ウルディンとアエティウス、ドナートの三名は太陽に照らされる平原を馬で駆け抜ける。
吹き荒ぶ風を遮る物はなく、寒さは動物の毛皮で作った衣服と溢れ出る高揚感で打ち消した。
人の手の入らない大自然を三頭の騎馬が颯爽と駆ける。
ひたすら北を目指すウルディンに、アエティウスが言った。
「大将、気をつけてください。ここいらは、もうローマの管理下にないんですから」
「ゴート族の連中が支配していることくらいは知ってる。それがどうした」
「確認までにです。連中、大将達フン族には色々と思うところもあるでしょうから。もちろん、悪い意味で、ですけど」
神妙な顔つきでアエティウスは言うが、ウルディンの心に響いているのかどうか。ウルディンはアエティウスのほうを見向きもしない。その瞳はただひたすらに前だけを見つめている。
いつの間にか平原は姿を消し、隆起した大地が連続するなだらかな山道が現れる。三十年ほど前、ここよりも西方に位置するハドリアノポリスでローマ軍がゴート族との抗争に敗れて以来、モエシア地方は事実上ゴート族が支配する土地となった。そして、ゴート族がこの地にやってくる原因となったのがウルディン達フン族なので、彼らと出会うことは非常に危険なことであると言わざるを得ない。
如何にウルディンが個人の武勇に秀でていても、数で囲まれれば殺されるに違いない。アエティウスのような少年はなおのことである。
「一応ローマ人のお前としては、この辺りに思うところでもあるか?」
ウルディンの問い、アエティウスは首を振る。
「自分が生まれるよりも前のことに興味はないですよ。たとえ、この辺りで万を越えるローマ兵が屍を曝していたとしても、それは昔のことです」
「冷めてんな、お前」
「ウルディンほどじゃないですよ。最長老を剣で脅すなんて、正気じゃない」
「だそうだ、どう思う。ドナート」
「兄貴がどこか人と違う感性なのは、それこそ昔からだからな。それでこそ、波乱万丈な人生を貫けるのだと思うが。どっかで、とんでもないことをやらかしそうではあるな」
ドナートがにやりと笑う。
そうしている間に、寒さに負けてしおれた木々の合間に走る小道を抜ける。
再び視界が開けた。
そして、ウルディンは舌打ちをする。
「馬を飛ばすにはちと不向きだな」
「この辺りは湿地帯が続きます。かつて、ローマの将兵がゴート族に敗れたのも、この地形を巧みに用いられたからですし」
「妙に詳しいな。そうか、ここいらも古戦場か」
アエティウスの知識にウルディンは感心する。誉められたアエティウスは得意げに胸を張った。
「アブリットゥスでの一戦は、我等ローマ人にとっては屈辱なのだそうですよ。知り合いは皆、そう言います」
「お前はそうでもないらしいな」
「さっきも言ったとおりですよ、大将」
アエティウスの価値観は大分フン族よりになっているようである。ローマ人とはいえ、その血筋を辿っていくと異民族に行き着くのだから、ローマへの帰属意識はそれほど高いものでもないのかもしれない。また、年齢が低いということもあるだろう。
「どうする、兄貴」
「そのままこの道を通っていけばいいだろ。多少のぬかるみ程度、何のことはない」
昨日まで雨が降っていたらしく、道の至るところに水溜りができている。もともと湿地帯ということもあって、ぬかるみはかなり酷い状況である。
しかし、目的地まではあと少しなのだ。今になって行軍速度を落とすわけにはいかない。馬には辛い道となるが、前に進むしかない。
「行くぞ」
言うや否やウルディンは馬に鞭を入れて先に進んだ。
