ここはどこだ。
ここは……私の……。
「薄汚く生き残ったお前を、今この手で……」
「僕を見捨てた君を」
「望み通り……うちらが」
「「「「殺してやる」」」」
ああ……そうだ。
これこそが、私が望んだ……。
「返せ……」
魔法を放つ。雪風が、いや猛吹雪が周囲を氷結させながら猛進していく。しかし、曼荼羅の如き魔法陣はそれをくもなく受け止め、やがて猛吹雪はただの風となる。
「返セ……!」
再びの魔法。周囲の温度を一瞬で奪い去る絶対零度の殺意は、しかし発動したと同時に超高温を纏う炎熱によって押し負け、霧散する。その時に生じた一瞬の耳を劈
「カエセエエエエエエエエエエエエ!」
右腕に空気中の水をかき集めて液体化し、それを圧力を用いて一気に固体化から気体化させて圧縮した死の刃を纏う。低温状態での構造相転移によって起こした、凶悪な冷気の剣で斬りつけようとするが、寸前で喉元を抑えられて止められる。
「ゴァ……ガ……ア゛ア゛……!」
窒息死寸前の彼女は、しかしその殺意を衰えさせることなくギラついた
ゴキャ
何かが折れたような、しかし潰れたようにも聞こえる音。見れば、彼女は口から尋常ならざる量の血を吐き出しており、それによって完全に窒息状態に陥っている。先ほどの音は、彼女の首の骨が折れた音であった。
「ゴボ……ァ……!」
溺れた人間が出す声というものは、こうも醜悪な鳴き声であろうか。或いは、死を目前にしようと構わず
「……これが、彼女か……?」
彼ら、造物主とエヴァンジェリンの死闘。いや、一方が嬲られ続けるこの様はむしろ虐殺や屠殺という言葉が適切か。そんな光景を、どこか傍観者のごとく眺めているプリームム達。横で所詮この程度か、などとほざいているデュナミスを尻目に、彼が抱いたのは大きな困惑と僅かな失望。
(……いくら主が強いとはいえ。いくら彼女の片腕を失ったとはいえ……。ああも無様な姿を見せつけられるとはね……)
彼の心には、今小さな怒りが宿っていた。あれほど自分に悪党としての矜持を自慢げに話していながら、いざ全面対決をしてみれば鈴音を失い、因縁深き様子が伺える主を相手に狂乱しながら駄々っ子のように荒れている。そして一番怒りを覚えるのは、何を隠そう自分自身。
(主に任せっきりで、自分は蚊帳の外じゃないか……!)
駄々っ子のようだとは言えども、相手は巨人の力を持った鬼。全力で戦っているであろう彼女と、それを苦もなく受けきってみせる主。双方共に自身とは力の次元が違いすぎて、近づくことさえままならない。知らず、彼の両の
「プリームム。この場は主がじきに収めるだろう。我々は、今できることをしておくべきだ」
そんな彼に、デュナミスは別の仕事をなすべきだと提案してくる。しかし、その言葉の真意は。
「……暗に言わず、主の
「そう言うな。口惜しいが、我々では対抗することは愚かまともに相対すら出来んだろう。この場は己の力なさを嘆いているよりも、為せることを為すべきだ。敵は何も彼奴らだけではない、むしろこれから来る方が本命というべきだろう」
そう。エヴァンジェリンや鈴音という、この世界でも最上位クラスの戦闘能力を誇る人物たちを相手にしていたため忘れそうになるが、むしろ未だ上空で足止めを食らっている人物たちこそが本来、本命とも言える人物たちだ。
「『
「彼奴らもまた、我々と互角の実力を有する難敵だ。我らの目的を成就するためにも、障害足る奴らを屠り去るべきだ」
「……分かった」
理屈では納得していても、しかし心は反発している。できることならば、勝負の勝ち負けに関わらず、彼女らと心ゆくまで戦いたかった。その心残りが、無念さと虚しさを彼の胸へと去来させていた。
「ヴァアッ、ガアアアアアアアアアアアアア!」
もはや獣の如く荒れ狂う、彼女の叫び声と共に。
彼女が生まれたのは、時代を逆行するかの如き旧き因習に従い続けてきた一族であった。しかし、それは決して古臭い考えに凝り固まった風通しの悪い家ではなく、ある理由から彼らは偉大な祖先を純粋に尊敬しており、彼ら先人の教えや忠告を守り続けていただけであった。
「今年も庭の椿は満開となったな」
「寒うございましたから……丁度春先とは残念どすわ」
「残念、とはどういうことか。力強く咲いた白椿のどこが不服か」
「いえ、うちは寒椿の方が好みで御座います故」
厳かな雰囲気を醸し出す坊主頭の男と、少々訛りの混じる言葉で話す品の良さそうな女性。男の名を明山寺
