しかし、なおも生き様を貫き通すは無様か、滑稽か。あるいは。
「……ぁ、ここ、は……?」
「目覚められたか、我が主」
図書館島地下、その薄暗い一角にて霊子は目を覚ました。傍には、自分の僕であるロイフェが控えていた。意識がはっきりしてくると共に、腹部に痛みが走る。
「ぅぐ……! はぁ……はぁ……なぜ、私はここに……?」
「気絶されておりましたので、吾輩がお運びいたしました。腹腔の傷は、主が持っておられた回復薬を使い、ある程度ふさぎました。ただ、あくまで応急手当程度ですが」
「……十分な働きよ、感謝するわ」
「もったいなきお言葉を」
どうやら、気絶していたところをロイフェによって助けられたということらしいと霊子は理解した。同時に、自分が何故そんな状態になったのかを考える。
(……あの時、私は確かに夕映の魔法を受けた。気絶したのは、そこから落下して頭を打ったと考えるのが妥当ね)
本来であれば、あの程度の魔法で障壁を突破されるはずがなかった。だが、魔力の大半を失っていた彼女には、高い防御力を有する障壁を張る余裕がなかった。まして、夕映が裏切ること自体が想定外であったため、障壁の防御力はあれで十分だと考えていたのだ。
(いえ、これは言い訳ね……)
そんな風に考えていた自分を、甘えた言い訳だと斬り捨てる。リスクがあるならば、それを回避するために万全を期すのが彼女のやり方だ。それを実践できていない時点で、詰めの甘さと腑抜けさを否定できる材料はなかった。
奥の手を使ったタイミングもひどい。あれは突入してきた魔法教師共を纏めて仕留めるために用意していたものでもあり、間もなく来たであろう彼らごと押しつぶす予定だった。そのために、態々解除キーを唱えて準備をしていたのだ。
(なのに、私は使ってしまった。……彼に想定以上の脅威を感じてしまったが故に)
少しの情報から、魔法のストックをダミーと見抜き、あまつさえ言霊に設定していた始動キーのことまで見抜かれた。たった10歳の少年が、入念に仕込んだ思考誘導を看破したのである。あそこで殺さなければ、必ず自分を脅かす存在となる。霊子はそう確信して、奥の手を使用してしまった。
ストックした魔法を総動員すればよかったと思うかもしれないが、実はあと少しでストックがなくなりかけていたのだ。いくら結界魔法に長けた彼女といえど、大量の魔法をいつでも発動できる状態で封じておくのは難しいし、暴発した際のリスクも高まる。だから、適度な威力の魔法を適切な量封じておくのが精一杯だったのだ。
(けど、何よりひどいのは……茶々丸の存在を忘れていたこと)
少なくとも、夕映を操っていた際にはまだいたことを覚えている。恐らく、夕映が支配から逃れた辺りの前後にいなくなったのだろう。科学に関しては詳しくないとはいえ、自慢の結界魔法を破られるはずがないという慢心があったのだろう。だが、いくらなんでも彼女を意識の外においてしまうなど普通ではありえない。
(……私は、動揺していたとでもいうの……?)
夕映が支配から抜け、自分へと拳を振りかぶってきたことに。そんなはずはないと否定しようとするが、己の脳髄は状況やタイミングを鑑みてそれが正しいと結論づけている。己を己たらしめ、最も信頼する脳髄が、感情的な自分を否定してくるのだ。
(……どうでもいいことね。直接的な敗因というわけではない)
戦いの趨勢を大きく変えた要因とはいえ、決定的な敗因というわけではない。本当の敗因は。
(……私は、侮りすぎた)
修学旅行以前の戦力分析で罠を張り、戦いに臨んだ。裏切るはずがないと高をくくり、夕映に貴重な魔力を与えて動かした。障壁の硬度も、奥の手を発動したタイミングも最悪であった。そもそも、弟子とはいえ被験体である夕映にあれほど魔法を学ばせる必要もなかった。
「……手ひどく、やられてしまいましたな」
そう言うロイフェもよく見れば、普段の彼とは違い纏っているぼろ布は刀傷と思しき切れ込みが多数入っており、いつも以上にボロボロな姿であった。特に、肋骨部分は半分ほどを失っており、袈裟懸けに斬撃を受けたことが伺えた。体の殆どが骨である彼にとっては、相当な重傷である。
大悪魔であるロイフェは、並みの攻撃ではびくともしない。それこそ、退魔の力でさえ弱いものは簡単に跳ね返してしまう程だ。恐らくこの傷は、あの神鳴流剣士にやられたのだろう。相当な退魔の力をぶつけられたらしい。
