東方流星記 ~ Imperial Fugitive.《帝国の逃亡者》 作:Exar Kun
夏―――平均的に高温度が持続する四季で最も暑い季節。長期休暇と夏特有のイベントに子供たちは歓喜し、対称的に大人 ― 会社員や公務員 ― たちは見るからに暑そうなスーツや制服を着こなしながらその業務に邁進する。夏服等の考慮がない企業や機関は暴動が起こり得る・・・それ程の厳しい環境に置かれる惑星、地域も存在する。
あいにく、この惑星は平均よりやや暑い程度の温度である。だが、たとえそうだとしても今の季節は夏であり、暑いことに変わりはない。
暑さをその身に感じながら目の前に映る光景を呆然と見続ける。外廊下・・・縁側の天井が作り出す影と太陽を浴び輝く白砂との境目が、こちらとあちら・・・二つの世界を区切る境界であるかの如く錯覚を覚えさせる。
さながら銀河系と幻想郷の
つい腕を伸ばし、その手を境界へ触れさせようと身体が動く。両膝を立て、身体を倒すことにより手が近づくのを図る。手の高度が下がり、目標まではあと数cm。左手で縁側を掴みながら傾斜をより深くすることにより残存距離が益々縮小する。
あと1cm、最終局面への突入準備を進めるが・・・
「・・・アル君?」
「マスター?」
「――-?」
聞き慣れた声が耳に入ると同時に、動きは止まった・・・
「・・・それで気付いたらあんな行動をしていたって訳ね」
「・・・はい」
滑稽且つ不可解な行動を起こす光景を目撃されてから数分、現在彼は、先程の行動についての説明と弁明を自らの部屋で行っていた。
まさか見られていたとは・・・しかも、よりによって最も目撃されたくは無かった場面に・・・
それ程羞恥と思われるものでも無いが、多少は感じるのも事実。何と表現すれば良いのだろうか・・・思春期の青少年が、両親への甘えを表に出すつもりは無かったにもかかわらず、つい露呈してしまった状態に類似・・・してないか・・・
「暑さが原因かしら?」
「ど、どうでしょう・・・いずれにせよ問題ありません」
人間は意図が理解しずらい行動を時折取ることがある。それは客観的だけでなく主観的にも意図しずらい半ば無意識的なもの・・・今回のも恐らくそれの一種だ。その様に無理矢理考えを抑圧しながら現在の状況について思考する。
「そろそろ行きますか?」
この状況から脱するかのように自分がそう尋ねると、本題に気付いたかのように ― 今そのような考えをする必要は無いと ― 顔を上げる。
「そうだった、そうだった。準備出来たから行きましょうって言うつもりだったのよ」
予想通りの返答を聞く。こちらは既に準備完了である。だからあのようなことをしていた、と言っても過言ではない・・・
「マグ、君は?」
「
相棒も同様のようだ・・・さて、
行きますか
既に地理的、視覚的に慣れた竹林を二人と一体で進み続ける。本体からそのまま分離したような細長い影の存在が、竹の本数が倍以上に存在するかの如き錯覚を引き起こす。それ自体は特に問題ではない。未完且つ不明瞭と言えど既に簡易マップは作成済みだからだ。現況の問題は・・・
「・・・暑い」
まさに今、真後ろから聞こえた形容詞の通りな気候である。幻想郷が位置する日本国は温暖湿潤気候であるらしい。その名称が示すように、基本気候としては温暖で湿潤が強い。屋内では多少暑いとしか感じられなかったが、屋外においては中々堪える暑さを感じさせる。
しかし、だからと言って業務を停止する訳にはいかない。我々が暑さを感じるならば、里の人々もそれを感じるという事である。更に相違点 ― 我々よりも虚弱な人も存在する ― もその事に拍車を掛ける。それに、暑さで体調を崩せば、それは何らかの病気にも繋がる可能性でもある。寧ろ、通常よりも用心しなければならない状況下にいるということだ。
「アル君たちの所は凄いよね、天気を操れちゃうんだから」
羨ましがるようなニュアンスで呟く鈴仙さん。月にそのような設備は存在しないのだろうか。確かに銀河系の気象管理システムなら天候を操り、暑さを抑えることも可能だが、
