇と同化しているわけではないものの、中心部は月光のみを光源とする暗闇の中である。

 しかし、その中である一帯だけは橙色の灯りに照らされている。

 最長老の天幕である。

 周囲には護衛の者が就いている。数は、五人か。

 ウルディンはほくそ笑んだ。

 あの程度、大した問題にはならない。

 ウルディンは、努めてきさくな風で護衛達に話しかけた。

「こんな時間に悪いな。最長老の爺さんに用があるんだが」

「なんだ、ウルディン殿か。申し訳ないが、朝にしてくれ」

「そうつれないことを言うなよ。かなり大事な用件なんだぜ」

「ならんと言ったらならん。いくらウルディン殿と言えども、最長老様の眠りを妨げるのは罷りならん」

 静かな口調に絶対の拒絶を込めて言われると、それ以上をウルディンは口にすることができない。その必要がないことを悟ったからである。

 近付いてきたウルディンは五人の護衛が囲む。

「先ほど、族長達の会議の中で暴れかけたそうではないですか」

「まさか、抜け出してきたのですか?」

「ふん、だとしたらどうする。俺もまた族長の一人だ。貴様等が相手になるとでも?」

 じろり、とウルディンは五人を見据えた。

 立場はウルディンのほうが上である。数の差に脅える様子もないウルディンは、堂々と彼らに正面から向き合った。

「我等は最長老様の警護を任されている身。如何にウルディン殿と雖も通すわけには参りません」

「そうかよ」

 交渉の余地はない。

 ならば、後は武を以て当たるだけである。 

 ウルディンは剣を抜き放ち、柄頭を目の前の一人の腹部に打ち込んだ。

「が――――!?」

 前のめりに倒れる護衛の一人。

 突然のことに唖然とした護衛の隙をウルディンは見逃さない。極めて原始的な暴力で、四人を一瞬で叩き伏せる。殺すのはさすがによくないが、しばらくは意識を取り戻さないという程度のダメージを与えたのである。呻き声も出せず、ウルディンの足元に転がる四人の護衛には目もくれず天幕の中に押し入った。

 孫娘を生け贄に差し出しておきながら暢気に寝息を立てている最長老の頭をウルディンは蹴り飛ばす。

「ごあ? なん――――」

「黙ってろ」

 ウルディンは最長老の口を手で塞ぐ。

 顔面を鷲掴みにするような形での固定である。恐ろしい握力が最長老の顔を握りつぶさんばかりに締め付ける。

「声を立てるな、ジジイ。貴様の命は俺が握っている。分かったら一回頷け」

「む、ぐ」

 最長老はそこで始めてウルディンの襲撃を受けたことを理解したらしい。

 しばらく黙った後で、徐に頷いた。

 ウルディンは最長老を解放し、改めて向かい合った。

「俺の用件は分かっているな」

「ルスカのことか」

「当然だ。すでにルスカがここを発ったと聞いた。言え、ジジイ。ルスカをどこに連れていった?」

 虚言は許さぬとばかりの眼光に最長老は言葉を失う。

「言えと言ったぞ」

「ウルディン。そなた、自分のしていることが分かっているのか?」

「竜だかなんだか知らねえが、でけえトカゲだろうが。そんなもんに自分の孫娘をくれてやるジジイに言われたくねえな」

「仕方がなかったのだ。『まつろわぬ神』に人間は敵わぬと言ったであろう」

 それはルスカも言っていたことである。

 『まつろわぬ神』には人間の武具も魔術も効果を発揮しないと。神々に届くだけの武具をそろえても、傷を負わせるのは難しいだろうとも言っていた。それだけ、人間と『まつろわぬ神』の差は歴然としている。