「……負けたのね、私たちは」
「左様ですな。……実に、貴女らしくない結末だ」
「……まったくね」
今回の実験は、非常に急ピッチで進められた。実行方法が分かって素早く準備を進めていき、夕映が帰ってきてすぐに実行に移した。いくら長年研究していた内容が前進するといっても、明らかに性急が過ぎた。
「いつもの貴女であれば、研究の進歩には純粋な喜びだけがあふれていた。しかし、今回はまるで何かを振り払おうとするかのように鬼気迫るものが静かに見え隠れしておりました」
「…………」
「無粋なおせっかいかもしれませぬ。しかし、あえて言わせてもらいましょう。我が主よ、貴女は気づいておられたのではないですか?」
何に、どんなことに気づいていたのかと霊子は考える。いや、初めから答えの出ていることなど、考えたところで意味のない話であった。
「……下らないわ。既に捨てたものに固執するなんて、私の在り方が許さない」
「己の心を裏切ってでも、ですか?」
「愚問ね。私を私たらしめるのは、この頭脳以外ありえない。怪物としての己が、正しく己の本質なのだから」
ふらつきながらも、霊子は立ち上がり砂埃を払い落とす。その瞳には、いつものような冷徹さが呼び戻されていた。
「今回は事を急き過ぎたわ。この反省を、次回に活かしていくべきね」
彼らに敗北した事実は、素直に受け止めよう。だが、それを繰り返すのは愚か者のすることである。機会はまだある、ならば次に活かしてしかるべきだ。
彼女がそんな風に、次の実験についての思いを巡らせていた時であった。
「へぇ、次があるとでも思ってるの?」
「っ!?」
それは、本来なら聞こえるはずのない人物の声。動けないはずだと、縛りつけていたはずであると考えていた者の声。
「ま、手酷くやられたみたいだけど。自業自得ね」
「……そうなるように誘導した貴女には言われたくはないわ、アスナ」
『
「ごきげんよう。よくもまあ色々とやらかしてくれたわね」
「……私は自分の権利を行使しただけよ」
「組織を裏切ってまで実行した実験の結果がこれじゃ、ざまあないわね」
そう言って、アスナはからからと笑う。だが、霊子はそれが実は表面的なものでしかないと長年の付き合いから理解している。あれは、内心で相当に荒れ狂っていると。
(……最悪のタイミングだわ)
なぜ、いるはずのない彼女が目の前にいるのか、それは今どうでもいいことだ。問題なのは、彼女がここにいるという純然たる事実そのもの。重傷を負い、魔力もほぼないに等しい状態で、裏切った組織でもトップに近い存在がいる。非常にまずい状況だった。
仮面を被り、素顔を隠してはいるが、逆に言えば虚像を脱ぎ捨てているということ。神楽坂アスナという仮面を脱ぎ、アスナ・ウェスペリーナ・テオタナシア・エンテオフュシアとしてそこにいるのだ。
(……つまり、彼女は
アスナの組織での立ち位置は少し特殊だ。彼女は組織の長であるエヴァンジェリン直属の配下であり、一切の部下を持たない。他の幹部クラスのように何らかの任務に就くことも殆どない。
彼女の仕事は、他の幹部らを見張る仕事、いわゆる監査の役割なのである。組織に不利益を齎したり、裏切り行為を働いた者の抹殺を、彼女はエヴァンジェリンから一任されているのだ。つまり、今彼女は霊子に処分を下すためにここにきているのである。
「……私を殺す気? 契約の件は、貴女にも及んでるはずだけど」
幹部の一人とはいえ、霊子は正確には外部協力者の扱いだ。これはエヴァンジェリンに組織へと勧誘された際に結んだ契約によって成り立っており、エヴァンジェリンの権限によって例外的に干渉されないのだ。
そもそも、エヴァンジェリンが特例の処遇を与えてまで組織への組み込みを狙った事自体、本来なら場ありえないこと。それだけ、霊子はその実力を買われていたのである。ならば、いくら監査であろうとも、エヴァンジェリン直属の部下であるアスナでは彼女に手出しはできないはず。
「生憎だけど、すでに契約の範囲外よ。貴女はすでに実験を終えているわ」
(ちっ、はぐらかすのは無理か)
しかし、契約の内容は、あくまでも彼女が事を起こしている間にのみ有効なもの。これは霊子も了承している。ゆえに、既に実験を終えてしまっている今なら、アスナは動けるのだ。
「実験が終われば、私が動くことぐらい想定してたでしょうに。てっきり私に悟られないルートで逃げ道を確保してるかと思って、早めに潜入してたのに」