「然れども、自然の営みを我ら人の身が否定するは傲慢ぞ」
「そうどすなぁ……。うちもそない思いますけど、椿はひっそりと咲きますでしょう? 春先は桜が派手に咲いて、椿をうちらから隠してしまいますわ」
「……それこそ贅沢な話よ。小さき幸せや美しさとは、それゆえに希少であり見つけた時の喜びも至上となる。面倒であるからと探す努力を怠っては、それこそ侘びも寂びも無い」
「うふふ……旦那様は相も変わらず風流なお方やな」
口元を小さな掌で隠しつつ、様になった仕草で笑う。しかれどその手の甲には、痛々しい裂傷や切り傷が散見できる。隠れて見えはしないが、彼女の掌も
「あの、旦那様……。毎度思うんどすけど、その……うちの掌なんか触って何が楽しいのどすか」
「うん? 可笑しな事を聞く。おまえの血と汗を染み込ませた美しき手を握る……これがどうして楽しくないと言えようか」
握られた手から感じる愛しい人の温度は、彼女に小さな喜びを感じさせてくれる。心のなかで、彼が先ほど言った言葉が真であると思いながら暫く感じ入っていると。
「……ちちうえ、ははうえ……」
「おお、花の香に惹きつけられて可愛らしい蝶がやって来おったか」
軒先で日を浴びながら静かな時間を過ごしていた二人の
「ん、さては陽気で
「はいはい、雑に扱いまへんでおくれやす」
「分かっておる。……此方へ来い、髪を
少女は無言で一度だけ頷くと、てちてちとゆっくり、しかし彼女にとっては急いで近づいていく。そして彼の近くまでやってくると座るように促され、軒先に脚を出す形で腰掛けた。
「相変わらず滑らかな髪だな」
「……ははうえに、にた……?」
「そうであろうな、尤も私はあまりお前の母の髪を触ったことはない」
「ややわぁ、髪は女の命どすもの……触れられるより眺めて楽しむものどすえ」
クスクスと笑いながら、自分の髪を手で掻き上げる仕草をしてみせる。その一挙動だけで非常に絵になり、浅葱色の着物は艶やかだ。やがて、鐘嗣が髪を梳き終わると彼女をゆっくりと抱きしめる。
「……あったかい……」
「今日は日差しが優しい。冬将軍殿もようやくお帰りになったようだな」
「昨晩はえろう寒かったどすからなあ……。おや
「……はる、ですね……」
「カ……エ……セ……!」
「……諦めの悪いことだ。四肢をもがれてなお殺意を衰えさせぬか」
周囲に立ち込める、悍ましいほどの血の臭い。その出処はエヴァンジェリンの失った手足、その傷から流れ出ている
「……時間の無駄だ」
彼はなお彼女が再生しようとしている四肢を、曼荼羅の如き魔法陣で固定した。流れ出ていた液体は止まったが、同時に彼女の再生しかかっていた手足もその動きを止めた。
「ぎいいいいいいいいいいいいいい!!?」
再生中であるにもかかわらず、それを止められた。その結果ひたすら再生しようとし続ける新たに生み出された
「ぎ、あ、がああああああああ!」
痛みでまともに喋ることさえ出来ない。その様はまさしく醜悪であり、目も当てられないほどの惨状であった。
「そこで大人しくしているがいい……」
「ど、こへ……いく……!」
痛みをこらえながら、殺意のこもった視線を浴びせかけるエヴァンジェリン。しかしそれを軽くいなしながら、彼は横たわる彼女に近寄っていった。
「っ! き、さ、ま……!」
「『
「やめろっ! 私の従者に触れるなッ!!!」
喉が擦り切れんほどに叫ぶエヴァンジェリン。しかし、無常にも鈴音の体は造物主によって拾い上げられ、ゆっくりと祭壇の方へと連れられて行く。
「待てっ! 私の、私の鈴音を返せっ!」
「……ならばなぜ、先程この娘を助けようとしなかった」
「……あ」
思い出す。彼女を助けようにも魔法が通じぬ以上回復魔法など施しても無駄だと理解して絶望したこと。しかし、冷静になってみれば彼女を連れて離脱し、その方法を模索すればこんな事にはならなかっただろう。600年の憎悪に心を塗りつぶされ、ただ餓鬼のように喚きながら造物主に突貫したのは誰だ。
「ああっ……!」
声が震える。その事実を真正面から叩きつけられた彼女には、もはや己を支えるものが何一つ残されていない。先程まで猛り狂った憎悪でさえ、後悔で霧散していく。
「は、は……」
頬の筋肉が痙攣し、乾いた笑みを浮かべさせる。その様は、壊れた西洋人形のようで。
