二人の鬼   作:子藤貝

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混沌は加速してゆく。やがてそれは、
誰も逃れられぬ大渦へと姿を変えてゆく。


第三十三話 修学旅行三日目(午前)

『クキキッ、ようやく体が手に入った……』

 

先ほどの一切動きのなかった和美が、突如豹変したように凶悪な笑みを浮かべながらケタケタと笑っていた。非常に不気味な光景ながら、しかし千雨とネギには見覚えのある光景。

 

「てめぇ、まさかあの時の……!」

 

『お察しのとおりさ! 私は君たちと一度戦っている。以前『桜通りの幽霊』などと呼ばれた存在だ』

 

そう、彼らの前に再び現れたのだ。大川美姫に取り憑き、あの悪夢を繰り広げた最悪な人格が。尤も、あくまでネギ達がそう思っているだけで彼女は本物の大川美姫なのだが。

 

「そんな、でもエヴァンジェリンは使いものにならないって……!」

 

『悪党の言葉を信じていたのか? おめでたいやつだ、あの人は私という人格を廃人になったように見せかけて回収し、仮初めの体として別の器物へと封じたのさ』

 

そう、和美が持っていたペンダントこそそれであった。彼女は和美の不安をわざと煽るような言い方をして彼女に罪悪感を抱かせ、体を乗っ取ることを考えていたのだ。そのついでで、彼女をこんな目に合わせた原因たるネギにも苦しみを味わわせてやろうと画策し、和美にネギのことをわざとばらしたのである。

 

「どこまでしつこいんだテメェは!」

 

『生憎、私はあの人のように泰然と構えるタイプの悪じゃなくてね。すべきと思うなら意地汚かろうと邪魔をするさ』

 

彼女は体を得るために、虎視眈々とそのタイミングを狙い続けてきた。そして先ほど、ネギの暴走という彼女にとってこの上ないチャンスを手に入れたのだ。その余裕すら感じさせる笑みから、余程上機嫌であることが伺える。

 

自分にとって憎き敵たるネギが、自分の生徒によって追い詰められて魔力暴走を起こし、更にはその生徒も自分の魔の手に堕ちた。一石二鳥とはまさにこのことだろう。

 

『まだ体がうまく同調できないが、最早関係ないな。何せ私の体はそのまま人質そのもの。先生にはどうすることもできないだろう?』

 

「本当にムカつくやつだなテメェは!」

 

思わずそんな悪態をついてしまう千雨。同じ手で二度もこんなことをされたのだ、しかも今回は相手が完全に舞台から退いたと思っていたため、対処を使用にもそのための道具など持っていないため余計にたちが悪い。

 

『クキキッ、最っ高だ! 私を散々な目に合わせ、こんな姿になる原因となったあの長谷川千雨とネギ・スプリングフィールドが、指をくわえているしかないなんてなぁ!?』

 

「……事情は分かりませんが、あれが以前事件を起こしていた存在というわけですか?」

 

「ああ、見ての通り最悪なやつだ。取り憑いた相手のことなんざこれっぽっちも考えちゃいねぇ」

 

「あいつの言葉が正しければ、あのペンダントが原因なんでしょ? あれを引剥がせば朝倉も正気になるんじゃない?」

 

アスナがそう言う。確かに、相手はまだ体を乗っ取ったばかりで完全にはシンクロしていない。だからこそペンダントを外せば元通りになるだろう。だが、相手がそんな単純なことを許すはずがない。

 

『おっと、動くなよ? 私としては体は惜しいが最悪捨ててしまってもいいんだぞ? 無論、体を好き勝手にした後にでも、な』

 

そう言って、彼女は胸元から小さなカッターを取り出す。チキチキと音を立てながら刃を出すと、それを自らの首筋へとゆっくり押し当てた。

 

「下衆が……!」

 

いくらタオル一枚しか羽織っていない姿とはいえ、和美もなんの予防策も持たずにネギへと接近していない。ペンダントの助言によって、刃物の一つぐらいは隠し持っていたのである。しかし、それも彼女の目論見通りでしかなかった。

 

『それに、君も動くことなどできないだろう……なぁ、桜咲刹那?』

 

「……どういう意味だ」

 

『君のお姉さんが私の同僚、って言えば分かるかな?』

 

「っ!?」

 

相手の言葉に動揺する刹那。昨日のやりとりのことを思い出し、体がわずかに震えた。

 

『勧誘されたはずだと思うがねぇ? まあ、君には選択肢なんて端から一つしかないと思うけど。なにせ君は……』

 

「やめろっ!」

 

大声で、彼女が語ろうとしていた何かを止める。その表情は普段の凛々しさはどこにもなかった。怯え、怒り、恐怖、動揺。それらが入り混じったかのような、脆さを感じさせる。

 

『ま、私はどっちでもいいさ。君がこちらに来ようが来まいがどうでもいい』

 

心底どうでもよさそうな態度だった。仮にも同じ組織に所属している者が勧誘した相手に対して、ここまで無関心だというのも異常である。結局のところ、彼女にとって刹那は構成員が増えるか増えないか程度にしか考えていないのだ。

