幻想郷は2種類の結界に囲まれている。一つは『幻と実体の境界』。そして、もう一つが『博麗大結界』である。
『幻と実体の境界』とは紫が作り出した結界で、外の世界に対して幻想郷を幻の世界と位置付けることで弱まった勢力――外の世界の妖怪を自動的に幻想郷に呼び込む効果を有している。妖怪は基本的に人の恐怖を糧にしているが、外の世界ではすっかり妖怪の存在は『非常識』とされ、人々は妖怪に怯えることがなくなってしまった。そのため、妖怪たちは外の世界に居続けるといずれ存在を保てなくなってしまうのである。だが、『幻と実体の境界』があれば外の世界にいる妖怪を幻想郷へ引き込み、存在を保たせることが可能だ。
それに対し、『博麗大結界』は博麗の巫女が管理している『常識の結界』であり、外の世界と幻想郷の『常識』と『非常識』を区別し、更に外の世界の『常識』を幻想郷の『非常識』に、外の世界の『非常識』を幻想郷の『常識』にする効果を有している。それにより、外の世界の『常識』を阻み、幻想郷の『常識』を引き込むのだ。そして、外の世界の『常識』が幻想郷へ行こうとしてもどこまで行っても延々と同じような景色が続くだけで結界にすら辿り着けず、幻想郷から外の世界に行くこともできない。つまり、『常識』と『非常識』を完全に区別してしまうのである。この結界は物理的なものではなく、論理的なものだが非常に強力で妖怪でも簡単に通ることはできない。
「もし……もし、このまま妖怪の存在が再び外の世界の人たちに知れ渡って『常識』になってしまったら?」
「……幻想郷の常識が引っくり返って『非常識』となり、幻想郷にいる妖怪が外の世界にはじき出される」
俺の呟きに対し、腕を組んだままリョウが静かに答えた。他の皆もリョウに言われずとも気付いていたのか、誰も驚きの声は漏らさずに俯く。常識が引っくり返り、幻想郷に住んでいる妖怪――いや、妖怪だけじゃない。外の世界で
もし、そうなったら幻想郷は確実に崩壊する。最悪の場合、外の世界に吐き出されたオカルトと人間が争い、世界そのものが滅亡する可能性だって十分ありえる。
「でも、本当にそんなことが起こるの? 今だって妖怪を知ってる人はいっぱいいるのに」
「知ってるって言ってもそれは創作の話だろ? むしろ、そのおかげで妖怪は想像上の存在だって思われてる。だが、今回の一件は……」
リーマの疑問を首を横に振りながら否定した。現在、外の世界の人たちは妖怪を『いそうでいない想像上の存在』だと認識している。しかし、流出した映像は掲示板の反応を見るにその『常識』を揺るがすほどのものだったのだろう。このまま放置しておけば『
「そして、『常識』から『非常識』に、『非常識』から『常識』に引っくり返ったならまだしも『常識』が『非常識』になってからもう一度『常識』になった場合、それを引っくり返すことは不可能だろう。そうなってしまえば幻想郷を立て直すこともできなくなる」
「どうして? 引っくり返ったならその逆だってあり得るはずだよね?」
「『非常識を引っくり返す』のは『常識を引っくり返す』よりも比較的、簡単なんだよ。見つければいいんだから。まぁ、ほとんどの場合、それは目の錯覚か勘違いなんだが」
「あー、よく聞くよね。お化けだと思ったら風で揺れるただの柳だったとか」
弥生の問いにリョウが答え、それを聞いた霊奈も納得したように頷いた。『いる』ことよりも『いない』を証明する方が難しいのは当たり前だ。『いない』ことを証明するには世界中を同時に監視しなければ証拠にならないのだから。それに比べ、『いる』を証明するには実際にその存在を発見するだけでいい。
「だからこそ、オカルトはなくならない。『あり得ない』を証明するには情報が少なすぎるからな」
よくテレビで幽霊やUMAの特別番組が放送されているのも“情報が少ないあまりいるかいないかも判断できない存在”だからだ。目撃証言だけで視聴率が取れるほど世間は幽霊やUMAの情報を求めているのだろう。面白半分だろうが何度も特別番組が放送されるのがその証拠である。視聴率が取れない内容を放送しても意味はないのだから。
