そこまで長くならないと思いますが、皆様、ぜひ最後までお付き合いください。
EX1
――れいちゃん
どこからかノイズ交じりの声が聞こえた。それはあまりにノイズが酷く、声の主が男なのか、女なのか。幼い子供なのか、還暦を超えていそうな老人なのか判断できなかった。
「ッ!」
しかし、少なくとも幼い私にとってその声の主は近しい存在だったのだろう。呼ばれた私は嬉しさを抑えきれなかったのか満面の笑みを浮かべて振り返った。その視線の先にいたのは顔面が黒く塗りつぶされた誰か。これでは私を呼んだ人がどんな顔をしているのかわからない。それならばとその人の情報を少しでも手に入れようと視線を彷徨わせるが、それに合わせるようにその黒く塗りつぶされた場所も動く。どんなに激しくしても、フェイントをかけても、その黒く塗りつぶされた場所は私の視界を遮り、その人を隠してしまう。
――霊夢
再びその人が別の名前で私を呼ぶ。それでも幼い私は自分が呼ばれたようにパタパタとその人へと駆け寄る。そして、二人は仲良く手を繋ぎ、どこかへと歩き出した。まるで、大人になった私を置いていくように。
「待って……待って!!」
私は咄嗟に手を伸ばして二人の後を追う。今、あの人に追いつけなければ私は絶対に後悔する。その根拠はわからない。でも、根拠のない確信が私の胸を燻ぶる。いつかの私が今の私に警告してくる。だから――。
「ぁ……」
――しかし、そんな私の願いとは裏腹に二人はどんどん先に行ってしまう。ああ、駄目だ。待って。お願い。私を、置いていかないで。
「……」
ふと気づくと私は天井に手を伸ばしている状態で目を覚ました。そして、目元には涙を流したような感触。どうやら、
「……ふぅ」
体を起こして朝日を受けて白く輝く襖に目を向ける。あの夢を見た後はいつも以上に倦怠感に襲われ、すぐに動けない。体ではなく、精神的にダメージを受けているようだ。
大切な何かを失ったことに気づいた直後の喪失感と今までそれに気づかず呑気に生きていた自分に対する嫌悪感を同時に抱かされたような負の感情。それをあの夢を見る度に心に叩きつけられる。そんな夢を毎晩とまではいわないが、頻繁に見せられるのだ。正直、睡眠不足もいいところである。
「……」
しかし、だからといって私は夢に対して一方的な苛立ちを覚えていない。夢の内容は起きた後、ほとんど覚えていないけれどただの悪夢ではないことだけは知っている。そう、あの夢は――誰かが私に『忘れるな』と忠告しているように思えるのだ。
もちろん、さすがの私もこの悪夢には悩んでおり、永遠亭にまで行って診察してもらったほどだ。まぁ、あの永琳ですら原因がわからず、匙を投げたのだが。
「……よいしょ」
目覚めたばかりだからか立ち上がろうとすると体からギシギシと軋む音が聞こえる。節々が固まっていたのか、あの悪夢によって凍り付けられた心が悲鳴を上げているのか。起きかけの私にはわからなかった。
いつものように境内を掃除し、相変わらず空っぽの賽銭箱を時間を置いて何度か覗き込んだ後、私は縁側に座り、お茶を啜る。本来ならばのんびりしながら何も考えずに流れる雲を眺めるのだが、今日ばかりはずっと見ている悪夢について考えていた。
あの夢を見始めたのは――いつからだっただろうか。
「……」
ただの悪夢ならいい。夢見が悪かったと運のなかった自分にため息を吐くだけ。
だが、この悪夢はただの悪夢ではない。内容を覚えていないのはまだしも、悪夢による不調を自覚できていなかったことがあまりにも不自然だった。まるで、悪夢に関する認識をずらされてしまったような――。
「おーい、霊夢ー」
その時、上空から私を呼ぶ声が聞こえ、顔を上げる。上空ではいつもの箒に乗った普通の魔法使い――『霧雨 魔理沙』が大きな風呂敷を抱えながら手を振っていた。ただ手を振っているだけなのにやけに楽しそうな彼女にため息を吐き、早く降りてこいと手招きする。