 

『無駄話も飽きた。私はそろそろお暇しようかねぇ』

 

「朝倉さんをどうするつもりですか!」

 

『知れたこと。この体を私という意識になじませた後に組織へ復帰するのさ』

 

「させると思うか?」

 

体を人質にとっているとはいえ、逃げの動作に入れば一瞬の隙は生まれる。そこを狙えばネギ達へと天秤は傾くだろう。

 

『そんな状態でか? 迷いを捨てられない剣士に、役立たずの人間共。そして魔力暴走で魔法も使えないただのガキ。負ける要素がないねぇ?』

 

彼女の言葉は、まさしく正鵠を射ていた。刹那は姉につながる人物を相手に斬りかかれるかという迷いがあり、千雨は荒事は向かない。アルベールは奇襲ならできるだろうが、前回の戦いで二度もその屈辱を味わっている彼女が油断するはずもない。アスナも、強かろうとあくまでも一般人でしかない。ただし、そう思っているのはネギ達だけだが。

 

(……ま、私が動くわけないんだけど。私も向こう側なんだし)

 

――――アスナは内心ほくそ笑んでいた。

 

今回の作戦、実はアスナが考案したものだった。前回の戦いで、再会の時間を邪魔された彼女は非常に鬱憤が溜まっていた。そこで、それを晴らすために彼女はエヴァンジェリンが抜き取った美姫の記憶と人格を、ペンダントに封じるようわざと進言したのだ。一時的とはいえ、ペンダントに閉じ込められるなど屈辱だろうと。

 

が、彼女はむしろ喜んでしまった。元々美姫の負の感情の大部分を占めているような人格が彼女なのだ。先の戦闘で魔法具を多用したことから察せられるだろうが、彼女は道具や魔法具を偏執的に好んでいる。そんな彼女は、自らが魔法具になれたことが新鮮で楽しかったらしい。

 

『これじゃ進言した意味が無い……っていうか余計に悪化してる……』

 

結局彼女の思惑通りにはいかず、しかもペンダントはアスナが預かることとなってしまった。元々美姫が苦手であった彼女にとっては地獄もいいところである。そして、なんとかしてこのペンダントを他人に押し付ける事を考え、今回の責任者である鈴音へ作戦の一部として提案したのだ。

 

『朝倉和美は厄介だし、今のうちにこっちでコントロールできれば作戦が進めやすくなると思う』

 

元々、その情報収集能力の高さに彼女らは警戒していたため、その提案はすんなりと通った。そうして、わざわざ別任務で近くにきていた幹部の一人である悪魔に命じ、和美へとペンダントをまんまと押しつけることに成功したのである。

 

――――これがこの作戦の真実であった。

 

『クキキッ、じゃあな……次会った時には覚悟しておくといいさ』

 

(一度に二人も邪魔が消えるのは有り難いことね。ようやく私も少しだけ肩の荷が下りるわ……)

 

後は美姫が体を奪ったまま逃げればいい。そして戻ってきた時には体の支配権は完全に美姫が掌握しているだろう。前回の失態もあり、美姫は今回の作戦には参加できないが、それでもネギ達の意識をそらしやすくなるだろう。

 

だが、その計画はあと一歩で頓挫することとなる。

 

『さらばだ、ネギせ……うおっ!?』

 

突如、強烈な風が吹き抜けた。それによって和美に憑依している美姫はバランスを崩して尻餅をつく。慌てて起き上がる一瞬、その一瞬が決定的だった。

 

「朝倉さんを返せっ!」

 

『なっ! 馬鹿な、はや……!』

 

一瞬で、ネギは彼女の前へと距離を詰めていた。そのスピードは、前回戦った時とは比べ物にならないほどの差があった。

 

『何故だ! 魔力など残っているはずが……!』

 

ネギはすかさず胸元のペンダントを掴み、そのまま器用に首を通過させてペンダントを放り投げた。驚愕に顔色を変えたまま、彼女は抵抗さえできずに肉体を失ったのである。

 

金属が軽く擦れるような音と、硬いもの同士がぶつかった時のような音を立て、ペンダントは露天風呂の縁まで転がっていった。そして、和美の肉体はゆっくりと崩れ落ち、慌ててネギはそれを抱きとめる。

 

(チッ、美姫め。最後の最後で油断したわね。それにしても予想外だったわ、まさか余力があったなんて……)

 

冷静に状況を分析するアスナ。しかし想定外の事態に驚きこそあれど、彼女の計算に狂いはない。

 

(まぁ、どっちにしろ朝倉は再起不能だろうけど)

 

「朝倉さん、朝倉さん!?」

 

彼女を揺さぶりながら声をかける。もしも精神が彼女によって傷つけられてでもいれば、それだけで和美は日常生活を送るのも難しくなる可能性が高い。だからこそ、和美の無事を一刻もはやく確かめたかった。

 

そして、何度か声をかけた時。

 

「……あ……れ……ネギ、せん……せ……?」

 

「朝倉さん!」

 