「シカシ、気象管理ステーションハ常時使用サレル訳デハアリマセンヨ。一度ノ使用ニ掛カル費用モ大キイデスシ、生命体ニトッテ丁度良ク感ジラレルトモ限リマセン」
マグの代弁通り、必ずしも便利と言う訳ではない・・・まあ、全くない状態と比べれば十分過ぎるのだが・・・ドロイドであるマグはこの程度の暑さは、何の影響もない。そう考えると、既知であるのは明らかであるというのに、羨望のような感情が生まれる。すると、それに影響されてか、同時に悪戯心?と称すれば良いのだろうか・・・とにかくそのような意思も感じられた。そして・・・
「マグは恵まれてるな、この暑さを感じることがないのだから。今だけその身体を変えてほしいよ」
「そうだそうだー」
マグに小言 ― 戯言のように ― を言う。自分の意図を察したのか、はたまた純粋にそう思ったのか鈴仙さんの方も冗談めかしてそれに乗っかる。
「ソ、ソウ申サレマシテモ・・・」
すると少し困ったような返答をする。外見の威圧感が高いドロイドの慌てる様子が普段とのギャップを感じさせたのか、鈴仙さんと顔を見合し笑いつつ冗談だよ、となだめる。
そして、自分が今笑っているという事実を実感する。無論、これまで笑顔を浮かべる経験は多々あったが、これ程まで簡単に、高頻度に・・・何より自然に笑うことが出来たのは何と言えば良いか・・・悪くない、いや・・・いいものだ。
「そう言えばここに来て・・・」
まだ
「一週間経ったんだね」
七日経過したに過ぎないのに
人間が存在し、同音の・・・理解可能な言語が流通するこの惑星だが、時間の計測は一部に差異が見られる。銀河系では、
来訪して
この地は狭い。日本と言う周囲を海で囲まれる国の一部であり、その日本も地球という惑星のほんの一地域に過ぎない。星間単位である銀河系から比べれば塵のようなものだが、その中でもこれ程の美しく、煌びやかな景色が存在し、人々が生活している。たとえ周りの世界が拡大されても、それを見て生活するのは塵よりも小さい人間なのだな、と実感する。
それにしても、既に一週間か・・・
これ程濃密な時間を過ごしたのは初めてかもしれないな・・・
「マスター、Ms.鈴仙ガ返答ヲオ待チシテイルヨウデスガ?」
マグの言葉に意識の集中が思考から現状に移ろう。一度左側で自分を見るマグを確認してから、反対側の待ち主に顔を向ける。幸いにも、彼女の表情に苛立ち等は見えない。だがその代わりとして心配、いや、疑問の念が浮かぶ。
「さっきも気になったけど・・・大丈夫?」
「あっ、いや、地球に来てからの一週間を回想していて・・・先程のとは違います」
そのままの事実を伝えるが、
「じゃあ、さっきのは?」
新たな疑問を植え付けてしまった・・・
「あれは・・・」
なんと答えれば・・・いや、先程の弁明のように概略を再度説明すれば良い・・・なにか例を付与しつつ、
「人間の無意識に近い・・・『空を眺めながらつい手を伸ばす』だったり、『目的無しに台所や居間に向かう』とか・・・」
他の例は・・・何かないか? 既に二例を挙げ、これ以上の補足は不必要とも取られるが、この時の彼は、そのような判断を下すに相当な状態ではなかった。そして、その「状態」は彼の意図とは逆の方向へ進む ― 他の一般的な例が存在するにもかかわらず ― であろう例をも脳内へ浮かばせる、否、想起させる。
そうだ、伍長が言っていた・・・
「『ハイスクールで女子生徒のスカートをめくり返してしまう』などです」
「・・・って言ったんですよ」
「なんと・・・」
「お前意外と助平な奴なんだな」
業務終了後、
「・・・」
今に至る・・・
食事中の会話の中である話題へと移った。
『最近、意味もなく、理解している分野であるのに勉強しようとしてしまうのだ』
まさに自分が今朝行った、里に来るまでの間の話題ともなった・・・意図の無い行動である。やはり暑さなのだろうか、それよりも自分も同じような行動をしたからか親近感?のようなものが浮かぶ。単に影と光の境目に手を近付けようとした有益でもなんでもない自分のと比べ、遥かに実用的であるという差異は存在するが・・・
