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思っていたよりも暑いな。
空港を出た友哉の、それが最初の印象だった。
肌を包む空気は、12月下旬だと言うのに暖かい。緯度的には沖縄よりも南にある為、寒暖の差があまり感じられないのだ。
香港は、正式名称を「中華人民共和国特別行政区」と言う。
かつて清王朝時代に起こったアヘン戦争で清が敗北した結果、南京条約によって、長らくイギリスの植民地となっていた。太平洋戦争が勃発すると、一時的に日本の統治下に置かれたが、やがて大戦終結と共に、支配権は再びイギリスに戻る。
流転とも言える歴史を刻んできた香港が、本来の所有者である中国の元へ戻ったのは1997年7月になってからの事である。
そのような経緯がある為、香港は古くは治安が悪い事でも有名だった。
現在でこそ、昔と比べると治安の悪化も解消されている物の、それでもスリや暴行等の軽犯罪は横行しており、香港を選んで観光に来る客は注意が必要である。
一方で良い面も存在している。長くイギリスの支配下にあったせいで洋の東西における文化が見事な融合を遂げ、世界でも有数の観光スポットとして栄えている。
特に香港島のビクトリア・ピークや、尖沙咀のウォーターフロント・プロムナード近辺から遠望できる夜景は「100万ドルの夜景」と称され、世界中の人間の憧れとなっている。
光と闇が交錯する東洋の魔都、香港。
その香港に古くから藍幇の拠点がある事は、当然ながら構成員以外の一般市民には知られていない事である。
藍幇は世界でも有数の巨大組織であり、その影響力は広大な中国大陸全土にまで及んでいると言われている。また、それだけ巨大な組織を維持する資金や人脈も膨大であり、全てを把握しできている人間は組織内でも殆どいないとさえ言われている。
何度か司法機関による捜査が行われたが、その片鱗すら掴む事ができず、また彼等の拠点である藍幇城の所在すら掴めなかったと言う。
世界最大の組織でありながら、世界で最も謎の多い組織、藍幇。
イクスとバスカービルが、修学旅行Ⅱの行先を香港に定めた理由は、学校の行事だからでも観光を楽しみたいからでもない。
極東戦役の一環として、敵対組織の一角を占める藍幇と決着を付けるために他ならなかった。
だが、藍幇の御膝元とも言うべき香港に攻め込むと言う事は、彼等のホームグランドでの戦いを強いられると言う事になる。
しかし、それら全てを承知の上での逆侵攻作戦である以上、もはや後戻りはできなかった。
イクスの4人とバスカービルの5人。
事実上、
「おお~ やっぱ外国の人ばっかりだよ、茉莉ちゃん、すごいね!!」
「瑠香さんは、外国に来た事とかは?」
「無いよ。だから、これが初めてなんだ。茉莉ちゃんは?」
「私は、任務の関係で何度か・・・・・・」
何やら女子たちは早速、会話に花を咲かせている様子である。特に瑠香などは、初めての海外旅行、それも友達一同と一緒と言う事もありはしゃいでいる様子である。
瑠香と言えば、先日での部屋での一件がやはり頭の中に残っている。
自分や茉莉の事を気遣い、部屋を出て行くと言った瑠香。あの後、友哉は茉莉から事情を聴いていた。
茉莉としては、瑠香から口止めをされていたみたいだが、あからさまに挙動不審な所を問い詰めてみると、重い口を開くように白状した。
茉莉から事情を聞いた友哉は、自分の不明に恥じ入る思いだった。幼馴染として、あるいは戦兄妹として長く傍に居ながら、瑠香の気持ちに全く気付いてやれなかったのだから。
その事について、もう一度瑠香と話し合おうと思った友哉。
だが、それを茉莉が制した。
『今はきっと、時間が必要なんだと思います。瑠香さんにも、友哉さんにも、私にも・・・・・・』
そう言われてしまっては、友哉も黙るしかなかった。ひょっとしたら女の子同士でしか分かりあえない心の機微と言う物が、茉莉と瑠香の間であるのかも知れなかった。
茉莉の言う通り、この件は少し時間を置いてから話した方がいいかもしれない。
そう思った友哉は、ひとまず棚上げすると決めていた。
と、
「おい、友哉ッ」
そこへ、パンフレットを片手に持った陣が近付いてきていた。
