赫炎でシャルノス   作:ARUM

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序・少年の名は?

 

 

 

――いっちゃうよ。

 

――いってしまうよ、おじさん。

 

「そうだね、子供達。彼は今夜、行ってしまうようだね」

 

 酷く暗い闇の中。

 小型蒸気機関によるランタンの僅かな明かりだけが辺りを照らす地の底に、その男はいつもそうあるように、そこにいた。

 ランドルフ。

 気狂い。そう呼ばれる男は今日も地の底にいる。

 

 インガノック。

 

カダス有数の大都市にして、偉大なりし碩学《大公爵》アステアが統治した都市。

完全なるアーコロジーを達成した、多重積層型蒸気機関都市。

 

ただしそれも、全ては過去のこと。

 

十年前。

 何の前触れも無く、都市は変容した。

 《復活》と呼ばれる、その日から。

 人は異形に。

 恐怖が現実に。

 撥条仕掛けの怪物、《クリッター》が現れて。

 

 夢見る明日は深い霧と黒い排煙の向こうに消えた。

 安穏とした日常は黒々とした恐怖と狂気に塗り替えられた。

 誰も彼もが過去に怯え、忘却よってのみ、僅かばかりの心の平穏を得ることが出来る。

 都市が狂い、人が狂い……ただ変わらず、碩学によって生み出された機関だけが変わることなく動き続け、人の生活を支え、同時に人を蝕んだ。

 

 けれど、もう一つだけ。

この地下においては変わらぬものがもう一つ。

 ランドルフ。

 気狂いと呼ばれる、この男。

 この男だけは、日の光など元より差さぬ地の底で、インガノックが狂う前も、狂った後も変わらずに、こうして地の底で鉄匙を振るい、一人穴を掘っている。

 どこかを目指して。何かを目指して。

 穴熊の姿をした男は、時折地上に顔を出す時を除いては、変わることなく穴を掘る。

 今日もまた、同じように。

 明日もまた、同じように。

 

 しかし珍しいことに。

今日のこの日に限って言えば、地の底は静かだった。

ランドルフは、そこにいる。

けれど、鉄匙は土に突き立てられることもなく横たえられ、ランドルフもまた、鉄匙を振るう手を止めて、闇の中へと話しかけていた。

 

――どこへいくのかな。

 

「さて、どこだろうか。どこだと思う、子供達よ。

《無限霧》は晴れ、旅立ちを妨げるものはもはや無い。

己の二本の足でさえ、街から離れること能うのだ。どこへだって行けるだろう。

あるいは、それは旅立ちでなく、逃避であるかもしれないがね。

余りに長く、この都市は血と涙が流れすぎた。

忌まわしき十年分の朧気な記憶から逃れたいと願う者は、幾らでも居るだろう」

 

――かれも?

 

「いや――」

 

 闇からの問。ランドルフもまた、答えを闇へと返す。

 

「彼に限って言えば、そうではない。そうであるはずがない。

彼は誰よりも間近で、彼女と共に全てを見ていたのだよ。

決して諦める事なく前を見続けた、かのドクター・ギーの歩みを。

大公の黄金螺旋階段の果てにあるものさえ、彼は目にしているはずだ」

 

 ドクター・ギー。

 インガノックを救った、一人の巡回医師。

 《盲目の生贄》にして《おとぎ話》に終止符を打った男。

 狂った都市で諦めることをせず、ついに《黄金螺旋階段》を踏破した、ただ一人。

 

「いかな困難に出会すことがあろうとも。

彼は、決して諦めることをしないだろう。

仮に何かから目を背け、諦めてしまったならば……

――それは彼にとって、己の存在を否定することになるだろう」

 

 ――だいじょうぶかな。

 

「さて、どうだろうか。

彼の行く先になにがあるのか、それは私にもわからない。

都市の霧が晴れようとも、時計の針は未だ止まらず、世は平穏からほど遠い。

だが……きっと大丈夫だろうさ」

 

 ――どうして?

 

 ――どうして? おじさん

 

「諦めることさえしなければ、人は前へ進むことができる。

 そこに壁があろうとも、そこに穴があろうともだ。

進むことが出来るなら、道は自ずと開かれる。

故に、彼は前へ進むことが出来る。

彼はこの狂った都市を、インガノックをドクターと共に乗り越えた。

それ以上の困難に、そうそう当たることもあるまいし、その困難も、あるいは彼ならば、きっと乗り越えられるだろう」

 

 闇の中から、もう声は聞こえない。

 ランドルフが子供達と呼んだ、常人には聞くこと能わぬ声。

 彼らはもう、そこにはいない。

 闇の中。

 声はもう聞こえない。

 

「――さて」

 

 鉄匙を取り、地に突き立てる。

 暗がりを埋める黒い土を取り除き、今宵もランドルフは穴を掘る。

 どこかへ行き着くその時まで。

 

