「あの…お兄ちゃん……今、大丈夫……?」
可愛い可愛い弟の声で、俺は読んでいた教科書から顔をあげた。
「ん?どうした?」
弟を見ると、右手にはグローブを持っていた。
「あの、キャッチボール、一緒にしてほしくて…、それで…」
モジモジと可愛らしい動きをする弟。
身長が俺よりもちろん低いから、上目づかいになっているのがまた可愛い。
可愛い。可愛すぎる。なんだこの可愛い生き物は!
「いいよ。ちょうど休憩したかったから、お兄ちゃんのキャッチボールに付き合ってくれるか?」
「うん!」
目を輝かせる俺の9つ下の弟。
小学生チームで俺と同じポジション、投手をやっている。
随分活躍しているらしいが、あいにく"あの試合"以来"あの競技"が俺の中でトリガーになって、激しい発作…呼吸困難を起こすようになったから、見に行けていない。
本音を言うならば、可愛い弟が活躍する姿を見たいに決まっている。
だけど、行っても俺のこの発作のことを知っている弟に心配をかける。
だから行っていない。
「今日はどっちでやるんだ?」
「右手で投げる!」
「ん。じゃあ、俺も右手で投げようかな」
俺がもともと両利きモドキなのもあって、俺を見て育った弟も両利きモドキだ。
だから、2人でやるときは必ずどっちの手で投げるかを確認するのが習慣になっていた。
「善歩(よしほ)はどっちの方が投げやすいとかあるのか?」
俺はアップのために、山なりのゆったりとしたボールを投げる。
もうプレイすることはないと分かっていても、今までの習慣とは怖いもので、練習をやめられず、肩を痛める行為や指には細心の注意を払っている。
「う~ん…。右手…かな?左手は、まだ慣れない…」
「左手使い始めて2年目だったっけ?」
「うん」
利き手と逆の手を思い通りに動かせるようになるには、とてつもない努力がなければならない。
俺はもともと左利きで、書道教室で直されたのをきっかけにモドキになった。
故に、どちらも割とうまく使える。
しかし、弟の善歩は右利きで今まで来て、俺の投球を見て左手も練習し始めた。
「左手って難しいね」
「慣れないうちはそうだろうね。
フォームとかも気を抜くとすぐに変なクセついちゃうから、絶対に誰か指導できる人がいるところ以外では左手では投げるなよ?」
「うん、気を付ける!」
そんな会話をしながら肩を温めて、そろそろ山なり投球ではなく普通の投球になってきた。
「……今度ね、ぼくが8回から投げるんだ」
「…監督がそう言ってくれたの?」
「うん…。でも、ぼく、自身なくて…」
ボールを持ったままのグローブを見つめ、呟く善歩。
「監督が投げていいって言ってくれたんだろ?
じゃあ、それに応えられるような投球をしないとだな!」
善歩は俯いたまま、何かを言いかけては、口を噤む。
「シホ?どうした?」
シホとは、善歩の愛称だ。
善歩はシホと呼ばれるのを嫌うが、こういう時はシホと呼ばないと、どういったワケか反応しない。
「………善兄(よしにい)、来てくれない………?」
善歩がやっと紡いだ言葉に、俺は思わずフリーズしてしまった。
今まで善歩は分かっていても、絶対に踏み込んでは来なかった領域。
今の俺には眩しすぎるその世界を………
善歩が楽しんでいるところを………
俺がコワスノカ??
「はぁっ、はぁっ……はぁ、」
「善兄!!」
善歩の心配する声が聞こえる。
俺の荒い息遣いも聞こえる。
嗚呼、ダメだなぁ。
また、俺は善歩にこんな顔をさせて。こんな声を出させて。
こんなに迷惑をかけて。
「ごめんねっ。ヒックッ……、分かってたのに…ぼく、の、わがままで………」
違う。
違うんだ、善歩。
お前が悪いんじゃない。
俺が……
俺が、悪いんだ。
「シホ、大丈夫っ、だから。お前の、せいじゃない」
「でもっ……!」
「試合は、行けないと、思う…。ごめ、んな?」
俺は今俺にできる精一杯の笑みを浮かべる。
俺は過ちを繰り返す。
あのスポーツから離れたくて仕方がないのに、練習をやめられず、毎日トレーニングをして、バッティングセンターに入り浸って。
なのに、弟の見に来てほしいという願いすら聞いてやれない。
色んな人に迷惑をかけながら、俺は誤った道を歩んでいった。