1
その男を見た人間は、誰もが鋭利な刃を連想するだろう。
引き締まった細身の体。サングラスの奥に隠された鋭い眼差し。俊敏さを連想させる体つきから発せられる雰囲気は、どう見ても素人の物ではない。
知らない人間が見れば、それだけで震えあがりそうな雰囲気がある。
今や京都武偵局は、未曾有の危機に瀕していると言っても良い。
千年王都として多くの人間が訪れる一方で、明治時代以降、行政の中心が東京に移ってしまい、更に近畿の産業は大阪、神戸に集中している事もあり、有為な人材は、それらの大都市に流れてしまう事が多い。京都の治安維持能力は、その規模と比較して必ずしも高いとは言い難い。もっとも、重要性が低い故に、今まで大きな事件が起こって来なかった事も事実である。
そう、今までなら。
だが、今やその常識も覆されようとしている。
故に、男が任務地から呼び戻される結果となった。
男はやがて、局長室とプレートの貼られた扉の前に立ち、その中へと入った。
「失礼します」
男が入ると、中にいた壮年の男が顔を上げて視線を向けてきた。
「来たか、待っていたぞ」
京都武偵局局長を務める壮年の男性は、元々は東京武偵局からの出向組であり、自身も現役の武偵として前線に立ち続ける男である。
「すまんな、任務を途中で切り上げさせる事になってしまって」
「構いません。どの道、向こうは長期戦覚悟の任務です。一朝一夕で片づけられないなら、優先度の高い方を先に片づけましょう」
局長は男にソファに腰掛けるよう促すと、机の上に置いてあった資料を手渡した。
「かねてから懸念されていた事だ。イ・ウーの崩壊により、その残党達が世界各地に散らばり活動を始めている。いずれ、戦いが本格化する前に、奴らが自分達の陣営強化に走る事は予想されていたからな」
「そして、まず動き出したのが、こいつらですか」
男はサングラス越しに資料を眺めながら答える。
持っている資料に書かれているのは、香港に拠点を置く「
イ・ウーとも取引があり、構成員の一部が「入学」していた事もあった。
その藍幇の構成員が密かに日本へ入国し、この京都に入ったという情報を掴んだのだ。
「君にわざわざ戻ってもらったのは、他でもない。この件への対処をお願いしたいからだ」
京都武偵局の中でナンバー1の実力を誇る男ならば、たとえ相手がイ・ウーの残党であっても対抗は可能であると考えての人事だった。
逆を言えば、この男以外で、藍幇の構成員に対抗できる戦力は、京都武偵局には存在しない。
「了解しました」
短い言葉と共に、男は立ち上がる。
その全身からにじみ出る殺気、そして圧倒的な存在感。
男が「京都武偵局の切り札」と呼ばれるにふさわしい実力者である事は、それだけで説明不要だった。
見学を終え鹿苑寺を出た所で、友哉達は外で待っていた陣と合流した。
結局、係員の説得は出来なかったらしい。それどころか、危うく警察まで呼ばれそうになったらしい。どうにか武偵手帳を見せて納得してもらったものの、結局中には入れなかったのだ。
「まったく、どうかしてるぜ。あの石頭」
ぼさぼさ頭をがりがりと掻きながら、陣はぼやく。
何しろ友哉達が入場している1時間以上の間、ずっと外で待っている羽目になったのだから、仕方がない事である。
そんな陣の様子に友哉と茉莉は、顔を見合わせて苦笑するしかない。
「まあまあ、ちゃんと後で資料はあげるし、レポート書くのも手伝ってあげるから」
「マジか、じゃあ後でデータ渡すから、宜しく頼むぜ!!」
「いや、あくまで手伝うんであって、代わりにやってあげる訳じゃないからね」
調子に乗ろうとする陣に、釘をさす友哉。
そんな少年達の様子を、クスクスと笑いながら彩が見ていた。
「それじゃあ、友哉、あたし達行くけど、どうせあんた達も、今夜は葵屋に泊るんでしょ」
「うん、そのつもり」
瑠香の実家である葵屋ならば、身内割引きで宿泊料を安くしてくれる。その浮いた分を遊興費に使おうという計画だった。
「あたしらも、葵屋を予約してるから。宿で会おうね」
そう言うと、彩は待っている夫と子供たちの方へと歩いていった。
「良いお姉さんですね」
親子3人で歩いていく彩の背中を見送りながら、茉莉は言った。
