まだ日も沈みきらない時間の、近所の商店街。
ヴィータは八角形の木製の箱にハンドルがついた、一般に『ガラガラ』などと呼ばれる抽選器の前に立っていた。
商店街で1000円以上買い物をするともらえる福引券。それを10枚集めると、クジを一回引くことができるのだ。
景品は合計で7種類あり、一等の温泉旅行などというものから、残念賞のポケットティッシュまで幅広いものが用意されていた。
おぼつかない動作でハンドルに手を伸ばし、ゆっくりとそれを回していくと、その名の通りガラガラと音を立て始める。不意に、ヴィータはその音に鼓動が高鳴るのを感じた。
「ようし、行け、ヴィータ。……ほら、どうした? もっと早く回せ。そしてはやく私と順番を変わるんだ」
楓のお使いに付き合ってくれたはずのシグナムの声が、今はとても煩わしく感じられた。
声に急かされるように回転のスピードを速めようとすると、ちょうどその寸前に球がぽとりと落ちる音が聞こえた。
不意の出来事にヴィータは思わず目を閉じ、やがて真剣な表情でその球の色を確認した。
球の色は――赤。
自分にとっても馴染みのある色。その程度の感想だった。
突如、リンリンとベルの大袈裟な音が鳴り響く。
「でましたぁっ!!2等賞の自転車です!!」
ベルを鳴らしていたのは、大の前に立つ係員のおじさんだった。その大袈裟な声と音が注意を引き、周囲の見物人もヴィータたちを見てはおおと声を上げる。
「ジテンシャ……? なんかよく分かんねぇけど、5等のビーフージャーキーにしてくれよ。ザフィーラが喜ぶ」
「おめでとうございまっ……ええっ!? 自転車は!?」
「いらねーです。じゃあ貰ってくぞ」
ビーフジャーキーを持っていこうとするヴィータ。仮にそれを持ち帰っても得られるのはザフィーラの微妙な表情だけなのだが、それでも彼女にとっては自転車よりは興味を引かれるものだった。
「まぁ待て、そう邪険にするなヴィータ。自転車……風の噂には聞いたことがあるが、こう見えてかなりの性能を持った機体らしいぞ」
そんなヴィータを制止したのは、いつの間にか自分もくじを回し、ポケットティッシュを手に入れていたシグナムだった。ヴィータからビーフジャーキーを取り上げ、それと交換に自転車をおじさんから受け取る。
「んだよ? 自転車って、たまに町で見かけるアレだろ?あんま早くねーし、疲れるし、いらねーだろ」
「ああ、確かに疲れるし大して早くもない。もっともそれは魔法が使えればの話だ。今の我々が平然と魔法を使うわけにはいかないのはお前も分かっているだろう?」
「そりゃ……まぁ。はやて達に迷惑かけたくねーし……」
「ならば貰っておけ。徒歩よりはよほど速いし、これからなにかと出番もあるだろう。それにお前が自転車を持ち帰ったとなれば、主もきっと喜ばれる」
「……まぁ、シグナムがそこまで言うなら貰っとくかな」
「ああ、それに自転車をバカにしてはいけない。なんでも、かつてはこれに乗って宇宙人と月を背景に飛んだ少年もいたとか」
「まじで!? 自転車すげぇ!!」
先程までとは打って変わって自転車に興味津々といった様子のヴィータは楽しげな声をあげながら、自転車のサドルやペダル、そしてハンドルを、まるでその存在を確かめるように触れた。
「てか、これどうやって使うんだ? シグナムは知ってんのかよ?」
「まぁな。どれ、少し貸してみろ。――うむ、これは中々どうして……」
重さゆえのふらつきと、少々の覚束無さこそあるものの、シグナムは自転車をほぼ問題なく乗りこなしていた。
もちろん、シグナム自身、自転車に乗るのは初めての経験だったが、彼女の持ち前の運動神経と、剣の鍛練を行う上で鍛えられたバランス感覚がそれを可能にしていた。
「おお! やるじゃねぇかシグナム!」
素人目に見ても初めてとは思えない姿に、ヴィータも思わず称賛の声をあげる。シグナムもまた、柔和な笑みを浮かべながら片手を上げてそれに応え、自転車の軌道を修正した。
そして、そのままシグナムの姿は遠ざかり、燦々と煌めく太陽を背景に彼女は駆けた――
「って、そのまま帰るのかよ!?
あたしを置いて行くなぁッ!!」
***
「ただいまー!」
「ただいま戻りました」
「お帰りヴィータちゃん、シグナム。お使いありが、と……」
夕飯の下ごしらえをしていると、なぜか頭に特大のタンコブを作っているシグナムと、前カゴに買い物袋を乗せた自転車を押したヴィータちゃんがちょうど帰ってきていた。
……自転車?
