それが鳴ったかどうかも定かでは無かった。もしかしたら風か虫かもしれない。ただ、本当に、本当に一瞬だけ携帯が動いた気がする。それでも、僕はそれが倉橋さんからのSOSだと確信する。何故なら、携帯が鳴るのを止めたのが恐らく────
「で、このATPがここのポンプにポンとくっついて──おや渚君、君の家族から電話が届いたようなので、職員室まで行って出てあげてください。こんな時間になんでしょうねぇ」
────殺せんせーだからだ。
「……はーい」
遂に来た。周りからの目線が痛い。みんなだってわかってるんだ、この「電話」が何を意味するかなんて。
でも、倉橋さんは嫌なんだ。自分の父親が絶対的な悪となることが。だから烏間先生にも言わない。殺せんせーにも助けを求めない。僕に打ち明けてくれたのはほんの偶然に過ぎなかったんだと思う。
そのことが余計に僕を追い詰める。今動けるのは僕しかいない。今は僕しか倉橋さんを助けられない。
廊下は窓から日が射していてかなり暑い。クーラーが無いのに窓も空いてないから余計に熱がこもって汗が出てくる。
廊下に出て少し歩くと、後ろから肩を叩かれた。振り向くと若干薄い殺せんせーがいる。恐らく分身は授業を続けているのだろう。
「……職員室に電話を取りにいかなきゃ」
わざと僕はこう行った。もしかしたら、本当に母さんが電話をかけてきたのかもしれない。そんな希望を残して。殺せんせーに肯定してほしくて。
「ええ、そうですね。しかし、君が行くべきところは職員室よりももっと危険な場所です。」
「…………」
裏切られた、と感じた。
「──もし、万が一良くないことが起こっても、決して自分を責めないで下さい。決して──────」
「……はい」
わかっています。そんなのは無理だから。目の前で人が壊れていくのを見て平気だなんて、そんなのもう人じゃない。
「……今回先生は何も出来ていません。倉橋さんの意向と、安全と、更に家族の状況、それらが複雑に絡み合っています。無理を承知で聞きますが──先生はもっと早く行動に移すべきだったでしょうか」
「はい…………」
僕は即答した。
「何故なら……もっと早く動いていれば、倉橋さんはここまで傷つかなかったし、何より──何より僕がこんなことを、こんな思いをせずに済んだ」
この時、僕は初めて殺せんせーを嫌った。燃える炎のように、激しく。
「もしも倉橋さんに何かあったら──その時は汚れた殺意を持って、殺せんせーを殺します」
「……良いでしょう………………その時は全力で《手入れ》して上げますよ……」
殺せんせーの横を通りすぎて教室へ戻っていく。もう時間はあまり残されていない。こんな戯れ言の間にも、倉橋さんは辛い思いをしているはずだ。
殺せんせーが振り返って、僕の肩を掴んだ。僕もそれにつられて振り返る。
「……先生の弱点を一つ教えて上げましょう。人道を外した仕事を長らくしていたせいか、人の心というものがわからなくなっているのかもしれません………………」
そう言う殺せんせーはどこか遠い目をしていた。目線は僕に向いていたが、その目は僕を通り越して遥か遠くを見ている。
──殺せんせーは何を見ているのだろう。
それは今まで殺してきた人たちのことだろうか。それともこれから起こるであろう事態のことだろうか。
いずれにしても、僕には関係無い。
そのまま殺せんせーを無視して教室に戻ってく。
裏切ったのは殺せんせーじゃなくて僕だった。
もう教室の中に殺せんせーはいない。途中から教室を抜け出して僕とのやり取りに専念していたようだ。
教室の窓は空いているが、重苦しい空気が流れていて入りがたい雰囲気を醸し出している。最も、今そんなことにたじろいでいるようでは先が思いやられる。
一度深呼吸をしてから教室の中に入っていく。再度みんなの視線が集まるが、声をかけてくる人は誰もいない。当然だ、僕の行動はみんなを無視したに等しい。
そんなのわかってる。
わかってる。僕はそれに動じちゃいけない。
……けれど──────。
「…………っ」
思わず泣きそうになって唇を噛み締める。
──なんでこんな悲しいんだろう────。
寂しい?そうかもしれない。けれど、それだけじゃない。
──なんで一人でやってるんだろう?
倉橋さんが、なんてのはただの言い訳だ。助けを求めようとすればいくらでも助けてくれただろうに。なのに僕はそれをしなかったばかりか、皆を裏切るようなことをしている。そんな自分が────────大嫌いだ。でも今は嫌いな自分しかいない。このまま行くしかない。
あぁ、そうだ、この空気は────本校舎の空気にそっくりだ。
誰も助けてくれない、誰にも助けを求めない。ヒソヒソ囁かれもしない、完全に見捨てられた存在。ここはE組なのに。
ここはE組なのに──────。
風が強く吹き込み、ハッと我にかえる。こんなことをしている場合ではない。一刻も早く、倉橋さんのところへ行かないと。
僕は中身も確認せずに鞄をひっつかむと、乱暴に椅子を上げてそのまま走って教室を出た。
遂に、誰も声をかけてくれなかった。
「さて、渚君は行った訳ですが」
「全く無茶するよね~全部一人で抱え込んで」
「一言ぐらい声かけてくれるかなーって期待してたんだけど」
「はぁ…………まさかここまで周りが見えなくなるとは」
「もしかしてひなのっちより渚のほうがやばいんじゃね?」
「あるある~」
「これで少しは薬になったかしらね」
「おやおや、随分と厳しいね」
「結局乗ったあなた方も同じよ」
「まぁでもちょっとかわいそうだったかな?」
「いーんだよ、あれで。渡すもんも渡せたし」
「さてこれから僕らがどうするかだよ」
「もう渚だけで行動するのは終わりだ。これからはクラス全員でやろう」
「ま、でも俺は先行くね」
「「あ?」」
なぜかアデノシン三リン酸は覚えていました