どうやら彩は、茉莉の事も気に入ったらしく、今夜は色々と話をしてみたいと言っていた。
その状況を想像し、友哉は苦笑を洩らす。
控えめな性格の茉莉が、割とハイテンションの彩のトークについていけるかどうかは分からないが、それなりに楽しそうな光景ではあった。
「さてと、そんじゃ、俺等も行くとするか」
陣は大きく体を伸ばしながら言う。友哉達を待っている間手持無沙汰だったせいもあり、余計に疲れてしまった様子だ。
「そうだね、次は、えっと・・・・・・」
「清水寺ですね、ここからなら、バスで行きますから・・・・・・」
茉莉が携帯電話でバス時間を検索していく。
思わぬ出会いとアクシデントに見舞われ、予想外の滑り出しになった友哉達の修学旅行だが、これはこれで、一同にとっては楽しい範疇におさまっていた。
2
清水寺の見学を終え、友哉達は3番目の目的地である鞍馬山へと向かっていた。
鞍馬山は、古くから天狗の住む山として有名であり、彼の源平合戦きっての名将、源義経が幼少期を過ごし、武術と学問を学んだ事でも有名である。
山門を潜り、長い石段を登って行くと、やがて本堂が見えて来る。
「なんつーか、辛気臭ェ場所だな」
周囲を見回しながら、陣が率直な感想を漏らす。
確かに、夕暮れが近い事もあって観光客の姿は少なく、かつ山寺である為か、静かな場所である。
「あの、相良君、一応お寺なんですから・・・・・・」
静かなのは当たり前だろう、と窘める茉莉に、陣はそんなもんかね、と肩をすくめてみせる。
そんな2人の様子を苦笑しつつ横目で見ながら、友哉はカメラ撮影を続けていく。
鞍馬寺と言えば、思い出されるのはやはり源義経だろう。
当時は遮那王と名乗っていた義経は、これから己に降りかかる運命を知らないまま、この寺で幼少期を過ごしていた。もしそのまま、義経が安寧の時の中で生きて行けたなら、それから起こる歴史は、きっと大きく様変わりしていた事だろう。恐らく、源氏と平氏のパワーバランスが逆転するような事も無かった筈だ。
だが、時代のうねりは、義経が埋もれていく事を許さなかった。やがて彼は、歴史を動かす大きな戦いの舞台に躍り出る事になる。だが、それは同時に、彼のその後の悲劇を運命付けたと言って良かった。
悲劇の名将、源義経。彼は歴史の表舞台に出られて満足だったのか、それとも、平和な内に埋没した方が良かったのか。
現代を生きる友哉には、その判別は永遠にできそうになかった。
と、
「あれ・・・・・・・?」
ふと気が付けば、いつの間にか周囲に誰もいなくなっている事に気が付いた。
茉莉や陣の姿も見えない。
「もうッ 2人とも、何処行っちゃったんだ?」
見回しても、鬱蒼と茂る森があるだけ。木立のせいで視界もよく聞かない。
耳を澄ませても、静寂が返ってくるだけだ。
途方に暮れて溜息をつく。
「仕方がないな」
はぐれて行動する訳にもいかない。そう思い、携帯電話を取り出した時。
突然、視界の中を横切るように、大きなシャボン玉が風に流されて通り過ぎた。
そして、目の前に来たとたんに破裂し、空中に虹を残して散っていく。
「・・・・・・おろ?」
何故、こんな場所で、シャボン玉が飛んでいるのか。
そう思った時。
「お前、今死んだネ」
片言の日本語で声を掛けられ、振り返る。
そこには、小柄な少女が、口元に笑みを浮かべて立っていた。ゆったりとした中国の民族衣装に身を包んでおり、長く伸ばした髪をツインテールにしている辺り、どこかアリアに似た外見をしている。
だが、
友哉は僅かに体を半身にずらし、少女と向かい合って対峙する。
笑顔とは裏腹に、少女から発せられる殺気に気付いているのだ。
それは、この静寂な寺院には似つかわしくない。あまりにもそぐわない物だった。
「・・・・・・君は、誰?」
尋ねる友哉に少女は、口元の笑みを強くする。
「
「・・・・・・飛天の、継承者?」
聞き慣れない単語で呼ばれ、友哉は当惑する。一体何の事を言っているのか。
だが、飛天の継承者。つまり、飛天御剣流を蘇らせようとしている友哉は、そう言う意味で確かに「継承者」と言えなくもないが。
だがなぜ、こんな小さな女の子から、そんな単語が出て来るのか。