それと同時に鈴仙さんに提示した具体例を思い出す。焦っていたのか、より多くの例を示すべきだと考えたのか、自分なら確実に行わないであろう悪意ある行動例を説明してしまった・・・と言うより今更だが伍長は本当にそんな事していたのか・・・いや、彼はアカデミーで女性候補生たちの水着写真や[編集済]写真を売りさばいた男だ・・・寧ろそれに比べれば過去の
現在の問題と関連させ悪戯好きの部下の性格や行動を思い出す。よく兵長と共に巻き込まれたものだ。
だが不快感などなかった。それよりも彼の気遣いのようにも感じられた・・・幼いながらも軍事業務に就く何時も不愛想な感情の起伏が低い・・・年下の上官に対する・・・それにもしかしたら、心のどこかで・・・
相変わらずドロイドみたいな面してんな、ほらほら笑えよアル少尉~ ―
僕はそれを楽しんでいたのかもしれない・・・
「驚いた、と言うより笑いそうになっちゃいました。彼がそんな事してたって想像したら」
「確かにこいつがそんな事してたら絶対に笑うな、多分。まあ、こっちのどろいどがした方が面白そうだが」
笑われたのは少々癪であるが、きちんとその発言の経緯は説明してくださったようなので小さく安堵する。それにしても良かった。鈴仙さんに変な心象を持たれなくて。仲良くなろうと奮起していた矢先、無意識にスカートをめくるような奴だと認識されていたら・・・もし誤解が継続されたままだったら恨んでましたよ、伍長・・・
「じゃあ、屋敷に戻ろうか」
食事を終え二人と別れた後、鈴仙さんがそう言った。
「里を少し散策したいと思ったのですが、駄目でしょうか?」
「いいけど・・・一人で?」
「?・・・はい」
怪しいと言わんばかりにこちらを覗きこまれる。何か問題があるのだろうか。雑務の支援に自分という増援が増えたにしても、医学の勉強等の彼女の多忙さを考慮した結果なのだが・・・いずれ地底等も案内を受けるので、それまでは自分が可能な限りは迷惑を掛けないと決定したばかりだ。
「・・・鴉天狗と逢引?」
「違います!」
昨日の弁明では説明不足だったか・・・そう思いつつ、その時の状況を回想する。屋敷に帰還後すぐさま鈴仙さんの下へと連れていかれ「尋問」を受けた。彼女に説明するだけなら問題は無かったのだが、連れてきた本人・・・てゐさんが、鈴仙さんの混乱状態をいいことに色々とあらぬ推測を彼女に吹き込み、余計に困惑させるという結果となった。
永琳さんは無論、冗談だと理解しており『お疲れ』と声を掛けてくれた。さすがである。対して姫様は、
「で、どこまでいったのかしら?」
と冗談とわかりつつ且つ自分を弄り倒しつつ、不敵に笑い続けた・・・
「ごめんごめん、冗談よ。私が居なくても大丈夫?」
「問題ありません。昨日も夜遅くまで勉強していたようですし、是非お休みください」
「そんな気使わなくても大丈夫よ?」
その言葉に彼女の優しさを感じる。やはりとても良い人だ。だが、
「自分が気になってしまいます」
やんわりとその好意を断る。
「・・・わかったわ、何かあったらまた連絡してね」
「はい・・・マグ、彼女の護衛に付いてくれ」
「
会話をしながら離れていく二人を見続けつつ、鈴仙さんとマグの身長差を比較する。30㎝以上は差がありそうだ。それと同時に既にマグには慣れたようなので安心する。
さて、何処から行こうか・・・
里内を散策して約一時間、既に内部の半分は回ったが、どの店に立ち寄る事無く、唯々ゆっくりと歩き続ける。相も変わらない商人の客を求める声、子供たちのはしゃぎ声が一面に木霊する。それらがコルサント中央公園にやって来たの如く感覚を覚えさせる。何故店に入らないんだ、と尋ねられたらこう返すだろう・・・眼は既に入店しているからだ、と。つまり見ているだけで、楽しむことが、人里の生活と言うのを垣間見ることが可能だということだ。無論、立ち寄りたいと思う程の興味を惹かれる店も数多く存在するが、今は前者を優先したかった。これだと散策と言うよりは散歩だな、多少自嘲気味に内心で呟く。
そうしている内に、出入り口の一つに近付く。すると、その近くで少女― 歳は10歳前後 ― が顔を上げながら門の外―――森を凝視し続けている。そしてその内心から大きな焦り、僅かだが恐怖を感じ取る。何かしらの問題があったと推測・・・困っている・・・取り敢えず何があったか尋ねよう。
