二人の鬼   作:子藤貝

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第十二話 二人の鬼(後編)

「やめろ……!」

 

体を動かそうにも、彼女の身体は石像のように動かない。目の前でかつての悪夢が再現されようとしているのに、動くことさえできないのが腹立たしい。

 

「嫌だ……」

 

これが覚めぬ幻覚(・・・・・)だということは理解している。己のマスターが言っていた、『完全なる世界』によってみせられている自分が望んだ世界であることも。だが。

 

「私は……こんなことを望んでない……!」

 

目の前で、仮初の夢とはいえどうにか出来るかもしれない場面で、動くことすら許されない。どうして。これは自分が望んだ世界のはず。ならば何故、この悲劇を回避できないというのか。

 

「……父上、母上、鳴海……!」

 

手を伸ばせば、届く距離にあるというのに。もどかしい気持ちで一杯になっていても、彼女の願いが届くことはなかった。

 

 

 

 

 

剣戟の音が響く。ギャリギャリと金属の擦れ合う音が飛び散り、(しのぎ)が削られていく。暗い修練場に赤い火花が咲き、二人の剣士がぶつかり合う。さながら、その様は見事な剣舞を想起させるほどに荒々しくも美しい。しかし、そこにあるのは確かな死の領域。

 

「これほど強くなったとはな……複雑な気分だ」

 

「……はぁっ!」

 

彼女が放った、近接で最も厄介な村雨流の技の一つ『五月雨(さみだれ)』。刺突を用いた連撃なのだが、放つモーションと引き戻すモーションを極限まで短縮した文字通り雨の如き怒涛の剣閃。しかも、その一つ一つに微妙な緩急をつけることで攻撃の先読みを困難とし、達人クラスの相手でさえ見切るのは難しい。

 

だが、それは目が見える(・・・・・)からこそ(・・・・)の弊害(・・・)であり。

 

「剣筋が素直過ぎるぞ、鈴音!」

 

その全てを躱し、或いは剣の背でいなしながら彼女に肉薄して蹴りを放つ。モーションを短縮した攻撃とはいえ、隙がないわけではない。引き戻す際の僅かな攻撃後の硬直を見切ったのだ。彼女は防御が間に合わず、土手腹(どてっぱら)に強烈な一撃を食らってくの字に曲がる。

 

「ガハッ!」

 

苦悶の表情で呻き、口から胃酸混じりの唾を吐き出す。喉が焼けるような不快な感覚を無視し、彼女は距離をとって呼吸を整えようとする。しかし、相手は村雨流の正統継承者。そんな隙を見逃してくれるほど甘くはない。

 

「此方の番だ、鈴音」

 

村雨流、『五月雨』。しかし先ほどの彼女の連撃と違い、酷く遅く見える。彼女はそれを苦もなく見切ろうとし。

 

足元を払われて転倒した。

 

「……っ!」

 

あくまでも五月雨は囮。本命は外側からくる対処しづらい体術であった。しかも、五月雨は隙の少ない連撃。蹴りを放つためにわざと遅くしたとはいえ、転倒した彼女に追撃を仕掛けるだけの余裕は十分であった。

 

「……はっ!」

 

とっさに彼女は地面を思い切り叩き、その反動で一気に剣の雨へと飛び込んでいった。そのまま面積の少ない刃を用いるのではなく、受けやすい腹を用いて受け止め、或いは横にそらして流れるようにすり抜けていく。今度は鐘嗣が懐へと飛び込まれる形となったが、しかし死線を多く乗り越えてきた彼が、刀を振るい辛い懐に入られた時の対策をしていないはずもなく。

 

「……秘奥、『懐刀(ふところがたな)』」

 

なんと、素手であるはずの手で彼女の刃を受け止めてみせた。この時まだ彼女は自身の能力に気づいていなかったのだが、ただ気を纏わせただけでは彼女の剣は受け止められない。だが、彼は気を纏うのではなく、それを圧縮し、擬似的な剣圧に変換して物理的な攻撃にしたのだ。結果、彼は素手の皮一枚を隔てた剣圧を即座に形成して迎撃してみせたのだった。

 

「私にこれを使わせるとはな……!」

 

しかし、これは彼が戦闘を重ねる内に編み出した、彼の村雨流の中でも秘奥義の一つ。神鳴流の無手での戦闘を参考にし、かつて神鳴流と競い合った歴史を持つ村雨流の書物を紐解いて同じような技を使っていたことを発見し、それを独自にアレンジしたのだ。大元は元々存在する技法だが、『懐刀』は彼の最も苦心して編み出した小さな大技。

 

「そら、お前が不利になったぞ!」

 

刃を弾き返すと、その返す刀で真空の刃が彼女を襲う。技の名を『雨陰(ういん)』。名の由来である風上の山で雨が振り、風下では乾燥した風が吹く現象。それと同様、真空の渦を纏う鎌鼬(かまいたち)を風下とするなら、風上となる刃は間髪入れず頭上から高速で振り下ろされるもう一つの刃。

 

間断なき神速の十字攻撃は、真空の刃を止めれば頭上を、頭上を止めれば鎌鼬をもろに受ける。二刀でなければ防ぐことはできないが、握りの甘くなる二刀流では双方を防ごうにも余程の握力でなければ剣を取りこぼして追撃を食らう。いくら天才的な才能を有していようと、彼女では二刀流でも受け止められないだろう。だが。彼女は予想を超える方法を用いてきた。

 

「……馬鹿な……」

 

なんと、頭上の刃を素手で(・・・)受け止めた(・・・・・)のだ。そしてもう一方の真空の刃は、刃を高速で捻りながら打ち込み、形成されていた刃に衝撃を加える事で無効化した。

 

「『懐刀』だと……!?」

 

彼が独自に編み出した技故、彼女がこれを知っているはずもない。となれば、この土壇場で一度目にしただけの技を使用したということ。手から血が滴って入るものの、ほぼ完璧に近い扱い方であった。

 

「……剣の申し子か……」

 

