ダンジョンに潜るのは意外と楽しい 作:荒島
(……リリは何をしているんでしょうか?)
バシン!と快音が耳朶を打った。
早朝の静けさのせいか、その音はとても良く響く気がした。
リリー・サンドリオン──本名、リリルカ・アーデはこの現状に再度問う。
何故、こんなことになったのか?と。
「腰もっと入れてみな、ほれ次」
「くっ!!」
バシン!と拳が掌に当たった衝撃を伝えてくる。
伸びきった右ストレートを息を乱しながら畳むと、イットはにんまりと笑って親指を立てた。
「今のストレートは良かったな。フォームは段々様になって来たし、もう一回同じ感じでやってみな」
「はぁ、はぁ……はい、です」
本当に何をしているのだろう、と思う。
早朝の街。
静けさが横たわる住宅地区の一角、その小さな広場にて。
リリはイットの掌に拳を打ち込んでいた。
何故こんなことになったのだったか、とリリは自問する。
先日の賞金を直接受け取りに来たのが悪かったのだろうか?
否、ギルドに行って彼の名前を出さなかったのは、出来る限り目立ちたくなかったからだ。
悪目立ちを避けたい自分が、毎朝走り込んでいるイットのランニングコースで待ち伏せしたのは当然の理だった。
しかしリリにとって意外だったのは、イットが驚いた表情を浮かべたもののすんなり金を渡してきたことだった。
正直、貰えるとは期待はしていなかったのだ……他の冒険者ならしらばっくれた挙句、嘲笑うくらいの事はしてくる。
それ程までにサポーターの地位は低い。
偽硬貨かとも怪しんだが、表面の細工は本物だった。
結果として、リリはまんまと5000ヴァリスを手に入れたのだ。
そこまでは良かった、と記憶を振り返りながらリリは思う。
事態が急変したのはそこからだった。
『よーし、今日もいいパンチ教えてやるよ』
彼はそんな事を言うと、昨日のように掌を構えてきたのだ。
まるで今日も鍛えてやると言わんばかりの姿勢だった。
思わず呆れた視線を向けてしまう。
誰がそんな茶番に乗るものか、とリリは思った。
何の対価もないのなら、無駄に疲れるだけではないか。
格闘技などという無駄なものに費やす時間はないのだ。
昼にはダンジョン攻略を控えている身なのに、そんな事に体力を使っている余裕はない。
用も済んだし踵を返して帰ろうと考えた瞬間──不意に、左拳が引き留めるように疼いた。
一瞬、昨日の徐々に鋭くなっていったこの拳が思い出される。
イットの指示の度に、成長していると実感できたあの光景が脳裏を過った。
驚くべきことに『向いている』のかもしれないと思うほどに、ピタリとハマるようなしっくりさをあの練習はリリに与えてきたのだ。
成長というものを忘れていたリリにとって、その感覚はとても──
(──とても、気持ちの良いものでした)
『お、やる気満々だな』
ハッ、とそんなイットの言葉にリリは思わず我に返った。
まさか!やる気などあるはずもない。何を言っているのかと文句を口にしようとして──そこで自分が軽く拳を上げている事に気が付いた。
(そんな、馬鹿な……)
体がいつの間にかその気になっていた事に驚きつつも、ニコニコと掌を構えるイットに断りの言葉が出てこない。
観念するように小さくため息を吐くと、リリは昨日教わった通りに拳を構えた。
(一発だけ、一発だけ付き合ったら今日は帰りましょう……)
……そう思ったのが、幾ばくか前の事。
何故こんなことをしているのか、と問い続けながらもリリは未だに拳を振り続けている。
「本当、飲みこみは早いなお前は。じゃあ組み合わせ打ってみっか」
こうするんだ、とジャブとストレートを組み合わせたコンビネーションをイットは見せてくる。
口にするのは癪だったが、その姿はとても美しかった。
無駄のない、破壊だけを目的とした動きはリリの心に未知の気持ちを抱かせる。
その動きを見ていると何だか荒々しくなるような、そんな気分になってくるのだ。
「これがワンツーだ。ほれ、打ってこいよ」
自分は何をしているんだろう、とリリは自問する。
その思考の間にも両腕は動き、足は踏み込み、拳はその掌を捉えている。
単純作業の繰り返しに何の意味があるのか?
しかし、その中で段々動きが磨かれていく感覚は悪い気分ではない。
少しずつ、自分の殻を打ち破っていくような成長の快感は、リリの中の何かを熱くさせた。
(もう少しだけ……あと一発だけ打ったら帰りますから……)
胸中で同じことを繰り返しながら、リリはいつの間にか夢中でパンチを打ち込んでいた。
──自分が拳を磨く虜になったのだと、彼女が自覚するのはまだまだ先の話だった。
11階層は霧が多く、見通しが悪い。
『上層』と呼ばれるLv.1が対応できるとされる階域も終わりに差し掛かっているせいか、ダンジョンはここら辺から徐々に本格的に牙を剥き始めるのだ。
悪くなっていくダンジョンの環境、大型モンスターの出現。
10階層~12階層は中層からの過酷さを如実に漂わせている。
「っと」
一呼吸の間に振り抜かれる拳を、足を使って大きく避けた。
その腕に生えた白い体毛を横目に見ながら、大きく跳び退く。
重りをガチャリと鳴らしながら顔を上げれば、大きな3つの影がそこには佇んでいた。
シルバーバック。
怪物祭の時にお目にかかった大猿のモンスターが3体。
荒く息を吐きながらこちらを見る瞳は、どれもこちらを捉えて離さない。
今までならその巨躯と相まって緊張が走る場面だったが、予想に反してこちらの胸中は穏やかなものだった。
長く息を吐きながら拳を構える。
弓を引き絞るように筋肉を収縮させ、相手を見据える。
次の瞬間。
燃え上がる闘争心に火を着けられた様に体は前に飛び出した。
(おっさんのプレッシャーに比べりゃ可愛いもんだよ……!!)
