何だろう。ものすごく、苦しい。息が出来ない。体が熱い。身動きが取れない。
――逃げてッ!!
誰かの悲鳴が聞えた。聞き覚えのある声。そして、とても悲痛な絶叫。
(逃げなきゃ……)
朦朧とする意識の中、俺はベッドから這い出てドアの方へ向かう。
「くそ、抵抗するなガキ!」
その時、1階の方から聞き覚えのない男の声が聞こえた。それと一緒に争うような音もする。
「1階は駄目だ……」
自分自身に言い聞かせるように呟き、周囲を見渡す。窓が視界に入った。
(あそこからなら)
ゆっくりと窓に近づき、そっと開ける。秋も深まり、少しだけ冷たい風が俺の頬を撫でた。火照った体には気持ちよかった。
「よいしょっと」
一度、ベッドに上がり猫の能力を発動する。体が縮み、目の前が真っ暗になった。ふらつく体に鞭を打ってパジャマから脱出する。
(早く、逃げないと……)
視界がぐにゃりと歪むが、倒れるわけにはいかない。俺は窓に向かって跳躍し、外に飛び出した。
(逃げないと……)
行く当てもないが、とにかくここから離れよう。何度も転びそうになりながらただ淡々と歩く。家から離れるために。
「はぁ……はぁ……」
俺はひたすら何かから逃げていた。
「くそっ」
しかし、どれだけ走ってもそれからは逃げられず、悪態を吐く。
「お兄ちゃん」
その時、目の前に望が現れた。その表情は悲しげだった。
「望、逃げろ!」
叫びながら動こうとしない望の手を取ろうとするも何故か、すり抜けてしまう。思わず、足を止めてしまった。
「お兄ちゃん、ゴメンね」
望はそう言うと俺の横を通り過ぎる。
「望!」
振り返るもそこには望の姿はなく、あったには真っ黒な何かだけだった。
「くっ」
望のことは気になるが今はこいつから逃げよう。俺は再び、走り出した。
「響」「ご主人様」「おにーちゃん」
しばらくすると今度は雅、霙、奏楽が現れる。やはり、望と同じように悲しそうな表情を浮かべていた。
「逃げろっ!」
絶叫する。だが、彼女たちも望と同じように俺を無視して黒い何かの方へ歩いて行ってしまう。やはり、振り返ってもそこには黒い何かしかいなかった。
「「響」」
呆然としていると前に悟と霊奈が立っていた。霊奈は悲しげに眼を伏せていた。でも、悟は違う。明らかに怒っていた。
「響、何で教えてくれなかったんだよ」
「え?」
何のことかわからず、聞き返してしまう。
「……もう、いい。霊奈行くぞ」
「……うん」
そんな俺を見て諦めたのか悟と霊奈は黒い何か方へ消えて行った。
「何でだよ……」
どうして、皆そんな顔をするのだ。呆れているような、諦めているような顔。まるで、何度言っても理解しようとしない子供に向けるような顔。
「決まってんだろ?」
その時、黒い何かから男の声が聞こえ、そこからドグが出て来た。
「決まってるって何が?」
「お前は何もわかってないって話だ」
「何も、わかっていない?」
「ああ、そうだ」
いつの間にか俺の背後にいたリョウがドグを肯定する。
「わかってないって何がだよ」
「それに気付いていない時点でお前はもう終わってる。なぁ、ドグ」
「ああ、お前の式神に同情するよ」
「何の話だよ!」
声を荒げて質問するが、2人は肩を竦めてどこかへ消えてしまった。
「響、まだ気付かないのですか?」
混乱していると黒い何かから女の声が響く。
「誰だ?」
その声に聞き覚えはなかった。いや、聞いたことはあるのだが、誰の声だったか思い出せなかったのだ。
「……どうして、あなたはいつもそうなのですか?」
「答えろよ!」
「手を伸ばせば届くのに……その手を見ようともせず、ただ独りで苦しんで。それであなたを見ている人が幸せになれると思っているのですか?」
声は俺の質問に答えず、寂しそうに語る。
「わかってはいるのです。あなたは今までずっと独りで……いえ、“あの子”と別れてしまったあの日からずっと独りぼっちだったことを。だから、あなたは何でも独りで対処した。周りに誰も人がいなかったから。でも、今は違います。あなたの周りには人がいます。味方がいます。あなたが苦しんでいる時、助けてくれる仲間がいるのです」
その黒い何かがひび割れて、その隙間から白い光が漏れて俺の足元を照らし始めた。
「お願いです。もう、独りにならないでください。悪いのは全て、あなたからあの子を引き離した私たち、大人なのです。そして、安心してください。あの子はいつかまた、あなたの傍に」
「何を言って――」
「ちょっとでしゃばり過ぎましたかね。では、そろそろお暇することにします。えっと、紫の話だと、ここをこうすれば」
「紫って……」