尋常ならざる動体視力と、見ただけで完璧に模倣しうる天賦の才能。一族に伝わる、初代村雨流の使い手にして創始者の逸話を彷彿とさせた。

 

(……初代の再来……か)

 

村雨流創設者。雨すら断ち切ることを目指した稀代の天才。後に明山寺家の礎を形成した明山寺(あけのやまでらの)大鳳(たいほう)。幾多の流派と戦い、その闘争の中で技を盗んで己の流派の糧としたとされている。

 

もし彼女が、もう少し早く生まれていれば。平穏な時代ではなく乱世に求められていれば。しかし運命は皮肉なことに、彼女を最も疎ましく思わせる現代へと呼んだ。彼女の才能を一切発揮させない、滅びゆく村雨流最後の時代に。

 

「悔やんでも仕方なきことか……世はいつも無常なものよ」

 

娘の才能を憐れみつつも、しかしここで倒れてやるわけにはいかぬと再度心を引き締める。決着は未だ着く様子はなかった。

 

 

 

 

 

「……なんだこれは」

 

エヴァンジェリンが目を覚ました時に見えたのは、見渡す限りの真っ赤な液体が広がる光景。空は暗くて見えず銀の太陽が鈍く光り、そこに立ち尽くしている自分。鉄臭さが鼻につくことから、ここに広がる液体は血液だと理解した。

 

「……幻覚か? いや、私はただ眠っただけだったはず……」

 

ならばこれは一時の微睡みの中にある仮初かと考え、とりあえず歩いてみることにした。

 

(……どうせ現実に戻ったところで、私が何かできるわけでもない……)

 

『フン、我が使い手も何故このような脆弱な精神のバケモノなぞに仕えたのか……』

 

不意に、後ろからの声。驚いて振り返ってみれば。

 

「……? 誰もいない……?」

 

どこにも声の主らしき存在を見受けることはなかった。空耳かと思ったが、此処は夢のなか。そんなことはないはずだと思って注意深く辺りを見回してみれば。

 

『此処だ、卑しきバケモノよ』

 

「!?」

 

もう一度振り返る。すると、そこに何者かがいた。

 

纏っているのは灰色のボロ(きれ)一枚。逆立った髪は汚れたように白濁であり、かろうじて灰色とは違う印象を受ける。顔は血のように真っ赤であり、額には二本の角が逆ハの字に生え、爛々と輝く瞳は金色。鬼の類ではあると分かるが、その雰囲気は最高位の幻想種である真祖の吸血鬼たるエヴァンジェリンでさえ気圧されるほどの存在感があった。

 

「貴様は誰だ」

 

『分からぬか……。まあ、仕方のない話かもしれぬな。あのように情けない敗北を喫した負け犬では、な』

 

「何を……!」

 

『貴様の一部始終を、俺(私)はずっと間近で見ていた』

 

近くで見ていた? では造物主の仲間かと聞いてみれば、答えは否であった。

 

『俺(私)をそのような俗物と一緒にするな。あれは力の強いだけのヒトよ』

 

「……あれだけのチカラを持つ存在が、ただの人だと……?」

 

『分からぬのか、愚物め。存在だけは高位でありながら精神(こころ)はまるで未熟か。その程度だから、大事な従者を失うのだ』

 

「っ!」

 

『俺(私)は腹立たしいことに屑のような貴様と同格の鬼よ』

 

真祖に匹敵する鬼。格で言えばこれ以上が存在しないような存在だ。造物主によって人工的に生み出されたとはいえ、その力は間違い無く本物。鬼神でさえ彼女には遠く及ばない。

 

『人造とはいえ、貴様は600年を生き、その格を確実に上げてきた。存在としての位階であれば俺と同等なのは間違いないだろう。認めたくはないがな……』

 

「……仮にも私は真祖なんだぞ、私に匹敵するという貴様はいったい何なんだ……?」

 

『俺(私)か? ……ふん、いいだろう教えてやる。俺(私)の名は紅雨』

 

「! 鈴音の持っていた妖刀が貴様だと!?」

 

『仮初の名だが、な』

 

 

 

 

 

「「はぁっ!」」

 

剣先と剣先がぶつかり合う。切っ先同士が激突するなど本来では有り得ないが、互いが互いの刺突を止めようとした結果になった。勢いの乗った攻撃を相殺したせいで、二人は弾かれたように吹き飛んだ。

 

「ぐぅっ!」

 

「がはっ!」

 

壁まで弾き飛ばされ、背中を強く打つ。さすがにこの状態では呼吸を整えることさえできず、意識をはっきりさせるまでに数秒を要した。

 

「ぐ……よもや10にも満たない娘と互角とは」

 

「……殺す殺す殺す……!」

 

「薬による興奮作用か……」

 

痛みさえも意識の外にある鈴音の様子を見て、彼女が暴走状態になっているのだと理解した。彼女が飲まされた薬物は劇薬であり、興奮作用も含まれているため全力での戦闘を強要される。しかし、長時間それが続けば、肉体も精神も崩壊を始める。これ以上は、時間が掛けられない。

 

(次で、決める……!)

 

刃を水平にして低く構える。使うのは、村雨流でも一部の人間にだけ継承される、最高峰の奥義の一つ。

 

「雷……奥義……!」

 

瞬間。彼は音を完全に置き去りにして突貫した。そのスピードは空気の層を破り、刃の先端から衝撃波をまき散らして超音速の域へと達する。

 

「『雷霆』!!!」

 

村雨流の強力無比かつ、禁断とされる三つの奥義。ただ一切の無駄を削ぎ落した超音速の刺突。爆発的な気の圧縮からの暴走を起こし、脚力を限界まで高めて敵に避ける間もない一瞬で近づき、衝撃波を纏うほどの剣先を向けて突貫する。単純にして攻略不可能に近い技とも言えない(わざ)

 

しかし、その代償は安くはなく、一発放つだけで人間の肉体限界をはるかに超えた速度による内出血や脳への圧迫。下手をすれば身体がボロボロになりかねない諸刃の業。

 

だが。

 

「……馬鹿なっ……!」

 