「私……なにが、どう……なって……?」

 

「よかった……無事で……」

 

目を覚ました彼女を見て、ほっと安堵の息を漏らす。一方、和美はぼぅっとした頭で何が起こっていたのかを少しずつ思い出していこうとし。

 

「そう、だ……私、先生に……迷惑……」

 

「いいんです……朝倉さんが無事でいてくれただけで十分です……」

 

「駄目、私が、私が先生を傷つけた……本屋ちゃんにまで辛い思いさせて……は、はは……最低だ……私……」

 

思い出し、そして反芻した彼女は次第に己の良心が死にかけていくのを理解した。自分の中途半端な認識で、触れられたくない部分へ土足で踏み込んだのだ。そして、あんなことになってしまった。教唆をされたのは事実だが、それでも実行したのは自分。最早、彼女は押しつぶされそうなほどに肥大化した罪悪感で心が壊れそうになっていた。

 

一線をわきまえたつもりでいた。ジャーナリズムを志し、悪を暴く正義を目指している気でいた。だが、所詮はただの人を傷つけることしかできないパパラッチなのだと、現実を正面から叩きつけられた。

 

(正気に戻ったみたいだけど、もう彼女は駄目でしょうね。心なんて脆いもの、砕けてしまえばガラス細工と同じで元には戻らないわ)

 

心のなかで哀れむでもなく、ただ淡々とそう思うだけの仕掛け人。たとえクラスメイトであろうと、彼女にはそれだけのことでしかない。むしろ、計画にじゃまになりそうな人間が減るのならば喜ばしいと思ってさえいる。

 

「……私……皆に、これ以上、迷惑……かけたくない……だから、記者なんて、やめる……」

 

「で、でも……記者になるのが朝倉さんの夢だって……」

 

「……もう、夢なんて、どうでもいいや……」

 

壊れてゆく、彼女も、彼女の夢も。ガラス細工のように、パキリパキリと折れてゆく。支えきれない罪悪感によって、ついに少女は限界を迎え砕け散る――。

 

「どうでもよくなんてありませんっ!」

 

――はずだった。

 

「僕は知ってます、朝倉さんが皆さんの思い出を残すために熱心に写真を撮ってたことを! 形として残そうとしていたことを!」

 

「せん、せ……?」

 

折れて砕けたはずのガラス細工が、少年の言葉によってかき集められてゆく。

 

「朝倉さんの夢が、困難なものだということも知ってます! 時として、誰かを傷つけることだってあることも!」

 

それらは、情熱という熱を灯した炉へとくべられ溶かされてゆく。

 

「だから、諦めちゃ駄目です! 確かに朝倉さんは間違いを犯したかもしれません、でもそこで立ち止まっちゃ……前に進むこともできないんです」

 

和美は思い出してゆく、自らの原点を。憧れた背中、拳にではなくペンにその力を込めて、存在しない敵などではなく机に向かうその姿。誰かを楽しませ、誰かを苦しみから救うために敢然と死地へさえも赴く勇気ある者達。

 

「失敗を犯すことは誰だってあります、大切なのはそこから学ばなければいけないことです。朝倉さんは今日、僕を通じて学んだんです、人を傷つける怖さを、そうなってしまう危うさを。それを、放ったままにしていいんですか!?」

 

「…………!」

 

失敗を恐れるものは、誰も成功へはたどり着けない。真実へとたどり着く努力を怠ると、真実が遠のいてしまうように。誤りがあるなら正せばいい、二度と踏み外さぬように。

 

それさえできないのなら、本当にただのろくでなしだ。

 

「学んでください、それができるまで僕はどこまでも付き合います。朝倉さんが、夢を捨てる必要がなくなるまで」

 

「せん、せい……」

 

胸の内の灯火は、轟々と燃え盛りながら熱を強めてゆく。優しく溶かされていった破片は、いつの間にか割れ目を失っていた。

 

「私……まだ、やり直せる……かな……?」

 

砕けたガラス細工は、確かに元には戻らない。だが、再び炎で炙ってやれば、形のない新たな可能性が生まれてくる。それは歪になってしまうかもしれない。不格好でみすぼらしくなるかもしれない。

 

「大丈夫です。それを正してあげるのが、僕達教師の役目なんですから」

 

それでも、二度目は失敗から学んでより強靭に。過去の過ちで己を磨き、より輝きを強くして。

 

二度と砕けぬように、祈りを込めながら。

 

 

 

 

 

屋根の上で、それを眺めている人影が一人。彼女こそが、先ほど起こった突風の原因だった。目の前の光景を眺めながら、彼女は自らの行動について考える。

 

(……何をやってるんでしょう、私は)

 

彼女は、ペンダントの相手のことをよく知っている。事件のことだって知っている。その時には、自身の親友が操られていながら、何もしなかった。いや、何もしなかったわけではない。その犯人に手を貸していた。最低な行為だったと、自覚はしている。本心では、それを望んではいなかったにしろ、だ。

 

(……のどか)

 