「……今回が、私にとってこの世界で最後の実験のつもりだったからよ」
彼女が目指した世界の裏側、死の世界。そこに到達するならば、恐らくこの世界にとどまることはできないだろうと彼女は踏んでいた。ならば退路など初めから用意する必要はない、そう考えて彼女は実験の準備に注力した。
「それに、失敗することを前提として逃げ道を用意するなんて、私の脳髄の矜持が許さないわ」
絶大な信頼と自信を持つ、己の頭脳。盤石なる手を是とする彼女が逃げ道を用意していなかったもう一つの理由がそれだ。なんてことはない、彼女もそれなりのプライドがあるというだけ。自身の脳髄が失敗することを信じるなど、彼女の生き方を否定するようなものなのだ。
「そういうところも、私は尊敬できると思ってたんだけどねぇ……」
「なら、それに免じて逃がしてくれるかしら?」
「……最初から答えが分かってるのに、それでも聞くのね」
「生憎、プライドはあっても生き汚いのよ」
そう言うと、ロイフェに目配せをして戦闘態勢に入らせる。それを見たアスナも、殺気を解放して叩きつけてくる。アスナからすれば、敬愛する人物のメンツを潰された格好なのだ、ここで逃がすつもりは絶対にない。
(魔力は殆ど空、おまけに魔法そのものが通用しない存在が相手……勝ち目はほぼゼロね……)
魔法使いタイプである霊子は、後衛で大火力を発揮して戦うのが定石だ。しかし、今は前衛のロイフェがボロボロなうえ、そもそも最大の火力源である魔法がアスナには通用しない。背後には通路があるが、狭い上に一本道。これでは逃げてもすぐに追いつかれてしまう。どうシミュレーションしてみても、生き延びられるヴィジョンがなかった。
(ここが年貢の納め時、なのかしらね……)
生への渇望を捨てたわけではない。しかし目の前の状況から推測し、彼女の脳髄が導き出した解答は、死以外にありえないというもの。
【悪かったわね、ロイフェ。こんな下らない最後になってしまうなんて】
ここまで付き従ってくれた従僕に、念話で謝罪の言葉を零す。
【……どのような結末も、吾輩は覚悟しておりました。あの日、アメリカの夜。吾輩は
己の身命を賭して付き従うと誓ったのですから】
薄暗い路地裏、その片隅で結んだ契約は、ロイフェにとってかけがえのないもの。時代に取り残され、空しく暴れるだけの己との決別を決定づけた、怪物との出会い。どうしようもなく欲望に忠実で、人間離れしていて。しかしどこか人間臭さを感じさせる主人。
【主よ、英知を極め知を貪る我が主人よ。貴女はただこう命じればいい、私が生き残るために命を賭して時間を稼げ、と】
この身はただ主人へと捧げるためにこそある、だから謝罪の言葉など言ってくれるな。彼は言外にそう言っているのだ。冷酷にして無情、目的のためならば手段を選ばない。それが彼の主人であり、それを承知でロイフェは付き従っているのだから。
【……フッ。そうね、諦めなど私らしくないわ。泥をすすり、這いつくばってでも生きていくことこそ、私には相応しい】
痛む腹から血が流れ出るのも気にせず、ゆっくりと立ち上がる。抵抗するだけ無駄、ならば全力を以て逃げ切ればいいだけだ。
「
「承った」
命令を聞き入れた大悪魔は、大鎌を振り上げながら突貫する。眼前の敵を打ち払わんと、己の体の一部が零れ落ちることもいとわずに。
命じた怪物は、己の二本の足で走り出す。狡く生きながらえんと、勇猛なる悪魔に背を向けて。
「『
今までの英語による呪文と違い、ラテン語による宣言。元々、魔法の扱いが苦手であるロイフェは、近年生み出され、威力は落ちるがその分扱いやすい英語詠唱を主としている。ラテン語を用いたのは、この魔法だけは威力が必要なため。
「へぇ……考えたわね」
大鎌の背から、闇が迸る。アスナには魔法が通じない、よって影による攻撃・捕縛も無意味。ならば、それを全て補助に回し、全力で大鎌の物理攻撃を通す。持てる全ての魔力を影へと変じさせ、それを噴射させることで威力とスピードを底上げする。
「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!」
地の底から聞こえるような、低く重厚な雄叫び。それと共に闇もまたその量を増していく。過剰な魔力を注いだことによって、最早濁流のごとく闇が吹き飛沫く。
(勝てぬは必定、なれど腕の一本は頂くぞ……!)