「あはははははははははははははははははは!!!」
家族も、人間性も、半身も、憎悪も、そして心さえも失った。
「やはり、我が
「今まで細々と続いてこれたのも神鳴流のおかげじゃしのう……」
薄暗い部屋の中、小さな行灯の明かりに照らされる人物が二人。一人は三十代ほどの男性で、鐘嗣であった。もう一人は相当に歳を経たであろう老人であり、しかしその鋭い眼光は衰えを感じさせない光を伺わせる。その正体は鐘嗣の実の父であり、先代の『継承者』である前明山寺家当主、明山寺
「父上、やはり……」
「うむ、残念なことじゃが……我が家ももう時代の流れには逆らえん。いくら"流派"を受け継ごうと、それが役に立たぬ平穏な時代では害にしかならぬ」
神鳴流とかつては双璧をなした流派とはいえ、今はお家おとりつぶしによって分家さえも残っておらず、宗家とされた明山寺の血を受けたものも僅かに十数人。その内、鐘嗣と定鬨を除いた他の者は半分以上が移りゆく世に己をぶつけてみたいと出奔し、残る者達も才能が芳しくなく流派の存続さえ危うい。
「では、やはり神鳴流に……」
「うむ。我が流派は危険な
「明山寺家は解体……となりますか」
その言葉に、
「……どうしよう……」
彼らの話を聞いてしまっていた少女は、少なくない動揺を見せていた。明山寺家が無くなってしまうとなれば、父や母と離れ離れになってしまうかもしれない。そんな思いを抱いてしまった彼女は、不安で胸が押しつぶされてしまいそうになる。部屋からの物音で意識を戻した彼女は、そそくさと部屋へと戻っていくが、気分は優れない。
そんな時。
「おやおやぁ、こんな夜中に散歩ですかぁ? 悪い子ですねぇ」
男の声。振り返ってみれば、そこにいたのは彼女の父の弟、つまり自分にとっては叔父に当たる人物がいた。名を、明山寺
「どうしましたかぁ? そんな難しい顔をしてぇ」
「……かんけいない」
「おやおやぁ、これは酷いですねぇ仮にも叔父さん相手にそんなそっけない態度はぁ」
「……うるさい」
「んふふぅ……君がどうして不安になっているのかは容易に想像がつきますよぅ? 先ほどの兄さんと父上の会話を盗み聞きしたのでしょう?」
「っ!」
その表情が一気に険しいものになったのを見て、影鳴は図星であることを感じ取る。そして、同時に
「そうですよねぇ、明山寺家が無くなってしまえばぁ、
「…………」
もちろん嘘である。彼女は実家を出る際に大いに明山寺家を、そして鐘嗣を信頼して送り出しており、戻ってくるよう催促などされるはずもない。
「ですがぁ……それを回避できるとすれば、どうしますかぁ?」
「……! ……できるの……?」
「ええ。ただしそれには……君の協力が必要不可欠ですねぇ」
言外に、方法を教えるから自分に従えと言ってくる。それを何となくではあるが感じ取った少女は。
「……わかった」
彼の言葉を信じることにした。してしまった。それが、彼女を後々まで苦しめる悪夢までの道程とは知る由もなく。
一人残されたエヴァンジェリンは、何をするでもなく横たわったままであった。
「……もう、どうでもいい」
何もする気力が湧いてこない。輝いて見えた世界は、今は汚れた灰色と同じだ。幸いにもアスナは避難させているから、自分が鍛えたのもあって一人で生きていけるだろう。あとは、チャチャゼロに連絡して彼女を守らせればいい。幸い、魔力は万一を考えてアスナと新たにパスをつないでいたので問題無いだろう。
しかし、自分はもう何も残っていない。彼女の中身は空っぽであった。
「ナニヤッテンダヨ……」
ふと、頭上から声がした。見れば、そこには彼女の従者であるチャチャゼロの姿。丁度いいと思い彼女にアスナを助けるように指示する。
「チャチャゼロ……鈴音が死んだ」
「……オイオイ、冗談キツイゼ、アイツガ早々死ヌワケ……」
冗談だと思いたい。チャチャゼロは心の底から望んだが、主人の悲惨な姿を見て冗談などでは決して無いことをうすうす感じ取っていた。
「……私はもうだめだ、アスナを頼む……」
「……ハ?」
主人のあまりに弱々しい声から感じ取れた、敗北者特有の惨めな感情。諦めがそこにあった。
「……フザケンナヨ」
「巫山戯てなどいない……私はもう、何もしたくないんだ……」
「ソレガフザケテルッテ言ッテンダヨ!」
主人の胸ぐらをつかみあげて、彼女は大声で叫んだ。
「散々巻キ込ンデ自分ハ途中デ諦メルッテノカ!? 馬鹿ニスンノモ大概ニシロ!」
