――眠い。
油断をすれば落ちてしまいそうな意識を根性で支えながら、箒は黒板をじっと見つめていた。
結局、寮の自室に戻ってくるまで誰ともすれ違うことはなかった。それどころか、施錠されている筈の玄関は開けっ放し、すぐ脇の宿直室にも夜間駐在の警備員の姿がないという状況だったのだから驚きだ。寮内に部外者が侵入してくるとは考えていないのだろうか。
唯織の言うとおり、確かに誰にも姿を見られることはなかった。だが、あんな異常な状況が都合よく広がっていたとは到底思えない。まるで意図的にそうなったかのような、違和感の臭う光景だった。
規則――彼女の言う『それ』が及ぼした影響のひとつなのか。
(考えれば考えるほどわからん……)
昨晩だけで嫌というほど異常な出来事を経験して気持ちが昂っていたのか、彼女は帰ってきてから一睡もできていなかった。その疲れが今になって押し寄せてきているのだが、あいにくと今は授業中だ。
不良生徒の烙印を押されることだけは何としても避けたい箒は、いつ飛ぶかわからない危うい意識を保つため、ひとまず板書を写すことに集中力の大半を割いていた。
もっとも、肝心の集中力が思考に遮られているせいで、書き写した内容は理解不能な怪文書と化している。後々目を通したら書いた本人でさえ首を傾げることは間違いないだろう。
「ではこの問題を――はい、それじゃあオルコットさんお願いします」
真っ先に上がった手を見て当てたのだろう。毛先の渦巻いた金髪が箒の傍を過ぎ去り教壇に向かっていく。
あの時自分を襲ってきたのは、本当にセシリア・オルコットだったのだろうか。ふとそんな疑念が箒の頭に浮かんだ。ひょっとすると、彼女に変装した別の誰かだったのではないだろうか。
そう考えてしまうほど、こうして優雅に振る舞う少女と昨晩の『怪物』には隔たりが感じられた。よりにもよってこの少女が自分のことを付け狙う存在の筈がない。彼女が嬉々として人を殺傷しようとする人間のわけがないと、確かな筈の記憶を否定する。
黒板に複雑な数式の解法をスラスラと記述していくセシリア。その後姿を目で追いながら、箒は小さくため息を吐いた。
「正解です。じゃあどうやって解いたのか、皆さんに説明してください」
「わかりました。まずこの変数は――」
明瞭な口調で解説する彼女を凝視しながらも、箒の意識はどこか別の場所を向いていた。
◆
「――條ノ之さん。ちょっとよろしくて?」
午前の授業が終わり机に突っ伏していた箒に横合いから声がかかる。
が、返事はない。代わりに聞こえてくるのはかすかな寝息だった。
「篠ノ之さん。こんなところで居眠りはいけませんわ。さあ、起きてください」
「んむぅ……。誰だ、安眠妨害は許さん……」
ゆっさゆっさと左右に振られ、彼女は眼をこすりつつ起き上がった。口端から垂れそうになっている涎を拭い、通路側に視線を向ける。
「少しばかり付き合っていただけますか?」
再び声を聞いて、箒はようやくセシリア・オルコットの青い双眸が見つめていることに気が付いた。一瞬で眠気が吹き飛び、とてつもない危機感が体を駆け巡る。
「セシリア・オルコット……!」
「あら、どうしました? 別に獲って食ったりはしませんわ」
身構える彼女にやさしく微笑み返すセシリア。クラスメイト達が遠巻きに眺めている中で頑なな態度を貫くわけにもいかず、箒は誘いに応じて席を立った。
2人の姿を目で追う唯織に気付くことなく、誘われるままに教室を出る――。
金属のフェンスで四方を覆われた屋上。特別に用もなければ誰も立ち入らないであろう場所で、セシリアと箒は互いに向き合う。
「それで、お前の用事は何だ」
問いかける箒。その足元に細長い物体がふたつ投げ落とされた。床に当たって軽やかな音を立てる『それ』に彼女は目を向ける。
刃の大部分を断ち切られ折れてしまった木刀。箒の私物であり、昨晩無くした筈のものがそこにあった。
「お返ししますわ。こうなってしまってはもう使い物にもならないでしょうけれど、手元にあった方が安心するのではなくて?」
「……やはりお前だったのか」
「やはりも何も、セシリア・オルコットはわたくしだけですわ。それとも――昨晩のことはあなた自身の錯覚だったとでも言うつもりですの?」