――魔法が苦手なロイフェは、悪魔の中で落ちこぼれ扱いであった。
元々種族的に強い悪魔は自らを鍛えること自体愚かしいと言われる中、彼は落ちこぼれからの脱却のために自らを鍛えた。
気づけば、大悪魔として居並ぶ上位悪魔と肩を並べるに至った。それでも、爵位を得ることはできなかった。魔法で願いを叶えることもできぬ、ただ強いだけの悪魔など、契約に呼び出す人間もろくにいなかった。
『何故、何故俺は認めてもらえない……!』
理解者はいた。数少ない人間の契約者は、その強さを認め敬意を払ってくれた。ヘルマンやフランツのような、気の許せる友人もいた。しかし、胸の内の蟠りは消えなかった。魔法を扱えるようにと、必死になって努力を重ねた。英語詠唱にも手を出し、以前よりも扱いがうまくなった。
『で、それがどうしたって?』
認められることは、ついぞなかった。悪魔のくせに人間の技術に縋った愚か者だと、後ろ指を差されるようになっただけ。荒れに荒れたロイフェは、魔法使いばかりを狙った辻斬り行為を行うようになった。それは、魔法が使えない自身のコンプレックスの裏返しであり、殺す相手が増えれば増えるだけ、惨めなものであった。
『へぇ、中々活きがいいじゃない』
ある日、一人の魔女と出会った。彼女は、怪物であった。その卓越した魔法は、魔法に長ける悪魔すら嫉妬するほどに見事であり、彼はボロ雑巾のようにされて敗北した。
『貴方、私の下僕になりなさいな』
曰く。魔法が使えるだけの無能などいらない。自分より劣る者など邪魔なだけ。だから戦闘能力に特化した悪魔を探していたらしい。確かに、ロイフェであれば戦闘能力は申し分ないだろう。だが、ロイフェはコンプレックスと敗北感から拒否しようとしていた。
『フフ、いいわね。そういう安っぽいプライド、嫌いじゃないわ』
魔女は条件を出してきた。自分という、最高の魔法の教材を身近で見ていれば、あるいは魔法が上達するかもしれないと。希望を失い、荒れ果てた彼にとってはあまりにも甘美な誘惑。欲に忠実な彼は、ついに彼女へ膝を折った。
――『何度言ったら分かるの。術の構成が甘すぎるわ』
『言われなくとも分かっている! でも上手くいかないんだ!』――
――『吾輩? なんかカビの生えたような喋りね』
『仮にもあんたの従僕なんだ。もっと威厳があったほうがいいだろう?』――
――『魔法は使えないけど、紅茶を淹れるのは本当に上手いわね貴方』
『はは、我輩の数少ない特技です故。お気に召して頂けたのであればこれ程嬉しいことはありませぬ』――
やがて、幾年もする内に彼の心は変化していった。今まで自分を馬鹿にしてきた悪魔など歯牙にもかけぬ主人の御業と、それを成すために彼が必要とされることへの喜び。気づけば、彼の心には妬みや嫉みは消え失せ、一つの誇りが形成されていた。
『俺は、吾輩は魔法はてんで使えぬ。だが、最高の魔女の前では誰とてそれは同じ。むしろ、その役に立てる者こそ希少であり、俺はそれで在り続けられた。吾輩はそれを誇らしく思う』
数十年。悪魔にとっては短い年月が、落ちこぼれの悪魔を磨き上げた――。
「主人への忠義……見事なものね、見習いたいぐらいだわ」
「ばか、な……!?」
だが。それでもなお、届かぬ領域というのは存在する。
「悪くはなかったわよ、攻撃のスピードもタイミングも最高のものだったと思う」
渾身の一撃は、アスナの差し出した人差し指で止まっていた。彼の全膂力を以って振りかざし、なけなしの魔法を最大まで高めて放った攻撃が、まるで綿毛にでも触れているかのような感覚で防がれた。
「それでも、私には決して届かない」
彼女の言葉と同時、胸を灼熱が襲う。見れば、いつの間にか肋骨を砕かれ、その奥にある暗闇へアスナの腕が伸びていた。
「ぐ、む……」
胸から腕が引き抜かれると、そこから一気に魔力が吹き出していく。力が、五体から抜けていく感覚があった。ヨロヨロと、千鳥足で後退していく。うまく踏ん張ることさえできない。
