授業参観。
「ふぅ…」
手に持ったプリントを見て、思わず息が漏れる。授業参観のお知らせ…可愛い熊のイラスト付きで、そうでかでかと書かれたプリントこそが、この溜め息の原因だ。
そもそも授業参観って必要なのか?確かに人によっては素直に喜ぶのかもしれないし、また恥ずかしがりながらも明らかに普段よりハッスルする奴だっているだろう。
でも俺はというと、そのどっちでもなかった。両親ともいない家には関係の無いことだし。
いや、授業参観そのものは全然構わないんだ。
そもそも悩んでいるのは別に親が来なくて寂しいとかそういうんじゃないんだ。
「問題は…今後ろにいるあんたなんだよ……」
おっと、思わず声に出てしまった。
でもしょうがないだろ? だって今俺の背中ではこの世のありとあらゆる悪夢をかき集めて、長時間煮込んでスパイスで味付けしたようなカオス空間が広がってるんだぜ?
ああ、そもそもあの日、俺が姉さんにあんな話さえしなければこんなことには―――。
***
姉さんと2人、夕食を囲む。いつも通りの風景。そして、姉さんがいつも通りニコニコしながら俺にその質問をした。
『楓、今日は学校どうやった? なんかええことあった? お姉ちゃんに聞かせて欲しいな』
『特に何もないよ。あー…でも…』
『うん?』
一瞬、姉さんに言っていいものか迷う。だが、隠したら隠したで後で拗ねられても面倒だし、白状しておくか。
『…なんか授業参観やるらしいよ』
『授業参観っ!』
姉さんが勢い良く身を乗り出して顔を近づけてくる。なんか鼻息が荒くて怖いんだけど。
『もしかして…来るつもり?』
『え? そんなんあたりまえやん。行くに決まっとるよ』
なんでそんなんわざわざ聞くん? とでも言いそうな顔だ。まあ、正直そう言うと思ってたけどさ。
『いや、いーよ来なくて。そもそも授業参観って姉弟が見に来るもんじゃないから…』
『そうやけどぉ…ダメ?』
『駄目。そもそも休学中の姉さんが学校に来たら、先生に見つかって病院に逆戻りだよ? どうするつもりなんだよ?』
『うー、そうやけどぉ…うぅ…』
***
「姉さん、あの後もずっとうーうー唸ってたけど、変な気を起こさないだろうな…。いや、姉さんのことだ、またなんか妙な事を考えてるに違いない」
確か去年は家にあるパーティーグッズの髭眼鏡付けて「父です」って真顔で先生見つめてたしな。今の内に姉さんが何かやらかした時の対策をしっかりと考えなきゃな……うん、時間の無駄だな。
「楓くん! 楓くん!」
そんな憂鬱な空気を切り裂くような、明るい声を掛けられる。月村さんだ。
ウェーブの掛かった長く綺麗な紫色の髪に端整な顔付き。こんな可愛い子が実はパッパラパーの変人だって言うんだからから世界って面白いよな。
「ん、どうしたの月村さん。なにか用事?」
一緒に盗撮同好会作らない? とかいうお誘かな。恋する乙女って誰しもアグレッシブになるもんだもんね。盗撮、盗聴、家宅侵入ぐらいはみんなするよね。はっはっはっ、月村さんはいじらしいなぁ。
…うん、無理だわ。どうにかして月村さんをかつての天使に戻そうとしたけど、俺の思考回路じゃ限界ってもんがあるわ。
「楓くん、これ…あげるねっ!」
月村さんから可愛らしいラッピングの施された四角形の箱を渡される。
「…俺、今日誕生日じゃないよ?」
「うん、6月4日だよね?
でもこれは誕生日プレゼントじゃなくてお礼なんだ」
はて、俺は何か月村さんにお礼を言われるようなことをしたっけ?