「そうだな……私は最低だ……でも……もう私には何もない……鈴音の体さえ、持っていかれてしまったなぁ……」
怒鳴ってはみても、彼女は
「今マデ背負ッテキタモノ全部捨テルキカヨ! アスナヲ攫ッテ巻キ込ンダクセニ! 生キルタメニ殺シテキタクセニ!」
彼女はかつてプリームムに言った。目を背けるのはただの逃げだと。それを飲み干す強さをもってこそ、悪党として一流なのだと。しかし、今の彼女は逃げようとしている。怯える少女のように、必死に現実から目を背けようとしていた。
「いやだ……もういやなんだ……もう何もいらない……いらないから誰も私に関わらないでくれ」
すべてを失って、何もかもが嫌になり。現実から目を逸らして迷惑など、他人のことなど気にしない。まるで駄々っ子だった。
「……ケッ、結局コノ程度ダッタッテワケカヨ。アレダケ抜カシテオイテ、イザ危機ニ陥レバ餓鬼ミテェニ喚キ散ラス。……鈴音モ浮カバレネーナ!!!」
あまりにも情けなさすぎて、彼女の従者であることさえ忘れて暴言を吐く。滲み出る怒りは彼女に対してでもあり、自分にでもあった。もっと早く戻ってこれれば、こんなことにはならなかったかもしれない。いや、よしんば間に合ったとしても鈴音とエヴァンジェリンの最高のコンビとも言える二人でどうしようもなかったのだ。自分がいた所で数合わせにすらなりやしないだろう。
「……オレハ、鈴音ヲ助ケニイク」
「よせ……お前一人でどうにかなるもんじゃない……。死んでしまった鈴音より、アスナのそばに居てやったほうが……」
「……本気デ言ッテンノカ」
彼女から飛び出た、絶対に言わないであろう言葉。彼女は、死んでいるとはいえ鈴音を見捨てるようなことを言ったのだ。
「……アンタニハ失望シタゼ、
もう、チャチャゼロはエヴァンジェリンを主人と呼ばなかった。心の底から、彼女に失望したからだ。バケモノの仲間を欲していたくせに。孤独に怯え続けていたくせに。死んでしまったから見捨てるなどと、聞きたくもなかった。
「……オレハ、アンタトハ違ウ。絶対ニ、最後マデ諦メヤシネェゾ……!」
諦めは死であると、かつて鈴音が言っていた。チャチャゼロもそうだと共感し、それを忘れずにここまでやってきた。なら、最期まで足掻くことだけはやめたくはない。彼女なりの、最後の意地であった。
「一生ソコデ這イツクバッテロ、
造物主が向かった祭壇へと、彼女は飛んでいく。後に残されたのは、惨めな敗北者だけであった。
修行を始めて数年が経過した。影鳴曰く、自分は才能があるから『村雨流』を扱えるようになれば、継承者として認められて家が存続できるだろうと。
「……はぁ……はぁ……」
「どうしましたぁ? この程度でへばっていてはぁ、兄さんに追いつくなど無理無駄無謀ですよぉ」
「……まだ、いける……!」
過酷な修練が続いた。最初は刃で生き物を殺すことを教えられた。山に行って、無抵抗の猪の眉間に刃を沈み込ませたのは今でも鮮明に覚えている。殺すことによる吐き気などは感じなかった。しかし、後のあの出来事に対するきっかけではあっただろう。
「いい顔だぁ、諦めの悪さを感じさせるいい表情だぁ」
「……ふっ、はっ……!」
二年前、彼女は真剣での勝負を行なっている時に誤って相手を殺してしまった。幸いにも、相手は流れの剣士であり父母には内緒で修行をしているため表沙汰になることはなかった。だが、それをきっかけに彼女は人とは違う何かを感じ取るようになっていた。
(……感じ取れ……『呼吸』を……)
様々な生命、環境、物質等から独特の
「……またですかぁ」
見れば、彼女はゆっくりと呼吸を落ち着けていき、疲労を軽減させていっている。原因は不明であるが、彼女固有の特殊な技術を用いているのは間違いないだろう。
(まぁ、その方が
彼女は仮に名付けた『呼吸』を用いて、体調を整えることに成功した。はじめはただ感じているだけであったものが、いつの間にか自分が様々な『呼吸』を使うことで修行の助けとした。
「はっ!」
模擬戦の相手が勢いよく刃を振るう。死合ではないため、ただの木刀同士での勝負だ。彼女は眼前の相手に集中し、地面を蹴った。あまりの速さに残像が一瞬取り残される程だったが、相手もまたそれに負けないほどの速度で彼女に肉薄する。ただの木刀同士での剣戟でありながら、その
幾度になるかわからないほどの打ち合いの後。