「……おつりで好きなもの買っておいでとは言ったけど、お兄さん、これはちょっと予想外かな……」
「おーい! 楓ー! これもらったー!!」
「うん、よかったねヴィータちゃん。
で、どっから拾ってきたのシグナム? こういうはちゃんとお巡りさんに届けなきゃダメだよ?」
「自転車に乗っているのはヴィータなのに、なぜ真っ先に私を疑われるのか……遺憾のEです……」
「ごめんごめん。さすがに冗談だって。で、それどうしたの?」
「ええ、実は――」
かくかくしかじか、かゆかゆうまうまと2人からある程度かいつまんで事情を聞く。
「なるほど、福引きかぁ。俺ああいうの当たったこと無いからちょっと羨ましいかも。もう乗ってみたの?」
「ご令弟。実はヴィータは挑戦はしたのです。したのですが……」
「楓、自転車はあぶねー……。さすがは宇宙人が作った超小型空中飛行挺ってだけはある」
……ちょっと何を言ってるのかは分からないけど、とりあえず自転車に乗れなかったのは分かった。
確かによく見てみれば、ヴィータちゃんの服には転んだような汚れがいくつかあった。
「まぁ、自転車って最初は難しいって言うしね。仕方ないよ。なんだったら近くの公園に練習できる場所があるから行ってきたらどうかな?」
「よし! ならば私とそこで特訓だ! 着いてこいヴィータッ!」
「イヤだ」
「そうかッ! なら私一人で行く!!」
「シグナム一人で行っても意味ないでしょ!? ヴィータちゃんもなに笑顔で拒否ってんの!」
「ハッ!? ご、ごめん、楓! つい反射神経で」
反射神経で拒否るってどんだけシグナムとの練習イヤなんだ……。
その後、俺も協力するという条件でヴィータちゃんを納得させ、俺たちは公園にやってきたのだが……結果は、まぁ惨々たる様だった。
決してヴィータちゃんの運動神経は悪くないけど、こればっかりは相性というか……それはもうこの1時間で一生分は転んだのじゃないかというくらいにポンポンと転んでいた。
「ヴィータ! そこで左足を踏み込むんだ! ああ違う遅い! 足が完全に落ちる前に反対の足を踏み出すんだ! 水上を走るのと同じ要領だ!」
「うるせぇ! 人が水の上を走れるのを前提で話すんじゃねーよ!! 忍者かテメーは!!」
転びながらも律儀に突っ込みを入れるヴィータちゃんのプロ根性の何たることか。
「ふ~む、どうにも上手くいかんな……どうしたものか」
「いてて……別にそこまで本気でやらなくてもいーだろ。自転車くらい乗れなくても困らないし……」
「そんなことでどうするッ! この愚か者がッ!」
「わっ!急にでかい声出すなよ! びっくりすんだろーが!!」
「ええい、うるさい! そもそもお前には本気で自転車に乗ろうとする覚悟が足りんのだ! 必死になれていない!!」
「いや、別にそんな自転車くらいで……」
「……いいか、ヴィータ。お前の不安を煽らないように黙っていたが……件の少年と自転車に乗った宇宙人の話を覚えているか?」
「……? お、おお……」
「実は彼はな……自転車に乗れない子供は用無しとして、代わりにその家族を自分の星へと誘拐してしまうんだ。一度連れ去られたが最後、もう二度と遭うことも叶わず、ひたすら自転車を漕がされる毎日が待っているそうだ……言っている意味は分かるな?」
「ま、まじかよ……つまり、楓やはやてが……。わ、分かった! あたしはやるぞシグナム! 指導頼む!!」
「よしッ! じゃあとりあえず覚悟の証として、次にこけたらシャマルと二人で風呂に入ってもらう! そうなれば五体無事で済むと思うなよ!!」
「死んでも乗りこなすッ!」
最低か。
やっぱり仲間内でもそういう扱いなのかシャマル……。
「楓っ! あたし、楓を宇宙人に連れて行かせたりしないからな!!」
えっ、俺拐われるの?
この子はこの子でさっきから自転車を一体なにと勘違いしてるんだ……。
その後もシグナムによるヴィータちゃんのスパルタ訓練は続いたものの、覚悟を決めたからといって急に上手く行くなんて漫画みたいな話があるはずも無く、ヴィータちゃんは相変わらず自転車を乗りこなすことができないでいた。
そんな中、騒ぎを聞いたシャマルが家から応援に来てくれていた。
「どう? シャマルから見て何かアドバイスとかないかな?」
「う~ん、そうですねぇ……ヴィータちゃんはちょっと力が入りすぎている所がありますね。もうちょっとリラックスして挑戦してみたらどうかしら?」
「わ、分かった。リラックス、リラックス……!」
「それじゃあ余計に力が入ってるわよ……。分かったわ。それじゃあ気晴らしにちょっとしたクイズでもしましょうか」
なるほど、まずは技術的なことは置いておいて、ヴィータちゃんの緊張をほぐす作戦か。それは確かに効果がありそうだ。
「プリンスプリンス、スパイススパイス。『ス』を抜いて言ってみると?」
「プリンプ――死ねッ!!」
シャマルの最低な問題の意図に気付いたヴィータちゃんが、巨大なハンマーでシャマルに正義の鉄槌を下す。家に来て初めてアイゼン使っちゃたよこの子。本気で殺しに掛かってんじゃん。というか今のは死んだんじゃないか?
