「……よく、眠ってるよ。今、奏楽ちゃんと霙ちゃんがついてくれてる」
襖を開けて居間に戻ってきた静さんが小さな声で診断結果を口にします。しかし、彼女の表情はどこか深刻そうであり、『眠っている』だけではないことはすぐにわかりました。それでも命の別状がないだけでも安心したようで私を含めた全員がホッと安堵のため息を吐きます。
【バイク】と【ワイヤー】を駆使してどうにか逃走に成功した私たちは博麗神社に辿り着き、すぐに手短に状況を説明して静さんに意識を失ったマスターを診察してもらうようにお願いしました。そして、静さんの診察が終わるまでの間、無事に博麗神社に戻っていた雅さんたちに今までにあったことを説明していたところです。診察に時間がかかったのかもうほとんどのことを話してしまいましたが
「……それで、主人は?」
壁に背中を預け、腕を組んでいたドグさんが今まで誰も話さなかった――いえ、話せなかった話題を口にしました。静さんにマスターを預ける際、リョウさんも一緒に母屋の中へ運びましたがその時すでに何事かと集まってきた皆さんはリョウさんの死体を目撃しています。
だからこそ、全員ドグさんへ非難の目を向けました。だって、リョウさんは静さんの旦那さん(体は女の子でしたが)で、その質問は自分の夫の死を言葉にさせる、あまりにむごい仕打ちでしたから。
「リョウちゃんは……うん、ダメだった」
ドグの質問を受け、目を伏せた静さんは首を振って微かに笑って答えます。見れば彼女の手の爪に赤い汚れが僅かに付着していました。きっと、診察がここまで遅くなったのはマスターの容態を確かめるよりもリョウさんの蘇生に時間をかけたのかもしれません。
「そんな……お父さん……」
静さんの言葉にとうとう望さんが涙を零してしまいます。私と悟さんの話を聞いている間もリョウさんの無残な姿を思い出して目に涙を溜めていましたが、死を言葉にされて我慢の限界を迎えてしまったのでしょう。
「ちょっとドグ! あんたねぇ!」
「リーマ、今はそれどころじゃないでしょ!」
無神経な質問をしたドグさんの胸ぐらをリーマさんが掴みますがすぐに弥生さんが止めに入ります。私たちの中で東の能力が効かないのはマスター、奏楽さん、私の3人のみ。しかし、奏楽さんはまだ幼く、私にいたっては1人で戦うことすらできません。そのため、唯一東に勝てるのはマスター1人。そのマスターの全力を持ってしてでも東には敵わず、たとえ私と共に戦っても勝てないでしょう。それだけ東の強さは異常でした。
そんな状況で身内で争っている暇はありません。ありませんがそれよりも私が気になったのはドグさんの態度です。ドグさんはリョウさんの式神であり、彼女の死は彼にとってもショックなことであるはず。それなのに彼は静さんの答えを聞いても、望さんの涙を見ても、リーマさんに胸ぐらを掴まれても表情一つ変えることなく、ただそれを受け入れていました。
「……ドグはいつから気付いてたの?」
「主人が死んだその時から」
その時、不意に霊奈さんが鋭い視線をドグさんに向けながら問います。そして、なんの躊躇いもなくそう答え、私はハッとしました。
ドグさんはリョウさんの式神。つまり、マスターと雅さんたちのように式神の繋がりがあるのです。その繋がりが突如としてなくなればリョウさんの身に何かあったとすぐに気付くでしょう。だからこそ、彼は他の皆さんよりも落ち着いている。すでにリョウさんの死を受け入れる覚悟を決めていたから。
「ッ……待って。ドグ、大丈夫なの? リョウから地力の供給がないってことは」
「まぁ、いずれ消えるだろうな。お前たちとは違って死体から生まれた式神だし」
この中で最も式神歴の長い雅さんが何かに気付いたのか少しばかり顔を青ざめさせてドグさんに聞くと彼はあっけらかんとした様子でそう言いました。ですが、それは納得できる答えではなかったのか雅さんは目を細めます。
「死体からって……どういうこと?」
「だから、俺は元々普通の人間で主人の目の前で妖怪に殺された。だけど主人は何を思ったのかよくわからん術式を組んで俺を式神として蘇生させたんだよ」
雅さんを始めとしたマスターの式神たちは皆さん、式神になる前は生身の妖怪でした。おそらくマスターからの供給がなくなっても大幅な弱体化はしても死ぬことはないでしょう。
しかし、ドグさんはすでに死んでいる身。蘇生させたところでいずれドグさんは亡骸へと戻ってしまうでしょう。それを防いでいたのがリョウさんの術式であり、その術式を発動し続けていたものこそリョウさんから供給されていた地力。
そう、リョウさんが死ねばドグさんの命の源である地力の供給もなくなり、彼は活動を停止し、再び死ぬ。いえ、
「じゃあ、どうにかしなきゃ!」
「別にいいよ。主人が死んだ時点で俺が生きてる意味はないし、そもそも俺が消えるまでの間に幻想郷はぶっ壊れるだろうしな。それよりも早く今後の方針を考えようぜ。ここまで来たら最期まで付き合うぞ?」
弥生さんの悲鳴を鼻で笑い、ニタニタといつものように口元を歪ませるドグさん。もう少しで死んでしまうというのに彼は何も変わりませんでした。それがどこか不気味で、人間味がなく、『ああ、本当にこの人は一度、死んでしまったのだ。だから、どこか頭のねじが外れているのだ』と納得してしまいます。