日本人は比較的小柄の部類に入ると言われているが、長身の陣は外国人の中にいても見劣りしない程度の外見をしている。
そんな陣は、自分よりも背の低い友哉と語り合う為に、身をかがめてパンフレットを差し出してきた。
「これなんか美味そうだろ。あとで食ってみようぜ!!」
陣が指さしてきたパンフレットには、有名レストランのお勧め料理が写真付きで紹介されていた。よく見れば5段階評価の星が5つ並んでいる事からも、かなり人気が高い事が伺える。
そんな陣の様子を見て、友哉はフッと苦笑を洩らす。
そもそも今回香港に来た最大の目的は学校行事の為でも、まして旅行を楽しむ為でもなく、藍幇との決着を付けるためなのだが、陣のはしゃぎぶりを見ていると、何だか戦いそっちのけで観光に来ているようにも見える。
だが、この底抜けの明るさには、ちょっと救われる思いだった。何だか、心の中に積っていた重みが、少し和らいだような気がする。
「何があったか知らねえがよ、そう落ち込んだ顔すんなって」
「おろ?」
顔を上げると、陣は口元に笑みを浮かべながらも、どこか真剣なまなざしで友哉を見つめてきていた。
「何つーかよ、お前とか、瀬田とか四乃森とかの様子がおかしいのは、出発する前からうすうす感じてはいたよ」
「陣・・・・・・」
「けどよ、なんだかんだ言ったって折角の旅行なんだ。もっと楽しんで行こうぜ」
陣は友哉達を取り巻く状況を何も知らない。だが、3人を取り巻くよそよそしい雰囲気から、何か感じる物があったのだろう。
普段は粗暴でガサツなように見えても、流石はイクスの長兄役と言うべきか、「弟」や「妹」の様子の変化を察してくれたらしい。
笑顔を浮かべる友哉。
陣の言う通りだ。友哉にとっても初めてとなる海外。それも世界有数の観光地である香港に来たのだ。いくら極東戦役の一環とはいえ、多少楽しんでも罰は当たらないはずだった。
「ありがとう、陣」
「良いって、気にすんなよ」
そう言って、友哉と陣が互いに笑みを交わし合った。
と、その時、
バタンッ
不意に、2人のすぐ横から、乱暴な手つきで何かを閉じるような音が聞こえてきた。
友哉と陣が同時に振り返ると、そこにはキンジが何やら、携帯電話を抱えたまま蒼い顔で立ち尽くしていた。
「おろ?」
「どうした、遠山?」
「い、いや・・・・・・」
怪訝な顔付きで尋ねてくる友哉と陣に対し、キンジは明らかに挙動不審な態度で、手にした携帯をポケットに突っ込んだ。
実はこの時、キンジにとっては聊か無視できない深刻な事態が起ころうとしていた。
飛行機から降りて携帯電話の電源を入れると、メール着信は2件。相手は
2人とも、先日の特秘任務(と言う名の退学、編入騒動)で、キンジが深くかかわった少女達だが、その両名が、事もあろうに武偵を目指すと、キンジに伝えてきたのだ。
菊代はキンジが神奈川武偵校附属にいた頃の同期であるが、その後は実家の家業である暴力団組織を束ねていた。しかしその組織もつい先日、キンジ、友哉、アリア、
一方の萌はと言えば、行きがかり上、事態に巻き込まれてしまった一般人であり、本来なら争いごととは無縁な性格である。血腥い闘争が日常茶飯事の武偵とは、そもそもからして住む世界が違う人物であるはずなのだが、先日の一件で何か思うところがあったらしい。まあ、武偵と一口で言っても、
しかし、キンジの懸念材料は他にあった。ただでさえ女嫌いだと言うのに、自分の周りには女が多すぎる。そこに来て更に増えようとしているのだ。これ以上は、本当に御免蒙りたい気分だった。
とは言え、今キンジがいる場所は日本から海を隔てた香港。東京で起きている事に対しては何のアクションも起こす事ができない。否が応でも、任務を終えて日本に戻るまで棚上げするしかなかった。
もっとも、日本に帰ったら「キーくんのハーレム(命名:言うまでも無く理子)」に新たな「側室候補」が増えている可能性は否定できない、というより考えたくないが。
「ほら、あんたたち、いつまでも駄弁ってないで、移動を開始するわよ!!」
尚もめいめいの行動を取っている一同に対し、仕切りや気質のアリアが手を叩いて指示を飛ばす。
「橋頭堡は既に確保してわるわ。ついて来なさい」
そう言うと、外国慣れしているアリアは、先頭に立って歩き出した。