自らの跨る愛馬が一歩前に進むごとに、奇妙な悪寒を感じるようになっていく。不自然なまでに、目に見えない「圧力」のようなものを感じるのである。漠然とではあるが、進む先に魂に語りかけてくるかのような強い力の塊があるように思う。それは、自らが背負う飴色の弓と同じ性質のものであろう。根拠はないが、そう感じた。例えるならば食べ物を視認しなくても、その香りである程度食べ物の種類を識別できるようなものであろうか。
なるほど、この弓と同等の気配を発するというのなら、やはり『まつろわぬ神』とかいう化物なだけはあるか。
弓に感じた聖性。
それに近しい気配を放つ何かというのは、族長達が神と呼び恐れていた存在に間違いない。
対して、ウルディンは獰猛な笑みを浮かべる。
上等だ、と。
神だろうが悪魔だろうが関係はない。
欲しいものを略奪するのがウルディンの生業とするのなら、予てより狙っていた女を手中に収めるために敵地に乗り込むことの何が可笑しいのか。何も可笑しなことなどあるまい。そう、これは今まで繰り返し行ってきた襲撃と何も変わらないフン族の生業の延長でしかないのだから。
■
――――ああ、これは本当に死んだな
ルスカは漠然と自らの死期を悟ったような気になった。
廃墟と化したアブリットゥスの中心部。数日前までは、教会が建っていたと思しき場所に横たわる巨大な怪物が、大きな瞳でこちらを見つめている。
全長二十メートル余り。
蛇にも似た身体つきではあるが、四肢は太く長く、遠目から見ると胴長の馬のように映るだろう。
生まれて初めて目の当たりにする『まつろわぬ神』の姿に、自然と膝が震え、息が詰まる。
「何用だ、人の子よ」
そして、目の前の竜神が口を開いた。
驚いたことに、竜神の言葉はルスカの言葉と同じフン族のものであった。
神の言葉。
聖性のある強い言霊がルスカの魂に語りかけている。音による意思疎通など神を前にすれば意味を成さないのであろう。ありとあらゆる言語に、彼らの言葉を置き換えられる。総ての人間に正しく言葉を伝えるためであろうか。
ルスカはゆっくりとその場にしゃがみこんだ。
「は、い。わたくしは、ルスカと申します。先日、あなた様がお力を振るわれた一族で巫女を勤める者でございます……」
声が震えてはいないだろうか。
身体は恐怖に支配されていないだろうか。
可能な限りの理性を動員して、ルスカは竜神の前で言葉を紡いだ。
「ふむ。余が力を振るった者どもなど、数え切れぬほどいるのでな。果たしてどれを差すのか。まあ、取るに足らぬ程度であったのであろう。それで、ただ一人で余の前に現れた貴様は余に何を求める」
「御身のお力を前にして、わたくしどもは無力も同然。何卒、格別のご加護を賜りたく存じます」
「ほう、……なるほど。言わんとするところは分かった」
竜神は、のそりと起き上がった。
巨大な爪が教会の残骸にめり込み、ルスカは思わず息を呑んだ。
「貴様、巫女と言ったな。余の前に立っても口が利けるのも、それだけ我々に近い場所にいるからか」
「そ、それほどでも、ございません」
「ふん、力なき者など余の元に寄越したところで価値などあるまい。貴様の力を試してやるとしよう。巫女であるのならば、余の名を見通すことができるであろう。それを以て貴様の願いを聞き届けるか否かを決しよう」
ぞわりとした声。
より強まる死の気配にルスカは気が遠くなるような気がした。
ここで、失態を犯せば死ぬのは間違いない。それどころか、力なき者を使者に立てた咎で一族郎党に危害が及ぶ可能性すらある。この『まつろわぬ神』は、それを匂わせているし実行するであろう。
ルスカは、必死に意識を繋ぎ止め、霊視の霊眼で以て読み取った竜神の来歴を口にする。
「お、御身の……名は、ウシュムガル……様、は、遙か東方の古き竜神にして、
か細い声で答えたルスカを値踏みするように竜神は見下ろしてくる。
その大顎があればルスカなど一口で丸呑みにできる。また、その岩をも両断する凶刃な爪ならば、ルスカの身体をいとも容易く解体することができる。