彼女は、回避不能の弾丸とかした一撃をなんと受け止めてみせた。躱すことができないからこそそうするしかないのだが、圧倒的速度で迫る刃を受け止めようとすれば、刃を砕いてそのまま肉を断ち切る。そういう業なのだ。実際、彼女の持つ刀は罅が入ってボロボロであった。

 

しかし、彼女は受けきってみせた。村雨流の"奥義"で。

 

「"雲"の奥義を、完璧に使ったというのか……!」

 

雷霆を受け切られたのはただ彼女の技量だけではない。彼女によって彼の刺突を無意識的に逸らすよう(・・・・・)誘導された(・・・・・)のだ。彼の若き日からの弱点であり、それ故に己のバネとなった盲目(・・)を利用されて。

 

「なんという……才能だ……」

 

盲目ではあれど、努力でそれを補った彼は人を殺した折に彼女と同様に世界が見えていた。視覚からではなく、勘を感じ取る第六感を越える、第七感とも言える不可思議な感覚で。彼はその世界を通して世界を見ることができ、普通の生活をおくることができた。

 

しかし、此度はそれを利用される形となった。達人クラスの人間は、時として視覚に頼らず己の内にある感覚を利用して戦うことがある。それを逆手に取る技が、彼女が土壇場で使ってみせた奥義、『雲霧(くもきり)』。

 

その本質は、雲や霧のように存在を極限まで希薄化させて相手を惑わせる特殊な剣舞。完璧に扱いこなせば直感や内なる感覚さえも騙して煙に巻く。彼は視覚がないがゆえに、まんまと術中にはまったのだ。

 

「……()った……」

 

雷霆を放った彼の身体は、ボロボロであり。彼女の凶刃を逃れるすべはなかった。

 

 

 

 

 

「……ここは一体どこなんだ?」

 

『此処は……俺(私)の世界であり、貴様の世界であり、そして我が主の世界』

 

「……どういうことだ」

 

『言うなればここはもうひとつの世界であるということ。貴様らが見ている世界を表とすれば、ここは裏の世界。生の反対である死の世界よ』

 

「! まさか、ここが鈴音の言っていた……!?」

 

エヴァンジェリンは以前彼女から聞いたことを思い出した。鈴音には特殊な『呼吸』が見え、それを用いれば容易く鉄さえ断ち切れるのだと。そして、それを通して見える世界があると。

 

「鈴音が見ていたのは、死の世界(・・・・)そのもの(・・・・)だったというのか!?」

 

『左様……。彼女は歴代の継承者でさえ気づくことのなかった私さえもこの世界から見つけ出し、従えさせたのだ』

 

「では貴様は……冥府の鬼か?」

 

眼の前にいる鬼がそうである場合、確かに真祖に匹敵しうる存在だろう。冥界にいる鬼はその存在意義そのものが普通の鬼とは違う。罪人を苦しめ、その罪を贖わせる役目を帯びているのだ。間違いなく下っ端の鬼でも普通の鬼とは格が違う。

 

『それこそ否よ。俺(私)は今でこそこんな姿をしてはいるが、元々は神代に打たれた一振。ただ、あくまで俺(私)はある存在(・・・・)の分霊のようなモノ。それさえもヒトは忘れて俺(私)を妖刀などと巫山戯た存在に変えてしまったがな』

 

「分霊だと……まさか、貴様は旧き"カミ"だとでもいうのか!?」

 

『当たらずとも遠からずよ。いっただろう、あくまで分霊だと』

 

眼の前にいる存在が、あの圧倒的な実力を見せた造物主をも人と言い、分霊ではあるが正真正銘のカミであることに驚きを隠せない。そして、彼女はある一つの可能性を思いつき。

 

「鈴音はここにいるのか!? カミである貴様なら分かるはずだ!」

 

『……いることにはいる、意識だけではあるが。今、主は死にかけているのでな』

 

「だったら……!」

 

『それでどうするというのだ? お前は我が主を見捨て、あまつさえあんな醜態まで晒した。俺(私)からすれば貴様などどうでもいいのだよ』

 

「っ! ……それでも会いたいんだ! もう一度会って……あいつに謝りたい」

 

脳裏に浮かぶのは、チャチャゼロの言葉。

 

(「絶対ニ、最後マデ諦メヤシネェゾ……!」)

 

ここで諦めてしまえば、ほんとうの意味で自分は愚かなバケモノに成り下がってしまう。600年を生きた自分の最期の自負として、そして鈴音のマスターとしてもう一度胸を張るため。鬼は顎に手を当て思案した後。何か名案を思いついたかのような顔をし、続いて悪巧みを思いついたような笑みを浮かべてみせた。

 

『そこまで言われたのならば仕方がない。どうせ主がいない俺(私)は暇でしかないのだ。なれば、ゲームをしようではないか』

 

「……ゲームだと?」

 

『左様。お前が俺(私)の正体を見抜ければ勝ちだ』

 

一見すれば破格の条件に思える。なにせ相手は分霊とはいえ旧きカミ、その実力は不明ながら圧倒的な威圧感を考慮すれば食い下がるだけで精一杯、いや今のエヴァンジェリンでは勝ち目はないだろう。

 

「いいだろう……絶対に鈴音に会ってみせる……!」

 

『ヒントは俺(私)の『紅雨』の名のみ。間違える度に地獄のような苦痛を味わわせてやろう』

 

鬼と鬼の知恵比べが始まった。

 

 

 

 

 

「……娘の成長すら分かっていなかったとは、親失格だな……」

 

「……父、上……?」

 

彼に致命傷を与えたと同時に意識を取り戻した鈴音。どうやら、操られていた間は無意識の状態に陥っていたらしく先ほどの戦闘を覚えていないようだ。

 

「怖かったであろう、色の無い世界を見続けることは……」

 

「あ……あ……」

 

ボロボロになった父が、目の前にいた。貫かれたその胸からは夥しい量の血が垂れ流しになっており、滴り落ちた先には真っ赤な池が出来上がっていた。

 