「うん、ドグの言うとおり、今は東って人をどうにかしないと」
そんなドグさんの異常さに皆さんが困惑する中、静さんが座布団の上に正座しながら言いました。まさかドグさんだけでなく、静さんまでリョウさんの死を悲しまずに話し合いを始めようとするとは思わず、大きく目を見開いてしまいました。
「静さん、どうして……」
「だって、リョウちゃんのことを悲しんでいても何も変わらないでしょ? なら、さっさとこの事件を解決して……心おきなく悲しむ。もし、東の思惑どおり、幻想郷が崩壊したらそれこそリョウちゃんの死は無駄になっちゃうから」
擦れた声で質問した悟さんに引き攣った笑みを浮かべ、静さんは答えます。リョウさんはマスターを庇って死にました。その時、彼女がどんなことを考えていたのか、それを確かめる手段はリョウさんが死んでしまった今、目を覚ましたマスターにその時の状況を聞くことぐらいしかできません。
なら、今の私たちにできることはリョウさんの死という結果から彼女の考えを推測し、それを尊重する行動を取る。それが、リョウさんの死を無駄にしない唯一の手段です。
「……わかりました。じゃあ、本題に入ります」
ドグの覚悟と静さんの想いを聞いた悟さんは見渡すように全員に視線を向け、反対意見がないことを確認した後、ゆっくりと口を開きました。
「静さんがいない間にある程度の話をしました。簡単に言えば東の異常な身体能力を前に響は完全敗北。で、ここからが本題。響の翠炎の蘇生を考慮した特攻すら東には通用……いや、向こうも響と同じように蘇生能力があった」
「蘇生、能力!?」
悟さんの言葉にリーマさんが声を荒げます。もちろん、彼女だけでなく、他の皆さんもひどく驚いているようでした。
「ああ……確かにあの時、響の鎌は東を両断した。そのはずなのにあいつの胸が一瞬だけ光ったと思ったら何事もなかったように立ってたんだ。そして、蘇生中で動けない響へ攻撃を仕掛けた東の前にリョウが飛び出して……」
そこで悟さんは言葉を区切り、数秒ほど沈黙します。『蘇生』、『リョウさんの死』と衝撃的なことをいっぺんに伝えたので少しだけ情報を整理する――というより、気持ちを整理する時間を与えたのでしょう。そのおかげで悟さんが再び話し出した時には皆さん、悟さんの方を真っ直ぐ見つめています。あの涙を流していた望さんでさえ。
「それから色々あって少しの間だけ俺と桔梗ちゃんは響たちから目を離してたんだけど……気付いた時には東は響に妖しげに輝く『黒石』を翳して何かをしていた。それを見て俺たちは慌てて響とリョウを回収して逃げたんだ」
「よく、逃げられたね……響を一方的に殴れる相手に」
「あの時、東が何をしていたのかわかりませんが、どこか疲れている様子でした。きっと、あの時点で東はマスターに何かをして、それを終わらせていたのでしょう。だから、追いかける必要がなかった。もしくは逃がすことこそが目的だった。そうとしか思えません」
霊奈さんの呟きに震えそうになる声をなんとか抑えて言いました。そう、私たちは負けたのです。全て、東の掌の上。一矢報いることすらできず、ただ奴の思惑通りに逃げ出すことしかできなかった。その事実が私たちに重くのしかかります。
それから私たちの間で今にも押し潰されそうになりそうなほどの重い沈黙が流れました。ですが、それも無理はありません。きっと、ここにいる全員がマスターの強さを知っています。そのマスターが手も足も出ず、東にいいようにやられたのです。東の強さを目の当たりにした私と悟さんならまだしも、ここにいる皆さんはまず、マスターと東の戦力差を受け入れるところから始めなければなりません。そのため、その事実をすぐには受け入れられないのでしょう。
「皆さん、マスターが目を覚ましました!」
すると、突然襖が勢いよく開かれ、霙さんが姿を現し、待ち望んでいた報告をしてくれました。彼女の言葉を聞いた皆さんは一斉に立ち上がり、マスターが寝ている寝室へと大慌てで向かいます。もちろん、私も例外ではありません。むしろ、空を飛べる分、他の方よりも早く寝室へと辿り着きました。
「マスター、ご無事ですか!?」
持てる力を込めて寝室へと繋がる襖を開けるとそこには呆然としている奏楽さんと相変わらず荒い呼吸で眠っている霊夢さん。そして、眠る彼女の隣に敷かれた布団の中で上半身だけ起こしてこちらに視線を向けるマスターがいました。霙さんの言うとおり、マスターは無事に目を覚ましてくれたようです。
「……その声は、桔梗か?」
「はい、マス――え?」
寝起き特有の擦れた声で呼ばれたので返事をしたのですが、その途中で違和感を覚えて言葉を詰まらせてしまいました。こちらに視線を向けているはずなのに何故か目が合わないのです。
「マス、ター?」
そう声をかけながらゆっくりとマスターの元へと移動します。背後に皆さんの気配を感じますがそんなことは気にしていられません。嫌な予感が頭の中でガンガンと警報のように鳴り響いています。
「ッ――」
そして、マスターの目を覗きこんで私は気付いていまいました。
マスターの黒目が限りなく白に近い灰色になっていたのです。