答えを誤ったとすれば、自分は終わる。
生唾を飲み込み、ルスカは竜神の応答を待った。
竜神は大きく息を吸い込むと、ルスカから視線を逸らした。
「なるほど、確かによい目をしている。如何にも余の名はウシュムガル。人界を制す、絶対の王。しかし、今となっては余を崇める民も少なくなった。忌々しいことだ。王の名を忘却し、惰眠を貪る愚か者達の目を醒まさせるためにも、余は今一度地上を治めなくてはならぬ」
「それは、御身がこの地に来られた理由でございますか」
「その通り。この未開の地で、新たに我が王国を作り上げるのも一興よ」
ウシュムガルが巨大な身体を震わせた。
身体に付いた埃を払うかのような動き。犬のそれに酷似した動きではあるが、一挙手一投足に神聖さを漂わせる竜神の行動だけに、ルスカは可愛らしいなどとはまったく思わなかった。
むしろ、この何気ない行動に意味があるのではないかと勘繰ってしまう。神の気まぐれな行動が、町すら滅ぼすというのは、このアブリットゥスを見れば分かるからである。
「では、娘。貴様を余の巫女として手元に置くとしよう。まず余を崇める人間で大地を満たさねばならぬ。貴様は先頭に立ち、余の再臨を喧伝するのだ」
「は、はい。喜んで、勤めさせていただきます」
ルスカは肩の力を抜いた。
一先ずは命を繋ぐことができたからである。この瞬間ほど、自分の魔女の才覚に感謝したことはないだろう。
図抜けた魔女の才覚がなければ、ここで終わっていた。
「まずは、この地の罪を洗い流すところから始めねばな」
「罪、ですか」
「如何にも。この地に住む者どもは余とは程遠い神を崇めている。許し難い蛮行よ。――――故にまずは掃除だ。余を崇めぬ罪、余を忘れた罪を自覚させる必要があろう。巫女よ、貴様の役目はその後だ」
「ッ……お、御身はまた多くの民草を殺めるおつもりですか?」
「そうなるであろう。人が人の領分を忘れ、神に不敬を働いたのだ。そうなるのが定めというものよ」
ルスカは目を見開き、ウシュムガルを見上げた。
人ならざる外見の竜神の表情からその真意を窺うことはできない。しかし、確信できた。この竜神は、また別の集落を襲撃して破壊の限りを尽くすつもりなのだと。
力を示すことで信仰を取り戻す基盤を作り出すつもりなのであろう。
世界最古の竜神であるウシュムガルの信仰は、この時代にはすでに途絶えつつある。それどころか、有史時代の初期には倒されるべき魔獣として描かれてしまっている。彼が世界の王であったのは、人類史の初期――――それも、有史以前の話なのである。
ウシュムガル――――シュメールの竜王。「ウシュム」は「唯一の」、「ガル」は「偉大な」という意味を持つ言葉である。
シュメールの言葉に「ルガル」という単語があり、「王」を意味するのだが、この言葉の中に見える「ガル」はウシュムガルの「ガル」と同意である。人の王を指す言葉が「ルガル」であるならば、「唯一かつ偉大な」存在であるウシュムガルはどれほど高い地位にいたのであろうか。
王すら支配する竜神。原初のシュメールの人々が竜を崇拝していた確かな証であろう。とはいえ、それも数千年も昔の話である。
ウシュムガルを称える神話はすでに消失して久しい。
後に成立した神話に於いて、ウシュムガルはティアマトと呼ばれる竜神にして地母神によって生み出された魔物の一体として描かれ、牡牛の神である《鋼》の軍神マルドゥクによって討ち果たされる悪の陣営に属している。
マルドゥクの意は「太陽の牛」であるという。
古き竜を王の座から引き摺り下ろす牛の神は、その後各国の神話で描かれるようになる一般的な構図となる。
『まつろわぬ神』として降臨したウシュムガルの神話はすでに敗北のそれと化している。