「楓くん…私に気付かせてくれたよね。好きな人の為なら
体操着の匂い嗅いだり、使用済み水着を新品と交換したり、着替え中の写真を肌身離さず持ったりするのも全然おかしいことじゃないんだって。私、楓くんに勇気を貰ったんだ! だからそのお返し」
「すげー言い辛いけど君おかしいよ」
そのブラックゾーンを堂々とホワイトと言い切る姿勢、俺は好きかな。ちょっと関わり合いにはなりたくないけど。というかさりげなく罪状に盗撮が混ざってる時点で十分にアウトだろ。
「楓くん、私がんばるね!」
「恋は盲目って言うけど、月村さんの場合耳まで聞こえなくなるんだね」
この子実は危ないお薬でもキメキメしてんじゃないの?
というかこの子、さも当然のように俺の誕生日当てたけど、月村さんに誕生日教えたっけ? …いや、深く考えるのはよそう。考えれば考えるだけお互いが不幸になる。どのみち月村さんの意中の相手が人柱にさえなってくれれば全ては終わるんだ。
「えっと…開けてみていいかな?」
「うん!」
ゆっくりと月村さんから渡された小さな箱を開ける。小さいので最初は小物でも入っているのかと思ったけど、中身は手作りらしい色とりどりのドーナツだった。
よかった。これでもし渡されたのがお勧めの盗聴器とかだったらどうしようかと思ってたよ。
「すごく美味しそうだね。ありがとう! 帰ってから食べさせてもらうよ」
「うんっ! 特別な材料も使ってるから楽しみにしててね!」
月村さんの言葉に、思わず胸が高鳴る。下世話な話、月村さんの家はお金持ちだ。その月村さんが特別というくらいだからそれはそれは美味しいんだろう。この期待感はちょっとすごいぞ。特別な材料って言うくらいだから……トリュフとか? 食べたことないけど何かリッチなイメージがあるし。
「―― ――ふふっ……」
――キーンコーン、カーンコーン。
授業開始のチャイムが鳴り、生徒はいそいそと席に戻り、次に父兄の人達が次々と教室に入ってくる。随分と若いお母さんや、気合い入りまくりのお父さん、逆におじいさんやおばあさん、トトロなんかがいた。
トトロは「んん…んばっ!!んん…んばっ!!」と奇妙な声をあげながら手を上下させている。
…うん、どう見ても姉さんだね。確かにトトロは子供にしか見えないから先生にはバレないね。すごいね、考えたね、賢いね姉さん。バカじゃねぇの?
俺に気付いたトトロがぶんぶんと友好的に手を振ってくる。 なにそれ? ネコバスでも呼んでんの?
もうやだ……なんなのこの学校? 休学者含めて変な人しかいないんだけど……。
「何してんの!? いや、むしろ何してくれてんの姉さん!?」
トトロの胸倉を掴むと、トトロは「んばぼっ!」と声を洩らした。なに、驚いてんの? そうだろうね、俺だってトトロに掴みかかる日が来るとは思わなかった。欲しくなかったよそんな現実。
「だって楓の授業参観来たかったやもん…」
「やもん…じゃねぇよ! 見ろよクラスの反応を!
誰一人としてトトロに目を合わせようとしてねぇよ! 子供の時にだけ訪れる不思議な出会いなのに!」
「みんな大人の階段登ったんやろ」
「生々しいトトロだな!? いいから脱いでよ!」
「えっ、こんな所で!? でも、楓がそう言うんなら…」
「はーい、八神くん。もうチャイム鳴ったから座りましょうね~」
「あっ、す、すいません、先生! ……とにかくもう来たことはいいから早く着替えてね姉さん。恥ずかしいから」
「?」
僕にはそこで可愛らしく小首を傾げられる姉さんの神経がちょっと分かんないかな。生まれて初めて姉さんを本気のグーで殴りたくなったよ。
ここで姉さんといつまでもコントをやっているわけにも行かないので、トトロの胸倉を離して席に戻る。
「えー、今日は英語の授業を行います。みなさん! 保護者の方の前だからって緊張せず、いつも通りにやりましょう! ではまずは和訳問題です」
明らかにいつも通りじゃないテキパキとした動きで先生が黒板に例文を書いていく。いるよなぁ、こういう言ってる本人が明らかに緊張しまくりな先生。
『問 Susie has a pen.』
答えはスージーはペンを持っています。まぁ、簡単だな。スージーがペンを持ってるからどうしたって話ではあるけど。
「それじゃあ答えが分かる人は挙手を……。あらあら、みんな緊張してるのかな? じゃあ父兄の方で分かる方は…」