「俺が殺してきてやる。ルスカを取り戻すついでにな」

「正気か、ウルディン!? 『まつろわぬ神』を……偉大なる遙か古の竜王を殺すだと!? そのようなことをして、怒りを買ったら、それこそ我等は終わるのだぞ!?」

「ほっといても終わるだろ。今の状況ならよ。それが分からんわけではないだろう」

 最長老の驚愕をよそに、ウルディンは現実という刃を突きつける。

 魔術を扱う者は、この時代では非常に恐れられるが、同時に超宝される。とりわけ巫女の類は神聖なものとして丁重に扱われるものである。ルスカは政治的にも重要な立ち位置にいた。最長老の一族が、フン族の中で影響力を発揮し続けることができたのも、その血によるところが大きいのである。それが失われる以上、最長老の一族は周囲への優位性を自ら手放したに等しい。そして、それはほかの部族が付け入る隙となろう。戦力が大きく失われた今のままでは、激動の時代を乗り越えることはできない。

「まあいい。この一族の行く末など、俺にはどうだっていい話だ。とにかく、今はルスカだ。ジジイ。耄碌して分からんとは言わせんぞ」

 ウルディンが最長老の胸倉を掴んで脅しつけると、最長老は苦々しげな表情を浮かべた。皺の深さがより一層深まり、唸るような声で答えた。

「……わしとて好き好んで孫を死地に向かわせたわけではない。だが、仕方がなかったのだ。剣も矢も魔術も効かぬ『まつろわぬ神』を相手にして我等にできることなどない。……それとも、『まつろわぬ神』に我等全員、女子どもも関係なく皆殺しにされる可能性のほうがずっと高いというのに、お主の妄言に皆の運命を委ねろとでも言うのか?」

「それがどうした。そもそも、神様とやらが俺達を根絶やしにしようとする根拠がねえ。ビビッて余計なことまで考えてるだけじゃねえのか? 第一、どうあっても今のままじゃここは終わりだ。だったら、神様でも何でもぶっ殺して、箔をつけたほうがいいと思わねえか?」

「訳の分からぬことを。でもしないことを言いおるわ」

「やりもしねえでグチグチ言うよりはましだな」

 議論はどこまでも平行線を行く。

 安全策を執り、無難に事を収めようとする最長老とリスクを覚悟で一世一代の博打に挑もうとするウルディンとでは、意見が噛み合わないのも無理からぬ話であろう。

「では、聞こうかウルディン。如何にして神を殺めると言うのだ? 如何にしてルスカを救い出すつもりだ?」

「弓だ」

「何?」

「お前の一族が代々伝えてきた弓があるんだろ? 何でも、太陽を撃ち落した英雄の弓だそうじゃねえか。後生大事に抱えてたって使わなけりゃ宝の持ち腐れだ。違うか?」

 ウルディンの言葉を聞いて、最長老はあからさまに狼狽した。

 決して表には出さず、厳重に封印して伝えてきた神宝の存在をウルディンが知っていたからである。秘中の秘。表に出すことすら許されない神具であり、それを知るのは最長老の血を引く者の中でもごく一部に限られるはずなのである。

「そうか、ルスカから聞いたか」

「ずいぶんと昔にな」

 無邪気に草原を転げまわっていた頃のことである。ルスカが自慢げに言ってきたのを、当時は笑い飛ばした。それの自慢話に今となって縋ることになろうとは。

「で、どうするジジイ。弓は家捜しすれば出てくるだろうしルスカの居場所もお前以外に聞けばいい。黙ったところで結果は同じだぞ。俺は面倒を起こしたくないからこうして話をしているだけであって、やりよういくらでもある」

 あまり時間をかけすぎるとルスカがどこにいるのか本当に分からなくなってしまう。

 おそらくはそう遠くには行かないだろう。

 竜神が近くにいるからこそ、ここまで脅えているのだから、ルスカが向かう先も比較的近場にあると考えるほうがいい。

 そして、ルスカを一人で向かわせたわけではないことも分かっている。ならば、この計画に関わった者をとっちめてしまえばいい。

 後は、最長老を殺してでも切り札を確保してしまえば、大手を振って討伐に向かえる。

「どうするよ、ジジイ」

 傲岸不遜にも見下ろしてくるウルディンに、歯噛みしながらも最長老は頷かざるを得なかった。

 ウルディンは最長老を斬り殺してでも目的を達しようとしている。騒げば即座に首を落としてくるだろうし、頷かなくても同じことであろう。ウルディンが最長老を生かしているのは手間を省く程度の理由でしかないのだから。

