申し訳ない!
その日は暑かった。ジリジリと焼けるような日差しがアスファルトを燃やしている。目の前が歪んで見えるのは単なる自然現象なのか、それとも俺の頭がそうさせているのか。どちらにしても、この燃えるような暑さが原因なのには違いなかった。俺の隣を歩いている理子も、ふらふらと麦わら帽子越しに揺れる頭の具合を見るに、そうとう参っているらしい。今繋がれているお互いの手にある汗は、もうどちらのものか分からない。
「理子、もうすぐだから踏ん張れ」
「…………うん」
気の抜けた、淡泊な声が返ってくる。それは本当に俺に対して返事をしたのかさえ怪しく思えるほどだ。もしかすると、彼女を迎えに来た死神に対して返事をしているのではないか?なんて思ってしまう俺も相当参っているようだ。そんな状態の中、俺たちは歩いた。どれくらい歩いたのかは覚えていない。俺の記憶している住居区内なので、短い距離なのは間違いない。それでも相当な距離を歩いたように感じた。しかし、やがて見えてきた立て看板が完全に視界に入った時、俺はこの旅の終わりを悟ったのだ。
『小学校プール公開日』
その看板にはこう書かれていた。
それはポストに入っていたチラシから始まった。その時の俺たちは、全身がアイスのように溶けてしまうのではないかと錯覚する暑さの中、クーラーが殆ど効かないこのアパートのせいで、二人して干からびたトカゲの様な状態で床に張り付いていた。そこでたまたま目にしたのが『小学校プール公開期間!』と言う手作り感漂う一枚のチラシだったのだ。読んでみるに、近くの小学校にあるプールを夏の数日間、一般公開すると言うものだった。と言っても対象は小学生以下であり、それ以上は子供の付き添いと言う名目でしか立ち入れないようになっていた。理子はこの暑さがどうにかなるのならと言う単純な理由で参加を決定し、俺も理子に
「うわ~!理子、学校に入るの初めて」
小学校の門を抜け、しばらく歩いたところで理子はぐるりと周囲を見渡した。初めて入った学校に興奮している様子だ。そのお陰で、どうやら少しは気力が回復したようで、口から発せられる声にもそれがはっきりと伝わってくる。そんな理子の様子を見て、一つの思いが俺の胸から沸き上がる。
(……やっぱり理子も小学校に入るべきだよな)
理子にもちゃんと、同年代の友達が町内にいるとは言え、やはり学校にいると言う意味は大きい。勉強についてではない。そうではなく人と接する意味や、思い出を作ると言った部分でだ。しかしそれは今ここで考えることではないかと思考を打ち切る。近場とは言え、この暑さの中死にそうになりながらもここまで来たんだ。今は今、理子のためになることをしよう。そう思って俺はくるくると回りながら移動する理子の後を追った。
俺と理子は点在している案内板の指示に従い、校内を歩き続けた。懐かしい風景に思わず辺りを
「お待たせ、あきら!」
待ちわびた声と共に更衣室から出てきたのは、レモン色で統一されたワンピース型の水着を身に
「……あれ?なんであきら着替えてないの?」
こちらに駆け寄ってきた理子は、俺の姿を見てこう言った。
「いや、小学生のために開いたプールに俺が入ったら不味いだろう」
チラシには保護者は入ってはいけないと書いてないが、普通こう言ったものに大人は混じらないものだ。もし入ってしまったが最後、子供たちのテンションを下げるばかりか、保護者の冷たい目線が俺を差すことは避けられない。今、俺の肌を濡らしている汗が、心なしか少し干上がった気がした。しかしそんな事情は知らんとばかりに、理子は俺が一緒に入らないことに口を尖らせた。俺が一生懸命に説得しようとしてもブー垂れている理子は、こちらの意見に耳を貸さない。ならばと俺は少し方向性を変えてみた。
「そもそも俺は水着なんて持ってきてないから入れないんだ」
「え~っ!プール行くのに水着持ってきてないなんて、あきらは馬鹿なの!?」
「…………お前なぁ」
俺は理子からの酷い言われように思わず苦笑して頬をかく。
そんな時だった……。
「……ふっ、ふふふっ、ふふっ」
俺たちの近くにいた一人の女性が口に手を当てて笑いを押し殺していた。その様子を見ていた俺と理子は、呆気に取られ、会話を中断して彼女の方を呆然と見ることしかできなかった。
「ふふふっ、申し訳ありません。あまりにも面白かったもので」
女性は
「間宮みすずと申します」
「あっ、これはこれは。