「はーいそこまでぇ」
影鳴の言葉で二人は木刀を止めた。丁度、彼女は相手の額にわずかに届くかというところで。相手の少年は彼女の喉一寸前の所だった。
「まぁ、これだけ見事な打ち合いができるのならぁ、そろそろ奥義も教えてあげましょう」
「……ホント?」
「本当ですか!?」
「うん、叔父さんは嘘つかないよぉ」
目に見えて喜んでみせる少年と、表情には出さないが期待を込めた眼差しを見せる少女。少年は明山寺家を出奔した男の息子であり、両親共に行方不明という名の置き去りをされて転がり込んできた。少女にとっては従兄弟であり、親友でもあった。
「ただしぃ、教えるのは明日からだよぉ。今日はもう休んでいいよぉ」
「……分かった」
「あう、残念です」
二人揃って残念がる。少女の方は相変わらず表情に出ていないが。
「……行こ、鳴海」
「うん、そうだね!」
二人揃って外へと遊びに出て行った。その後姿を眺めながら、邪悪な笑みを浮かべる彼に気づくこともなく。
エヴァンジェリンはただ生きるだけの状態であった。四肢を奪われ、気力を奪われ、先ほどのチャチャゼロの言葉を無意識の内に反芻するだけの存在だった。
(私だって……こんな結末が欲しかったんじゃない……。でも、どうすればよかったんだ……)
考えてももう後の祭りだ。彼女は帰ってなど来ないし、チャチャゼロには失望され、アスナは遠く異世界にいる。
(眠い……)
生きることさえ疲れてしまったのか、自然と
(鈴音……ごめんよ……)
最後に、自分が最も信頼し、そして愛した従者を想いながら眠りに落ちた。
今日は修行はお休みである。監督をしている影鳴が用事で他所へと行っているようで、朝早くに彼の部屋を訪ねてみれば、今日は休みにするという旨が書かれた文面のメモが置いてあった。
「……暇」
残念なことに、友人である鳴海も遊びに出て行ってしまったせいでやることがない。学校は祝日でないし、勉強は問題ないためわざわざやる必要もない。宿題はとうに終わっている。
「……父上の所に行こう」
厳しいながらも優しい父。明山寺家の現当主であり『村雨流』の継承者である彼は、本来であれば剣術などとてもではないが扱うことなどできない。それを克服したのも彼の、血の滲むような努力と研鑽の成果だろう。自分にも他人にも厳しいが、それは自分がそうあらねば今の彼はあり得ないだろうから。
「…………」
修行を極秘に始めてから、あまり話すことも無くなった。後ろめたい気持ちもあったが、何より彼女は恐ろしかったのだ。自分がどんどんと空虚になっていくことに。
「……父上」
「ん、珍しいな……お前がここに来るとは」
部屋にたどり着いて、部屋の外から声をかけると返事があった。入っていいか聞いてみると、いいとの返事が来たので障子を開けて入る。彼女の父、鐘嗣は書物を片手に将棋盤とにらめっこをしていた。どうやら詰将棋をしていたらしい。
「……母上は?」
休日には部屋で一緒になってのんびり過ごしている母の姿がないことに疑問を抱き、父に聞いてみる。すると、どうやら買い物に出ているらしいことを聞いた。互いに無言ながらも穏やかな時間を共有する二人の姿が鈴音は好きだったので、少々残念に感じた。
(……あのこと、聞いてみよう)
思い出すのは、己が空虚になり始めた原因。真剣での勝負で人を殺してしまった時のことだ。彼女はその時から世の無常さを無意識の内に感じ取りはじめた。『呼吸』を知り、それを読み取って刃を振るうと岩だろうと金属だろうと寸断してみせた。
そして彼女は理解してしまった。余りにも
金属でさえ呼吸を読み取れれば斬れるのだ。ただ刃を振るうだけで殺せる人間や生物であればそれこそ赤子の手を捻るようなものだろう。彼女は他者が見えないものを通して世界を見、そして世界から徐々に色を失い始めていた。
だからこそ、剣士として生きてきた父に聞いてみたかった。
「……父上は、人を殺めたことがありますか?」
「…………何故、そのような事を聞く?」
「……いえ、父上は剣士ですから……どう思っているのか気になって……」
鐘嗣はふむ、と顎に手を当てて手に持っていた本をパタリと閉じる。
「実はな、生と死というものは非常に曖昧だ」
「……? ……曖昧、ですか? ……そうは思えません……」
死んでしまえば、もう動くことはないし考えることもできない。どこが曖昧だというのか、彼女には理解しがたかった。