 

 

 

 ■

 

 

 

 フン族の権威の印は黄金に輝く弓であるという。

 フン族は遊牧民族でありながら金を大量に保有しており、その重要性を正しく認識していた集団であった。そのため、弓が黄金に輝いているのも不思議なことではないだろう。

 しかし、ウルディンが肩に担いだ弓は秘蔵の神弓でありながら眩いばかりの輝きは持っていない。ウルディンが常に持ち歩く金色の弓のほうが輝きで言えば上である。

 だが、深みのある飴色の弓には恐ろしいまでの引力を感じた。

 見た目ではなく、その内側から溢れ出すある種のカリスマ的な何かに惹き付けられるようであった。

「見たところ俺達の弓とは形が違うな」

 最長老を脅して手に入れた神弓の形状は、ウルディン達フン族が用いる複合弓とは異なり滑らかな反りを持つ弓であった。

 馬上で扱うには不向きな長さ。

 ローマの弓に似ている。少なくとも馬を駆り、機動力で敵を翻弄するフン族の戦い方に合うものではない。

「今なら引き返せるぞ、ウルディン」

「諦めろジジイ。もう遅い」

 最後に引き止めようとする最長老にウルディンは冷たく言い放ち、弓を背負った。

 黄金の弓と飴色の神弓、そして長剣を佩びてウルディンは馬に跨った。

 そして、鞭を入れてフン族の駐屯地から飛び出していく。

 ずんぐりとした体形の愛馬は、速度こそ遅いものの体力に秀で、長距離を長時間走り続けることに長けている。

 ルスカの居所も聞き出せた。

 一度決めたことは振り返らずに突き進むのがウルディンの性である。

 一族よりも一人の女を優先するというのは、ほかの連中からすれば度し難い思考と非難の対象となり得るだろうが、自らの我を優先するこの男にとっては他者の批判も非難もそよ風のようなものであった。そして、迅速果敢なウルディンの行動は、一族の大多数にこの無謀な行動を止めるだけの猶予を与えなかった。

「大将!」

 そんなウルディンを追いかける者がいた。

「あん?」

 聞き覚えのある声であった。

 振り返るウルディンの目には二頭の馬とそれに跨る二人の男が映った。

「アエティウスに……ドナートか? 何してんだ、お前ら」

 馬を走らせてきたのは、金色の髪の少年――――アエティウスとウルディンよりも少しばかり年下の弟分――――ドナートであった。

 馬を停めたウルディンの隣に、曙の光を弾く金髪が並んだ。そして、ウルディンをはさんで反対側に、フン族の青年が僅かに遅れて追いつく。

 ドナートはウルディンと同じフン族の青年である。筋肉質で、身長は低くウルディンの胸ほどしかなく、背の低い馬に乗ると、一つの丸い塊のようにも見えてしまう。それは、ドナートの問題というよりも、ウルディンの身長が、この時代の人間にしては高すぎるから違和感を覚えるというだけのことである。そもそも、ウルディンの身長が百八十センチに近いというのが、異様なことなのである。

