第412話 面倒事の布石
飛び散る血しぶき。倒れ伏せる人々。周りでは女性の甲高い悲鳴が響き、ドタバタと逃げる人々の足音が聞こえる。
そんな阿鼻叫喚な惨事の中、俺の腕の中で少しずつ小さくなってゆく灯が一つ。先ほどまで一緒に笑い合っていた“はず”なのにその笑顔はどこかへ行き、彼女の顔は死人のように白く、それでいてその白さが彼女をより一層美しく彩っていた。
また、それとは対照的に彼女の腹部は鋭い爪で切り裂かれ、ズタズタになり、少しずつ――しかし、確実に血の泉は広がって行く。
「愛してるわ……」
俺の頬に白かったはずの紅い手を添え、小さく微笑んだ彼女はそのまま静かに息を引き取った。きっと激痛と大量の血を失ったせいで視界が霞んでいたのだろう。もし、しっかりと俺の顔を見ていたら微笑んでなどいられなかっただろうから。
彼女の遺体をゆっくりとその場に横たわらせ、最期のお別れに彼女の唇に軽く口付け。ああ、俺も愛していた。愛していたとも。だが、その感情はもはや記録に代わり、思い出は復讐の炎を燃やす薪となっている。彼女に対する愛情などどこかへ行ってしまった。
でも――それでも、彼女の微笑む姿を見る度、心が壊れそうになるほど締め付けられた。だから、俺は一度も立ち止まることなくここまで来た。ここまで来てしまった。
「……」
一度だけ深呼吸して立ち上がると“あいつ”に貫かれた腹部が『これは現実だ』と言わんばかりにズキズキと痛んだ。でも、腹部に視線を落としてもそこには傷など一つもない。いっそのこと彼女と一緒に殺して欲しかった。そうすればこの地獄から抜け出せそうだったから。
(ああ、またこの景色か……)
だが、目の前に広がる光景を見て俺は未だ地獄を彷徨っているのだと思い知らされる。すでにこの場に俺以外の人間はいない。あるのは無数の死体と俺の前に立つこの世ならざる存在だけだ。
「――」
もはや誰の血かわからないほど真っ赤に染まった鉤爪を一舐めした化け物は耳をつんざくような雄叫びを上げ、こちらに向かってくる。このまま何もしなければ後数秒のうちに化け物によって殺されてしまうだろう。しかし、俺はただ黙って迫る妖怪を眺めていた。
「失礼」
今まさに化け物の鉤爪が俺の喉元を貫こうとした瞬間、俺と化け物の間の空間が嫌な音を立てながら割れた。その空間の割れ目から無数の目に視線を向けられ、背筋が凍りついてしまう。一方、いきなり空間が割れたからか化け物は後方へ跳躍して割れ目から距離を取る。
「まったく……最近、面倒事ばっかりで嫌になるわ」
そして、その空間の割れ目から“そいつ”は現れた。
紫色のドレスに身を包み、頭にはナイトキャップのような帽子を被っている。そして、その帽子からは思わず目を庇いたくなるほどの美しい金髪が零れていた。彼女の右手には白い日傘、左手には黒い扇子を持っており、扇子で口元を隠している。
「結界が緩んだのかしら。あの子にしては珍しい……帰ったらちゃんと確認しないと」
独り言なのかぼそぼそと何かを呟いたそいつは口元を隠していた扇子をパチンと閉じてその場で横薙ぎに振るう。するとこちらを警戒していた化け物の足元に空間の割れ目が出現し、化け物はそのまま割れ目に落ちていった。それを見届けたそいつは満足そうに頷き、すぐに俺に目を向けた。
「ごめんなさいね。でも、大丈夫よ」
無言でいる俺に対し、ちらりと俺の足元を見た彼女はにっこりと笑って告げる。何も心配はいらない、と子供に語る母親のような微笑みだった。
「これは夢。その人を失った悲しみは消えないけれど……こんな惨劇はなかった。そう、これはただの夢なの」
コロコロと笑い、ゆっくりとこちらに向かって手を伸ばす彼女。そのまま俺の目を覆うとグラリと体から力が入らなくなり、その場に倒れてしまう。生暖かくて鉄臭い匂いが鼻孔を貫く。
「目覚めた時、きっと貴方は“現”へと戻るでしょう。だから、安心しておやすみなさい」
薄れゆく意識の中、何度も聞いた台詞を残して去るそいつの背中を眺める。
ああ、お前の言う通り、俺はこの惨劇を忘れてしまうだろう。だが、この胸に残った炎だけは消えない。たとえ記憶を改ざんされ、その炎がマッチの火より小さくなろうと
(だから、その時まで……)
せいぜい、楽園の中で悠々と過ごしているといい。その楽園を壊しに行く、その時まで――。
パタン、とドアを閉める音がして顔を上げる。そこには冷たい水の入った湯桶を持った望がいた。命に別状はないのか彼女はホッとしたような表情を浮かべていた。
「どうだ?」
「うん、お風呂に入る直前に意識を取り戻したからシャワーだけだけど浴びてもらったよ。今は疲れて眠っちゃった」
「……そうか。話を聞くのは明日になりそうだな」
そう言いながら俺の部屋に視線を向ける。1時間ほど前にインターホンを鳴らしたのは俺と悟が高校三年生の時に同じクラスに属していた西さんだった。高校卒業後はすっかり疎遠になっていたのでまさかこんな夜に――しかも、あんなボロボロな状態で再開するとは思わなかった。
