東方楽曲伝   作:ホッシー@VTuber

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第466話 思考の定義

「おき、てる……かし、ら」

 皆が寝室を出て行った後、たどたどしく、今にも消えてしまいそうな声で問いかけたのは東に霊力を奪われ続け、衰弱しているはずの霊夢だった。

「霊、夢?」

「ぁ……起きてた、のね」

 俺が声を出すとどこかホッとしたように声を漏らす。目が見えないので彼女が今、どんな顔をしているかわからないが安心したことは何となく察した。

「お前こそ、起きたのか」

「そりゃ、あんなに近くで騒がれたら、ね……ふぅ」

 俺の質問に答えた霊夢だったが一言話しただけで溜息を漏らす。話すことすら億劫なのだろう。それだけ霊力を奪われてしまったのだ。そう、幻想郷が崩壊すると同時に彼女も死ぬ。もう彼女の命は半日後には――。

「……もう、馬鹿ね」

 その時、不意に俺の頬に温かい何かが触れた。それが彼女の手だと気づくのに数秒ほどかかり、すぐにその温かさに顔を歪めてしまう。この温かさは半日しか持たないことを知っているから。

「あなたは、本当に……馬鹿よ」

「何の、話だ」

「さっきの話、意識が朦朧としててよくはわからなかったけれど……響が苦しんでることぐらいわかるわ」

 震える手を俺の頬を撫でるように動かしながら優しい声音で話す霊夢。もう彼女の顔は見えないが優しく微笑んでいるような気がした。

「ええ、そう。あなたは苦しんでるの。色々なことがあって、色々なことを思って、それが重くて、苦しんで、悩んで、悶えて……動けなくなっちゃった」

「……」

 諭すように語る霊夢に俺は無言を貫く。

 世界の滅亡、幻想郷の崩壊、霊夢たちの命――そして、俺の死。

 その全てが重い。1つですら一人で背負うには重すぎるのにそれが複数あるのだ。

 それに加え、俺が死ねば世界は滅亡し、世界を守るためには幻想郷と霊夢たちを諦めるしかなく、幻想郷と霊夢たちを救おうとすれば十中八九、俺は死ぬ。

 そう、今の俺には全てを救うことができない。東との戦力差は歴然。ましてや、俺が死に、世界が滅亡すれば幻想郷と霊夢たちも共倒れする。俺が東と戦えば全てを失うのである。

 なら、いっそのこと、幻想郷と霊夢たちを諦めた方が、と考えてしまい、そんな自分に失望した。

 だから、考えることを止めた。

 こんなことをしている場合ではないのはわかっている。世界を守るにしても、幻想郷を救うにしても早くどちらかに決めて動くべきなのだ。

 でも、東の絶望を経験した俺は少しばかり疲れてしまった。何かを背負うことに嫌気がさしてしまった。戦うことに怖気づいてしまった。真っ暗な世界が怖くなってしまった。その結果、俺は今、ここで動かずに布団の中で震えている。惨めにこの先に待つ未来を想像しながらも最悪を恐れて身を丸めている。なんと情けない話だろう。

「……ふふ」

 突然、霊夢が小さく笑い声を漏らす。まるで、簡単な問題なのに答えがわからず、ずっと悩んでいる子供を見守る母親のように。

「そこが馬鹿だって言ってるの。確かに考えることは大切……でもね、考えるのは動くための準備なの」

 霊夢はそこで言葉を区切り、少しだけ深く呼吸を繰り返した。きっと、衰弱しているから長くは話せないのだろう。今の霊夢にとって話すことすら体力を消費する行為なのだ。

「動くために考える。考えたから動く。考えるだけじゃ……意味がないの」

 だが、彼女は話すことはやめなかった。震える手を俺の頬に当て、掠れた声で言葉を紡ぎ、消えかかっている命を懸命に燃やして俺に気持ちを伝えているのである。

「だから、響……前を見なさい。立ちなさい。歩きなさい。走りなさい。戦いなさい。そして、守りなさい。考えてしまったのなら……この状況をどうにかしようと思考を巡らせてしまったのなら最後まで足掻きなさい。それが、私の知る『音無 響』という人物よ」

「……でも、無理だ。東を倒す手段がない。どうすればいいかわからないんだ」

 そう、結局のところ、そこへ収束する。全てを守るためには俺が東を倒すしかない。だが、立ち上がったところで今の俺では東を倒せない。だから、世界も滅亡し、幻想郷も崩壊し、霊夢たちも死ぬ。共倒れするぐらいならいっそ――。そこまで考えて思考がストップする。それをずっと繰り返しているだけ。

「じゃあ、仲間を頼りなさい。あなたはもう知っているでしょう? 仲間の大切さを。一人でできることの少なさを。肩を並べて戦う心強さを」

「だが、東に近づけば今度こそ皆は……」

 あいつの絶望を経験したからこそあの能力の恐ろしさを俺は識っている。神経を鈍らされることはもちろん、何より恐ろしいのは自分が神経を鈍らされていることに気づけないこと。東の傍にいればいつの間にか警戒心を鈍らされ、自分から近づき、奴の手の中にいて逃げられなくなる。前々回の世界線ではそれのせいで皆は東に味方し、あんなことになってしまった。翠炎がいなければ前々回の世界線と同じように今頃、桔梗と奏楽以外、東の味方になっていただろう。