女性の唐突な自己紹介に、俺は無意識的に反応し、自分と理子の名を明かした。俺は下げていた頭を上げる。そこでやっと彼女を視覚することができた。間宮みすずと名乗った女性は、日本人らしい淑やかな雰囲気を持っていた。顔はとても幼く見え、少し丸みをおびた童顔だ。恐らく母親なのだろうが、どちらかと言うと姉と言われた方が自然だ。女子高生、いや人によっては女子中学生と言っても信じてしまうかもしれない。しかしその佇まいや一つ一つの動作に謙虚さが現れており、それは間違いなく彼女が大人の女性だとを表す証明としては十分だった。 大人と子供が合わさったような不思議な空気を持つ女性。それが俺の彼女に対する第一印象だった。
「理子ちゃん……ですか、いい名前ですね」
それは俺に言ったのか理子に言ったのか。もしくは俺たち二人に対して言ったのか。俺には分からなかった。しかし彼女の目線は俺の顔に向いていた。
「……理子、プール入っていいぞ。遊んでこい」
「ほんと?」
「あぁ、しっかり準備体操しとけよ」
「分かった~!」
理子はそう変事をして、向こう側のプールサイドへと移動していった。
「……お利口な娘さんですね」
間宮さんは、理子の方を向いてそう言う。
「それはどうか分かりませんけど、俺よりは賢いかもしれませんね」
そんなやり取りの後、俺は間宮さんと共に子供たちが遊ぶプールを見やりながら話を始めた。もしかするとこの猛暑日の中、ただ一人で何もせずに子供を見守り続けるのにうんざりしていたのかもしれない。それはどうやら俺も同じだったようで、本来
「間宮さんもお子さんをここに?」
「はい、あかりと言う娘を。本当は下に妹もいるのですが、小学生用のプールに連れていくには少し早いかなと思いまして」
確かに。どちらか一人ならともかく、二人となるともし何かあった時に、対処が難しくなる。まだ小さい子なら尚更のことだ。
「ほら、あの子なんです」
間宮さんはそっと手である一点を指し示した。そこにはオレンジの明るい髪色をした女の子が友達数人と共に遊んでいた。恐らく理子より年下だとは思うのだが、まだこの頃は体の成熟具合によって変わってくるので正確には分からない。
「とても元気なお子さんですね」
「はい、少し元気すぎて困っているくらいです」
しかしそう言う間宮さんの顔は嬉しそうに微笑んでいた。俺も思わず彼女に笑い返す。
「うちの理子もそうなんですよ。好奇心が旺盛で、よく男の子と混じって遊んでいます」
それから俺は一瞬、言葉を切る。次に出す言葉を
「…………理子は私以外に親がいないんです」
気づいた時には口が開いていた。心臓から抜け出し、肺に溜まり、そして食道を登って口から溢れ出す言葉に押さえが効かなくなった。それは俺の意思とは関係なく込み上がってきて、そしてたまらず俺は彼女に向かって吐き出した。
「理子には両親がいない。そもそも私は本当の親ですらありません。孤児だった理子を、俺が引き取ったに過ぎないんです」
間宮さんは静かに黙って俺の話を聞き、こちらををじっと見つめる。もし蝉の鳴き声に紛れて時折聞こえる彼女の息遣いが無ければ、本当に存在しているのかどうかさえ分からないほど彼女は静かだった。それは砂場で遊んでいる我が子を遠くから見守っている母親の姿のようだった。
「俺が孤児だったからか、とにかく理子を放って置けなくて、俺は理子と暮らし始めました。だから恥ずかしながら俺がこうして理子を育てているのが不安なんです」
俺は流れるように出た言葉に終止符を打つため、手に持った水筒から水を一口喉へと流し込む。すっかり
「……私はいつも思っているんです」
俺の話を最後まで聞いてくれた間宮さんは、プールで遊ぶ子供たちを見ながら話を始めた。
「上手に生きてくれなくていい。頭が良くなくていい。運動ができなくたっていい。ただ真っ直ぐに生きて欲しいんです。そして同僚を、友人を、そして仲間を、力の無い
間宮さんは柔らかい口調を崩さずにそう言う。しかし彼女の発する言葉は力強く、芯をしっかりと持っていた。俺のような、自分で制御すら出来ないで、勝手に飛び出すような、幼稚な
ーーあぁ、そうだ。
前にもこんな事があった。忘れ物の輪郭がはっきりと見えてくる。かかった霧が晴れて、姿を現す。そう、俺は憧れているのだ。そして羨ましいのだ。間宮さんのその強さが。その真っ直ぐさが。餓鬼の頃、本の中に閉じ込められたあの男に憧れたように、俺は間宮さんを羨ましいとそうーー。
「…………ええ、なりますよ。きっと、そんな
間宮さんを見ていれば分かる。真夏に咲く
ーー理子は俺といて幸せなんだろうか?