そう言ってセシリアは微笑んだ。浮かべているのは優等生としての温和な表情とほど遠い、嗜虐の表情。あの夜と同じ『化け物』の本性を露わにしながら、彼女は箒へと問いを投げかけた。
「安心してくださいな。わたくしの目的はあくまで交渉ですから」
「交渉、だと?」
「まさか昨晩の続きを性懲りもなく始めるとは思っていないでしょう」
呆れたように、あるいは小馬鹿にしたように彼女が肩をすくめる。
「『規則を外れた私闘は禁止』――同じく『権限』を持つあなたなら、これも既に存じている筈ですけれど。何れにせよ、わたくしに敵意はありませんわ」
「信用できるものか」
箒は彼女を睨み付けた。
言葉の通りに無防備な姿勢を取っているセシリアだが、その気になればいつでも
故に、油断は禁物。肚の見えない商談などもっての外だった。
「お前と話すことなどない」
「どうやら、わたくしの話をまともに取り合うつもりすらないようですわね……」
警戒を解かない相手に愛想を尽かしたのか、セシリアの表情から笑みが消える。彼女は冷ややかな眼差しを箒に向けた。
「平和的かつ速やかに『白騎士』を討ち、あなたを
瞬間、その場に青の怪物が現れる。わずかに見えた異形――『白騎士』をも撃ち落とした超兵器――の姿に、箒の心臓が早鐘を打つ。
こわばった表情の彼女へ向け、
「篠ノ之箒――あなたはわたくしの敵ですわ。腕のひとつでも原形を留めることを祈って今宵を過ごしなさい」
宣戦布告と取るべきか、死刑宣告と受けるべきか――。毅然と言い放ったセシリアはその場を去る。
背後で閉まる扉の音が、置き去りにされた箒にはひときわ大きく響いたように感じられた。
◇
「――束さん、マズいです」
校舎裏の薄暗い一角で、少女は手にした端末へと呼びかける。沈黙したままの相手に、彼女はなおも言葉を続けた。
「ISの『権限』持ちに目を付けられました。このままだと箒が危険に曝されるかもしれません」
返答はない。元々興味の薄い話には反応すらまともに返してこない相手だが、普段ならすぐ飛びついてくる筈の話題にもかかわらず黙しているのはおかしな状況だった。
彼女らしくない態度に少しの苛立ちを滲ませながら、少女は再度呼びかける。
「いいんですか束さん。箒を戦いに巻き込んでも」
『――その点は問題ないよ~』
ようやく返ってきた声はひどく暢気だった。
『遅かれ早かれ箒ちゃんが来ることはわかってたことだし、それで危ないモノと関わり合いになるのも予想できてたことだからね~。いっくんが心配するまでもなく最初からお見通しなのだよ。えっへん』
事態を把握しているのかしていないのかはっきりしない態度で答える相手に、少女――夏村唯織は不安を覚える。
見通しが付いていることまではいい。問題は、
溺愛する妹が対象なら尚のこと、どんな爆弾を仕掛けたか分かったものではない。いつ起爆に至るか分からない悪戯に幾度となく付き合わされてきた彼女は、痛くなってきたこめかみを軽く押さえながらあえて確認を入れた。
「その雰囲気から察するに、一番ダメな選択をしちゃってますよね?」
『失礼だなぁ。私はちゃんと箒ちゃんの役に立つものを用意したんだよ。そして実際役に立たなかったものはない』
堂々と答える背後で工作機械の駆動音がけたたましく唸る。また何か厄介な代物を組み立てているのだと理解した途端、唯織は一段と頭痛がひどくなるように感じた。
『まー、万が一の場合はいっくんがフォローしてあげてよ。せっかく同じ部屋に割り当てたんだし、もっと親密にならないと勿体ないよ~』
「なんとなく察しは付いてましたけど、どこまで介入してるんですか。言うまでもなく犯罪行為ですよ」
端末をネットワークに繋ぐことに底知れない恐怖を覚えながら、唯織はツッコミを入れる。
彼女としては社会規範のなんたるかを心得てほしいと常々思っているのだが、悲しきかな、この超人に世間の道理など通用しないのだった。
ため息を吐く彼女の耳に、條ノ之束の声が響いた。
『――いっくん。今一度、本当の意味で『白騎士』になってくれるかい? 箒ちゃんを守る英雄になってくれるかい?』
「今更水臭いことを言わないでくださいよ、束さん」
珍しく懇願するような彼女の声に、唯織ははっきりと応える。
自信を持って、己の決意を語る。
「――俺は、そのために
『君は本当に大馬鹿だよ』
その言葉に安堵したのか、束はくすりと笑いを溢した。