逆らうことができなかった。あの恐ろしい、禁忌の魔女の言葉に。彼女は屈して、親友を売ったも同然のことをした。そのせいで、数日は食事は喉を通らず、吐いてしまった。時間が経つにつれ、自分に都合のいい言葉を言い聞かせて何とか心の均衡を保ったが、未だチクチクと胸の奥が傷んでいた。

 

(……贖罪のつもり? ……だとすれば、私は救われたいんでしょうか……。なんて、身勝手で最悪で……)

 

不意に、自らと魔女の姿が重なる。今の自分と、とても似通って見えてしまった。

 

(……今更、誰に許されたいんですか、私は……)

 

自らを自嘲しながら、少女はその場から姿を消した。

 

 

 

 

 

一方、みながネギと和美に意識を向けている中、千雨は一人ペンダントが転がっている露天風呂の縁にいた。彼女は警戒しながらも、ペンダントを見下ろしている。

 

「まさかてめぇがまた出てくるなんて思わなかったが……年貢の納め時だな、オイ」

 

『…………』

 

「チッ、だんまりかよ。……ま、これ以上被害が出ても困るし回収したほうがいいか……」

 

前回も今回も、この迷惑な存在によって一般人であるクラスメイト達が巻き込まれている。また被害が及ぶ可能性を摘み取るため、彼女は回収しようとペンダントを手にとった。

 

『……かかったな!』

 

直後、ペンダントが不気味な黒緑色の光を放ちながら静かに輝いた。そして、ペンダントを握ったまま体の自由がきかなくなってゆく。

 

(体が動かねぇ……声も出ねぇ……!?)

 

『待ってたぞ、長谷川千雨……貴様が私を拾い上げる瞬間を……!』

 

心底憎らしそうな声で美姫がしゃべる。千雨は甘く見ていたのだ、彼女という人格の執念深さを。自由がきかなくなった千雨の腕は、ゆっくりとペンダントを首へと持っていく。ようやく相手の意図を理解した彼女は必死に抵抗する。千雨に起こった異変に、しかし誰も気づけていない。

 

『無駄だ、私の全力を以って強制しているんだからな……! 仕方ないが、貴様の体を頂くとしよう……!』

 

(クソッ、動けよ……私の体は私のもんだ、好き勝手されてたまるか!)

 

だが、あまりにも虚しい抵抗だった。腕はついにペンダントの紐を首へくぐらせることに成功し、相手の求める条件は完了してしまった。

 

『クキキキキ! 朝倉の時は万一を考えて完全には憑依をしなかったが、今度は違うぞ。今度は精神を乗っとらず、私の精神で直接貴様に繋がってやる! これで、お前の体は私のものだ!』

 

和美の時には、体が戻るまでの中継ぎとして体を奪うために、態々相手の罪の意識を利用して精神的に支配しようとしていた。だが、絶体絶命となった彼女は最早なりふりかまってなどいられず、千雨の精神に直接自らを接続したのだ。それは彼女の主に背く行為だったが、それを考えられないくらいに必死になっていたのだ。

 

だが。

 

「……? 体が、動く?」

 

『……どういうことだ、体が、動かせ、ない……だと!?』

 

支配したはずの肉体が、全く動かせていないという事実。それに反比例するかのように、千雨は自由に体を動かしていた。

 

『何故だ、何故だ何故だ何故だ!? 精神を直接つなげたんだぞ!?』

 

実のところ、彼女は致命的なミスを犯していた。幼い頃から、千雨はあの鈴音を相手に強がりをみせられるぐらい精神的に強い。加えて、意識誘導などの精神に作用する魔法に強い耐性がある。『桜通りの幽霊』事件の折、人払いの呪などに誘導されることなくネギを発見できたことがその証拠だろう。だからこそ、ネギに対してどこか違和感を持てたし、エヴァンジェリンと相対しても意識を保ち続けることができたのだ。

 

つまり、彼女の精神に直接接続するという方法は最悪の一手だった。元々精神的には不安定である美姫が、そんな千雨の精神を乗っ取ることなど、どだい無理な話だったのである。

 

「……なんだか分からんが、私はお前に支配されないっぽいな。私が拾ってよかったぜ、これで他のやつに被害が及ぶこともないな」

 

『くそっ、くそっくそっくそっ! どこまでも私の邪魔をする気か、長谷川千雨ええええええ!』

 

こうして、ようやく朝の騒動は終わりを告げたのだった。

 

 

 

 

 

騒動の後。一同は一度部屋へと戻り、今後について話をすることにした。騒動を知らなかった楓は、泣きつかれて眠ってしまった和美を千雨が部屋へ連れて行き、その途中で出会い事情を聞かされ部屋へとやってきている。

 

まず、和美のことは一旦保留ということになった。本人が不在であるし、今はそっとしてやったほうがいいと千雨が言い、修学旅行が終わるまで持ち越すこととした。

 

次に、ネギの体調はどうなのかと千雨が聞いたが、なんと前より調子がいいらしい。これについて、アルベールがある推測を立てた。

 

『多分すけど、兄貴は普段魔力をセーブしてやしたから、それを一気に開放したせいで体がストレスを感じなくなって楽になったんじゃないっすかね?』

 