「あああああああああああああああああああああああ!!?」

 

か細い声。しかし、その絶叫は絶望の色を感じ取るには十分であった。錯乱状態に陥った娘を見て、鐘嗣は。

 

「落ち着け、馬鹿者」

 

「あぅっ!?」

 

拳骨を一発見舞ってやった。痛みと突然の出来事で彼女は一瞬呆然となるが。

 

「あ……父上、その……」

 

一旦頭が冷えたおかげか、冷静に目の前で起こった惨状を理解できた。そして、それをやったのが恐らくは自分であろうことも。罪悪感で胸が押しつぶされそうになる鈴音。しかしそんな彼女を胸に掻き抱く。

 

「……よい、お前の意思ではあるまいに。誰がお前を責めようか……。ぐぅっ……!」

 

「父上! 傷が……!」

 

「だがな、一人で不安を抱えたままとは頂けぬ! この馬鹿者が……! 自分の心配もせんで……何のための家族か! 本当に馬鹿者めが……!」

 

「……ひっぐ……ごめんなさい……ごめ゛んな゛ざい゛……!」

 

父親からの優しさを感じる叱りの言葉。彼女が滂沱の涙を流すのは必然であった。自分が、自分が明山寺を継ぐなどという身の丈に合わぬ願いを抱いてしまったからの結果を、父は許してくれたのだ。知らず、彼女は滂沱の涙を流し、嗚咽を漏らしていた。彼はそんな彼女が泣き止むまでしっかりと抱きとめていた。

 

やがて、彼女が一頻(ひとしき)り泣いた後、彼は鈴音をその腕から開放し。

 

「……引き抜けば失血で即死するであろうな。鈴音、スマンがこの刀は折らせてもらう」

 

彼女の突き立てた刃を懐刀を用いて根本から叩き折った。

 

「……鈴音、下がりなさい」

 

「で、でも……」

 

「お前も私も既にボロボロだ……やつを相手にするには無理がある」

 

そう言って指さした先にいるのは、先程から眉一つ動かすことなく高みの見物を決め込んでいた彼女の叔父の姿。酷く不機嫌そうな顔をしている。

 

「いやはやまさかねぇ……薬が土壇場で切れちゃうなんてねぇ。ま、結構面白いものが見れたし私は満足ですよぉ?」

 

そう言いながら彼は腰に帯びていたものを抜刀する。月明かりに照らされて、白銀の鈍い光を反射している。彼は握っていた刀を納刀すると。

 

「鈴音……母と鳴海と共に逃げろ……時間は私が稼ぐ」

 

「で、でも……」

 

「行け!! ……私はもう、助からぬ。小唄、二人を頼むぞ」

 

満身創痍ながらも、己の腰に佩いていたもう一本を引き抜く。その姿を見て、小唄は彼がもう死ぬ覚悟を決めているのを悟った。

 

「……うちを、置いてかれるのどすか」

 

「先に逝く……お前は後からゆっくりとついてくればよい……」

 

「……うちは待たせるのは嫌いどす」

 

「そうか、俺は待つのは好きだ。……達者でな」

 

「ご武運を、あなた様」

 

「ああ。……鈴音、持っていけ」

 

そう言いながら、彼は鞘ごと納刀した刀を彼女に投げ渡す。それを何とか受け取る鈴音。

 

「……これは」

 

「お前はもう一人前だ……お前を今を以って継承者として認める。それは私からの餞別だ」

 

「……有難う御座います」

 

感謝の言葉とは裏腹に、彼女の表情は複雑だ。彼の決意に満ちた瞳は、間違いなくこれから死ににゆくものの目だったから。そんなやり取りをただ眺めているだけの影鳴ではなく。

 

「逃がすかよ、私はそこまでお人好しじゃねぇんだ」

 

朧縮地にて急速に接近する彼を、鐘嗣は何とか刃で受け止めた。

 

「別れの挨拶ぐらい満足にさせんか……!」

 

「知るかよ、私はあんたが気に入らないんだ……全部全部奪ってやるよぉ!」

 

「行けっ! 小唄、くれぐれも鈴音……私の……娘……を……!」

 

その言葉を最後に、彼は弟の凶刃をその身に受けた。呆然とする鈴音を抱きかかえ、彼女らは修練場を大急ぎで後にした。

 

 

 

 

 

「ぐ、がは……! 炎雷(ホノイカヅチ)でもないか……」

 

『意外だな、存外にも耐えるか』

 

「諦め……切れるか……!」

 

鬼の予想した正体を口にしては、不正解と周囲の血液によって体の中を直接蹂躙される拷問を受け。再度答えては魂さえも穢れていくという血液による内側からの責め苦。しかしなお、彼女は諦めない。その瞳は確固たる意志を垣間見せていた。

 

「もう二度と同じ過ちなど繰り返すか……! 私は、意地でも彼女に会ってみせる……!」

 

造物主との戦いで、彼女は己の怒りに任せて鈴音を見捨てた。そうして全てを失い、従者であるチャチャゼロにまで見放されてしまった。彼女はもう何もない、故にもう捨てるものがない。

 

「私自身を擲ってでも……鈴音を助ける!」

 

『ほう……』

 

鬼自身、一度心の折れた彼女ではこの悪夢のような拷問に耐えられるはずもないと思っていたのだ。しかし、目の前の彼女はどれだけ強固な精神を持つものでも発狂するであろう魂を直接穢すような内側からの陵辱に耐えてみせている。

 

(『中々どうして、存外養殖モノでも頑張るではないか!』)

 

鬼は歓喜していた。己の主たる少女が認めたのは、存在としての位階は高いが精神は未熟な、はっきり言ってしまえば自分から見て雑魚と思える存在。先程まで、実際にそうであったことは確かだと彼は思っている。

 

だが、今の眼前の彼女はどうだ。全てを失い、失意の中にいた彼女は。それによって己自身を犠牲にしてでも彼女を取り戻そうとしている。まるで、諦めの悪い人間だ。

 

(『クハハ! なるほど、確かにコイツの魂は人間であったな』)

 