その疑問を、自分に対し問いかけてみた。しかし返事は返ってこない。暗闇で反響した言葉が虚しく空気に溶け出す。いや、分かっていた。俺一人でいくら自問自答しても答えなど返ってくる筈はないと。知っていた。そんな馬鹿馬鹿しい思考をする度に、自分がどうしたらいいかと迷い続ける事に。だがそれは、唐突に放たれた彼女の言葉によってほんの少しばかり変えられた。
「…………理子ちゃんは幸せですね」
「……えっ?」
その言葉を聞き、俺は驚きのあまり両目と口を見開き、間抜けな声を出した。自分に問いかけた言葉が、隣にいる彼女に聞こえていたのかとそんな錯覚を起こし、ありもしない困惑と気恥ずかしさが一気に込み上げてきた。しかし間宮さんはそんな俺にお構いなしと、微笑んで言葉を続けた。
「だってこんな素敵なお父さんと一緒にいれるんですもの。きっと理子ちゃんは、幸せですよ」
「…………お父さんか」
それは
「私は今日、初めて理子ちゃんと明さんに会いましたけど、それでも血の繋がりなんて関係ないほどの親子愛がひしひしと伝わって来ましたよ」
間宮さんが心の底からそう言ってくれるのが俺には分かった。
「…………間宮さんにそう言って貰えると、とても嬉しいです」
そこで俺はふと視界の隅で二人並んで手を振る、理子とあかりちゃんが目に入った。どうやらこの短時間で友達になったらしい。俺は間宮さんと顔を合わせ、お互いに笑みを浮かべてから、そっと彼女たちに手を振り返した。
空はすっかり茜色を帯びて、降り注ぐ光は地面を明るく照らし出す。そんな時間帯にも関わらず、昼間と比べても、その暑さは幾分も変わっていなかった。しかし隣を歩く理子は、行きに比べれば少しだけ元気そうだった。そんな理子がふと俺のシャツの袖をぐいっと引っ張る。
「ねぇあきら、おんぶ」
足を止めた瞬間、理子が俺に向かってそう言う。
「暑いぞ?」
「いいのいいの」
「俺が良くないんだが……。」
きっとよく遊んだから疲れたんだろうと思い、俺は理子の前でしゃがんで背中に乗るように促す。次の瞬間には背中に軽い衝撃が来て、俺の首に掛けられた理子の腕からプールで冷えたであろう彼女の体温が伝わる。俺は立ち上がって、理子を背負いながら再び足を動かし始める。理子は汗まみれであるはずの、俺の背中に頬をグリグリと押し付けてくる。
「むふっ、あきら汗臭~い」
「やかましい」
それから理子はただ黙って俺に体重を預けた。俺もしばらくは、ただひたすら無言で足を動かしていたのだが、ふと今日の出来事を思い出して口を開いた。
「……なぁ理子」
「ん?」
「お前はーー」
ーーお前は俺といて幸せか?
その一言が言えない。唐突に口がつぐまれる。言おうとして、唇が必死に俺の言葉を塞き止めようと互いに手を取り合う。俺は言葉が詰まってそれを腹に押し込んだ。
「…………いや、何でもない」
「え~っ!そこまで言ったんなら教えてよ!」
耳元で理子の甲高い声が発せられる。少し耳がキンと鳴りながらも、俺は話を誤魔化すために話題を切り替える。
「まぁなんだ、今日は楽しかったか?」
「うん、でもやっぱり理子はあきらと入りたかったな~」
理子は少しむくれながらそう言う。
「…………そうか、なら今度は一緒に海にでも行くか」
「やった!約束!」
「……ああ、分かった。約束だ」
理子がはにかむ。今はこんな子供らしい表情を見せる理子も、いつか
ここまで読んで下さりありがとうございました。不定期更新で中々投稿できなくて申し訳ありません。
あと皆様に少しだけ意見を聞かせてほしいのです。実は、次に物語が大きく進行する(
あまり入れすぎると全体として間延びして飽きるし、入れなさすぎると、この小説に必要な“
もしよろしければアドバイスを頂けたらと。ぶっちゃけ、読み返していて私の書く日常話が面白くないなと思って、それでさっさと次に進んだ方がいいかなと思ったのです。