どうも、魔力暴走によって膨大な魔力を抑えるので精一杯だった肉体が、今回のことで無意識ではあるが抑えていた魔力もコントロールできるようになったかららしい。そのせいか、魔力暴走を起こしたにも関わらず、魔力がほとんど消費されていないという。

 

次に、事情を知ってしまったのどかの処遇についてだが。

 

『僕が、最後まで責任を持ちます!』

 

と、なんとも男らしい事をネギが言ってのけ、のどかの希望もあり、記憶を消すことはしないこととなった。因みに、のどかはネギの言葉に終始真っ赤になっていた。

 

また、ペンダントの処遇について一悶着あった。千雨が体を乗っ取られそうになったことを話したのだが、そのせいでネギが珍しく本気で怒ってしまい、説教まで受けてしまった。千雨は以後、勝手な行動は慎もうと密かに決意したのであった。

 

「では、ペンダントは長谷川さんが持つということでよろしいんですね?」

 

「ああ。私以外が持つと、体を乗っ取られかねねぇしな。それに……」

 

『……チッ』

 

「ペンダントが外せなくなっちまってるから、私が持つ他ねぇよ」

 

美姫が精神を直接つなげてしまった結果、ペンダントを外そうとすると肉体が引っ張られて強烈な痛みが発生するようになってしまったのだ。どうやら、彼女らは一蓮托生の状態となってしまったらしい。

 

最後に、親書を届けに行く件についてだが。

 

「しかし、こんな事態まで起こってしまった今、早く親書とやらを届けるのがよいでござろうな」

 

「ああ。幸い今日は自由行動の日だ。お嬢様を護衛する以上、私は同行できないが……」

 

相手の妨害が激しくなってきた今、一刻も早く任務を終わらせるべきだと楓が言ったのだ。皆も、その意見に賛同した。これ以上手を拱いていては、被害者が増える可能性が高い。

 

「私とネギ先生で行くしかないか……」

 

「私もついていったほうがよさそうね。大丈夫よ、自分の身ぐらいは守れるし」

 

「拙者も同行しよう、数は多い方がいいでござる」

 

「わ、私は……」

 

「のどかさんは、修学旅行を楽しんでください。さすがに危険ですし、他の皆さんが心配します」

 

「あぅ……お役に立てなくてすみません……」

 

こうして、大体の話は纏まった。刹那は護衛のため、のどかは荒事に向かないため不参加。それ以外は、ネギとともに関西呪術協会本部へ向かうこととなった。

 

「でも、刹那さんがいないからどうやって行けばいいか……。本当なら、呪術協会側から迎えが来るはずなんだけど……」

 

近右衛門は、予め西の長に連絡して迎えをよこすよう言っていたのだが、3日目の今日になってもやってこない。恐らく、関西側で妨害を受けているだろうことは想像に難くない。

 

「その点についてはご心配なく。私の式が、後ほどご案内いたします」

 

「なら安心か。さて、これ以上妨害がないことを祈りたいが……」

 

千雨の虚しい祈りは、やはり届くことはなく。既に新たな刺客が手ぐすね引いて待ち構えていることを知るのは、この少し後であった。

 

 

 

 

 

出発前の小休止の時間。アスナは一人席を外していた。自分の失態を同僚に連絡するためだ。携帯電話の相手は、今回の作戦の指揮を担い、責任者でもある鈴音である。

 

【……そう。美姫が……】

 

【ゴメン、さすがに私の落ち度だわ。もう少しうまくいくと思ったんだけど……】

 

【……アスナ、美姫を押しつける気だった……】

 

【うっ……バレてたか……】

 

どうやら、彼女の考えていたことは既に看破されていたようだ。恐らく、鈴音は自分の敬愛する人物へとそれを報告するであろう。今度会うときはお仕置きされるかもしれないと思い、アスナは少しだけ顔が青くなる。

 

【……報告しないってのは、駄目?】

 

【……駄目】

 

【そこをなんとかっ!】

 

【駄目】

 

アスナの必死のお願いも、鈴音には通用しなかった。中々に頑固な彼女は、例え組織で最も長い付き合いの一人が相手であっても容赦はなかった。二度目は即答する徹底ぶりである。

 

【うぅ……マスターの楽しそうな顔が目に浮かぶわ……】

 

エヴァンジェリンは生来のいじめっ子気質なせいで、なかなかえぐい罰を与えるのだ。そんな彼女の気持ちもよそに、鈴音はアスナに確認を取る。

 

【……美姫は、彼女の手に……?】

 

【……ええ、そちらは予定通りになったわ】

 

今回のアスナの案、実は全てが失敗だったわけではない。彼女の計画していた目的が、段階を踏めなかったのが問題だったのだ。本来ならば、美姫が和美の体を乗っ取っておき、その間ネギ達と敵対状態であれば、優秀な情報収集能力を有する和美と関係を分断しておけた。そうすれば、ネギ達を対象とした計画を進める間、余計な情報が渡らなくなる可能性が高かったのだ。

