白。見渡す限りの白。どこを向いても、どこまでも白。辺り一面が真っ白な場所に、私は立っていた。
私の前には一人だけ。先程目を合わせた古明地さんが立っている。
『まず、これだけ先に伝えておきましょう。「私を倒さなければ外に出ることはできません」』
「古明地さん? いったい何を……」
古明地さんは私の問いかけに答えることなく話を進めていく。
『そしてもう一つ。「これは試練です」……私個人としては、是非乗り越えてもらいたいものですが……それは貴女次第となりますね』
では始めましょう、と言い残し、古明地さんは胸の前にある眼に手を添えた。
『憑依「超人・聖白蓮」』
瞬間、彼女の姿が霞んだかと思うと、そこに立っていたのは彼女ではなくなっていた。
古明地さんが立っていた場所に立つのは、まぎれもなく私。私と同じ姿をしている、しかし私ではない誰かだった。
私の姿をした誰かが閉じていた瞼を開くと、その思いはより強くなる。眼球全体の色は人間とは思えない漆黒に染まり、僅かに赤く輝く血管のようなものが浮き出ている。瞳は金色をしていて、瞳孔は猫のように縦に細長く裂けたような形をしていた。
そして『それ』は軽く身体を解すように肩を回し、私を視界に入れる。すると、にたぁり、と言う擬音が似合うようなゆっくりとした速度で口の端を大きく持ち上げ、凄惨な笑みの形を取った。
『アハァ……久シ振リィ……元気ダッタァ?』
「……貴女は……」
『クケケケケケ! ワカッテテ聞クノハドウカト思ウナァ? ……ヒャア!』
「っ!?」
まるで瞬間移動でもしたかのような速度で移動し、私に殴りかかってくる。あれは、私と全く同じ動きで。私と全く同じ強さで。私と全く同じように私に殴りかかってきた。
すぐさまあれと同じように魔法で体を強化して防いだが、腕が軋むのは止められない。ぎしぎしと嫌な音を立てながらも、私は吹き飛ばされないようにその場に立ち続けていた。
『キッハハハッ!マダマダイクヨォ!』
乱雑に振るわれる拳にこちらも拳を合わせる。真正面からの拳のぶつかり合いで衝撃波が発生してお互いの髪を揺らし、さらに激しい動きで髪の揺れは掻き消える。
拳が、蹴りがぶつかり合い、力任せにだけではなく私の知る限りの技術が用いられるようになる。まるで、使い慣れていない物を使い始め、急速にそれに慣れていくように。
「くぅっ……!あなたは、何者なんですか!?」
『私ハ貴女……貴女ハダァレ? 偽善塗レノ救イ人』
「……何が言いたいのです」
『……キハハハ!疑ッタ!疑ッタネェ!?』
突如、相手の拳の威力が私の力を上回った。一瞬にして私は吹き飛び、果てのない空間で空を滑るように飛ぶ。
けれど、少しだけわかった。
考えながらも拳を防ぎ、受け流し、受け止め、打ち落とし、反撃し、弾かれ、打ち払い、食らい、食らわせ、何度もそれを繰り返す。しかし互いに痛みを感じることはなく、代わりに喪失感がこの身を襲う。
───敵は自分自身。しかし、自分でありながら自分ではない。
私の負の感情。死への恐怖。命蓮への後ろめたさ。現在の状況への不安。そう言ったものが目の前に居る『私』に力を与え、私の力を削る。
私が『私』に打撃を加える度に私の力が増し、『私』が私に攻撃を加える度に『私』の力が増すのは、それが私の心の主導権を争っているのを表しているのだろうとわかる。
……けれど、一つだけ初めから私が有利な点がある。ずっと考えることもなく、けれど当たり前の事としてそこにあった事実。
私は、確かに迷っている。不安がある。悩みもするし恐怖もしている。
だけど、私は、これまで一度も───罪無き妖怪達を救ったことを後悔したことだけはない。
『……キヒ?』
「……ああ、こんな簡単なことだったのですね」