「一つ、老師の真似でもしてみるとしようか。

或いはこの私でも、今夜くらいはいいだろう」

 

 狂ってしまった大公爵がそうしたように。

 猫の姿をした、気ままな老師がそうするように。

 

「――喝采せよ! 喝采せよ!」

 

 

 

――全ては、過去のことだ。

 

 

 

  ◆

 

 

 

 右手を翳す。

 小さく、分厚い硝子窓。

 無骨な鉄の枠と六角のボルトで固定された嵌め殺しの窓の向こう。光が差す方へ。

 

小さな手。

柔らかく、肌には張りがある。

深い皺も、排煙のような黒い染みもない。

鉄の塊ではなく、まして光の集合でもない。

 

何の変哲もない子供の手。

 何の変哲もない、血の通った当たり前の人間の手。

 触れた硝子は、酷く冷たい。

 

「……喝采せよ、喝采せよ」

 

 ふと口をついて出たのは、かつて人知れず大公爵が叫んだ言葉。

 言葉の意味を知る者が、一体どれだけ残っているのだろう。

 ――どうして、この言葉が出てきたのだろう。

 

「起きたか」

 

 声にせっつかれるように、身を起こす。

 薄茶の毛布がずり落ちた。

 

 視界を覆う、亜麻色の髪が揺れる。

 髪も、肌の色もそう。

 ――彼女と同じ色。

 

「――フィクサー」

「ミスターだ。そう教えたはずだ。坊主」

「……ごめんなさい。ミスター、スタニスワフ」

「寝坊とは良い度胸だ。速く着替えろ」

 

 言われて、まずは髪を結う。

 

 枕元に置いておいた髪紐を取って、後ろで一つに。

 絹糸のような髪が、指の間を抜けていく。

 

「急げ。展望室で待ってるぞ」

 

 そう言って、鰐とも、蜥蜴とも取れるような顔をした男が部屋を出て行く。

 顔を覆う鱗は決して装飾なんかじゃない。

 

 ――“フィクサー”スタニスワフ。

 

 彼もまた、都市の住人だった。

 尖った顔と伸びる尾と、全身を覆う鱗は彼が都市の住人である証。

 彼が変容してしまった結果。

 

インガノックの商業特区《無限雑踏街》を取り仕切った故買屋。

 今は、上層貴族の承認を受けたインガノック公認の貿易商。

期間限定の、雇用主。

 

 僕が寝坊をしてしまったせいか、いささか不機嫌な様子だ。

 元々気むずかしい所のある老爺だが、理由も無く怒る人でもない。

 急いだ方がいいだろう。

 

「……着替えないと」

 

前日の内にまとめて置いた、着替えを取る。

 黒を基調とした、仕立ての良い衣装。

 

 ジャケットとパンツ。襟の詰まった白のドレスシャツ。飾り気の無い棒タイ。

 出過ぎず、けれど白のフリルで華やかさも持たせたそれ。

 

 スタニスワフが、たとえ小姓であっても、下手な格好をさせていると舐められるからと言って用意した服だ。

 

「これで、大丈夫かな?」

 

 二等客室には、高価な鏡は置かれていない。

 

 自分で確かめられる所だけだけれど、おかしなところは無い。

 

 多分、大丈夫。

 

 分厚い鉄扉を開けて、外へ。

 木張りの床と、鋼材が剝き出しの狭い通路が視界の端まで続いている。

 

「展望室は――」

 

 記憶を頼りに進む、狭い通路。

 

 木張りの床は鋲止めの草臥れた見た目に相反して軋むようなこともなく、踏みしめる毎に硬質な音を響かせる。

 

 低い天井には、機関式の小さな電灯。

窓が無い割には、思いの外明るい。

 

 道中、誰かに会うことは無かった。

 単純に人が少ないのか、まだ朝早くだから眠っているのか。

 

 

 

 通路の端にある傾斜の急な階段を下りると、飛行船の最後尾に出る。

 そこが、展望室。

 大きな硝子窓が周囲に広がり、広く景色を見渡せるようになっている。

 

 中には、老爺が一人。スタニスワフ。

 眼下に見下ろすは、彩りを失った灰色の街。

 黒く染まった河川には巨大な橋が架かり、煤に汚れた建物の群と隣接するように機関工場が建ち並んでいる。

 

 倫敦。西亨の大都市だ。

 機関の恩恵により発展を続ける、巨大な街。

 もはや目視ではわからぬほど高度に機関化された、重機関都市。

 スタニスワフは、この世界の玄関口ともいえる街に、黄金と栄達への階を探しに訪れたのだ。

 

 

 

 ――そして、僕も。

 

 

 

 




前回投稿時(三月末)の私↓。
(・∀・)

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(・∀・;)

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(;∀;)

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