 すでに東の能力を知っている皆ならすぐに奴の虜になることはないだろうが翠炎が使えない今、運動神経はどうにもならない。俺と一緒に戦えば皆はすぐに殺されてしまう。

「だから、相談すらしない? これ以上、巻き込むわけにはいかないから事情すら話さず、ここで独りで拗ねてるの?」

「拗ねてるわけじゃ――」

「――拗ねてるじゃない。どう足掻いても勝てない相手を前にどうすることもできなくて、そんな自分が嫌で不貞寝してる。違う?」

「……」

 何か言い返そうと口を開けるが言葉が詰まり、結局、小さく息が漏れるだけに終わる。

 東と戦い、俺が死ねばそれを見て絶望した奏楽によって世界も幻想郷も霊夢たちも終わる。しかし、逆説的に言えば俺が東に勝てば全てを救うことができるのだ。そう、勝つことさえできれば。

 世界が滅亡するだの、幻想郷が崩壊するだの、霊夢たちが死ぬだのと色々と考えたが根本的な問題は俺が東に勝てないことにある。それがわかっているから俺は布団の中で思考を停止させた。だって、勝てないのは自分が弱いせいだから。

 東に勝てなかったことが悔しくて、自分せいで何もかも失うことが怖くて、何もせず幻想郷や霊夢たちを失うのが恐ろしくて、こんなところで無駄に時間を浪費している。これを拗ねていると言わずして何になる。

「響……こっちを見て」

「……もう何も見えない」

「いいから。声で私の顔ぐらいどこにあるかわかるでしょう」

 ずっと触れていた手を引っ込めたのか、頬からぬくもりが消えた。そして、霊夢の指示通りに彼女の声を頼りに顔を動かす。一体、この行為に何の意味があるのだろう。もう俺は彼女の生きている(・・・・・)姿を網膜に焼き付けることはできないのに。

「……」

「……」

 顔を向けたはずなのに彼女は何も言わない。俺も霊夢が何をしたいのかわからず、黙っているしかなく、沈黙が続いた。

 それからしばらく黙っていたが真っ暗な世界にいる俺にとってその沈黙はとても辛く、どんどん不安になっていった。

 俺が顔を向けた瞬間に彼女に限界が来て気を失ってしまったのではないか?

 いや、長く話したせいでとうとう霊夢の体力が底を尽き、そのまま――。

 そんな嫌な考えが頭を巡り、胸の奥の何かを燻ぶらせる。そう、それこそ彼女が倒れているのを見た時に、彼女の命が失われかけていると分かった時に動いた俺の知らない感情。名前のない気持ち。それらが時間が経つにつれ、どんどん揺れ動き、胸を締め付け、心を闇色に染めていく。

「霊夢? 起きてるのか?」

「……ええ、起きているわ」

「っ……そうか。なら、何か言ってくれ。こっちは何も見えないんだから」

「それはごめんなさい。謝るわ……でもね、響、あなたの仲間もきっと今のあなたと同じ気持ちよ。だって、気持ちは目には見えないもの。言葉にしなきゃわからない……いえ、言葉にしてもわからないことはあるけれど、言葉にしなきゃ何も始まらない」

「……」

 そこで霊夢は乱れ始めた呼吸を整える。今度は深い呼吸音が聞こえたので不安にならなかったが、それ以上に今の彼女の言葉に僅かながら罪悪感を覚えた。

 今の俺は物理的に何も見えない。だから、歩くためにはまず手探りで何か触れるものを探すだろう。しかし、どんなに手を振り回しても、めちゃくちゃに歩いても何も触れられなければいずれ立ち止まってしまうはずだ。自分が今、どこにいるのかわからず、不安になってしまうから。

 きっと、これは精神的な意味でも同じだ。相手が何を考えているかわからないから人は会話をして手探りでその人の性格や考え方、好みを知る。そうして初めてその人へと歩み寄ることができるのだ。

 では、こちらの質問に相手が何も答えなければ? 会話という会話がなく、表情も読めず、何をしても無視するような相手ならどうだろう。もちろん、そんな人へ歩み寄ることはできない。好きになるにも、嫌いになるにもまずはその人を知らなければどうすることもできない。

 目に見えないのに、体のどこにあるのか現代医学でもわからないのに、確かに存在しているそれを人は『心』と呼ぶ。

 そして、俺はその『心』を皆に隠している。だから、皆は俺を助けたくても助けられない。

 『皆で生き残る覚悟』。皆は俺を、俺は皆を、皆は皆を守り、全員で生き残るという覚悟を俺は果たして持ち続けているのだろうか。こんな――仲間に頼ることすら怯えるようになってしまった情けない俺は果たして。

「だから、まずは皆と……話しなさい。今後どうするか、皆で話し合ってきめ、るの」

「……霊夢?」

「あと、は……お、ねがい、ね」

 伝えたいことは伝えたのか、霊夢の声がどんどん弱くなり、聞こえなくなってしまった。とうとう限界が来てしまったらしい。残り時間はもう半日もない。小さくも苦し気な霊夢の寝息がタイムリミットが迫っていることを示していた。

「……」

 だが、命を燃やしてまで伝えてくれた言葉は弱りきった俺の心を動かすには十分すぎるほどの熱量を持っていた。もう少し、もう少しだけ考えてみよう。この後、どう動くか決めるために、もう少しだけ思考を巡らせよう。それが俺のために頑張ってくれた霊夢への唯一のお礼だから。


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