いつの間にか力関係は逆転していた。初めに受けた一撃と、私の疑心を得たことによって強化されていた『私』は、今の私よりも弱くなっている。
なんの事はない。彼女は私だ。私が私であるならば、私の行った事の全ては私に回帰する。
私の行動で救われた妖怪がいる。
私の行動で助けられなかった妖怪がいる。
私の行動を称賛するものがいる。
私の行動を否定するものがいる。
私はそれらの行動から生まれる全ての感情を、ただ受け止めればいい。迷いも、恐怖も、不安も、何もかもを受け止め、受け入れ、呑み込んで───抱えたままに進めばいい。
もしもまたこの感情が私を責める時が来たのなら、私は何度でもそれと向き合い、ぶつかり合い、そして受け止め、抱えながら歩き続けることだろう。
だけど、私が今行うべきことはただ一つ。目の前にいる私を、私の手で打ち倒す。私が私を受け入れるために。
拳を作る。ゆっくりと、人差し指から第一、第二関節までを曲げる。次は小指からしっかりと握りこみ、最後に親指で全体を絞める。
そうして作った拳を、構える。もう、彼女は怖くない。彼女の全てを受け入れるため、私はただ全力を拳に込める。
「いざ――――――南無三!」
突き出した私の拳は音を超える。空気の壁を打ち破り、衝撃波をまき散らしながら彼女に向けて進む。
私の拳が彼女の身体に突き刺さった感触。衝撃が全身を打ち砕き、立つことは無いと一瞬にして確信できる威力。それが彼女に当たった拳から伝わり―――
―――私の夢は、覚めたのだった。
■
「まずは『おかえりなさい』と言っておきましょう。よくぞあの試練を超えました。
そして次に『目はしばらく閉じておいた方がいいですよ』と助言しましょう。何しろ二十分以上も眼を開け続けていたのですから、私も貴女も目が乾いて仕方がないはずです。少なくとも私は目を閉じています」
「ご丁寧にありがとうございます」
ぺこり、と頭を下げた彼女は、この二十分ほどでだいぶ変わったように見える。正確な時間は二十一分五十五秒。殆ど二十二分と言っていい時間も眼を開け続けていたのだから、その瞳はからからに乾いてしまっているだろう。
しかし、彼女は精神的に一皮剥けている。不安や焦りはそこにあるまま、しかしまた別の大きな感情に溶け込むように在り方を変えている。今までのように内から自身を傷つけることは無く、ゆらゆらと揺蕩うような在り方に。
「貴女と戯れている間に、異変の内容などはおよそ把握しました。これで私の用事は終わりと言うことになりますね」
「そうなのですか? 迷いを払ってもらったお礼をしようと思っていたのですが……」
「いえいえ、むしろこれが私からの代金のようなものですからね。これにお礼を言われてはいつまでも話が進みませんし終わりませんよ」
「ですが、とても大きなものをいただきました。あの話だけではとても払いきれないほど大きなものを……」
「私は貴女の話にそれだけの価値を感じた。だからそれを形で示したつもりです。……どうか受け取っておいてください」
「……では、私は貴女からの行いにそれだけの感謝を抱いています。私が貴女から頂いた『代金』として、どれだけ大きなものを得たのか。私が感謝し、お礼をしたいと思うのは……おかしいことではありませんね?」
笑顔を浮かべたような彼女の心の声に、私は一つため息をつく。
「……まったく、強情なことで」
「そうでなければ尼僧などやっておりません」
私と彼女は、互いに目を閉じ合った真っ暗な中で笑い合う。実際に何かが見えているわけではないのに、なぜか互いに相手の笑顔が見えているような気がした。
「……あの、白蓮和尚?」
「? はい、何でございましょう?」
「多分ですが……私そっちじゃありません。右手の方です」
「あ、あらあら……」
白蓮和尚はそう笑い、いそいそと自分の座る向きを九十度変えた。
戦闘描写は苦手なのです。ヘボくてサーセン