01 私はこうして日々を過ごしている
「さとり様」
「お帰りなさい、お燐」
あたいの主、さとり様が椅子に座ったままあたいを出迎える。あたいはその言葉に誘われ、ゆっくりと頭を下げた。
「今日はどんなことがあったのかしら? 私に教えてちょうだい?」
「はい」
さとり様の言葉に従い、あたいは今日一日の出来事を順番に
そんな状態が数秒続き、そして唐突に終わりを迎えた。
「そう。十分よ。ご苦労様」
「ありがとうございます」
あたいは何も口にしてはいない。さとり様も、あたいに何も聞くことはない。けれどあたいの知ったことをさとり様は全て知り、そしてあたいもさとり様が全てを知ったことを知る。
「……そうね。おいで、お燐。撫でてあげるわ」
「!は、はい」
さとり様に手招きされ、あたいはゆっくりとさとり様の膝下まで進んでいく。今のあたいの頭の中にあるのは、さとり様の華奢で繊細な手と指先から与えられる悦楽のみ。あたいの求めを理解し、過不足無くあたいを撫でてくださるその指先の、虜にあたいは成り果てていた。
「……ふふ。そんなに期待して……そんなに私に撫でてもらうのが好きかしら?」
「ぁ……」
「言わなくてもわかっているわ……さ、おいで」
蠱惑的なさとり様の笑みに誘われ、あたいは蝋燭の火に自ら飛び込んで行く虫のようにふらふらと引き寄せられてしまう。
さとり様の膝の上に頭をのせる。するとさとり様の手がゆっくりと伸びてきて、まずは頭を撫でた。
「んっ……!」
くしゅ……と髪が摺れる音と共にゾクゾクとした感覚が首筋を走る。顎をさとり様の膝に載せているから倒れずに済んだけれど、腰が砕けてしまった。
「こっち? こっちがいいのかしら?」
「に……にゃぁ……」
さとり様の指先が髪から耳へと移動し、こりこりと掻くように柔らかな指が触れる。痛みなどは全く無く、ただただひたすらに気持ちがいい。
耳の外側だけでなく、内側までさとり様の指が触れる。背筋から力が抜け、全身をさとり様の膝に凭れさせてしまう。
「構わないわ」
「ぅにぃ~……」
耳から頬へ、そして首へと降りてくるさとり様の右手が触れると、じわじわと全身が熱くなってくる。くくいと身体を膝の上まで引き上げられると、体は楽になったけれど今度は違うものがあたいを苛ます。
さとり様の体温は、その体格から見てとれるように子供のように高い。暖かな熱が、その手だけではなく膝からも伝わってきてあたいの身体を熱くする。
「どうかしら。気持ちいいならいいのだけれど」
さとり様の言葉に返事ができない。暖かく、柔らかく、気持ちのいいこの状態で話すことなどできるわけがない。
いつの間にか変化が解け、人の形ではなく猫の形となってもさとり様は構わずあたいを撫でる。猫車を押し続けて固まってしまった身体も解れ、もう少しでも気を抜けば気絶してしまいそうになる。
「眠くなったのならば寝てしまいなさい」
……さとり様の声が聞こえた次の瞬間。ふっ、とあたいは意識を失いかける。頭を撫でられ、身体を解され、そして意識まで蕩けさせられれば───それに抗うことなんてできるはずもない。
あたいは最後にさとり様の顔を見上げる。するとさとり様はあたいに優しい笑顔を向け、言ってくれた。
「お休み、お燐」
それを最後にあたいの意識は途切れてしまった。
さとり様。
あたいにとっては飼い主であり、旧地獄の支配者でもある覚の妖怪。
きっとさとり様は、あたいの事を数いるペットの一匹くらいにしか思っていないんだろう。
だけど、あたいはそれでもいい。それでもいいから、あたいをさとり様のそばに置いてほしい。
さとり様。
あたいはさとり様の役に立ちたい。
今のあたいにできることなんてほとんどないけれど。
できることを増やしていくから。役に立って見せるから。
だから──────
■
