東方楽曲伝   作:ホッシー@VTuber

466 / 543
今週から週1更新再開です。


第456話 過呼吸

「え、あれ……なんで」

 確かにマスターの鎌は東の胴体を両断しました。ズーム機能のあるこの目でしっかりその光景を見たので間違いありません。しかし、地面に転がっていた東の胸で何かが光った瞬間、何事もなかったようにマスターを見下ろすように立っていました。マスターも驚きを隠せないようで目を見開いて唖然としています。

(いえ、今はそんなことより!)

 すでに一日一回という制約のある翠炎さんによる蘇生は使ってしまいました。ましてや現在進行形で蘇生中であるため、身動きすら取れません。あの驚異的な身体能力を持っている東ならたとえ翠炎さんの白紙効果で地力が元に戻り、再び『超高速再生』を使えるようになったマスターでも一瞬で嬲り殺すことぐらい容易でしょう。今からマスターのところへ向かって到底間に合いません。

 しかし、私の予想とは裏腹に東はゆっくりと(それでも普通の人ならば目で捉えるのは難しいですが)マスターへ拳を振るいます。まるで、精神的に追い詰めるように。そして、あれだけ手足が千切れても顔を歪ませるだけだったマスターが、痛みを恐れるように目を閉じました。

(マスターッ!?)

 思わず、心の中で悲鳴を上げてしまいます。ですが、その直後、マスターの影が歪み、小さな女の子――リョウさんが姿を現しました。彼女はマスターを守るように両手を広げ、東を睨みつけています。

 おそらく、東もリョウさんが出てきたのを視認したのでしょう。僅かに嫌そうな表情を浮かべ、振るっていた拳が消えました。その刹那、リョウさんの胸から大量の血が迸り、気付けば東の腕が彼女の胸を貫通しています。あまりの光景に私は咄嗟に両手で口を押えてしまいました。

「桔梗ちゃ――」

 隣に座っている悟さんの声が遠くの方から聞こえます。それほど私の意識は目の前の光景に集中しているのでしょう。見ればリョウさんの胸を貫いた東の手に小さな肉の塊が握られています。あれは、まさか――。

「はッ、ぁ……はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」

「ッ! さ、悟さん!?」

 その時、悟さんの息遣いが異常に速いことに気付いて彼に向けると苦しそうに胸を押さえている悟さんがいました。今までマスターが大怪我を負う度に彼は何度も吐いていましたがとうとう限界を迎え、過度のストレスによる過呼吸を起こしてしまったようです。

「悟さん、落ち着いてください!」

 慌てて彼の背中を擦りながら声をかけます。

 過呼吸は極度の不安や緊張などで呼吸を何度も激しく繰り返すことで血液中の酸素と二酸化炭素のバランスが崩れてしまい、酸素過多、また、二酸化炭素不足となります。そして、血液中の二酸化炭素濃度が減少することで血液がアルカリ性に傾き、その濃度を正常に戻すために延髄が反射によって呼吸を停止させ――それを大脳皮質が呼吸ができなくなることを異常と捉え、呼吸させようとする悪循環が発生。息苦しさ、動悸、眩暈、手足の痺れとどんどん症状が酷くなっていくとマスターの部屋に置いてあった本で読みました。マスターは『超高速再生』による治療を効率よく行うために医学の本をたくさん持っていましたので【薬草】の役に立てようと時間を見つけては読みふけっていたおかげで知識だけは蓄えられました。

 過呼吸の対処法はとにかく落ち着くこと。呼吸のリズムさえ戻ってしまえば自然と血液中の酸素と二酸化炭素の濃度が正常に戻るそうです。少し前までは紙袋などを口や鼻に当てて普通の空気より二酸化炭素濃度の高い空気を吸わせる方法もあったそうですが今はあまり推奨されていないようです。

「悟さん、大丈夫ですよ。ゆっくり息を吸ってください」

「はっ、はっ、はっ、はっ」

 私が食べた薬草の中に心を落ち着かせるハーブがあったので【薬草】を使用して少しでも悟さんを落ち着かせようとします。しかし、彼の呼吸は一向に落ち着くことはおろかどんどん速くなっていきます。何度も吐いた後の過呼吸。きっと体力的にも精神的にもすでに限界を超えていたのでしょう。推奨されていない紙袋を使った対処法を試そうにも今は紙袋を持っていません。

「このままでは……」

 過呼吸そのもので死ぬことはないそうですが失神してしまう可能性があり、そうなってしまえばマスターの救出は絶望的。私には東の能力は効きませんが(変形)を使う人は必要です。ここで悟さんに倒れられたらマスターたちを助けに行くことすら叶わなくなってしまうのです。