ゲームは、未だ続いてゆく。

 

 

 

 

「ほらほら、鬼さんこちら」

 

「くっ!」

 

逃げ出して数分。屋敷の中を逃げまわったものの、影鳴はあっさりと追いついてきてみせた。

 

「よくもっ……よくも旦那様を……!」

 

その手に、鐘嗣の首(・・・・)を携えて。小唄はそれを目撃すると一瞬で激高し、彼に突撃していった。しかし、彼女の実力ではどうすることもできず。

 

「ほーら、捕まえた」

 

「放せっ! 放せぇっ!」

 

捕まってしまう。じたばたと暴れるものの、体がいうことを聞いてくれない。その時。

 

「はぁっ!」

 

「おっと」

 

彼の背後から、鈴音の刃が襲いかかった。彼はそれを受け止めてみせるが、そのせいで腕の中の彼女を取り逃がしてしまった。

 

「ちっ! 調子に乗るんじゃないっ!」

 

放たれた刃を鈴音は腕で受け止めるも、そのまま小唄の方へと吹き飛ばされる鈴音。それを受け止めるも、影鳴によって片腕が使えない彼女はただ受け止めるだけで精一杯であり、彼女を抱きかかえたまま吹き飛んだ。痛みで顔を歪めるも、彼女を抱いて起き上がると。

 

「鈴音! 逃げなさい! お前を、お前を奴の道具になどさせるものか!」

 

自分をおいて逃げるよう、彼女に言い聞かせるように言った。だが、鈴音は母の言葉も聞かず戦意を衰えさせない。鈴音は彼女の瞳を見て、逃げたくないと心の底から思った。あれほど強い父を、負傷していたとはいえ容易く殺してみせた相手に母が敵うはずがない。母も相応の実力者ではあるが、父に追いつかれたくない一心で修行した影鳴はその上をいく人物。母までをも失いたくない、そう強く思った。

 

だが。

 

「はいはい、臭い親子愛はそこで終了だよぉ」

 

「ぐ……あ……!」

 

彼女の喉を、白銀の刃が貫いていた。小唄は最後の力を振り絞って娘を鳴海のいる方へと突き飛ばし、その数瞬後に喉から刃を引きぬかれて倒れ伏した。鳴海は足元に転がってきた彼女の腕を引き、逃げ出す。

 

「っ! 放して!」

 

彼女の腕を強く掴んで引いてゆく、鳴海。必死に抵抗を試みるも。

 

「鈴音! このまま戦っても君は役立たずじゃないか! それとも、鐘嗣さんの、小唄さんの死を無駄にするのか!?」

 

「…………!」

 

「君の両親は、必死に君を守ろうとした! だったら、全力で逃げなきゃ駄目だろう!」

 

その悲痛な叫びは、彼女を冷静にさせるには十分な効果を発揮した。彼女は不安そうな顔をしながらも、無言で頷く。目の前の少年だって辛いはずだ。父と慕っていた人物に裏切られ、殺されかけている。現に、彼の目からはとめどなく涙が溢れてきている。

 

それでも、彼は父や母と同様自分を生かそうと必至になってくれる。自分を親友だと思ってくれているから。それだけに、彼の言葉に従うしかなかった。

 

「行こう! 生きて……いつかあの人に罪を償わせるんだ……!」

 

 

 

 

 

「……母上……」

 

自分自身が去っていくその場面をまざまざと見せつけられ、彼女は苦悶の表情を浮かべた。己は知っている、このあと母は影鳴相手に決死の抵抗をするも、父と同様殺された。覚えている、影鳴は再び目の前の少女と相まみえる。それもほんのすぐ後に。そして……。

 

「……どうして……この夢は私が望んだもののはずなのに……」

 

完全なる世界(コズモエンテレケイア)』。組織名と同じ名称の擬似的な幻想空間であり、幸福感を満たし望んだ世界を見せる魔法。だというのに、目の前に広がるのは自分が最も忌み嫌う最悪の過去。

 

「……誰か……助けて……!」

 

彼女の悲痛な叫びは、しかし誰にも届くことはない。

 

 

 

 

 

「さあ、ようやく追い詰めたよぉ?」

 

必死に逃げ惑い、入口の門までやって来たというのに。そこには先回りした影鳴がいた。逃げきれると思えた希望的状況を、一気に絶望へと落としてみせた彼に、鈴音は既に戦意を失いかけていた。

 

「……母上はどうした……」

 

幽鬼のような瞳で、彼に問いかける。それを嬉々とした表情で答える影鳴。

 

「いい線はいってたけどさぁ、結局あの程度じゃ私は殺せないよ。苦しそうにしてたからより苦しくなるように腕と足を切り落としてから更にバラバラにしてやった。ほら」

 

そう言って放ってきたのは、一本の腕。握られていたのは、母が大事にしていた櫛。

 

「……そう」

 

鈴音の表情は、もはや感情を感じさせないほどに無表情であった。一夜にしてに二人の肉親を失い、意識がなかったとはいえ一族を皆殺しにした。もう、彼女の心は限界まで磨り減り、無口ながら感情豊かな少女は消えかけてしまっている。

 

「鈴音……僕が時間を稼ぐ」

 

「……だめ、どうせ死ぬ」

 

彼女をよく知る鳴海から見ても、今の彼女はとても痛ましく見えた。彼女はもう、諦めてしまっている。これでは、彼女も死んでしまうと思った鳴海は。

 

「……鈴音、歯を食いしばるんだ!」

 

彼女の頬を思い切り打った。突然のことに目を白黒させる彼女。鳴海はそんな彼女に真剣な眼差しで話す。

 

「どんなに絶望的な状況でも、決して諦めちゃ駄目だ! ああそうさ、僕はどれだけ努力したって強くはなれなかったし、君に嫉妬してた! でも、絶対に諦めたくなかった! 僕が僕らしくあるために!」

 

普段優しい彼が言い放った心の内。彼は、才能あふれる鈴音にコンプレックスを抱いていた。だが、親友である彼女にそんな感情を向けたくなくて、必死に努力し続けた。例えどれだけ無駄であろうとも、彼女を、そして自分を裏切らないために。