声の正体はわからないまま、白い光がどんどん強くなり、目を開けらなくなった。
「それでは、響。頑張ってください。私もいつまでもあなたの傍にいますよ」
そんな声を聞いて俺は意識を手放した。何だか、懐かしい匂いを嗅ぎながら。
「すぅ……はぁ……すぅ……はぁ……」
誰かが、深呼吸をしている。そして、その人は俺の胸に手を当てているようだ。
「種子、調子はどうだ?」
「……あまり、治癒術は通用しないようです。怪我や病気の類から出る熱ではなさそうですね。ですが、高熱のせいで起こしかけていた脱水症状は何とか、治せました」
「そうか、よかった。意識がないんじゃ水も飲ませられないし」
「ですが、このまま高熱が続けば命に関わりますよ……どうします?」
「んー、病院に連れて行くわけにも行かないからなぁ」
そんな会話をぼうっとしながら聞く。そして、ゆっくりと目を開けた。
「あ、ご主人! 目を覚ましたようです!」
「種子?」
まず、目に入ったのは安堵のため息を吐いている種子の姿だった。どうやら、この子が深呼吸をしながら俺の胸に手を当てていたらしい。
「大丈夫か、音無兄」
声がした方を見ると種子の背後に柊が立っていた。彼も安心したような表情を浮かべている。
「柊もいるのか……っと」
そう言いながら体を起こそうとするも、上手く力が入らずにベッドに背中を預けてしまう。
「無理するな。40度近い熱があるんだから」
「熱?」
その単語を聞いて俺は思わず、首を傾げてしまう。『超高速再生』のおかげで俺は病気にならない。だから、熱が出るなどあり得ないことなのだ。
柊にそう言うと、体温計を差し出されて仕方なく、口に咥えた。しばらくするとピピピと体温計が鳴る。
「あれ?」
体温計を見ると確かに39.8度と書かれていた。どうやら、本当に熱があるらしい。
「だから言ったろ?」
「ああ……でも、どうして熱が出たんだ?」
「先ほども言いましたが、響さんの熱は怪我や病気から出る熱ではないようなのです」
では、何が原因なのだろうか。
(……まさか)
怪我や病気が原因ではないとすると考えられるのはただ一つ。
「能力の暴走」
それしか考えられなかった。俺の能力は不安定ですぐに変わる。今回も能力のせいで熱が出たに違いない。
「能力?」
「ああ……って、何でお前たちが俺の家にいるんだ?」
何かあったのだろうか。もし、戦闘になるようなことならば正直、戦える自信はない。
「はぁ? 何言ってんだ?」
しかし、俺の質問を聞いた柊は呆れたような顔を浮かべる。
「何ってそりゃ普通、自分の家に他人がいたら聞くだろ」
「そっちじゃない。ここ、お前の家じゃない。俺の家だ」
「……はい?」
いや、俺は熱を出して今までずっと眠っていたのだ。ならば、いつ柊の家に来たというのだ。無理に決まっている。
「よく周りを見ろ」
柊にそう言われて目が覚めて初めて周囲を見渡す。
「俺の、部屋じゃない」
彼の言う通り、俺が寝ていた場所は俺の部屋ではなく見覚えのない部屋だった。きっと、柊の部屋なのだろう。
「何で、俺、こんなところに……」
「それは俺にも説明して欲しいわ。どうして、猫の姿になって俺の家の前で倒れてたんだ?」
それを聞いて余計、混乱してしまった。
(猫の姿で倒れてたって……俺は今まで眠って――)
その時、何か俺の脳裏に過ぎった。
――逃げてッ!!
奏楽の声だった。悲痛な絶叫。
「……そうだ」
朝、いつもの時間に目を覚ました俺はベッドから降りた瞬間、倒れてしまったのだ。記憶は途切れているものの望たちが看病してくれていたのを覚えている。そして、奏楽の悲鳴が聞えた。様子を見ようとしたが、1階から聞き覚えのない男の声が聞こえて来て、朦朧とした意識が導くままに窓から逃げたのだ。
「くそっ、何やってんだよ俺!」
あの時、1階で何かが起きていた。雅や霙がいても太刀打ちできないような敵がいたのだ。それなのに、ろくに確認もせずに逃げ出した。今すぐ、家に帰らなければならない。
俺はベッドから飛び起きた。しかし、まだ動ける状態ではなかったようで、その場に崩れ落ちてしまう。
「「あっ」」
突然、動き出した俺を見て柊と種子が声を漏らす。その表情は驚愕というよりも、まずいものを見てしまった時のような顔だった。
「ん?」
その視線の先にいるのはもちろん、俺だ。気になって自分の体を確かめる。
その体つきは男のそれではなく、女のものだった。そして、肌色一色だった。
「きゃ、きゃあああああああああああああああああっ!!」
動けないはずの体が勝手に動き、柊に向かって全力で拳を振るう。
「ガハッ!?」
俺の拳を右頬に受けた柊はそのまま、部屋の壁に叩き付けられた。