 

その目論見は美姫の失態によって水の泡となってしまったが、本当の目的自体は別にあった。そしてそれが、段階をすっ飛ばして成功してしまったのだ。その目的とは、ペンダントの美姫をネギ達へ一時的に預けた状態とすること。

 

【肉体的には記憶を抜くって措置だったけど、それだけじゃ罰とはいえないもの。精神面で不安定なせいで失態を犯したんだからそっちへの罰がないと】

 

修学旅行が終わった後に、美姫には再度ネギ達と戦ってわざと負けさせる腹づもりだったのだ。それは、美姫に必然的な敗北を味わわせるという屈辱による罰という意味があった。因みに、その罰の執行はエヴァンジェリンに許可をとってある。幹部であろうと、懲罰には手を抜かないのが上に立つものの務めだ。

 

【むしろ、任務遂行に失敗しての敗北だから余計こたえてるでしょうね。美姫にはいい薬になるわ】

 

【……マスター、罰を考えてる時楽しそうだった……】

 

【……恍惚とした表情になってたんでしょうね】

 

尤も、それが彼女の性質に合致するせいもあるのだろうが。

 

 

 

 

 

「この先にあるのか?」

 

『はい、関西呪術協会の総本山は此処から先を行ったところです』

 

物静かな雰囲気を醸し出静し、どこか不気味な静けさを感じる神社の入口。石段の向こう側には、幾重にも建てられた朱塗りの鳥居が泰然と構えている。一同は、関西呪術協会本部がある神社の前へとやってきていた。

 

「ようやく懐に潜り込めるわけか。……にしても」

 

『? どうかされましたか?』

 

「いや、こうしてファンシーな存在を見てると、改めて非日常に生きてんだなぁと思うわ」

 

千雨は、案内役をしている刹那の式を見やる。そこには、ちんまりとした姿の刹那がいた。名を『ちびせつな』と言い、なんでも、自分の分身のような存在を式に当てているらしい。本人の記憶や性格などが反映され、戦闘力こそないものの、遠くの相手と齟齬なく連絡を取れるなど、色々と便利な存在らしい。

 

「姐さん、あっしも一応妖精っすよ?」

 

ファンタジーな存在というならば、アルベールもオコジョ妖精なのだが。

 

「お前はオコジョだから実在する動物だろ。どうせなら羽生やして出直してこい」

 

実在する動物であるためか、千雨にはそういった実感がないらしい。しゃべるだけなら、大したこともないという認識から、どうやら千雨も順調に非現実的な思考に染まり始めているようだ。

 

「千雨ちゃんはエロオコジョ相手だと辛辣よねぇ」

 

「むむ、世の中は面妖な出来事でいっぱいでござるな……」

 

「楓の姐さんには言われたくなかったっす……!」

 

敵前でありながら、どこか和気藹々とした雰囲気の一同。いや、これから起こるであろう激戦を前に、気を解そうと無意識の内にやっているのかもしれない。

 

『此処から先は、油断されぬのがよろしいかと。仮にも刺客は呪術協会側の人間、相手が罠を張っている可能性は極めて高いです』

 

そんなネギ達に、緊張をほぐすのはいいが油断はしないようにと忠告する。根が真面目な刹那らしい式である。

 

「だな。行くなら行くで、さっさと進んじまおう」

 

「万が一の時は、皆さん僕の近くに。魔法障壁で防ぎます」

 

『呪術による罠は、私にお任せを!』

 

「荒事ならば拙者が請け負うでござる」

 

各々が自らの役割を確認し、襲撃を受けた時のことを想定しておく。

 

「では、行きましょう!」

 

覚悟を決め、いよいよネギ達は神社の奥へと突入していった。

 

 

 

 

 

『んあ? どうやら来たみたいやな』

 

『……ええか? 引き込むんは戦えなさそうなやつだけや。神鳴流の女と隠形のデカ女は強敵やから弾きだすんよ?』

 

『強いんか……ちょいと戦ってみたいわ』

 

『どあほ! それで作戦をふいにしてもうたら本末転倒や! しっかり親書持っとるガキと人質にできそうな眼鏡のガキを引き込むんやで!?』

 

『分かっとる。俺もそん程度のことは理解しとるわ』

 

『うちはこれから、木乃香お嬢様を拐いに行くから、しっかり足止めしいや!』

 

『りょーかい。まあ、あんなひょろっちい西洋魔術師なんざけちょんけちょんにしたるわ』

 

『うちのとっときの鬼蜘蛛置いていくから、あんじょう使いや』

 

『……だいぶ近づいてきとるわ。そろそろやな』

 

『ほな、うちはもう行くで。罠の管理はしっかりしとき』

 

『なんや、留守番やるちびを心配やるオカンみたいやな』

 

『アホなこと言っとらんで、あんたもさっさと行き!』

 

『へいへい。んじゃ、思い切り暴れたるわ!』

 

 

 

 

 

「ぜぇ、ぜぇ……まだ、奥の社に、たどり着かないのか……」

 

「散々走ったでござるが……」

 