「おふ……たとえこれで死んでも後悔はないわ。……ああ、ただ瞳を閉じれば、あの日の思い出がよみがえったり、貴方の姿が映し出されて……」
「そのまま滅びろ!」
「そういえばお菓子のホワイトロリータって食べてると変な気持ちになりません?」
「……ホント、いい病院紹介しようか? いろいろな意味で」
その後、シャマルがヴィータちゃんによって埋められたため事態は結局振り出しに。この人本当に何しに来たんだろ。
「んー……。やっぱさ、こういうのは運動できる人に聞くのがいいんじゃねーの?」
「私がいるじゃないか」
「テメェは一生アメンボごっこやってろ。楓は誰か知らないかな?」
「運動神経のいい人か……まぁ、当てが無いことは無い……けど」
携帯を電話帳を開き、『た行』をタッチするとディスプレイに表示される一つの番号。着信拒否しようが登録を消そうが問答無用で毎晩掛かってくるその番号――の下に表示されているメールアドレスを開いた。だって直接声聞くの怖いんだもん。
「メールの内容は……来て、と」
「え、そんだけ? それで大丈夫なのかよ? つーか、そんないきなり呼んで来てくれんの?」
「はは、やだなぁヴィータちゃん。月村さんならメールすれば1分で来るに決まってるじゃないか」
「そ、そうなのか……。そういうもんなのか……」
そもそも今のメールだって『遊びに来て』ってていう意味じゃなくて『出て来て』って意味だし。
「おまたせ!」
「こんにちは、月村さん。来てくれてありがとうね」
「まじで来た……!」
メールを送ってきっかり1分。案の定月村さんはそこにいた。
ヴィータちゃんがその事実に軽く戦慄しているが、八神家の一員である以上、この程度のことで一々驚いていたら身が持たないよ?
「今日は楓くんから電話が来るような気がして、おはようからお休みまでずっと見守ることにしてたんだ! これって運命かな!?」
「楓ー。この人ちょっとキモーい」
俺はヴィータちゃんのその表現が本当は有り得ないくらいソフトな方なんだと気づく日が来ないことを祈るよ。あと多分それは運命じゃなくて呪い。
「それで、自転車に乗れなくても困ってるんだったよね?」
「うん、相変わらずドン引きするぐらい話が早くて助かるよ。あえて聞くけど、何で知ってんの? いつからいたの? あと月村さんは運動得意だし、その辺なにかアドバイスとかないかな?」
「私は楓くんのことなら何でも知ってるよ! ……う~ん。私も自転車自体は乗れるんだけどね、結構感覚で乗ってるところがあるから……。あ、そうだ!」
「なにか思い付いたの!?」
やはり運動神経と成績と変態性は学年トップの月村さん。もう何か良い案を思いついたのか。流石はジャイアン並の力とスネオ並の財力と出来杉くん並のスペックとしずかちゃん並の容姿とドラえもんの並の利便性とのび太並の残念さを持つ月村さんだ、頼りになる。
「つ、月村師匠! あたしはどうすればいい!?」
「うん、補助輪……つけてみたらどうかな?」
……あ。
***
「お、おお……すげぇ! 自転車すげーよ楓!」
月村さんのアドバイスのおかげで、補助輪付きとはいえ、やっと自転車に乗れたヴィータちゃんの声はとても嬉しそうだった。
もともと、ヴィータちゃん自身の運動神経は悪くないし、あの分ならすぐに補助輪は取れるようになるだろう。
「ほら! 楓も乗ってみて!」
喜びを誰かと分かち合いたいのか、ヴィータちゃんは俺の前で自転車を降りて、興奮しながらサドルを指差した。ああ、やっぱこの子天使だわ。
もちろん天使の静かな湖に波紋が拡がって行くような笑顔を曇らせるわけには行かないので、俺はその申し出を快く受け入れて自転車に乗り――そして思いっきりこけた。
「補助輪つきで……」
「こけた……!?」
……ここまで自分の運動神経が悪いと自覚していなかった初夏のある日。
恥ずかしさと傷みに悶えながらも、これから起こるであろうシグナムの猛特訓に思いを馳せながら……静かに意識を手放した――