「少々難しいが……生が世界の表側であるとすれば、死は裏側の世界だ」
「……裏側?」
「生命はぐるぐると巡っているのだ。昔の人々は生と死により密接であった故、それらを無意識の内に感じ取っていたのだろう、これらを
「………………」
「我が国、日の本にある国には生と死の不思議な話が多くある。それだけ、それらが身近であり、死を畏れ敬い、生を精一杯謳歌したのであろうな」
脈々と受け継がれる生命の伝承。そこには恐ろしくも面白い、不思議なものが数多く残され、生と死に対する独特の価値観が存在したことを伺わせる。尤も、妖怪変化の類は事実が膨大な逸話の中に眠っていることもあるのだが。
「盆には死んだ者の魂がこの地に戻り、やがてあの世へ戻ると言われている。死人でさえも、すぐ隣りにいるような価値観だ」
実際、彼らには身近に感じる何かがあったのであろうな、と言って更に続ける。
「さて、私はお前が知るように剣士としては不適格に生まれた。実際、剣の腕を磨くのに血反吐を吐くほどの鍛錬を重ねた」
そう言いつつ、指の腹でまゆをなぞる。そこには痛々しい傷跡が残っており、以前彼女が聞いた話では、まだ未熟であった頃に剣で切れてしまったのだという。
「それ故、加減を知らぬこともあった。その際に人を殺してしまったことも、もちろんある」
尋常の勝負であったがゆえに、お互いに一切禍根のないものとなったが、彼は大いに悩んだ。彼は人を殺したことではなく殺したことに何も感じていないことを恐ろしく感じた。
「そんな時だ、私が『世界』を知るようになったのは……」
人とは見えるものが違う世界。様々な生命の、木の、石の、水の、あらゆる存在の『吐息』を感じとり始めたのだという。その時から、彼は少しずつ世界を知るようになった。
「不思議な感覚だった……見えぬはずのものが見えるような……そんな気分であった」
(……私と、同じ……)
「私は初め、世界からの罰であるのかと思った。吐息を解して刃を振るえば、それだけで容易く大岩を切断してみせた。人を殺した私が、より過ちを犯しやすいようにして苦悩せよと責め立てられた気分だった」
「……父上は、それでどうして」
「剣を捨てなかったか、だろう? 困ったことに私には剣しか残されていなかったのでな、不安を胸に抱えつつもそう生きていくしかなかった」
そうして生きているのか死んでいるのか分からぬまま過ごしていった数年は、色を失った世界を眺めている気分だったそうだ。しかし、ある日を境にそれは色鮮やかなものへと転じた。
「……お前の母と出会った時であった」
最初に出会ったときは、ただ一瞬だけ視線を交わしただけであった。だが、彼の心には何か今までとは違うものを去来させていた。
「一目惚れ、であったのだろうよ。私は来る日も来る日も彼女を、小唄を想い続けた」
そうして悶々とした日々を過ごし、ふと自分のことを思い出して想いは段々と哀しみへと変わっていった。人を殺し、なおそれを恐れない心の歪さ。これでは彼女に受け入れられるはずもないと理解して悲しくなったのだった。
そうして、諦めを胸に再び生死の曖昧な世界を生き続ける日々。しかし、彼女は再び彼の目の前に現れたのだった。
「驚くべきことに、私を覚えてくれていてな……。一目見た時から忘れられなかったと言われた」
互いに恋慕を抱きながらも、互いの心を解さないまま避け続けていたようで、鐘嗣は人を殺したことで見えてしまった世界のことで悩み、小唄は剣術に明け暮れる日々であったせいで女として見てもらえるか不安であった。
「そして再会した時、私と小唄は互いの秘密を打ち明け、そこから恋愛へと発展して籍を入れるまでに至った。まあ、そこら辺は省こうか」
親の惚気話にしかならんでな、と話を一旦区切り、そばに置いてあった将棋盤にいつの間にか乗っていた蜘蛛に手を伸ばし、それを甲へと這わせてから廊下へと出て逃がしてやる。そして再び同じ場所に座ると、話を続け始めた。
「それからだ……私の世界に色がついたのは」
見える世界が違うといえど、同じものだって確かに見えていたはずなのに。それに気づかぬまま腐っていた自分のなんと愚かしいことか。小唄は鐘嗣を根気よく支えようと務め、それに応えようと見える世界を理解するために努力を続けた。