「つまり、すでに世間は妖怪みたいな『想像上の存在』を『いそうで未だに発見されていない存在』だと思っている。じゃあ、今回の映像を見て世間が今まで発見されていなかった存在が確認されたのだと……昔はいたと数多くの文献が残っている妖怪が現代にもいたと認識したら?」
「『
「だけど、今までも同じような目撃証言が出ても常識は引っくり返らなかったじゃん! なら、今回だって――」
「――いや、どうだろうな」
俺の推測を雅が引き継ぐように漏らす。それをすぐに否定しようとするリーマだったがその途中でドグが遮ってしまった。きっと、リーマも苦し紛れに発した言葉だったのだろう。ドグの方を睨んだ後、悔しそうに俯いてしまった。
「確かに今までみたいな目撃証言だったら面白おかしく騒いですぐに落ち着くんだろうけどさ……この掲示板の騒ぎ方は異常だろ」
「それにあの映像は本物だ。こいつらの認識は正しい。むしろ、それを嘘にしようとする俺たちが間違っているのかもしれない」
「でも、どうにかしないと幻想郷が……」
ドグとリョウの結論に望が声を震わせながら呟く。そう、断言はできないがこのままこの一件を放置するのは得策ではない。だからこそ、ここまで騒ぎになっているのに“紫が動いていない”のが不思議でたまらないのだ。幻想郷の危機ならば最初に紫が動くに決まっている。そもそもここまで騒ぎになる前にどうにかしてしまうのが八雲 紫だ。
――そっちも大きく分けて2つ。1つ目は幻想郷に纏わる事の消去。2つ目は妖怪退治ね。貴方の能力を使って戦いなさい
そして、何より俺自身、冬眠のせいで動けない紫の指示で幻想郷に纏わる記録を消したことがある。こうなる前に紫か彼女の指示で俺が動いていたはずなのだ。しかし、彼女からの連絡はない。紫は冬眠してしまうがまだ冬眠する季節ではない。じゃあ、どうして――。
「……おい、待て」
誰にともなく呟いた言葉に全員の視線がこちらに集中する。だが、そんなこと気にしていられなかった。急いで空間倉庫からスキホを取り出して紫に電話を掛けるが、いつまで経ってもコール音が響くばかりで繋がる気配はない。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
「……全部、繋がってたんだ」
「え?」
「全部、繋がってたんだよ! あの遺書も、映像も、奴らの目的も!」
あの遺書に書いてあった『彼女』と『あいつら』という言葉。また、『彼女』や『あいつら』は記憶や存在を抹消できるほどの力を有している。そんな力を持っている存在を俺は一人しかいない。そう、『八雲 紫』である。だが、彼女は無闇に外の世界に干渉することはない。手を出す時は決まって幻想郷を守る時だ。
なら、どうして遺書を書いた人の大切だった人は存在を抹消された? それは流出した映像と同じように幻想郷が崩壊してしまうかもしれなかったからだ。幻想郷の秘密を知ってしまったからか、妖怪に殺されてしまったのか。それはわからないが紫に存在を抹消しなければならないと判断され、消されてしまったのである。
じゃあ、何故映像は流出された? 人の存在すらも抹消できる紫にとって映像の流出を止めることぐらい容易なはずだ。仮に冬眠していたとしても俺に指示を出しただろう。でも、映像は流出され、連絡は来ていない上、こちらからも連絡が取れない。スキホはどこにいても通じる特注の携帯電話だ。むしろ、奴らが使っていた黒いドームが異常だったのである。なのに、紫は電話に出なかった。
これだけ物的証拠が揃っているのだ。そこから導き出される答えはただ一つ。
「奴らは……本当に幻想郷を崩壊させるつもりだ。いや、すでに手遅れかもしれない。幻想郷を崩壊させることも手段の一つだっただけ。奴らの本当の目的は――」
俺は全ての人を救おうだとか、世界平和のために何かしようだとか、そんな自惚れたことを言うつもりはない。ただ手の届く範囲にいる皆を守ることができればよかった。
そして、あの遺書を読んで奴らの目的は知りたくなった。もし、俺にできることがあれば協力したかったから。
「――八雲 紫。そして、妖怪のような想像上の存在を抹殺だ」
でも、俺たちは分かり合えるわけがなかったのだ。奴らは最初から俺の手が届く範囲にいる者たちを狙っていたのだから。