「ハ、ハハ……流石に『黄昏の姫御子』、吾輩でさえ児戯に劣るか」
「ここ最近相手した中だと、近衛詠春に次ぐと思うわよ、むしろ誇りなさいな」
弱々しいながら、なおも膝をつくことのないロイフェ。だが、少しずつ彼の体が崩壊していくのが見て取れる。不死身であるはずの彼が何故こんなザマになっているのか。それは、アスナの能力が大きく関係する。
(『
ロイフェのような化生の存在は、破魔の力と呼ばれる類に滅法弱い。それは、彼ら自体が半魔法生命体とも呼べるような存在であるからで、存在の維持に魔力を必要とするからだ。故に、その構成を解いてしまう力には成すすべがなく、送り返されてしまう。強力な上位悪魔や大妖怪であれば抗うこともできるが、天敵であることに変わりない。
そして、アスナの『魔法無効化』能力は最悪とも言える相性だ。普通に使われても一撃で魔界へと送り返される。そして、より巧みに扱うことができれば悪魔そのものを抹殺することも可能だ。
『……魔法はプラスの力同士による反発によって引き起こされる現象。そして『魔法無効化』という力を内部で循環させれば、その反発によって力の消滅現象が起こる。そういうことよ』
以前、彼の主人はそんなことを言っていた。魔力という通常の法則を超越した力を、同等の力によって抑制する負のエネルギー。そんなものを、半魔法生命体が食らえばどうなるか、想像に難くない。
「……どきなさい」
シュウシュウと音を立て、骨の体が崩壊していくロイフェは、なおもその巨躯を以って通路の入口を塞いでいる。
「どけぬよ」
短く、しかし力強い拒否の言葉。このまま待てばロイフェは消滅する。それこそ、跡形もなく無残に、だ。だが、それでは霊子に逃げられてしまう。
「……はぁ。加減したのが間違いだったか」
彼が退くことは決してないだろう。ならば、やることは一つ。障害を排除して追いかけるだけだ。
「ロイフェ、あんたの淹れた紅茶……嫌いじゃなかったわ」
「そう、か。それは、嬉しい、な」
渾身の力を込め、アスナはロイフェの側頭部へと上段蹴りを放つ。それをゆっくりとした流れの中で見つめながら、ロイフェは心のなかで独白した。
(主よ……永き
一瞬の鈍い音が、虚しく虚空へと掻き消えた。
「はぁ、はぁ……」
霊子は、走り続けていた。普段から肉体労働など殆どしない彼女は、体力などないに等しい。心臓はバクバクと早鳴りを続け、足も既に限界に近かった。それでも、ただひたすらに生への執着が彼女を突き動かし、その足を進めさせていた。
「う、ぐ……!」
しかし、ついに足が動かなくなり。前のめりに転んでしまう。運の悪いことに体を打ってしまった衝撃から、応急処置をしただけであった腹の傷が開き、激痛が走った。
「……ぁ、……!」
声にならないほどの、鋭い痛み。まめができ、先程まで続いていた足の痛みさえ掻き消えてしまう。時間にして5分にも満たないだろうその間に、彼女は火箸を押し付けられたかのような灼熱の痛みに苛まれ続けた。
「ハッ……ハァッ……」
ようやく痛みが治まり、仰向けになって深呼吸する。相変わらず気分は最悪で、足の痛みがぶり返してきたが、関係ないとばかりに彼女はうつ伏せへと体勢を変える。そしてそのまま起き上がり、歩き出そうとしたが。
突如、背中を強い力で押され再び地面を舐めることとなった。
「っ~~~~~~!」
再び腹を打ち、先ほどのものを上回る苦痛に、霊子は苦悶に顔を歪める。
「ようやく追いついたわ」
背後から聞こえてきた声に、霊子は内心やはりか、と思った。
「もう、追いついたのね……アスナ」
「ええ。あんたを逃がす訳にはいかないし」
背中を踏みつけたまま、アスナが返答する。彼女がここにいるということは、既にロイフェは。
「ぐっ!?」
「まったくさあ、本当に手間をかけてくれさせてくれたわね」