その上、メソポタミアに伝わる神話群そのものが消滅に危機にある今、彼はウシュムガルという名前そのものを失う可能性に直面しているのである。
人間にように焦りを覚えることはない。
己の存在の絶対性を神々は疑わない。
だが、人間が神を敬わず、忘れようとしているという事実に対しては支配者として正しい罰を与えなければならないと確信しているのである。
「多くの人々の流血の上に御身の神話を確立するというのですか。新たな竜王の歴史を流血で始められると?」
「その必要があればそうなろう。余は古き竜王。何人たりとも、余の歴史を穢すことは許されぬ。流れる血で、余の新たな世界を彩るのも悪くはあるまい」
「し、しかし……!」
ルスカは尚も食い下がる。
確かにルスカが彼に仕えるという約定は交わした。それによって、彼はフン族には手出しをしない――――はずである。しかしながら、『まつろわぬ神』が力を振るえば当然のように周囲には尋常ならざる破壊が撒き散らされることとなる。
それにフン族が巻き込まれない保証はなく、さらには生活資源を確保するための略奪すべき都市まで破壊されてしまえば、フン族もまた餓えることになる。
だが、そんなルスカの都合などウシュムガルが考慮してくれるはずもなかった。
「くどい巫女だ。我が神殿を彩る巫女が必要であるが故に貴様をここに置くことにしたのだ。貴様の仕事は余の偉大さを民草に語ることであって、余に諫言することではない」
縦に裂けた瞳孔がルスカを見据える。
それだけで、ルスカは金縛りにあったかのように動けなくなった。
思考することも困難で、呼吸すらもままならない。
ただ、軽く敵意を向けられるだけで心臓が自ら鼓動を止めたいと訴えかけてくるかのようであった。この絶望的な緊張感。泥の海に放り込まれたかのような重苦しい世界でルスカはただひたすらに時が過ぎるのを待つしかなかった。
実際にどれくらいの時間が経過したのかは分からない。
しかし、それまでルスカを押し潰さんとしていた重圧が突然鳴りを潜めたのである。
「くはッ……か、は――――ッ!」
ルスカはその場に崩れ落ちた。
どっと冷や汗が吹き出てくる。呼吸を荒げ、必死になって酸素を取り込む。
――――何が。
遊ばれたのか、単にルスカをそれ以上責める気がなかったのか。
ウシュムガルがルスカに危害を加えることはなかった。
「なるほど」
ウシュムガルの声には、どこか不快そうな響きがあった。
「紛れ込んでいたのは巫女だけではなかったらしい。鼠めが」
重厚な声に明瞭な苛立ちを込めてウシュムガルが呟いた。
今度はルスカでも気付けた。
物音一つしない世界に響く弓弦の音。
空を切る矢がウシュムガルの額に当たって、砕け散った。
パラパラと地面に落ちる矢の残骸。
木と鳥の羽、そして動物の骨で作られた鏃である。
それが、紛れもなくフン族で用いられる矢であると理解して、ルスカは鳥肌が立った。
震える身体に鞭打って、ルスカは顔を上げ、矢が飛んできた方向に目を向ける。
「あ――――」
思わず、小さく声が漏れた。
背の高い長身の男が黄金の弓を手に持って立っていた。
嘘だと思いたかった。
ぼさぼさの整っていない髪も、筋肉質な肉体も、人を食ったような生意気そうな顔も初めて見る赤の他人であって欲しかった。
だが、だめだ。
見れば見るほど、見知った青年にしか見えない。
おまけに、ルスカの気持ちもまったく意に介さず青年はにやりと笑っているのである。
「おう、ルスカ。略奪しにきてやったぜ」
「どうして来た――――ウルディン……」
ルスカは意図せず名を呼んだ。
馬鹿を突き詰めたかのような友人に非難と感謝を込めて。
次回を最終回にするとか言ったけれども、きりが悪いので持ち越し