気づけば、見えるもの全てが鮮やかに感じるようになった。花も、虫も、騒がしき町並みも。全てが全て諸行無常であるがゆえに生命に満ち満ちていた。路傍の石ころでさえも、そうあらんとしていることに何を考えるだろうかと。
「私が見ていた価値観は、人のものではなかっただけだったのだ」
人を殺せば鬼となる。しかし、それで見える世界が悪いものかは、結局のところその人がどのように感じ、考えるのかによるのだと。
「私が人を殺したことに対しての罪悪感は、もちろんある。しかし、生命の営みとは善悪を超越している。なにせ、善も悪も倫理観も道徳も、所詮は人のこしらえた仮初の縛りであり、真なる自然の中には、弱肉強食の厳しき現実や、
そうして彼は、それらを受け入れた上で生きていくことを決意した。もちろん、人間としての尊厳や道徳などを忘れたりなどしない。先人たちが残したそれらは、己を律し、そして助けるためのものであり、決して軽んずるべきものではない。
「……だが、生と死は尊いものだ、それが忌避されるようなことであれど、人の身が拒むことは許されることではない」
現代では、生きることが難しくなくなり、そして死ぬことが難しくなった。体中に管を繋げば仮初でも生を繋ぐことができるし、死は忌避されるべき穢れという考えが定着してしまった。
「……私が人を殺したことは、人間倫理としては許されることではないだろう。だが、一方で定まった掟がない人間の外側から眺めてみれば、それは生きとし生ける者のほんの一つの営みでしかありえん」
「……そんな風に、決めつけても……いいのでしょうか?」
少女のそんな問に、彼は小さく首を振る。
「よくはなかろうよ。私が言っている価値観は、人間を軽く見た考えだ。私は人間としては破綻しているだろうな」
だがな、とさらに続ける。その瞳には、一切の迷いを感じられない。
「どれほど人間的に逸脱しようと、この世界で私はただ少しだけ獣に近いだけに過ぎぬ。人間的に許されざるものであろうと、世界は残酷にも受け入れるのだよ」
それで心が壊れるようであっても、変わらず世界は廻り続ける。ただ無情に、そうあれかしと。
「まさに、それもまた"輪廻"なのだ」
「……輪廻……」
「そうだ、お前の名も"りんね"……。廻る世界を生き、感じ取り、生と同時に死も共に在るようにと、名を授けたのだ」
「…………」
父との対話で、彼女が掴んだものは、結局のところ何もなかった。所詮、自分自身のことは誰かに教えられるのではなく自分で見出すものなのだと、父も言った。ただ、彼からの言葉をどう受け止めるかで、自分がどうあるべきかが分かるかもしれない。
鈴音はそんな思いを抱いたのであった。
「……父上の、言葉……」
忘れていた。今の今まで。生と死は表裏一体、どちらかを軽んじればそれだけもう一方は軽くなっていく。
「……マスターも、言っていた……」
生があるのは死があるからこそ。死があるからこそ人は生に喜びを感じ、全力で生き、死へと向かってゆくのだと。死ぬことさえできない彼女だからこそ尊く思える生命の巡り。
「……私は……」
場面がまた変わる。先程までの暖かな陽射しはなく、暗い修練場の中。そこにいたのは、修行を完了した自分と、影鳴と。
「……っ! ……まさか……」
ずっと修行を秘密にしていた、父の姿であった。
「よもや、我が娘を使ってそんなことを企むとはな……」
互いに睨み合う。その気迫は、並のものであれば失禁して気絶するであろう程の濃密な死。
「さてねぇ、私としちゃこんな才能あふれる娘を鍛えないほうがどうかしてるよぉ」
「戯け。我が明山寺家ももう存続など不可能よ。『村雨流』は没落した我が家が扱うには危険過ぎる」
「そっかぁ、兄さんはやっぱり家を解体する気だったんだねぇ」
そんな巫山戯たような喋りを区切ると、鐘嗣の後ろの戸から顔をこっそりと覗かせている一人の少年の姿を捉える。
「君には失望しましたよぉ、鳴海君。せっかく強くなりたいって言うから修行をつけてやったのに、まさか兄さんにチクるなんてさぁ……」
不意に呼びかけられてせいで、ビクリと体を震わせる。しかし、その眼は毅然としており、気圧された様子はない。
「あ、あれが修行だといえるわけがないです! 最初はまともな修練だと思ったけど、どんどん死ぬようなものばかり……。それも鈴音にばかり課していたじゃないですか! なぜあんな過酷な、拷問じみたことを彼女にさせたんです、父さん!」