「ねぇ、この鳥居の傷の形、さっきも見た気がするんだけど……」

 

千本鳥居の中をひたすら駆けてきたネギ達。だが、いつまで経っても罠の気配はなく、襲撃される雰囲気もない。最初は拍子抜けだったが、それも油断を誘う罠だと思い、気を引き締めてはぐれぬように慎重に行動していたのだが。

 

「先が全然見えない……」

 

「静かすぎるぜ、鳥の(さえず)りさえ聞こえねぇ……」

 

体力のない千雨が、息を切らせながら周囲を見渡す。草木が風で擦れ合い、ざわめきが起こる。それはまるで、木々がひそひそと囁き合っているようであり、異なる世界にでも迷いこんでしまったようであった。

 

「不気味っすねぇ……」

 

「本当に何もないでござるなぁ……」

 

「もしかして、もう既に罠にかかってるとか?」

 

ふと、アスナがそんなことを言う。その言葉に、ちびせつなは何かに思い至ったようで。

 

『そ、そうか! これは敵方の罠です!』

 

「何? 既に罠にかかっていたというわけでござるか?」

 

『はい、恐らくですが『無間方処の咒法』かと! 半径500m以内囲い込み、侵入したものを無限にループさせることで脱出させない術です!』

 

「ってことは、さっきからグルグルと同じとこを回ってたわけか?」

 

先ほどアスナが言った、鳥居の傷跡が同じに見えた現象。それは同じ鳥居を見ていたからに他ならなかった。

 

(……というか、二度もヒントを貰ってようやくって……遅すぎよ)

 

既に気づいていたアスナは、それとなくヒントを零していたのだ。同じ場所を延々と回るなどつまらないし、かと言って自分から言い出すわけにはいかないのでそういった形でネギ達が突破するのを待つしかなかったのである。が、一度目のヒントはスルーされ、二度目に漏らした言葉でようやく彼女らが気づいたことに、アスナは少々苛立ちを覚えた。

 

「じゃあ、これは結界系の魔法なんですね?」

 

『はい。そして先生がご想像しているとおりだと思いますが、起点となる場所を破壊すれば抜け出せるはず……』

 

「ふむ、ならば拙者がそれを探すでござる。ちびせつな殿、場所はわかるでござるか?」

 

楓が、その起点となる場所の破壊を買ってでた。広い空間内を探る以上体力勝負となるならば、この中では最も適していると判断したのだろう。

 

『時間はかかりますが、何とかできると思います』

 

「では、行くとするでござるよ!」

 

『そういうわけにはいかんなぁ!』

 

行動を開始しようとしたその時。鎮守の森に何者かの声が響き渡った。

 

そして。

 

「もろたで!」

 

「なっ、一体どこから?!」

 

誰もいなかったはずの場所から、何者かが姿を現した。

 

「不意打ちは嫌いやけど、これも仕事や! すまんな、でかいねーちゃん!」

 

「くっ!?」

 

その人物は、一瞬で楓へと距離を詰めて蹴りを放った。咄嗟にそれを両腕を交差させることで防御するが、反動で後ろへと吹き飛ぶ。

 

そして、楓の姿が忽然と消失した。

 

「か。楓の姐さんが消えた!?」

 

「てめぇ、何しやがった!」

 

「結界の向こう側に行ってもらっただけや。尤も、帰ってくるのは無理やけどな」

 

その人物、少年はニヤリと不敵な笑みを見せる。背格好は、ネギとほぼ同じ。ネギは突如現れた少年を冷静に観察した。黒い学ラン服に身を包み、ボサボサに伸ばした頭髪からは犬のような耳が見え隠れしている。どうやら、一般人ではなさそうだ。

 

「関西呪術協会所属の、犬上小太郎や。少しの間、付き合ってもらうで!」

 

「……麻帆良学園教師、ネギ・スプリングフィールドです」

 

「お、きっちり名乗ってくれたんは嬉しいわ。西洋魔術師なんて名乗りもできんような不躾な奴ばっかやと思っとったけど、礼儀がなっとる奴もおるんやな」

 

妙なところで嬉しそうにし、犬耳をピコピコと動かす小太郎。しかし、纏う雰囲気は正しく戦闘者のそれだ。

 

「んー、神鳴流の女はおらんようやな。なら、作戦は概ね成功っちゅうことか」

 

「作戦?」

 

「……あー、しもた。これは言うたらアカンやつやったわ」

 

「……! まさか、僕達を閉じ込めて、このかさんから分断する気か!」

 

ネギが相手の言葉から、一つの解を導き出す。一方の小太郎も、自分の犯した失態に軽く舌打ちする。

 

「このかさんが危ない……!」

 

「さっさとここから出ねえといけなくなったな、早く基点とやらを見つけねぇと……!」

 

「させる思うんか? 鬼蜘蛛!」

 

小太郎の号令で、林の奥から突如巨大な何かが飛び跳ねた。それは一瞬太陽の光を遮り、段々とその影を濃くしながら落下してくる。着地した途端、軽く地面が揺れた。

 

「で、でかっ!?」

 