「大将! 酷いじゃないですか、置いてけぼりなんて!」

 アエティウスが頬を膨らませた。

 血管が見えるのではないかと思えるくらいに薄く白い肌は、朝の冷気を浴びて紅く染まっている。

「何でお前まで連れてかにゃならんのだ」

 ウルディンは心底意味が分からないとでも言うように、首を傾げる。

「それに、お前もだ、ドナート」

「ハハハ、あの怪物に魔女殿を差し出したという噂を聞いてな。お前がどう動くのか見させてもらってたのさ」

「ほう、それで」

「兄貴、魔女殿を連れ戻すんだろ? 俺にも同行させてくれよ」

 にやりと笑ったドナートは、トントン、と自分の剣の柄を叩く。

「物好きめ」

「俺も妹をあの竜に傷付けられたからな。一つ、やり返してやらねえと気がすまん」

 表情を変え、真剣な眼差しで地平線の彼方を見るドナートは、ひょうきんな風貌から一転して熊か猛犬を思わせる戦士の顔つきとなっていた。

 それを見て、ウルディンは彼らを追い返すことを諦めた。

 説得を聞き入れるつもりはあるまい。ここで、時間を潰すよりも前に進むべきなのである。

 そうと決まればウルディンは拘らない。ただ、目的地に向かって馬を進めるだけである。

 

 

 

 ■

 

 

 

 太陽が西に傾く頃、ルスカを乗せた荷車は小さな町に到達した。

 そこが、古き竜神が鎮座する神殿である。

 町の名はアブリットゥス。フォルム・テレブロニィとも呼ばれる。

 ローマ帝国モエシア属州の田舎町であり、取り立てて特筆するような名産品があるわけでもない辺鄙な土地である。 

 霊地としての格もけして高いものではないが、『まつろわぬ神』は何ゆえにこのような辺鄙な地に居を構えたのであろうか。

 もっとも、それは一生の大半を放浪の旅に費やすフン族の娘が言えることではない。

 ベリ・ロムの丘の上に石造りの家々が立ち並んでおり、それらはフン族の略奪対象となるべきものである。しかしながら、今となってはルスカのほうが捧げられる身となった。それも、相手に受け入れられるか否かもはっきりしない賭けであった。

 神気は確実に強くなっている。

 ルスカを乗せた荷車は、町に入る前に停車を余儀なくされた。

 町をぐるりと取り囲む石壁はところどころ崩れていて、その残骸が道を塞いでいたからである。

 『まつろわぬ神』の気配はするが、人の気配はない。おそらく、ルスカたちがここに辿り着く前に、町の人々は竜神に殺されたか、町を放棄して逃げ出したかしたのであろう。

「ルスカ様。荷車では、この先に進めません。申し訳ありませんが……」

「大丈夫」

 ルスカは付き人の言葉を遮った。そして、荷車の外に出る。

「ん、ずいぶん、ひどいことになってる」

 町の荒れようは酷いものであった。フン族が荒らしまわった後ですら、ここまでの破壊はない。

 全身を震わせる寒気は、何も丘の下から吹き上がってくる風のせいだけではないだろう。この道の先にいる遙か古の竜神を前にして、潜在的な恐怖に心臓が悲鳴を上げそうになっているのであろう。もはや、ここまで来ると自分の感覚すらもまともに機能していないような気がする。神気に包まれる中で魔女の感覚が研ぎ澄まされて、それとは逆に人としての機能が麻痺しつつある。そんな、感覚がする。

「みんなは、もう帰って」

 ルスカは身の丈ほどの杖のみを手にし、周囲を固める仲間に言った。

 帰ってくる言葉はない。

 ルスカが背負った運命を理解して、紡ぐ言葉がないのである。その気持ちだけで、ルスカには十分であった。

「できるだけ早くここから離れること。あたしが失敗したら、あんた達も巻き込まれるかもしれないから」

「ルスカ様……」

「行って」

 ルスカは抑揚のない声で言う。

 余計な会話はいらない。ルスカはこれ以上、彼らと会話をする意義を見出しておらず、彼らもまたこの地に留まりたいとは思っていない。ただ、少女一人に過酷な運命を強いてしまったことを悔しく思う気持ちだけは本物である。

 引き返していくフン族の仲間達を見送ることもせず、ルスカはアブリットゥスの街中に踏み込んだ。

 足場は悪く、ところどころに蝿が集っている死体が転がっている。瓦礫の下敷きになったものが大半であろうか。

 この町に、見るべきものはない。

 ただその中心地――――神気の渦を目指してルスカは歩を進めた。

 

 




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