深い、深い海の底からゆっくりと浮き上がる感覚。真っ暗な深海から浮上したことで海面に注ぐ光が目に届くように少しずつ、少しずつ意識が戻っていく。どれほど俺は深い眠りに落ちていたのだろう。それが微睡みの中、まともに働かない思考回路が導き出した感想だった。
「……」
そして、やっと自分が目を覚ましたと自覚した頃になって自然と目を開けていたことに気づいた。今まで目を開けていたことに気づかなかったのは寝ぼけていたからではない。目を開けていても目の前に広がっていたのが闇だったからである。部屋が暗かった? いや、俺はこれでも吸血鬼の血が混じっている。夜目は一般人よりも効く方だ。むしろ、目を閉じていても景色は見えずとも網膜は瞼に当たる光を感知する。だから、闇しかないことが不自然。
(ああ……そうか……)
そこで俺の目は――視神経は光を感じ取れないほど鈍らされたことを思い出した。また、望や悟から受け取った能力のことも。
視力が弱い人が眼鏡を掛けるようにすぐに両目に地力を注ぎ、『穴を見つける程度の能力』と『暗闇の中でも光が視える程度の能力』を発動する。すると、目は見えていないのにしっかりと博麗神社の天井が視えた。どうやら、俺は博麗神社の一室に寝かされているらしい。しかし、万屋の仕事で幻想郷に泊まることになった時は霊夢の許可をもらって博麗神社の客間を借りているがその天井ではない。前までなら天井の些細な違いに気づかなかっただろうが、『薄紫色の星が浮かぶ瞳』はそれすらも視つけてしまう。なにより、この天井に俺は見覚えが
「……」
見覚えがないはずなのに、妙な既視感といえばいいのだろうか。いや、それも違う。俺は確かにこの天井を知っている。今のように朝、目が覚めた時に何度もこの天井を見ていた。
ああ、そうだ。俺はこの部屋で寝ていた。今なら全てを思い出せる。忘れてしまったからこそ、『薄紫色の星が浮かぶ瞳』が見つけてくれる。
母さんが『博麗の巫女』を剥奪され、外の世界に追い出された際、紫から宛がわれた家が外の世界の博麗神社である。もちろん、幼子であった俺も母さんと共に外の世界の博麗神社に住んでいた。その時にこの部屋を寝室として使っていたのだ。
そして、
翠炎に過去の記憶を燃やし尽くされてしまった俺でなくても、普通の人間であれば赤子の時の記憶はない。しかし、『薄紫色の星が浮かぶ瞳』は翠炎に燃やし尽くされた過去の記憶だけでなく、赤子の時の記憶も一緒に視つけた。今の俺は『時任 響』がこの世に産まれ落ちた瞬間の記憶すら覚えている。
ただ、『薄紫色の星が浮かぶ瞳』で取り戻した記憶は『思い出した』というより『覚え直した』と言った方がいい。つまり、あの瞬間、俺は走馬灯のように欠如した記憶を体験した。だから、天井の些細な違いにも気づいた。
「……」
なにより重要なのはこの部屋は霊夢が普段、寝室として使っていることだ。そんなところを俺が占拠していれば自然と霊夢が寝る場所がなくなる。客間も寝室も大きさはさほど変わらない。俺が泥のように眠っていたのだから望たちも外の世界に帰れず、博麗神社に泊まっていると思うがそれでも俺が寝室で寝る必要はないはずだ。
「すぅ……すぅ……」
そんなことを考えていたが不意に近くから誰かの寝息が聞こえる。何だろうと首を動かそうとするが体はまるでコンクリートに埋められてしまったようにピクリとも動かない。この感覚は『ブースト』系のスペルを使った時のデメリットに似ている。それほど俺は無理をしていたのだ。魂構造は崩壊し、自分でもコントロールするのに苦労する『象徴を操る程度の能力』を暴走させ、更に能力を酷使。最後は力尽きて墜落死寸前まで陥ったのである。死んでないだけマシ、と言えるだろう。
だが、これでは横を向くことすらできない。まぁ、隣で寝ている人には心当たりがある。もちろん、その根拠はない。
「霊夢」
「……起きたのね」
俺が声をかけると寝息は途切れ、隣から聞き慣れた――聞きたかった声が聞こえた。顔を動かせないが視線を感じるのできっと隣で寝ている彼女はこちらを見ているのだろう。
「……どうしたの?」
「後遺症で体が動かせないんだよ」
「そう」
「……っと」
霊夢の疑問に答えると隣からグイっと頭を掴まれ、横を向けられる。そこには寝間着姿の霊夢がいた。背後にある襖から僅かに漏れる光がスポットライトのように彼女を照らしてどこか幻想的な印象を受ける。
「改めて、おはよう」
「ああ、おはよう」
きっと、今の時刻は深夜だ。それでもこの場所で俺たちが最初に交わす言葉は『おはよう』。それが昔からの俺たちの暗黙のルール。約束。決まり事。それを霊夢もわかっていたからこそ『おはよう』と言ったのだろう。
「……どれくらい、寝てた?」
「丸三日。その間、どんなに揺すっても、叩いても起きなかったのよ?」
そう言った彼女は安堵の溜息を吐き、優しく微笑んだ。溜息が出るほど俺のことを心配していたのだろう。それに
「東は?」
「……消息不明。私があなたを博麗神社に運んでる間にどこかに行ってしまったわ」
まるで他人事のように報告する霊夢。東の行方がわかっていないのに『博麗の巫女』である彼女がさほど焦っていないところをみるにやはり憎悪を全て取り除くことに成功したのだろう。今後、奴がどのような生き方をするのかわからないが少なくとも幻想郷を崩壊することはないはずだ。
「そうか」
「……ありがとう、響。私たちを助けてくれて」
霊夢はどこか悲しげな表情を浮かべながら俺の頬に手を当て、お礼を言う。救われたのにどうしてそのような顔をするのだろうか。そんな疑問が浮かび、すぐに『薄紫色の星が浮かぶ瞳』がその
三日間も寝ていたのだ。東の手によって地力を奪われていた幻想郷の住人たちもそれなりに体調も戻っている。そして、今回の異変に関して調査を始めたはずだ。特に幻想郷が崩壊寸前だったこともあり、紫は念入りに調べるだろう。もちろん、その調査には俺と東との戦いも含まれている。俺が失ったものについても、きっと。
「気にすんなって。お前たちが無事で本当によかった」
「よく、ないわよ……だって、あなたは視力を失って……大切な人も……」
『博麗の巫女』である彼女は鋭い直感を持っている。だから、俺が『視神経が鈍った』という矛盾を翠炎で燃やすつもりがないことも
確かに翠炎を使えば俺の目は治せるだろう。しかし、俺が視力を失ったのは望と悟から能力を貰う前だ。もし、翠炎で燃やしてしまったら『穴を見つける程度の能力』も『暗闇の中で光を失う程度の能力』も燃やされてしまう。ドグの能力を利用して能力を望たちに返すことも考えたが、予想以上に俺と二つの能力は相性が良く、ドグの能力で切り離そうとすれば何かしらの影響が出るレベルだ。それに、それを抜きにしても死んでいたかもしれないのに二人が俺を信じて託してくれた能力をなかったことになんてしたくはなかった。
「視力は能力のおかげで何とかなるし……リョウと桔梗が死んだのは俺は弱かったからだ。お前が気に病むことなんて――」
「――気に病むに、決まってるでしょう」
俺の言葉を遮るように言った霊夢はどこか怒ったように俺を睨む。