膝の上で眠る黒い猫……お燐を撫でながら思う。
私はさとり妖怪。他者の心を読み、心的外傷を抉り、精神を踏み砕き、尊厳を踏みにじり、心をへし折る妖怪である。
特に私はそうして心を読むことができる範囲が非常に広く、それどころかある程度まで近付けば心を読むだけでなく一方的に操ることすらできる。
その力を使い、旧地獄と呼ばれる地底世界において非常に大きな影響力を持っており、基本的に誰一人として逆らうことはない。
……と、一般に思われている。
けれど、そんな風に言われている私本人からはっきりと言わせてもらいたい。
誰だそれ、と。
確かに、私は心を読むことができる。覚妖怪にデフォルト装備されている能力として、それは当たり前のことだ。
ただ、その他の事に関してはほとんどが嘘だと思ってくれていい。
私の心を読む能力はけして他の同族に比べて強いと言うわけではない。範囲だって普通にしていれば地霊殿の内側で精一杯だし、頑張って伸ばそうとしてみても門を少し出たところまでが限界だ。
心を操ると言われても、私は心を読むことはできても操ることはできない。心と言う本を読むことはできるが、ペンもインクも修正液もなければ書き換えることができないと言うのと理屈は似ている。
できることと言えば、精々その本に折り目をつけて強調したり、開き癖をつけて思い出しやすくしたり、ずっと閉じたままにすることで思い出しにくくすることくらいのものだろう。
もちろんそれは確実にできるわけではない。他人が自分の持っている本に勝手に折り目をつけたりすれば、当然嫌がられるだろう。しかも、普段は誰も入ってくることがないように鍵をかけた部屋のなかに勝手に入って勝手に本を読み漁ったあげくにそんなことをされては不快で仕方がない。
だから、私は基本的に他人からは避けられているし、それができると言うだけで嫌われてもいる。当たり前だろう、誰だってそんなことをされたら怒る。私だって怒る。
勿論折り目や開き癖をつけたりしないで綺麗に読むことだってできるが、読まれる本の内容が問題だ。
誰だって、誰にも見せるつもりのなかった自分のプライベートな日記を見ず知らずの相手に読まれたら嫌だろう。しかもそれが無駄に正確に詳細に記されていたら、それこそ泣いても仕方がない。
そんなわけで、私は基本的に嫌われている。外に出ないのも外の事を知ることができるからではなく、外に居る他人の心を覗きたくないからだ。
噂されているように私に他人の心を操る術もなく、私が旧地獄である地底の纏め役をしていると言うのも私からしてみればあり得ない話でしかない。
そんな私がいったいどうして地底の管理人なんて立場に立つことになったのか。それは地底に住むほぼ全員が地底全土の纏め役と言う仕事を嫌がったからに他ならない。
実際、仕事は多いし色々と面倒だし騒ぎがある度にやることが増えるし時々鬼が来て酒酒酒酒と五月蝿かったりもするし気が付いたらなんでか地霊殿の近くで酒作りなんかもすることになって暇もなければ休みもない。私に優秀なペット達がいなければ私だって仕事を投げ出している。
お燐やお空をはじめとするペット達が居てくれるから、私も少しは仕事を頑張ることができている。
だからこそ私はこうしてペットへのご褒美やお礼を欠かさないし、ペット達を捨てようとも思わない。お燐の持つ不安は完全に杞憂なのだけれど……言っても不安がそう簡単に取り除かれるわけでもない。私に本当に心を操るようなことができるのならば、一番始めにお燐の不安を取り除いてあげたいと思うけれど……私にそんな力はない。
私にできることは、お燐の話を聞き、可愛がること。そのくらいのことしかできないのだ。
私はお燐を膝に載せ、優しく撫でながら本を読む。寂しがりで素直になれない可愛らしい黒猫が、せめて夢の中だけでも不安を抱くことが無いように。