千雨が思わずそんな叫びを上げるほど、現実離れしたサイズの蜘蛛がそこにはいた。高さだけで3m近くあり、全長なら5mは堅いであろう巨体。

 

「鬼蜘蛛、あの嬢ちゃんらの相手したれや!」

 

鬼蜘蛛は小太郎の命令を受けると、一目散に千雨とアスナの方へと向かってゆく。

 

「おいおいおい! 私は戦えねぇぞ!?」

 

「姐さん、逃げてくだせぇ!」

 

猛進してくる鬼蜘蛛を前にして、千雨は立ち尽くすしかなかった。このままではあの巨体に踏み潰されてしまう。そう思っていても、あれほどの巨体が放つプレッシャーは大きく、体が思うように動いてくれない。あわや大惨事か、と皆が思った時。

 

「せりゃっ!」

 

アスナが、掛け声と共に鬼蜘蛛へと飛び蹴りを放った。それは鬼蜘蛛の胴へと命中し、蹴りを受けた鬼蜘蛛は薄気味悪い鳴き声を上げた。また、彼女の放った蹴りの衝撃で鬼蜘蛛の進行方向が変わり、千雨は紙一重で直撃を避けた。

 

「……し、死ぬかと思った」

 

エヴァンジェリン相手でも意識を保てる胆力を有する彼女だが、さすがに目の前で起こった交通事故のような一連の出来事には肝が冷えたらしい。一方、鬼蜘蛛を止められた小太郎は、どこか面白そうな顔をしている。

 

「おお、いっちゃんでかくて頑丈なやつ貰ってきたんやけど、蹴っ飛ばすなんてなぁ。面白い奴や」

 

「ネギ! こっちは私が何とかするから、そっちお願いね!」

 

蹴りを食らったことで激怒したのか、鬼蜘蛛はアスナを執拗に追いかけまわし始めた。それを好機と見て、アスナは鬼蜘蛛を引き連れたまま森の奥へと走り去ってゆく。

 

「チッ、女と戦う趣味はないし放っといてええか。それより……」

 

去っていくアスナと鬼蜘蛛を横目に見た後、小太郎はネギの方へと視線を戻し人差し指を向ける。

 

「ネギ言うたか? どうせ俺を倒さにゃでられないんや。一勝負付き合ってくれや」

 

不敵な笑みで誘う小太郎。ネギは背負っていた杖を手に持つと、戦闘態勢をとることで小太郎へ無言で応える。それを見て、小太郎は満足そうに口角を上げると。

 

「ええ返事や! ほな、いくでぇっ!」

 

戦闘の火蓋が、切って落とされたのであった。

 

 

 

 

 

「……っと、この辺でいいかな」

 

林の奥まで来たアスナは、その場で急停止して反転する。追ってきた鬼蜘蛛も、相手の行動の変化に対応せんとアスナの眼前で止まった。

 

「キシャアアアアアアアアアアアアア!」

 

「うわ、気持ち悪っ! 蜘蛛って鳴く器官なんてないはずよね!?」

 

ざらざらとした耳障りな鳴き声を上げる鬼蜘蛛に、アスナは直球で気持ち悪いと感じた。本来蜘蛛には鳴き声を出すための器官などないが、相手は式とはいえ妖怪である。鳴き声ぐらい上げても不思議ではない。

 

「ま、いいわ。最近運動不足ってのもあったし、久々に思いっきり動くかな」

 

「ギシャアアアアアアアアアアアアア!」

 

再び鳴き声を上げながら、アスナへ覆いかぶさるように襲いかかってきた。しかし、彼女は泰然と構えたまま動じることなどなく。鬼蜘蛛の腹めがけて、爪先をえぐり込むようにして蹴りあげた。

 

先ほどの飛び蹴りとは、一線を画すような重く鋭い蹴り。それは鬼蜘蛛の胴へと深くめり込み、そこからポタリポタリと体液を滴らせていた。

 

「グ、グギャ!?」

 

鬼蜘蛛は、口から体液を逆流させながら八本の足をぐねぐねと動かし、不気味な踊りを見せる。体液を浴びぬように足先を抜き、バックステップで回避するアスナ。鬼蜘蛛はそのままアスナから飛び退り、怯えたようなふうに体を震わせる。アスナはそれを冷めた目で見ながら、鬼蜘蛛へゆっくりと距離を詰める。

 

鬼蜘蛛は理解した。眼前の相手は人ではないと。鬼蜘蛛は狩る側などではなく、甚振られる側なのだと。しかし、それに気づくことが、余りにも遅かったことが鬼蜘蛛の不幸。

 

「今朝のこともあってイライラしてんの。いいサンドバッグになって頂戴ね」

 

そう言って、彼女は自らを守るようにしていた鬼蜘蛛の前足を蹴り飛ばす。たったそれだけで、鬼蜘蛛の前足の一本はちぎれ飛ぶ。鬼蜘蛛の8つの目には、確かな恐怖が宿っていた。

 

魔法世界最悪の怪物の一人による、一方的な蹂躙劇が始まった。


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