 

「だから……僕程度ができるのに君が諦めちゃ駄目だ……!」

 

「……うん」

 

その時。

 

「お喋りはいいけどさぁ、さっさとどけよ糞ガキ」

 

影鳴のしびれをきらせた声。義理とはいえ、息子を糞ガキ呼ばわりする彼に、しかし鳴海は抜刀して構え。

 

「……死んでも止めるよ……父さん(・・・)

 

なお、彼を父親と呼んだ。彼にとって影鳴は、両親が蒸発して絶望の淵にいた自分を救い出してくれた人に、変わりはなかったのだから。しかし。

 

「あっそ、じゃあ死ねよ」

 

ブシュッ

 

彼の首が、目の前で跳ね飛び。そこから噴水のように血が吹き出して。

 

彼女の意識が反転した。

 

 

 

 

 

「……え?」

 

眼の前に広がる、真っ赤な血の海。上空は暗く見えず、銀の太陽が輝くのみ。

 

『ほう、今回の使い手は見えているようだな』

 

「っ! 誰だ!」

 

『! なんと、俺(私)の声が聞こえているのか。コイツは驚きだ』

 

姿無き声に戸惑う鈴音と、感嘆の声をあげる何者か。周囲を警戒していると、血の海の中からゆっくりと何者かが姿を現した。

 

「……お前は……」

 

『初めませて。俺の名は紅雨』

 

「……父上の刀と同じ名前……」

 

『そう、俺はまさしくそれよ。尤も、お前の父親は俺の声までは聞こえなかったが』

 

眼の前に現れた存在は、ボロ布を纏っただけの真っ赤な鬼。理知的な言葉からして相当に位階の高い鬼であるらしい。

 

『此処に来たのは、死に近づいたからだろうな。世界が見える分意識が引っ張られたのだろう。まあ、稀に例外もあるが』

 

「……! そうだ、鳴海が殺されて……」

 

フラッシュバックしてくる、自分の親しい人たちの死。

 

「……ここはどこなの?」

 

『ここは死の世界……お前たちが普段見てる世界の裏側だ』

 

思い出すのは、父の言葉。世界が巡る先の世界であり、輪廻を担うもう一つの世界。

 

「……じゃあ」

 

『言っとくが、あんたの両親もお友達もここにはいない』

 

「……どうして?」

 

此処が死の世界というのならば、既に死んだ皆がいないのはおかしい。

 

『既にそいつらは輪廻を巡った。魂はここで浄化されて何処かに行っちまったよ。行き先は俺も知らないし、もう既に別人だ』

 

死の世界に来てもなお、彼女は両親にも親友にも会えない。しかし、彼女はもうそんなことを悲観しない。親友に諦めるなと諭されてなお、彼女は無気力であった。

 

「……もう、全部どうでもいい……」

 

『本当にそれでいいのか? 何も望まないのか?』

 

「……いい。……皆死んで……私だけ残って……。……世界ってこんなにも脆いの……」

 

尊いはずの生命は、一晩で紙のように薄くて安いものとなってしまった。彼女は、幾度もの死に触れてしまったせいで世界を脆いと感じるようになってしまった。

 

『参ったな……これじゃ復活しても人間じゃいられない』

 

鬼から見て、彼女は魂がねじ曲がってしまっている。これでは現実世界に帰ったとしても魂が変質してしまうだろう。

 

(『……まあ、それも一興か』)

 

彼にとっては、己を見つけ出すことのできた初めての人物。今までよりも面白いことになると、鬼は考えていた。そして。

 

『あの男に復讐したくはないか?』

 

「………………」

 

『憎くはないか? 親も親友も殺したあの男が。殺したいと思うだろう? 俺なら、お前を向こうの世界に帰してやれるぞ?』

 

「……………い」

 

『ん? はっきりと言え。戻りたいのか、戻りたくないのか』

 

「……憎い……憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎いニクいニクイ……! 私は……あいつを殺したい……!」

 

ニヤリと、悪どい笑みを浮かべる鬼。その答えを待っていたとばかりに。

 

『いいだろう……ならば行け! 憎いあの男を殺してくるがいい!』

 

 

 

 

 

『諦めの悪いやつだ』

 

「なんとでも……ぐっ……言え……私は……鈴音に会って……謝るんだ……!」

 

『あの時の主とは真逆だな……。絶望に落とされてなお足掻くか。尤も、あの時既に魂が鬼に成った主では不可能であったな』

 

懐かしむような鬼の言葉。どうやら、己の従者も此処に来て絶望を抱いたまま戻ったのだろう。そして、今は自分がその状況にいる。

 

「思えば……私は鈴音に頼りっぱなしだったな。そんな風に依存していって、失って喚いて……。なら今が、今こそが鈴音を頼らずに踏ん張る時じゃないか……。彼女が超えられなかった絶望を、私が踏み越えてやる!」

 

『できるものならばな』

 

 

 

 

 

「気絶したか……。ま、そのほうが運びやすくていいけど」

 

突然糸が切れた人形のように倒れ伏した彼女。影鳴は何が起こったかよくは分からなかったが、恐らくは恐怖と絶望で意識が強制的にシャットダウンされたんだろうと思いおもむろに近づき、襟首を持って彼女を持ち上げようとしたその時。

 

リィン

 

「は?」

 

鈴の音。同時に、目の前にいたはずの少女の姿を見失った。

 

「……手応え、あり」

 

次いで、背後からの声。振り返ろうとして、彼の腕が動いた振動か、突如として音もなく地面に落ちた(・・・・・・)

 

「おいおい……! 俺が斬られたってのか……!?」

 

慢心していた覚えはない。相手は先ほどの戦闘でボロボロな少女一人であり、突如として気絶したが、むしろ万が一狸寝入りで接近した時に一撃を入れられないように警戒をしていた。だというのに、彼は彼女を一瞬で見失い、次いで腕を切り落とされたのだ。

 