苛立ちを隠そうともせず、アスナは彼女の背中を再度踏みつけた。開いた傷口から、血が滲み出ていく。
「ほんっ、とにっ! あの人の! 期待を! 裏切ってくれちゃってさあっ!」
「がっ! ぐぎっ!?」
何度も、何度も。力任せに踏みつける。あえて魔力や気による強化はせず、純粋な筋力によって傷めつけ続ける。まるで壊れたおもちゃのように、アスナが踏めば霊子は苦しみの声を上げるを繰り返す。
「泣けっ! 叫べっ! あの人に詫びろッ!」
狂的に、暴力的に。罵詈雑言を浴びせ、口汚く罵り続ける。恐ろしいまでの変貌、それはアスナの内に隠され、普段は絶対に見せないものであった。
「はぁっ、はぁっ……これ以上時間をかけるのもまずいか」
一瞬で平静へと戻り、冷静に状況を見極める。意識の切り替えや感情のコントロールもまた、彼女にとっては朝飯前のこと。既に魔法先生らが突入している上、霊子を追ってネギたちがここへたどり着く可能性もある。これ以上余計な時間の消耗は避けるべきだ。
「まだ気分は晴れないけど、仕方ない。さっさと終わらせるか」
「そ、う……。……や、る……な、ら……はや、く、なさい、な……」
「……そういうセリフを言うなら、せめて逃げようとするのをやめなさいよ」
潔いセリフを言いつつも、這ってでも逃げようとする霊子にいっそ清々しさすら感じるアスナ。これが、生への執着からくる見苦しさであれば気分よく殺せるのだが。
「はぁ……なお知的欲求を満たすためだけに生き長らえんとする、か」
「ぶざ、ま……だ、と……おも、うで、しょう、ね……け、ど、わたし、に、は……こ、の……いき、か、たし、か……ない、の、よ……」
「……いえ、笑ったりはしないわ。私は改めて、あんたに敬意さえ抱いてる」
折れず、曲がらず。決して自らの存在理由を否定せず、ただひたすらに知を欲する。そんな生き方しか知らない彼女に、アスナは少しだけ敬意と、哀れみを覚えた。
「……い、ま、さら……ころ、す、のが……おし、く、なっ、た……?」
「それはないわね。私にとってマスターは全てにおいて優先されるわ、殺す以外の選択肢ははじめから存在しない」
「そ、う……」
「けどね、こうも思うのよ。あんたがこんな馬鹿をやらなければ、私はあんたとまだ友人でいられたのに……ってね」
感傷的になったわけでも、同情をしたわけでもない。そもそも、彼女が心をさらけ出せるのはエヴァンジェリンと鈴音、チャチャゼロだけだ。それでも、霊子との交友は決して嫌ではなかったし、ロイフェのことも気に入っていた。
結局、正しく交わることは決してありえない間柄とはいえ。この奇妙な関係に言い知れぬ何かを覚えていたのは確かだ。それは、霊子も同じであった。
「じゃあね、あんたのことは……まあ数年ぐらいなら覚えててあげるわ」
「どう、せなら……いっしょう、おぼえて、なさい、な……」
「気が向いたらね」
グシャリと、水音とともに何かが潰れる音がした。あとに残ったのは、静寂だけ。
『全く……余計な仕事ばかりが増えるものだ』
銀色の鈍い光を放つ太陽が、血で満ち満ちた地平線を照らす。その中に一人、佇む者がいた。
『世界の理を捻じ曲げる寸前まで行きおって、危うく死が世界に溢れ出すところだったぞ』
『…………』
そしてもう一人。少女がそこにいた。彼女は眠ったままなのか、血の海に浮かんだままピクリとも動かない。
『しかし、結果的には収穫もあった。あの少女はここへたどり着くことすらなかったが、
にやりと、その何者かは笑みを浮かべる。
『しかしまあ、因果応報というか……死に近づきすぎたせいでここへ流れ着いてしまうとは』
目の前の少女は、長い時を生きてきたが、余りにも死が身近すぎた。そして彼女がこの世界への門を無理矢理に開いたことで、より一層距離が縮まった。彼女が素体として選んだ者は死の残滓を宿すにとどまった。むしろ、彼女のほうがこの世界へ来やすかったのだ。
『……残念だが、此奴も