玄関先で倒れていた彼女を家の中に入れたが男の俺が西さんのお世話をするわけにも行かず、望たちに彼女のことを任せ、俺は悟に電話をして彼女の両親に連絡を取れないか相談した。悟曰く、少しばかり時間はかかるが何とかできるらしいので連絡は彼に押しつけて彼女の寝床を用意したのである。寝床と言っても空き部屋はないので俺の部屋を使ってもらうことにしたのだが。
「様子はどうだった?」
「うーん……少しやばいかなー。シャワーを浴びた後も顔を青くしてたし。ずっとお兄ちゃんを探してたけど疲れてたせいか視界もぼやけてたっぽい。途中で転んだみたいで右膝を結構派手にすりむいちゃってた」
『ちゃんと手当てしておいたよ』と望は笑い、湯桶を洗面所に置くために歩き出した。俺も思考を巡らせながらその後ろをついて行く
「考えられるのは……誰かから逃げていてたまたま俺の家を知ってて駈け込んで来た、とか」
「でも、保護されたのに顔を真っ青にしてるのはおかしいんじゃないかな。少しぐらい安心してもいいよね?」
「それに俺を探してたんだろ? 何か伝えたいことでもあったのか?」
「転ぶほど焦ってたみたいだけど……やっぱり西さんが起きてからちゃんと話を聞いた方がよさそうだね」
「ああ、そうだな。色々助かった。それ、片づけておくからもう休んでいいぞ」
俺の言葉に頷いた彼女は湯桶を俺に渡した後、『おやすみ』と言って自室へと向かった。他の皆も万が一のことを考えて早めに休んで貰っている。
「マスター」
望を見送った後、俺の右手首に装着されていた白黒の腕輪――桔梗に声をかけられた。彼女の姿を西さんに見られるわけにはいかないので腕輪に変形していたのだ。
「ん?」
「西、さんでしたか……大丈夫でしょうか?」
「まぁ、今すぐどうにかなるわけじゃないし……問題は彼女がここに来た理由だな」
念のために家の周囲に結界を張っておいた方がいいかもしれない。こういったことは俺よりも霊奈、霊奈よりも霊夢の方が得意なのだが霊夢は幻想郷にいるし、霊奈もこんな真夜中にわざわざ家に来てもらうのも申し訳ない。四神たちも宿主たちが寝ている間は活動できないので四神結界を張ることもできないのでやはり俺が張るしかないだろう。
「とにかく今は西さんが起きるのを……おっと」
桔梗と話しながら洗面所に湯桶を置くとポケットに入れておいた携帯が震えた。取り出して画面を見ると『影野 悟』と表示されている。西さんの両親に連絡が取れたのかもしれない。桔梗に電話が来たことを伝えた後、通話ボタンを押した。
「もしもし?」
『ああ、響? 今、大丈夫か?』
「こっちは落ち着いた。連絡取れたのか?」
『あー、いや、それが……西さんの両親の連絡先がなかったんだよ』
「連絡先が、なかった?」
連絡が取れなかったのなら話はわかるが連絡先がなかったとは一体どういうことなのだろうか。桔梗にも悟の声が聞こえたのか人形の姿に戻り、そのまま携帯に耳を近づけた。
『俺の情報網を使っても探し出せなかったってことは連絡先そのものがない……もしくは隠蔽されてるかもしれないんだよ』
「悟さんの情報網ってそんなにすごいんですか?」
『その声は桔梗ちゃん? これでも大企業の社長だからねー。響、西さんは?』
「今、眠ってる。何か事情があるっぽいけどまだ話は聞けてない」
『そうか……一応、警戒しておいた方がいい。この前の例だってある』
この前の例――笠崎のことだろう。彼が属していた組織は俺が生まれる前から俺のことを警戒していたと言っていた。つまり、どこに俺を狙う組織のメンバーが潜んでいるかわからないのである。西さんも絶対に組織のメンバーではないと言い切ることはできない。
「わかった。油断はしない」
『おう……っと、そろそろ仕事に戻らなきゃ。何かわかったら連絡してくれ』
「ああ、そっちも仕事頑張れよ」
そこで電話を切り、携帯をポケットに突っ込んで小さく息を吐いた。笠崎の一件が終わってすぐに表れた西さん。無関係だとは思えない。そんな俺の様子を見たからか桔梗が心配そうな表情を浮かべ、俺の顔を覗き込んだ。
「マスター、大丈夫ですか?」
「……大丈夫だよ。それじゃあ、結界張ってくる」
「あ、私も行きます!」
慌てて俺の肩に掴まった桔梗を微笑ましく思いながら空間倉庫からスキホを取り出して博麗のお札を出現させる。悟の忠告通り、念入りに結界を張ろう。外からも中からも出られないようにすれば西さんが敵だったとしても逃がすことはないはずだ。笠崎の時みたいに過去に逃げられたらたまったものではない。
(何事もなければいいんだけどな……)
博麗のお札に霊力を注ぎながらそう考えてしまう。そして、その反面きっと面倒事に巻き込まれてしまったのだと何となくわかっていた。