「・・・こんにちは、さっきから外を見てたけど、何かあったのかい?」
できるだけ優しく、怯えさせないような声を努力をする。そう言えばたえちゃんはあれからどうしているだろうか・・・あれから姿を見ていない。
以前、手助けした幼い女の子を思い出しつつ彼が尋ねると、少女はいきなりの行為であった為驚きつつも、焦りもあってか素直に応えた。
「あ、あなたは?」
「永遠亭の者です。焦っているように見えたのでつい声を掛けてしまって・・・」
「永遠亭・・・うさぎさんの?」
どうやら彼女も鈴仙さんのことを知っているらしい。彼女を思い浮かべたからか警戒が低下するのを感じ取る。
「そうです。何か問題があるのかい?」
少女が戸惑っているのは明らかである。個人的な事で余計な詮索をされたくない、か・・・いや、彼女は助けを求めているように感じた。恐らく自分を頼っても良いのか、と迷っているんだろう。
「僕は大丈夫だよ」
えっ、と驚きつつも困惑の度合いは低下している。内心の感情を読まれたならば驚くのは当然だが、現状と焦りがそれを優越したらしく、その口を震わせながらも開ける。
「実は・・・」
「無いか・・・」
独りでにそう呟く。現時刻は・・・三時、既に捜索から一時間が経過している。木の枝をつたって調べもしたが見つからない。時々顔を撫でる風は涼しさを感じさせるが、目的物を遠方へ追いやる可能性を考えると、余計なお世話に感じられる。とにかく、寺子屋が終わるまでに見つけなければ・・・!
少女、明子ちゃんと言ったか・・・彼女はいつも世話になっている母親の為に桃色スカーフを作った。夏には汗を拭くタオルになり、冬にはマフラーとして機能する特別な生地で構成された、お手製のスカーフ。驚かせようと、寺子屋の授業が終了してから家に帰り渡そうと計画していたらしい。しかし、森の近くで昼食を取っている間に野良犬に隙を見て取られてしまったとのこと。彼女は全力で追いかけたが、残念なことに犬の姿を見失ってしまった。彼女の服装の汚れからその努力が推察される。
授業の時間が刻々と近付きどうしようかと焦りを感じていた丁度その時、自分と彼女は出会った。
授業終了予定時間は四時―――残り一時間。一刻の猶予も無い。
野良犬が走り去って行った直線を軸として捜索していたが、犬の足跡はすでに識別出来るような状態ではなかった。あまりにも少ない情報、範囲の不確定さに悩まされる。
そうしている間に一つの考察が思い浮かぶ。もし犬という生物が外見だけでなく、習慣や特性も銀河系のそれと同様ならば、その性質から野良犬の行動を予測出来るかもしれない。
犬は珍しいものに惹かれる特徴がある。初対面にもかかわらず、主人以外の人間にもおとなしかったり、逆に興奮するのはそれが所以とも言われている。だが、それと同時に犬は非常に飽きやすい。ボールを遠くへ投げてそれを回収させてくるのも一つの同じ球を使い続けるよりは、形状、色、重量が異なる複数を使用した方が、飽きにくいとされる。
その仮説に信を置くならば、今回の野良犬も桃色のスカーフには既に飽きを感じていると推定出来る。それならば、どこかへ遺棄ないしは放置したという可能性も否定は出来ない。
飽きるまでの時間を30分と仮定する。犬の平均高速速度は約30km/h・・・だが少女を撒いてからは必ずしも直進を進むとは限らないし、速度は確実に低下する。これらを考慮に入れつつミニパッドのコンパスで円を描く。彼女が昼食を取った岩場を中心として。そして、それを前方半分にし、残したまま、現在位置に当てはめる。
「・・・」
丁度円の弧の中心辺りに自分は位置している。ならばこの弧の範囲内に存在する・・・筈・・・
無論、これは不確定要素満載の限定的な算出である。しかし、これを超える範囲を自分一人で捜索するのは地理的、時間的に不可能である。今はこれに賭けるしかない・・・弧内の左側はあらかた探した・・・右側はこの範囲内では調べていない・・・ここへ向かおう!