「よっと……いやぁ、今日は森でなかなかよさげなキノコを見つけてな。おすそ分けに来た!」
「そう……怪しいキノコじゃないでしょうね」
「少なくとも私は怪しいとは思ってないぜ? 知ってる範囲しか確認してないが」
降り立った魔理沙は縁側に風呂敷を降ろし、ドカリと縁側に座った。何となく誰か来そうだと思い、用意していた予備の湯飲みにお茶を注ぎながら聞くと彼女はあっけらかんと答える。とりあえず、やばそうなキノコは捨てておこう。
「はい、出涸らし」
「お、サンキュー……ほんと、薄いな」
「飲めるだけマシでしょう」
文句を言いながらもコクコクとお茶を飲む魔理沙を尻目に私は自分の湯飲みを傾け、お茶の味を楽しむ。この前、人里に買い物に行った時に珍しく高級茶葉が値引きされていたのである。大事に大事に飲んでいるのだが、やはり最初の一杯が一番美味しい。
「……それで何の用?」
「おっと……わかるか?」
私の質問に魔理沙は驚くこともなく、歯を見せながら笑う。きっと、私が気づくことを確信していたのだろう。
「キノコのおすそ分けだけでそんなに楽しそうにしている方が異常よ」
「それもそうか……いいか、霊夢。よく聞け」
そこで彼女は言葉を区切り、縁側から立ち上がり、立てかけてあった箒を手に取った。そして、その場でブンブンと振り回し、最後は穂先を私に向ける。その時にはすでに彼女の顔から笑顔は消え、真剣な表情に変わっていた。
「妖精が騒いでる」
「ッ……」
彼女の言葉は一呼吸で言い切るにはあまりにも短かった。だが、その言葉は私に大きな衝撃を与える。
妖精が騒いでいる。きっと、数年前までなら『ああ、またか』とすぐに飲み込んで重い腰を上げていただろう。
しかし、それは数年前までの話。今の幻想郷で妖精が騒ぐことはあまりにも珍しいこと――それこそ、ここ数年一度もなかった。
幻想郷に平和が訪れた。きっと、今の幻想郷の状況を説明するなら『平和』と表現するのが適切だろう。
いつからそうなったのか、誰も知らない。だが、ある日、幻想郷で争いごとがパタリと止まってしまったのである。それこそ幻想郷の存亡を揺るがすような大きな『異変』はもちろん、妖精たちの些細ないざこざでさえも起きなくなった。それがまさに『異変』とさえも言われるほど幻想郷から一切の揉め事が消えてしまったのである。
平和であることに不満はなかった。『異変』は解決まで色々と面倒なことが多いので私としても起きないことに越したことはない。
しかし、そんな『平和』が訪れた原因を幻想郷に住む全ての生命が知らないことはあまりに異常であった。紫を始め、阿求、『歴史を創る程度の能力』を持つ慧音でさえ全てを把握できなかったのだ。わかったことは誰かの手によって幻想郷は『平和』という概念を植え付けられたこと。たったそれだけだった。
その人が誰なのか?
いつそれを実行したのか?
その方法は?
『平和』を植え付けるとは一体、どういうことなのか?
その全てが全くの不明。だからこそ、『平和異変』の調査はそこで打ち切られてしまった。調べてもその原因がわからないのであればどうすることもできないのだから。
そんな強制的な『平和』を満喫させられていた幻想郷で『妖精たちが騒いでいる』こと自体、ありえなかった。『妖精が騒ぐ』ことすら『平和』は許さなかったのだから。
では、どうして今頃になって妖精たちが騒ぎ始めたのか? その答えはすぐに出た。
「……魔理沙、行くわよ」
私はその重い腰を上げ、調査に出るために蔵へと向かう。『平和』を強制させられてからいつもの商売道具は蔵の中へと仕舞ってあったのだ。
「おう、そう言うと思ってたぜ」
箒を持ちながらニヒルな笑みを浮かべた魔理沙が私の隣に立つ。
私が数年前から見ている悪夢。
数年前から強制させた『平和』。
数年ぶりに騒ぐ妖精。
これは果たして偶然なのだろうか。きっと、その答えはこの騒ぎを追えばわかる。私はすっかり錆びついてしまった蔵の扉を蹴り開けながらそう確信した。