「はいっ! はーい!」
「えっと……それじゃそこの……え? トトロ? え? なんで? ……とりあえず、トトロさん、どうぞ……」
なんかだんだん語尾が震えてたけど、これ絶対怯えてるよね。そりゃ大事な授業参観になんか妖怪混ざってんだもん、無理ないよ。
ごめんなさい、先生。あなたは正常です。そいつは俺が責任を持ってお隣に返還するので気にしないでください。
「寿司恵はペンを持っています!」
「えー……正解です」
おい、それでいいのか教師。寿司恵だぞ。今絶対に面倒だから諦めただろアンタ。
「えー、この『has』という動詞は『have』の三人称単数形で『持つ』という意味があります。では次は、このhasを使って例文を作ってみましょう。では……バニングスさん、お願いします」
「はい」
バニングスさんは緊張した様子もなく、綺麗な文字でスラスラと英文を書いていく。もともと海外の血を引いている為か、その姿はすごく様になっていて、思わず少しかっこいいとさえ思ってしまった。
『Susie has no future.After all,she can't stand the store front because she is weeds.」
(寿司恵に未来はありません。彼女は所詮、花屋の店先には並べない雑草だったのです。)
「な、なかなか個性的な回答ですね…。先生、ついつい寿司恵さんの身に何があったのかと深読みしてしまいます」
というかなんでバニングスさんまで寿司恵を推してんだよ。ちょっと気に入ったのかよ。スージーが何をしたって言うんだ。
「で、では次は隣の席の人と教科書に書いてある英会話を実践してみましょう! アドリブ込みでもいいですよ」
『はい!』
隣の席…右側は月村さんだから、左側の田辺くんとにしよう。あっ、でも俺、田辺くんに話しかけたこと無いから気まずいわ。やっぱ月村さんにしとこ。
「じゃあ始めよっか! 楓くん!」
君は君でなんで準備万端なの? いや、ありがたいけどさ。
「えーっと…How are you?(調子はどうですか?)」
「I'm fine. There was a thing very good today.(元気です。今日はとてもいいことがありました)」
流石は月村さん、会話に全く淀みが無い。変態だから忘れがちだけど、この人学年でも1,2を争う秀才なんだよなぁ。変態だけど。
「次は…What is your hobby?(貴方の趣味は何ですか)」
「My hobby is to smell the smell.Can I sniffed your smell?(私の趣味は臭いを嗅ぐことです。嗅いでいいですか?)」
「ええと、It's my……って、ちょッ、What!? そんなこと教科書に書いてあってあったっけ!? というか人としてどうなのその質問!?」
「Or, please the used underwear.(もしくは、使用済みの下着をください)」
「Syoukini modotte Tukimurasan!(正気に戻って月村さん!)」
なんでこの人今日に限ってこんなにブーストかましてんだよ。意味分からん。というか今まで怖くてごまかしてたけど、これ完全に狙われてんの俺じゃん。やっぱり意味分からん。告白されて「え? なんだって?」とか言う難聴野郎とか鈍感野郎っていけ好かないって思ってたけど、気付かねぇよ。俺、月村さんと会話したの3~4回くらいだぞ? なんでだよ。
そしてその後、ひらりはらりと月村さんの暴走をかわしつつ、やっと長い授業は終わりを迎えた。
「はい! 先生の心をバッキバキに折ってくれた授業参観はここまでです! 先生、今年で32になりますが、ここまで早く学校から帰りたいと思ったのは小学校以来です。それでは最後に今日の授業の感想を誰かに代表で言ってもらって終わりましょう、そうしましょう! では…八神くん、お願いします」
「はい」
ヤケクソ気味の先生に指されて立ち上がる、今日の授業の感想?
そんなもん、1つに決まってる。クラスの守護神となったトトロ、寿司恵・バニングス、俺のパンツを執拗に狙う月村さん…その姿が脳裏に浮かんでは消えていった。
「なんでこうなったの……?」
俺は、ちょっと泣いていたかもしれない。