そんな友哉を前に、更に近付いて来るココ。
次の瞬間、
いきなり、ココは友哉の目の前まで距離を詰めていた。
その動きに、友哉は思わず驚愕する。
『速い・・・いやッ』
違う。
スピードは思っている程には速くない。しかし、通常の動作から急激な動作に移る挙動が、あまりに「普通」過ぎた為、次の動きが読めなかったのだ。
ココはそのまま、鋭い蹴りを友哉に向けて来る。
「クッ!?」
その蹴りを、とっさに後退して回避する友哉。
ココの蹴りは、友哉の頬を僅かに掠めていく。
「何をッ!?」
相手の真意を問いただす間もなく、更にココは襲い掛かってくる。
今度はゆったりとした袖口から、大振りの扇を取り出して構える。
ココの持つそれは、恐らく鉄製。まともに食らえば骨折は免れないだろう。
何故襲われてるのか、この、ココと名乗る少女はいったい何者なのか。状況が全く掴めないまま、静寂の鞍馬山は戦場と化していた。
『まずい・・・・・・』
友哉は僅かな焦りと共に、ココとの間合いを測る。
今の友哉は丸腰だ。逆刃刀は入口で預けてしまった。一応、防弾制服は着ているが、衝撃を殺す事ができないので、戦扇相手では、何の役にもたたない。
「キヒッ」
戦扇を広げたココは、回転するような挙動で友哉に襲い掛かった。
旋回しながら襲い掛かってくるココの戦扇。
その軌道を見極め、腕を掴んで動きを封じるか。
そう思った瞬間、一瞬、戦扇の縁が怪しく光ったのを、友哉は見逃さなかった。
「チッ!?」
舌打ちしながら、友哉はココを捕まえる事を諦め、とっさに手を引く。
振るわれた戦扇が、友哉の手首を掠めていく。
と、
戦扇に触れた瞬間、その箇所から僅かに血が噴き出した。
「ッ!?」
舌打ちしつつ、出血箇所を手で押さえる友哉。
一瞬見て思った通り、戦扇の縁は刃になっているようだ。下手に捕まえようとすると今のように切り裂かれていた事だろう。
「さて・・・・・・」
どうするか?
流れ出た血を舐め取りながら、友哉は次の行動を模索する。
とにかく刀か、少なくともそれに代わる物が欲しい所だ。レキほどではないにしろ、徒手格闘の技能が弱い友哉が素手で戦える相手ではない。
だが、相手はそれを待ってくれるほど甘くは無いようだ。
再び戦扇を掲げ、斬り込んで来る。
振るわれる鋭い攻撃は、まともに受ければ切り裂かれる事が判っている。
対して友哉は、とっさに空中高く飛び上がった。
「逃がさないネッ!!」
それを見て、ココもまた膝を撓めて跳躍、友哉を追って上昇して来る。
逃げる友哉と、追うココが、距離を置きながら垂直に上昇する。
だが、友哉の狙いは逃げる事ではない。
ここは森の中。周囲には樹齢何千年と言う木々が立ち並んでいる。
その木々から伸びる大きな枝を掴むと、逆上がりの要領で勢いを殺さず一回転、そのまま推進ベクトルを180度回転させて強制的に体勢を入れ替えると、尚も上昇して来るココに向けて、カウンター気味に蹴りかかった。
「ッ!?」
ココが一瞬、目を見開くのが見える。
そこへ、友哉の蹴りが入った。
相対速度的に、回避が可能な速度ではない。
友哉の足裏は、ココの小さな体に突き刺さった。
「どうだッ!?」
渾身の手応えと共に、友哉はそのまま踏み抜く勢いでココを地面へと叩きつける。
ややあって、着地する友哉。
やったか?
そう思った瞬間、
シュルッと伸びた何かが、友哉の首に巻きついた。
「グッ!?」
喉に感じる圧迫感。
それが髪だと判った瞬間には、既に手遅れだった。
ココは友哉の蹴りを、一瞬速く翳した戦扇で受け止め逸らしていた。
そして着地の隙を突いて背後に回り、長い髪を使って首を締め上げたのだ。
気道が締めあげられ、息が詰まる。
はずそうともがくが、完全に首の皮膚に食い込んだ細い髪をはずす事は不可能に近い。
「これでリーチね」
笑いを含んだココの声が聞こえる。
直に酸素が行かなくなった脳は、強制的に活動を止められる。そうなったら終わりだ。
「ま・・・だ、まだッ」
友哉はとっさに地面を蹴り、後方に大きく跳躍した。
背後から首を絞められた場合、無理に外そうとするのは得策ではない。はずそうともがいている内に、酸素欠乏症で意識が落ちてしまうからだ。
ならば、どうするか?