途端に飛んでくる振り下ろしを拳で弾くと、一歩詰め寄って鳩尾に一発。
深々と突き刺さった重り付きの拳は、そのまま抉り抜いたような衝撃をシルバーバックスに与える。
「グガァアアアアアアアア!!!」
断末魔のような悲鳴が上がるが、お構いなしに2発目を叩き込む。
「一匹目」
息を吐くと同時にその巨体は霧散する──残り2体。
どちらも仲間がやられて気が昂ったのか、ギラギラとした眼差しだ。
同時に襲い掛かってくる、と直感する。
こういう時、おっさんはどうしろと言っていたんだったか。
座学で教えてくれた冒険者の立ち回りを思い出す。
『おう!被弾覚悟で突っ込む!近づいたら全力でぶっ倒す!以上だ!』
思わず頭を振った。
脳筋根性論者を当てにした自分がアホだった。
(……いや待て、確かこうも言ってたな)
『いいか、坊主!モンスター相手にするのにこっちが人間相手と同じじゃあいけねえ!喰われる前に喰ってやるっつう飢えた勢いってのがいる!だからよ、お前さんは冒険者であると同時に──モンスターになれ』
脳裏に響く言葉にニヤリと笑う。
ボクシングでもそうだ。
綺麗に型を練習するだけじゃ、勝つには足りない。
時には『野性』が必要になる事がある。
つまりはそういう事なのだ。
「そっちは分かるぜ、おっさん……」
拳は熱く、頭はクールに──そして、心で野性の本能を爆発させるのだ。
カッ!と体が熱くなった。
眦を大きく見開きながら、咆哮を上げる。
「ヴォオオオオオオオオオオオオオ!!!!!」
ダンっ!と弾丸のようにステップイン。
迫る剛腕をダッキングで躱す、躱す、躱す。
2歩、3歩と詰める距離に比例するようにその拳撃は激しくなる。
「グゴォオオオオオオオオオオオオオ!!!!」
「だっしゃらぁっ!!!!」
ガゴン!!と右拳でその拳撃を迎え撃つ。
イケる!と確信するよりも早く、こちらの右腕が振り抜かれる。
砕かれるように腕を跳ね上げられたシルバーバックの顔に、怯えの表情が浮かんだ気がした。
「うぉあらあああああ!!!!」
ラッシュ!ラッシュ!ラッシュ!
息を吐かせない、怒涛の乱撃は強かにボディを打ち抜く。
一度、ビビった奴に攻撃を当てるのは容易い。
こいつは本能的にこちらに屈したのだ。
鈍い打撃音だけがダンジョンに木霊する。
やがて11階層に響く轟音が鳴りやんだ時には、思い出したような静寂だけが横たわっていた。
「合計、三匹っと」
体の熱を散らすに腕を振ると、目の前に落ちている3つの魔石を拾い上げる。
おっさんのトレーニングは無駄じゃなかったな、と考えながらそれらを仕舞い込んだ。
(相変わらず足元は弱いけどなぁ……)
最近は足を蹴ってもらい鍛えてはいるものの、意識の切り替えはもうしばらく時間がかかりそうだ。
小さくため息を吐くと、慰めるように腹の音がぐぅと音を立てた。
ダンジョン内では時間の感覚が狂ってきてしまうが、かなりの時間潜っていたらしい。
手持ちの魔石も荷物一杯になって来たし、そろそろ引き上げた方が良さそうだ。
(こういう時、サポーターってのがいたら楽なんだろうけど……)
今朝、嬉しそうにサポーターが出来たと報告していたベルの顔を思い出す。
ヘスティアが心配性を発揮して信用できる子なのか執拗に探りを入れていたが、
あの分なら大丈夫だろう。
名前をリリルカ・アーデという明るく無邪気な犬人族の女の子なのだとか。
(こっちのリリとは大違いだな)
口が悪く可愛げのない狼少女を思い出すと、早朝の練習の光景が目に浮かぶ。
リーチはないものの、的確にポイントを打ってくる良いパンチは受けていて気持ちの良いものだった。
かつてのどの後輩よりも筋が良い。
柄でもないが、自分は彼女の才能に惚れ込んだのだ。
思わず練習の申し出をしてしまうくらいにはその将来が楽しみになっている。
彼女の素質なら、あと10年もすれば身長も伸びて良いボクサーになるに違いない。
狼人族というのだから、筋力もあるだろうしファイターとして育てるべきだろうか。
いや、あの頭の良さを生かすのはアウトボクサーだろう。
勝手にそんな事を考えている自分に思わず苦笑してしまう。
「ったく、トレーナーでもあるまいし」
他人の事よりも、自分の心配の筈だ。
しかし気が付けば、明日の早朝はサンドバック替わりになるものを持っていこうかなどと考えてしまっていた。
あの可愛くない狼少女は明日も来るだろうか?
そう思いながら、ゆっくりと帰路につくのだった。
リリスケ、何だかんだ言いつつもボクシングに入門するの巻。
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