「だって君才能ないんだもん。役に立たないやつなんか育てたってしょうがないでしょぉ? あと、僕は君のこと息子だなんて思ったこと無いからぁ」
余りにもあんまりなその言葉に、さすがの鳴海も呆然となった。仮にも自分の新たな父として慕っていた人物に、あっさりと捨てられたのだ。まだ10にも満たない少年には非常に酷な仕打ちであった。
「どこまでも堕ちたか、下衆めが」
「兄さんはいいよねぇ、
「……努力を怠った貴様の因果応報であろうに」
「努力だってしたさ、それこそ兄さんに追いつかれる恐怖で死に物狂いでさぁ! それだってのに僕をあっさりと追い抜きやがってよぉ!? 巫山戯んなよクソがぁ!?」
どす黒い感情を吐露する彼の姿は、酷く歪で醜悪極まりない。兄弟間での仲は良いとも悪いとも言えず、しかしこの状況を作る遠因となったと考えればある種最悪なものだったのかもしれない。
「だからこそ、あんたの娘に私の野望を手伝ってもらおうと思ってさぁ? あんたが家を解体するなんてことを聞いちゃったせいで不安がっててさぁ、とても従順だったよぉ?」
そんな風に言いながら、ゲラゲラと笑い声を上げる。それを見つめる少女の瞳は、何も写していなかった。酷く空虚で、ガラス球をはめ込んでいるだけののではと思えるほどに暗い。
「んでもさぁ、最近は兄さんに何か聞きに行ってから反抗的になってきたんだよねぇ。だからぁ、一族秘伝の薬で従順になるよう仕込んであげたわけぇ」
「っ! 馬鹿者が、あれは劇薬であろう!」
「知ったこっちゃないねぇ、私が権力握るための道具であってくれりゃそれでいいんだし。ただただ私に尽くすためだけの刃であればそれでいい」
当主の座を奪われたと逆恨みしている彼にとっては、兄の娘など利用価値のあるだけの道具でしかないのだ。その過程で死ぬことがあっても、彼からすればどうでもいいし、むしろ兄が失意で死んででもくれればそれでいい。前当主の父は既に他界しているため、自分が当主になることに反対するものは一切いないのだから。
「さて、お喋りもここまでにしよっかなぁ。さぁ鈴音、あいつらをぶっ殺せ、一人残らず」
「……はい」
彼女から発せられた声は、まるで幽鬼のようであった。死んでいるのかも生きているのかもわからないその様は、死んでいたほうがまだマシに見える。
「彼女はとっても優秀だったよぉ、かつての僕ですら遥かに凌駕する才能と戦闘能力。加えて、兄さんと同じ『世界』が見えてる」
「……! まさか貴様、鈴音に人を殺させたのか!?」
「あれは事故だよ、真剣同士の勝負で起こった尋常な死合だったから問題ないさぁ。その御蔭で彼女は憧れの父と同じ景色が見えるようになったんだからぁ、感謝して欲しいもんさぁ」
「……だから、操られているとはいえあれほどまでに容易く人を斬ったのか……!」
今日は一族の者の一人が結納するという話があり、一族総出で祝宴を行う日であった。そんな時、用事で席を外していた鐘嗣と小唄が戻ってみれば、屋敷から濃密な血の臭いがしたため急いで広間へ向かってみれば、そこは地獄絵図であった。ただ一人隠れることで生き残った鳴海から事情を聞けば、真剣を抜いた鈴音によって行われた所業であるという。
以前から、鳴海から影鳴が何か企んでいるとの話を聞いていたが、まさかこんなタイミングで実行に移すとは、さすがの二人も想定外であった。企みを暴くために、鈴音にあえて気づかないふりをしたのは失敗だったと二人は後悔したが、今は彼女を止めるために動くべきだと意識を変え、彼女を探しまわった。そして、現在の状況に至っている。
鐘嗣からすれば、人を殺したことがない人物であれば、たとえ薬で操られようとも本能が人間的な倫理を訴えかけて動きが鈍るはずであった。いくら強力な薬品とはいえ、さすがにそこまでの強制力はない。そうであれば、前線から退いたとはいえ退魔師として戦った者も幾人かいたため彼女を止められたはずなのだ。
だが、実際は彼女は人を殺したことで殺すことに対する危機感が希薄化し、本能的な部分での
「……殺す」
鈴音が刃を構える。その様は隙がなく、歴戦の古強者をして見事という他ないだろう。娘を相手するとはいえ、このままでは確実に死ぬであろうと理解した鐘嗣は、彼の愛刀にして村雨流が代々受け継いできた最悪の妖刀を静かに抜刀した。
真っ赤なその刀身が
「娘の不始末は、親が責任を持つべきであるな……!」
父と娘。双方が殺し、殺される戦いが始まった。