みれば、彼女の醸し出す雰囲気が先ほどまでとは全く違う。絶望に彩られた瞳で空虚であった先ほどの彼女ではない。今眼の前にいるのは鬼気迫る殺意を漲らせ、己を心の底から憎んでいることが見て取れる、濁った目の色。

 

「おいおい、これじゃまるで"鬼"じゃねぇか……」

 

彼は兄や鈴音のように"世界"を見ることはできない。だが、彼も実力者として幾度と無く妖怪変化や魑魅魍魎と戦った身だ。その彼からしても、鈴音が放つ鬼の気配は、上級の鬼さえ虫けらに思えるほどのものであった。

 

「……お前を、殺す……!」

 

人を殺せば、それは鬼の所業だと古き時代では言われ、殺人鬼と呼ばれる。今の彼女は、何らかの理由で鬼に成ってしまったのだろうが、それにしては異常過ぎる。元々、そういった素養があったとしか思えないほどに。

 

「は、はは……所詮、俺にお前は御せんか……バケモノめ……」

 

彼女を利用して、地方の実力者に脅しをかけ、裏の世界で権力を握るつもりだった影鳴。しかし目の前の少女こそが、自分を脅かす最も恐るべき存在だと理解し。彼の計画が完全に破綻したことを理解した。

 

「……まあ、いいか。あのクソッタレを殺すこともできたし、娘もこんなじゃあ浮かばれないだろうよ……」

 

そう言って、彼は己の胸に自らの刃を突き立て、呻き声一つさえ漏らさずに死んだ。その様を見て、彼女はポツリと漏らす。

 

「……卑怯者……」

 

後に残されたのは、人とも鬼ともつかぬ中途半端な人の鬼。

 

彼女は、人であることをやめながら、その目的さえ果たすことはできなかった。

 

 

 

 

 

「…………」

 

奥歯を噛む。最初から最後まで目の前で見せられながら、何もすることなどできなかった。それはそうだ、これはあくまで幻覚にすぎない。どれだけ望んだとしても、あの時間は戻ってなど来ないのだ。ゆっくりと、世界が暗くなってゆく。後に残されたのは、自分だけ。

 

「……私は……」

 

後悔は今でも続いている。あの時、自分が彼の口車に乗ってしまわなければ。しかし、いくら悔やんだ所で願いはかないやしない。

 

「本当にそうか?」

 

「っ!」

 

「お前は本当は望んでいたはずだ……己の命で償いたいと」

 

突然の声に驚いていると、目の前にゆっくりと暗い光が現れて集まっていく。やがてそれが人の姿を取っていくと、そこにいたのは。

 

「……ちち、うえ……!?」

 

「うちもおるよ」

 

「僕もいます」

 

かつて、彼女によって死に至った3人がそこにいた。

 

「ここは間違い無くお前が望んだ世界」

 

「うちらが死んだ原因を見つめなおし」

 

「殺されたいと願ったのがこの世界だよ」

 

『完全なる世界』は、彼女の表層的な願いではなく彼女の無意識の願望、叶わぬと分かっていながら償いのために死にたいという願いが具現化されたのだ。

 

「薄汚く生き残ったお前を、今この手で……」

 

「僕を見捨てた君を」

 

「望み通り……うちらが」

 

「「「「殺してやる」」」」

 

「……そうか、これが私が望んだ……」

 

各々が抜刀し、彼女に刃を向ける。彼女はそれを見て微笑み。

 

「……ごめんなさい、マスター……」

 

瞳から雫をひとつ滴らせ、その凶刃を全身で受け止めたのであった。

 

 

 

 

 

(考えろ……奴は『名前』がヒントだといった……。奴の仮初の名は『紅雨』……、赤い色を連想させるカミ……いや、そんな単純なものではないはず……)

 

頭をフル回転させる。思いつくだけの名前は全て言った。元々日本に訪れた際に日本神話を詳しく調べたことがあるが、メジャーな神々は尽く外れた。

 

(ならば雨を連想……雨…………あめ……待てよ?)

 

鬼は時代を経るうちにいつの間にか妖刀と称されるようになったらしい。ならば今の姿は人の意識による穢れによって形成されたものだとすれば、正体はもっと別のはず。

 

(あめ)ではなく、(あめ)だとすれば……!)

 

雨は天が人づてに変わってしまい、紅はあくまで比喩表現だとすれば。

 

「…………分かったぞ、お前の正体が……」

 

『さて、何度目になるかも分からんが……期待せずに聞いてやろう』

 

「お前の……本当の名は……!」

 

 

 

 

 

冷たくなっていく己の感覚。ここが精神世界とはいえ、死ねばそれは精神が息絶えるということ。ならば、現実でも死が訪れるのかもしれない。そんなことを考えながら、ゆっくりと目を閉じようとし。

 

「…………っ……ね…………」

 

(……声?)

 

目を開けてみるも、そこには自分を冷たい瞳で見下ろして黙る三人のみ。気のせいかと思って再び目を閉じようとするが。

 

「……! ……こ……いる……りん……!」

 

「! この……声は……」

 

聞こえるはずのない、彼女がよく知った声。だが、ここは閉ざされた幻想の世界。いくら彼女が優秀でもこれほどの幻想空間に干渉など。

 

「鈴音!」

 

「……ます……たー……?」

 

はっきりと、今度は自分を呼ぶ声が聞こえた。ゆっくりと、体を起こす。貫かれた痛みで顔を歪めるが、それを気にしないで立ち上がろうとする。

 

「まだ立ち上がるのか? お前の苦しみが続くだけだぞ」

 

「……会いたい」

 

「私達を死なせたお前がか。どうせ、お前のせいで彼女も死んでしまうだろうよ」

 

「それでも! ……会いたい……!」

 

しかし、体はいうことを聞いてくれない。体のバランスが崩れ、倒れそうになる。

 

すると。

 

「……父上……」

 

「それほどまでに願うならば、私は止めはせんよ」

 

父が自分の腕を掴み、そのまま引いてくる。それを利用して彼女は立つと、彼に頭を下げた。

 