辿り着いてはいるが、あくまで死が近かったからというだけの話。ここで原型を保っていられるのも、門がまだ開いていたことによるものだ。直接ここへと至ったから、固定化されたまま流れ着いてきたのだろう。
『やはり、あの半人半魔でなければ
そんなことを独りごちていると、少女がゆっくりと沈んでいった。
『ふむ。残った残滓を使って彼女一人分の門を開き、魂を呼び戻したか』
皮肉なものだと、嗤う。門を開きここへと至るために贄とした者によってここから戻ることができたのだから。
『向こうの事情など知ったことではないが……次はこんな面倒を起こさんで貰いたいものだ』
そう言って、何者かも血の海へと静かに沈んでいった。
『……既に殺された後、ですか』
『まだ完全に死にきってはいないようじゃがな。結界によって阻まれていたとはいえ、こうも後手に回らされるとはのう』
『仕方ありませんよ。結果的に彼らが無事であったのであれば十分すぎるぐらいでしょう』
『そうじゃのう……また、彼らに助けられる形となってしまったわい』
『それで、彼女をどうするおつもりで?』
『手の施しようがないでな、このまま逝かせてやるとしよう。まあ悪党とはいえ魔法世界の発展に寄与した功績もあるし、手厚く葬って……ぬおっ!?』
『? どうしました?』
『こ、これっ! 危険じゃから離れて……ああすまん、彼らの一人が急に彼女の遺骸にすがりついて……』
『もしや、それが例の……?』
『うむ、連れ去られた生徒なのじゃが……ぬ?』
『今度はどうしましたか?』
『おかしい……さっきまでほぼ死んでおったはずなのに……顔に生気が……』
『ほぅ……その女生徒は回復術師なのですか?』
『いや、そもそも回復魔法で治癒できぬレベルだったはずじゃから、例えそうだったとしても息を吹き返すなぞ有り得んはずなんじゃが……』
『なんと、では黄泉還りを果たしたと……?』
『仮にそうだとすれば間違いなく禁術じゃな。魔女が教えたのやも知れぬが……彼女に扱えるような技ではあるまい』
『フフ、興味が尽きないところですが……すみません、そろそろまた休まねばならないようです』
『すまんのう、わざわざ消耗させてしまうようなことをしてもうて』
『かまいません、どうせ外に出られない以上少しでも情報は欲しいですから』
『あと、どれぐらいかかりそうじゃ?』
『今回の消耗は誤差の範囲ですから、概ねもうすぐでしょうか』
『そうか。では、その時はよろしく頼むぞ』
『ええ。初めからそのつもりでしたから、むしろ渡りに船ですよ』
『そう言ってもらえると有り難い。ではまた』
『ええ、失礼します』
「…………」
二度と開かれることはないはずだった瞼が開く。最初に見えたのは、やや年季の入ったコンクリートの天井。次いで顔を少しだけ動かしてみると、そこには夕映の姿があった。
窓の外は雨らしく、水滴がガラス戸を叩いている。
「……起きろバカ弟子」
「ふぎゃっ!?」
寝息を立てている夕映の姿にイラっときたらしく、彼女の広いデコを指先で弾く。それによって、夕映は奇妙な悲鳴を漏らした。
「目、目が覚めたです、か」
「理解し難いことにね」
寝起きであるためか、或いは死に損なったことからか。霊子は非常に機嫌が悪い様子だ。
「私は確かに死んだはずよ、なのに何故私はこうして生きているのかしら?」
肉体的には完全に死に、魂がかろうじて精神とつながっていた状態だったはずだ。それは死してなお暫くの間稼働していた脳細胞が告げてきているため間違いないだろう。我ながら、本当に化け物じみていると思いつつ、目の前の人物を問い詰める。
「……私も、よくは分からないです。けど、地下で戦った時に私から溢れ出ていた未知の力、それに引っ張られるように貴女へと近寄ってたです」
すると、呼吸は止まり心臓も停止していたはずの体に生気が戻り、傷口がゆっくりと再生していったらしい。
(……死の世界の力が、死に向かう私と共鳴反応を起こした……?)