目的地へ向けて彼はその足を進める・・・途中にもプロボットのように眼を凝らしながら・・・
目的地―――設定した範囲内を捜索し続ける。残り30分・・・いよいよ余裕が無くなり焦りが生ずる。任務に関わらず何か物事をしている間、感じるべきでない気持ちが焦りだ。条件的余裕がないという事実は人の心に乗っかり、焦りを生じさせる。そしてその焦りはやがて不安を生み出し、負の連鎖という最悪の結果となる。特に自分のようなフォースと繋がった者は、心や感情の波に拘束されやすい・・・つまり、それらに対して敏感なのだ。そして、その感情に対する虚弱性は不安を恐怖へと容易に変換する・・・
この連鎖に飲み込まれないようにする為の最適な対処法、それは・・・唯漠然と問題は無いと自分に言い聞かせることである。このまま続ければ見つかるだから安心しろ、といったものとは異なる。例え望まぬ結果に繋がったとしても大丈夫、自らが危険に晒される訳では無い、といったようなものが一例として挙げられる。要はその場の結果を無視した自己暗示―――セルフ・トークである。最悪の結果となっても問題無い・・・諦めにも近いが、このようなコントロールは、未来の予測可能結果に束縛されず焦り以前の状態に近づくことが可能である。
見つからなくとも問題無い。彼女とは面識があった訳ではない。これは彼女自身の責任だ。
本心とは異なる思いを半ば強制的に繰り返す。だが、天は彼に味方したか、その暗示をする必要が無い状況へと彼を導いた・・・大木の根元に掛かる桃色のスカーフ―――目的物発見。
ゆっくりと ― ブービー・トラップを確認する新兵の如く ― 近づき、対象を持ち上げる。さらりとした、人の髪を撫でているような感触を思わせる特殊な、いや、不思議な生地。特に目立つ汚れ、破損は無く彼を安堵させる・・・いや、それよりも無事見つかったという事実に一安心する。まるで敵の機密書類を隠密に奪取出来たの如く安心を彼は想起した。
臭いは大丈夫だろうか。犬に咥えられ、森の中に放置されたならば外観に異常が無くとも悪臭が付着するのは当然と思われる。可能ならばそれを除去したいものだが・・・
そっとスカーフを鼻の辺りまで上げる。犬の唾液臭を想像しながら鼻に力を加え嗅ぐ・・・が、予想と大幅に異なり、唾液臭どころか想像した悪臭も嗅ぎ取ることはなかった。それらとは別の臭い、否、匂いが鼻腔をくすぐる様に通過する。何だこの匂いは。不快感など無い、寧ろ自然を感じることが出来るような自然その物の匂い・・・
経験したことのないような自然の匂いは彼に、臭いを調べるという本来の目的と、自分の所有物では無いという認識を一時忘れさせた。少しでも長く、縋る様にその匂いに触れようとする。
主観的には何分も味わっていたように感じるが、それも実際の時間にすれば数秒に満たない。だが、目的物を発見させたという贈り物を与えた対価なのか、
「動くな・・・!」
その数秒間に天は厄介事を招いた