「……ありがとうございます」

 

「よい、元々我らはお前の望んだ世界……」

 

「君が強く願ったことを達成するのが僕達だからね」

 

「それに、娘を任せられる人か確かめたいどすなぁ」

 

皆が、笑顔でそんなことを言ってくれる。そう、ここは鈴音が望むものを叶えてくれる幻想。たとえそれが虚構だとしても、彼女の願いで生まれたものであることには変わりない。そして、暗闇の向こう側が突如として開き、光が溢れた。

 

「鈴音っ!」

 

「……マスター……!」

 

現れたのは、彼女の最も愛しい人。己の半身にして、主人。エヴァンジェリンが現れた。

 

 

 

 

 

「ごめんな、ごめんな鈴音……! 私はお前を見捨ててしまった……!」

 

「……いいんです……私も、マスターに無断で死のうとしました……」

 

ひしと抱き合う二人。己の犯した罪を涙を流しながら互いに吐露し。

 

「……ク、ハハハハハ! それじゃあお互い様というわけか! どこまでも私たちは似ているな」

 

「……だって、私はチャチャゼロがいて、アスナがいて。……そしてマスターがいて初めて一人前なんですから……」

 

笑いあう二人。先程まで、互いに地獄のような苦しみを味わっていたというのに。再会を果たした彼女らは活力がみなぎっていた。

 

「む、そういえばそこの三人はだれだ?」

 

「申し遅れたな。私は鈴音の父、明山寺鐘嗣と申す」

 

「母の小唄いいます、よろしゅう」

 

「僕は鳴海、鈴音とは親友といった間柄でした」

 

「……私の、死んだ家族と友人です……」

 

彼らの紹介を聞き、そうかと首肯する。そして、エヴァンジェリンは彼らに向かい。

 

「お前達の娘は私が悪党として育てた。たとえお前が鈴音が望んだ幻覚といえど、申し開きはしない。好きにしろ」

 

「何もせぬよ、悪の道であれ善の道であれ、彼女は逸脱しすぎてしまった以上まともな相手では付き合えんだろう」

 

「うちは、感謝しとりますえ。鈴音は友達さえ鳴海君しかいなかったどすから」

 

「僕じゃ、鈴音は守ってあげられなかったから……何も言えないですよ」

 

それぞれが、彼女に感謝の意を述べる。そして鐘嗣がエヴァンジェリンの前に出て。

 

「……娘を、頼む」

 

「頼まれんでも、あいつは私のものだ」

 

「フッ、尊大だな。しかし、嫌いではない」

 

話を終えた彼女は鈴音の腕を引いて、光の向こう側へと向かっていく。そして光に呑まれる寸前。鈴音はこちらを向きながら一言だけ告げて消えた。

 

『さようなら』、と。

 

 

 

 

 

『まさか、本当に当ててしまうとはなぁ……』

 

頭を掻きながら呟く鬼。先ほどの彼女の回答は、彼の予想に反して正解であった。

 

 

 

『貴様の本当の名は『天穂日命(アメノホヒノミコト)』だろう? 紅はあくまで陽の光の比喩表現に過ぎず、"日"、つまり太陽を表している。恐らくは、本来は紅でもなく同じ赤い表現として"緋"の字だったのではないか? そして、(あめ)も本来は"(あめ)"だったのだろう?』

 

純粋に驚いた。名前から類推し、数多い神々の中から己の名を引き当てた理知的な頭脳。

 

『そもそも、分霊とはいえカミの存在が封じられた刀となれば、直接カミが力を込めたか、高い霊力を有する伝説級の金属が使われたか。あるいは両方かだろうことは思い至った。そして、あの真っ赤な刀身は、その金属……緋々色金(ヒヒイロカネ)だな?』

 

『そこまで気づいたのか、やるな』

 

『何より、天穂日命は使命を帯びて大国主の元へ行ったという伝承がある。つまり一度は地上に現れたカミだということだ。鬼の姿は穢れによってだろう、妖怪といえば日本では鬼が一番メジャーだしな』

 

鬼の姿さえ偽りであることも見ぬかれた。流石の鬼、いや天穂日命の分霊たる彼も舌を巻く。分かりづらいよう態々一人称を俺と私を同時に使っていたというのに、男神である天穂日命と見破ってみせるとは。

 

『お前は名前のみ(・・・・)がヒントだといった。つまり容姿など当てにならん。お前は鬼として私と同格だとはいったが、それはあくまで分霊であり鬼としてでの話だろう。そしてお前を連想させる神々をペナルティ覚悟で言い続けたことが功を奏した』

 

『……当てずっぽうで言っていたのかと思ったが、正解を絞るためだったとはな。そうだ、俺は鬼としては最上位ではあるがそれだけ。カミとして比べでもしたら、お前と同格などありえんよ』

 

最初に交わした言葉さえ精査して情報とした。そして己の苦痛さえも布石とし、ゲームに勝利してみせた少女。認めよう、彼女は己の主が仕えるにたる存在だと。

 

『……ゲームはお前の勝ちだ。今、幻想空間に囚われている主の所にゲートをつなごう』

 

そう言って、彼は何かの言葉をブツブツと唱える。すると、目の前の空間に亀裂が走り。そこには暗闇が広がっていた。

 

『この先に、鈴音がいるのか?』

 

『ああ。もっとも、早く行ったほうがいい、精神が弱り切って死にかけてる』

 

彼女はゆっくりとその亀裂へと進んでいき、中へ体を潜り込ませてゆく。

 

『……エヴァンジェリン、真祖の吸血鬼よ。お前を我が主の主人として認めよう……頼んだぞ』

 

『フン、言われなくても分かっている。次は現実で会おうかってうおっ!? 吸い込まれ……!』

 

その会話を最後に、彼女は亀裂へと完全に飲み込まれていったのだった。

 

 

 

『クハハ! 中々愉快であったな! これからも退屈しないで済みそうだ!』

 

先程のことを思い出し、カラカラと笑いながら鬼は血の海へと沈んでいく。後に残ったのは、静寂のみであった。


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