 ですが、だからといってこれ以上、私にできることはなく、ただ震える声で悟さんに話しかけながら【薬草】を発動させた手で背中を擦るだけ。それが悔しくて思わず奥歯を噛みしめてしまいました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――……。

 

 

 

 

 

 

 

「……え?」

 その時、微かに誰かの声がしたような気がして擦る手を止め、顔を上げます。しかし、ここには私と悟さんしかおらず、マスターたちとも離れているため、彼らの声ではないことは確か。それに風の音にすら掻き消されてしまいそうなほど小さな声でしたがその主は可愛らしい女の子でした。

「はぁ……はぁ……あ、れ」

 声の主を探そうと視線を彷徨わせていると不意に悟さんが声を漏らします。慌てて彼を見ると不思議そうに私のことを見つめていました。

「悟さん! 大丈夫ですか!?」

「あ、あぁ……今の――いや、それよりも響たちは!?」

 何か言いかけた悟さんでしたが地面に落とした小型双眼鏡を手に取ってマスターたちへ視線を向け、それに倣うように私もそれを追いました。そこには倒れるリョウさんと呆然とした様子でへたり込むマスター。そして、そんなマスターの顔を覗きこみながら手に持った黒い石をマスターに翳す東の姿。たったそれだけで私は理解してしまいました。私の生物センサーに彼女が引っ掛からなかったから。

「くっ……あいつ、なにやってんだ!?」

 倒れているリョウさんを見て悟さんが悔しげに顔を歪めましたがすぐに冷静になって状況を把握しようと声を荒げます。先ほどまでの悟さんならあの無残な光景を見たら吐いていたはずなのに吐き気を催した様子すら見受けられませんでした。そんな彼の変わりようが気になりましたが今はそれどころではありません。

「何をしているのかまではわかりませんがマスターの様子が明らかにおかしいです!」

 あんな黒い石を翳されているのに何も反応しない時点でマスターに異常が起きているのは間違いありません。とにかく今は東からマスターを離した方がいいでしょう。あの異常な身体能力を持つ東相手に私たちが敵うとは思いませんがこのまま黙っていることはできません。真正面から戦えば一瞬で叩きのめされてしまうので戦わずにマスターたちを救出するしかなさそうです。

「急いで助けに――ッ」

 悟さんも同じことを考えたのか急いで立ち上がろうとしましたがバランスを崩してその場で片膝を付いてしまいます。度重なる嘔吐と過呼吸で彼の体力は想像以上に削られているようでした。このまま【翼】でマスターを助けに行っても今の悟さんではマスターとリョウさんを掴んで持ち上げることは難しいでしょう。しかし、私も東から逃げるために変形していなければならず、マスターたちを持ち上げるお手伝いはできません。

「……悟さん、10秒待ってください」

「え、いや、でも」

「大丈夫です。少し改造(・・)するだけですから!」

 ならばと頭の中で変形の設計図を広げ、パパッと追加の機能を書きこみます。そして、約束通り、10秒で変形の改造を済ませ、悟さんを立ち上がらせました。

「お待たせしました! これなら大丈夫です!」

「大丈夫って……もう腕力が――」

「――わかってます。なので、悟さんはハンドルを握ってるだけでいいです(・・・・・・・・・・・・・・・・)

 悟さんも体力が底を尽いていることに気付いていたようで悔しげに両手を握りしめましたが時間もないのでそれを遮って私は【翼】ではなく、【バイク】に変形します。まさか大きな音の出る【バイク】に変形するとは思わなかったのか悟さんは目を丸くしました。

「早く乗ってください!」

「……」

「大丈夫。私を信じてください」

「……わかった」

 私の言葉に悟さんが頷き、【バイク】に乗っておそるおそるハンドルを握ります。しかし、ハンドルを握る手は微かに震え、発進した瞬間、投げ出されるでしょう。

「少し苦しいかもしれませんが我慢してくださいね!」

「え? おわっ!?」

 バイクの両側面に取り付けたハッチからワイヤーを伸ばし、悟さんの腰に巻き付けた。車が事故を起こした時に乗っている人たちの体が吹き飛ばないように固定するシートベルトを参考にしました。これで全力を出しても悟さんは吹き飛ばされません。

「それじゃあ、行きますよ! 姿勢は低くしててくださいね!」

「え、ちょ、待っ――」

 悟さんの制止の言葉をあえて無視して私はエンジンを全開に、『振動を操る程度の能力』の出力を最大にして茂みの中から飛び出しました。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。