フランドールが家出をして、かなりの時間が過ぎたある日。咲夜はいつものように紅魔館の掃除をしていた。埃一つ落とさないほどの完璧な清掃に一つ頷くと、次にレミリアの朝食を作るために台所に立った。
本来ならば昼に眠り、夜に活動する吸血鬼であるはずのレミリアだが、博麗の巫女―――博麗霊夢に合わせて昼型の生活に変えている。そのため、早寝早起きを心がけていたり栄養に気を配ったりという吸血鬼としては色々おかしい事に目覚めてしまっているような気がしなくもない。
朝食には軽いものを求める傾向の強いレミリアのために、咲夜は腕を振るって料理を作る。軽いものとは言っても手を抜いているというようなことはなく、紅茶も料理も完璧なものを用意した。咲夜にはその自信があった。
「あ、それお姉さまに持っていくのね?」
「ええ、そうですよ」
「ふぅん……じゃあ頑張ってね」
……短い会話を終えて、ふと気になった。私は今、いったい誰と話をしたのだろうかと。
くるりと振り返ると、そこにはまるで宝石のような羽を持つ少女が一人立っていた。レミリアのために作った食材の余りを使って自分で料理をしようとしているその姿に向けて、恐る恐ると話しかけた。
「あの……フランお嬢様……ですか?」
「うん。久し振り、咲夜」
答えはするものの顔は見せない。最後に見た彼女の姿とはあまりにもかけ離れていて、しかし見た目は間違いなくフランであることもあってなかなか判断がつかない。ただ、その顔には狂気の影すら存在せず、まるでただの幼い少女のようであった。
「いつ、お戻りに?」
「え? さっきだよ、さっき。ちょっと『私がこの場所に来るまでの過程』を破壊したからここに来るまでの私の姿は見えなかったと思うけどね」
きんぐくりむぞん~♪ と笑いながらおどけるように言うフランだが、咲夜は今まで一度も見たことのないその表情に混乱していた。
なんの含みもない笑顔。それだけなら咲夜も見たことはある。人間として生きてきた中で、それなりに長い時間を紅魔館で過ごしてきていた。だから、フランが笑顔を浮かべたところは何度も目にしている。
殆どは鬱屈としたものだったり、自嘲の混じったものでもあったが、時々、本当にたまにではあるが見た目通りの幼い子供のような笑顔を浮かべていたことを咲夜は知っている。
……しかし、この事はレミリアには朗報となるだろう。フランが紅魔館からいなくなってから地底に赴き、あの地獄を目の当たりにしてしまったレミリアは、もう二度と地底には近づきたくないと心の底から思っていた。同時に地底の支配者であるさとりからの連絡―――『フランは預かっています。そちらがあまり変なことを考えなければ、無事にお返ししますよ。それどころか、色々な経験をして成長しているかもしれませんが』―――が無ければ、地底のことを考えることすらしなかっただろうと思えるほどに。
地底でいったいどんな経験をしてきたのか。人が当然のように人を喰らい、悪魔よりもより悪魔のようなことを繰り返す。そんな光景が当たり前のように起きているあの場所で学んだ事がまともであるなどとは思えなかったが、あの光景と、降り注ぐ灼熱を思い出すだけで身体が竦む。恐ろしいことなど何もないと思っていたし、それまで確かにいくら恐ろしくとも悍ましくとも身体が竦むような情けない姿を見せるようなことはなかったというのに、地底はその日常の光景だけでその精神をへし折っていった。
あんな中で、フランが一体どんなことを学んできたのかはわからない。けれど、今こうして戻ってきてくれた。それだけで、レミリアは喜ぶだろう。
咲夜は僅かに浮かんだ涙をハンカチで軽く拭い取り、優雅な一礼を見せた。
「……おかえりなさいませ、妹様」
「ん? うん、ただいま。これからお姉さまのところにも行くつもりだけど、これから寝ちゃうところかな?」
軽く、何でもないことのようにそう返すフランに、笑いがこみ上げてくる。自分が悩んできたことが、なんだかとても小さいことに思えてきてしまった。
「お嬢様は、これから起きるところだと思います。最近のお嬢様は生活リズムを朝型に矯正いたしましたので」
「……あれ? お姉さまって吸血鬼だよね? 私の覚え間違いとか、知らない間にお姉さまの種族が変わっちゃったとかそんなことはないよね?」
「はい。お嬢様は今も昔も吸血鬼、夜の王と呼ばれる種族でございます」
「だよねぇ……?」
首をかしげながら呟くフランのその姿に咲夜はついつい吹き出してしまう。その直後に、ぷにっとフランに頬をつつかれる。
「そんなに笑わないでよ。どっちかっていうとおかしいのはお姉さまのほうなんだからさ」
「ふふ……はい、申し訳ありませんでした」
そう言いながら咲夜はもう一度、深々と礼をした。
■
フランが戻ってきた。それは良いことのはずだ。初めは私も喜んだし、フランを抱きしめて少し泣い―――てはいない。うん、泣いてないわよ? 本当よ?