だとするならば、死の世界にゆくために夕映を利用したはずが、結果的に夕映に残されていた死の世界の力の残滓によって救われたということになる。なんという皮肉であろうか。
「……貴女、私を見殺しにすればよかったのに」
自分の欲を満たすためだけに友情を引き裂こうと画策し、死の世界へ強制的に繋げるための生け贄にしようとした。殺されても文句は言えないということは、十分すぎるほど承知している。
「……恨みつらみは、あの戦いでもう十分に吐き出したつもりです」
「お優しいことね、私なら念には念を入れて八つ裂きにするけど」
既に恨みの感情が薄まっていると言われ、霊子は鼻を鳴らして嘲笑する。喉元をすぎればなんとやらとは言うが、あれをその程度で済ませる感覚は霊子には理解しがたかった。
「今ならまだ、殺せると思うわよ?」
目覚めたばかりでほぼ魔力も体力もすっからかんな霊子は、挑発的に夕映へと投げかける。まるで、死にたがっているかのように。
「……貴女らしくないです」
「そうね、自分の罪過から目を背け、断罪されるために死を望むかのような真似、普段の私なら絶対にすることはないわ」
「なら、なんで……」
「……疲れてしまったのよ。一度死を受け入れた後にこんな肩透かしを食らっては、拍子抜けもいいところ。私の脳髄は相変わらず知を欲してるけど……私の心はもう、限界だわ」
驚きの言葉に、夕映は言葉を詰まらせる。あれほどまでに圧倒的な実力差、完全さを感じていた存在が、初めて弱音を漏らした。なんてことはない、結局は霊子も悩み続けてきたのだ。異質すぎる己を肯定しながら、ただひたすらに前へ前へ。折れてしまえばもう、二度と立ち直ることなどできないと心のなかで理解しながらここまできてしまった。
「……もう、私は自分自身に追いつけなくなり始めている。いずれ、私は私自身に食い殺されてしまうでしょうね。だから死の世界を無意識的に望んだのかもしれないわ」
儚げに、薄く笑みを浮かべて自嘲する霊子を見て、夕映は。
「巫山戯るなです……」
怒りに歯が軋むほどに噛み締め、その鋭い視線で霊子を射抜く。
「貴女は言った! 私を気まぐれで助けたと! そんな気まぐれから始まったことに振り回された振りをして全てを引っ掻き回し、あまつさえ死にたい? 巫山戯るのも大概にするです!」
普段殆ど口答えなどしてこなかった弟子が、突如怒りを顕にしてきたことに面食らう霊子。こんな風に霊子へ恐れもなく意見してくるのは、弟子にとってまだ間もなかった頃以来か。
「貴女はこうも言ってました! 理由を求めすぎるのはよくない、物事を探求する上での障害になりかねないと! 貴女はいつも欲求に忠実で、計算高くてそのくせ理由なんてものは二の次だった!」
そう言って、涙を流す夕映。よく見れば、彼女の目は泣き腫らしたのか瞼がやや腫れぼったく、目が充血している。
「そんな貴女だから……私は憧れたんです……魔法だけじゃない、貴女そのものに……!」
思考を止めず、知を貪り、己に妥協を許さない生き方。それはなんと難しく、しかし美しい生き様だろうか。己の生きる意味を求めていた夕映には、それがとても眩しく見えたのだ。そんな彼女に追いつきたくて、必死に魔法を覚えた。与えられた恐怖で忘れてしまっていたが、それが彼女の、魔法使いとしての原点であった。
「私は……私は貴女が妬ましい……! 意気地のない私にはできない、自分を曲げない生き方。それが羨ましくて……とてもかっこよくて……私は、貴女を目標にした……」
今も昔も変わらない、恥ずかしいほど単純な理由。死に損なった自分をつなぎ留め、やがてはのどかとの出会いを生み、生きることの尊さを知った。
「だから、死にたいなんて言わないで……私のちっぽけな願いを、壊さないで……」
のどかとの友情も、霊子への憧れも。彼女はどちらも捨てきれなかった。どちらも欲しい、そんなちっぽけながら欲深い願い。人間らしい、浅ましくも慎ましやかな願い。
「…………」
涙で濡れた瞳を、どこまでも無機質な瞳が見つめ返す。静寂の中、お互いを知らなさすぎたこの師弟はその瞳の奥底に眠るものを、無意識の内に見出そうとしているのかもしれない。
「……はぁ。何もかも理解した気になっていたけど……自分の弟子のことすら分からないなんてとんだ『奈落の魔女』だわ」
ため息を一つ。あれやこれやと自分に理由をつけて、いつの間にか自分の目が曇ってしまったことに、霊子はようやく気づいた。
「理由を求めすぎるのはよくない、物事を探求する上での障害になりかねない、か。私の基本的な行動指針だったはずなのに……まさか弟子にそれを再認識させられるとはね」
そう呟くと、彼女は夕映の頭にゆっくりと手を置いて。
「私が目標? せめて結界魔法をきちんと修めてから言いなさいなバカ弟子」
「いだだだだだだだだだ!?」
そのままアイアンクローを食らわせた。非力なはずの霊子のどこからこんな力が出ているのかと思いつつ、手足をばたつかせ、別の意味で涙目になる夕映。
「まあ、でも少しぐらいなら認めてやらんでもない、か」
「えっ?」
「半人前ぐらいにはなったてことよ」
「は、半人前ですか」
「魔法舐めんじゃないわよ、貴女に教えてないことはまだまだある。だから……」
掴んでいた手を、今度は撫でるように優しく置き。柔らかく微笑んでいった。
「魔法、もう少し学んでみる?」
「っ……! はいっ!」
泣き笑いする夕映を見て、霊子はもう一度、生き直してみるのも悪くはない。そんなふうに感じていた。
雨は、いつの間にか止んでいた。