答えは、締め上げている本人を直接攻撃する、である。拘束を直接解くのではなく、締めている力を緩めさせるのだ。
友哉は勢いよく後方に跳躍する事で、背中に張り付いていたココを巨木の幹に叩きつけた。
「グアッ!?」
カエルがつぶれるような声と共に、拘束が緩む。
その一瞬の隙を突いて、友哉はココを引き剥がした。
「クッ・・・・・・」
よろける足で距離を取りながら、大きく口を開けて酸素を取り込む。
霞む視界の中で、ダメージを受けたココが、それでもダメージを無視して追撃を仕掛けて来るのが見える。
『まずい・・・早く、立て直さないと・・・・・・』
朦朧とした意識の中でどうにか体を動かそうとするが、その意思とは裏腹に、膝に全く力が入らない。首締めの影響で酸素が足りず、体の機能が低下しているのだ。
そんな友哉の目の前に、ココが立つ。
やられるのか。
そう思った瞬間、
何かが、高速で飛来すると同時に、ココに鋭く襲い掛かった。
「阿ッ!?」
その攻撃を回避しきれず、辛うじて受け止めながら後退するココ。
友哉を守るように現われた長身の人物は、突進の勢いそのままに蹴りを繰り出し、ココを吹き飛ばしていた。
「ハッ」
鋭く低い声と共に、疾風の如く駆け抜け、鞭のように撓る足が蹴りを繰り出す。
それに対してココは、ダメージの残る体を引きずりながらも、辛うじて後退する事で回避する事に成功した。
「お前、誰ネ!?」
尋ねるココに対し、男は静かに構えを取りながら返す。
「この場合、それは俺の言葉だ、藍幇の構成員。これ以上の狼藉は俺が許さん」
サングラス越しに放たれる眼光が、容赦無くココを射抜く。
その眼光に怯んだ訳ではないだろうが、ココは警戒の構えを解かないままゆっくりと後退して行く。
「仕方ない。今日の所は退いてやるネ」
そう言うと、視線を男の背後で膝を突いている友哉に向けた。
「ヒムラユウヤ、お前、良いトコ30点。0点じゃないけど、まだまだ落第点ね」
そう言うと、身を翻し、軽快な身のこなしで距離を取る。どうやら、そのまま後退するつもりのようだ。
「
そう言いながら、ココは坂道を飛び越えるように跳躍し、あっという間にその小柄な体は見えなくなってしまった。
一体、何だったのか。突然現れたかと思うと、通り魔のように襲い掛かって来た。だが、ただの通りまでは無い事は、その言動から察しが付く。
身のこなしや戦扇を使った戦い方など、明らかに戦いなれした者の動きだ。
今回は素手だったが、果たして刀を持っていたとしても勝てるかどうか怪しかった。
それにしても、
友哉は目の前に立つ男に目を向け、そして笑顔を向けた。
「お久しぶりです」
「・・・・・・ああ」
友哉の言葉に、男が短く答えた時だった。
「友哉さん!!」
茉莉が呼ぶ声が聞こえ、振り返る。
見れば、茉莉と陣が山頂の方から駆け降りて来るのが見えた。
「大丈夫か、友哉ッ!!」
今まで何をしていたのかは知らないが、どうやら危機を察知して来てくれたらしい。
そんな2人は、友哉の傍らに立つ男の存在に気が付き、足を止めて身構える。
「テメェ、何者だ!?」
唸るような陣の声。
茉莉もまた、いつでも動けるように身構えている。
対して友哉は、頭をかきながら苦笑する。どうやら、完全に誤解されているらしい。
一方の男は、静かに構えを解いたまま立ち尽くしている。ただ、その身から発せられる静かな存在感が、圧倒的な質量を持って、この場を支配している事が判る。
まったく、
無口なのは相変わらずのようだが、これでは周りの人間が苦労するのも無理は無い。
「・・・・・・そんな格好だから、いつも誤解されるんじゃないんですか?」
「・・・・・・そうか?」
言いながら、男はサングラスを取る。
その下から現われた鋭い眼差しが、改めて2人を見詰める。
鋭く絞られた瞳は、相当な修羅場をくぐって来た事を感じさせるが、同時に深い色は思慮深さを感じさせる。
「友哉さん、その方とお知合いなんですか?」
「うん、まあね」
驚いたような茉莉の言葉に、友哉は苦笑しながら頷いて見せる。
「この人は京都武偵局所属の武偵で、
その言葉に、陣と茉莉は目を丸くするしか無かった。
第3話「万武の武人」 終わり