とにかく、フランが戻ってきたということは紅魔館にとってはいいことのはずなのだ。
……だと言うのに、奇妙な齟齬があるように感じてならない。今、こうして私とフランは向き合いながら食事をしている。お互いに笑顔であり、お互いに好意を抱いているはず……なのだ。
……そう、そうだ。フランは、あの地底の、地獄のような、という表現を陳腐な物にしてしまうような場所にいたはずなのだ。だと言うのに―――
―――なぜ、フランは、私と当たり前のように会話ができているのだろうか。
妖怪と言うのは精神が主体となって存在する。ならば、あのような地獄で生活を続けていれば、その精神は一般的な視点から見れば狂ったものになるはず。フランのように元々狂気に侵されているような存在ならばよりその狂気は凄まじいものになるはず。
だと言うのに、フランは今こうして私と話をすることができている。それが、どうしても奇妙に思えてしまって仕方ない。
「……? お姉さま、どうしたの?『狂気に満ちているはずの私と話ができているのが奇妙で仕方ない』っていう顔だよ?」
「!?」
「……なんちゃって♪ さとりお姉さまに言われたとおりに言ってみたら、本当にびっくりしてる。大丈夫だよお姉さま。私はさとりお姉さまのおかげで狂気を自分で抑えることができるようになったんだよ?」
そこから先は、いくらフランの口から出てきたことでも信じられないことばかりだった。
「地底に住んでいる人たちはちょっと癖が強い人が多いけど優しい人もいっぱいいるよ?」
私が見た景色の中に、癖が強いで済む程度のことしかしていない人間は一人としていなかったし、優しいという言葉に当てはまるようなものも一人もいなかった。
「それに、太陽がないからいつでも外に出られるし、地下だけどとっても広いから結構景色がいいところも多くてね?」
私が見た地底の景色は、どこもかしこも地獄のようなものだった。いや、景色を楽しむ余裕なんて初めからなかったといってもいいかもしれない。それに、太陽は無くてもあの神聖な力に満ちた炎が降り注ぐ中で外出なんてできるはずがない。
「食べ物だって美味しいし、色んな種類があるから飽きないし―――」
食べ物、と言うと、私には人間が同じ人間を喰らう所が目に浮かんでしまう。人間ですら人間を喰らうような場所で、一体何が食べられるというのだろうか。人間の中でもいろいろあるというのだろうか。それとも妖怪は他の力の弱い妖怪か、あるいは地底に多く存在するという怨霊でも食べるのだろうか。
「それで、頑張って狂気を抑えられるようになったら友達もできたんだ!」
「そう……それは、よかったわね」
笑顔で話し続けるフランの話を聞きながら、私は静かに確信した。
―――フランは、地底の常識に染まってしまったのだと。
人間が人間を喰うのは当たり前。炎が降るのも、それに耐えられずに誰かが死ぬのも死んだ相手が弱かったのが悪い。人間のように妖怪が妖怪を食べるのだって普通のこと。
そんな狂った常識の中で育まれた常識が、本当の常識として機能するはずもない。フランはきっと、これから先も地底以外の外で馴染むことはないだろう。古明地さとりによって植え付けられた、狂い切った常識のせいで。
「……ふぁ……もう寝る時間かな。それじゃあお姉さま、私はちょっと夜まで寝るわ」
「……そう。わかったわ。―――お休みなさい、フラン」
「うん、お休み、お姉さま」
フランが消えた扉を睨みながら―――私は想う。どうやって、あの外道極まりない覚妖怪に償わせてやろうかと。
怒りが湧き上がる。激怒が私の視界を赤く染める。ビシリとティーカップに罅が入り、砕ける。
……古明地さとり。この私の妹に。紅魔館の主、レミリア・スカーレットの妹に。フランに手を出したことの意味を、教えてやろう!