こういう見知らぬ外国での旅行では、旅慣れている者が1人でもメンバーにいるだけでも、旅がグッと楽になる感がある。
そう言う意味では、アリアや理子、茉莉と言った存在は、友哉達にとっても心強かった。
2
港町である香港は、急峻な山岳地帯を背景に大小無数のビルが立ち並び、更にはそれらを縫うようにして路面電車まで走っている為、外見的には雑然とした印象を強く感じる街並みをしている。
そうした乱雑感も香港の魅力の一つなのだが、それとは打って変わって九龍島に面したウォーターフロントには、近代的なビル群が立ち並び、東京と比しても勝るとも劣らない摩天楼が威風堂々とした姿を見せている。
イクスとバスカービルメンバーを乗せた車は、このウォーターフロントの一角にある高層ホテルの一角で停車した。
ICCビルと呼ばれるそのホテルは、高層ビルが立ち並ぶ香港でも、最大の高さを誇っているらしい。
アリアが司令本部を設けたのは、このビルの118階だった。
「アリアはペニンシュラが好みだったんじゃなーい? あそこ、純イギリス系だし」
「藍幇は香港中に手先がいるでしょ。あんな歴史あるホテルじゃこっちの動きが筒抜けになるわ。ここは開業したてだから、藍幇の影響も少ないはずよ」
理子の指摘に対し、アリアは淀み無く答える。
ペニンシュラとはザ・ペニンシュラ香港の事で、イギリス統治下時代からある伝統的な企業が経営するホテルグループである。イギリス出身のアリアからすれば、確かに自分の御国のホテルの方が居心地は良いかもしれない。
しかしイ・ウー以上に伝統があり、構成員も多い藍幇からすれば、そうした伝統あるホテルには多数の目を光らせていると考えた方が良い。下手に踏み込めば、物理的に寝首をかかれる事にもなりかねない。
そう言う意味では、アリアの判断は正しいと言えるだろう。
加えて、利点はまだある。
アリアは平賀文特性のホバースカートをこの香港にも持ち込んでいるのだが、これを使用する場合、平地から高空まで駆け上がったのでは効率が悪い。それよりも、香港一高いこのホテルに陣取り、いざという時にはすぐに飛び立つ。そうする事によって、燃費を押さえ、なおかつ航続力と速力も稼ぐ事ができる。
まさに、一石三鳥以上を狙える選択であると言えた。
118階にあるOZONEと言うバーを貸切にすると、一同はウェイトレスが運んできたアフタヌーン・ティーセットを摘まみつつ、早速作戦会議に入った。
「藍幇は昔からある組織でね、清朝の頃までは海賊だったんだよ。だからイ・ウーとも思想的に共鳴してたね。洋上アナーキズムって言うのかな、ああいうの?」
トレーの上に載っていた一口サイズのケーキを摘まみつつ、友哉は理子の説明を聞いている。
成程、イ・ウーも海賊であった経緯を考えれば、両者が互いに提携していた事も頷ける。加えて、イ・ウーのリーダーだったシャーロックは元々イギリス人。イギリス領時代の香港に出入りしていたとしても不思議は無かった。
藍幇の拠点は中国各都市にあるが、その戦略傾向についてはバラバラであるらしい。攻勢を主とする都市もあれば、亀のように防御を主体とする都市もある、といった具合に。中でも香港はカウンター型とされ、敵の攻撃を受け流しつつ反撃に転じる、と言うスタイルを得意としているらしい。
「藍幇城だっけ? 藍幇のアジトはどこにあるの? あと、藍幇の構成員はどれくらい?」
礼儀正しく挙手をしながら聞いたのは、ウーロン茶を蒸らし中の白雪である。
対して理子は、やや肩を竦め気味にして言う。
「アジトの場所は判んない。藍幇城は海上に浮かんでいる浮島みたいなもんでさ、それをタグボートで牽引して香港島とか九龍半島を行き来しているの。人数は・・・末端まで数えると100万人くらいかな?」
「100万!?」
あまりの数字に、聞いていたキンジは思わず手にしたタルトを取り落としていた。
驚いたのは友哉も同じである。
敵軍100万に対して、味方は僅か9人。物量では端から相手にならない。
ただ、理子の説明によれば、100万全てが戦闘員と言う訳ではなく、藍幇の構成員には政財界や教育、司法と言った一般人と区別が付かない者達もいるらしい。それでも、厄介な事に変わりは無いが。
何か作戦を起こそうとしても、常に敵の目を気にしなくてはならない。それこそ孫悟空ではないが、イクスもバスカービルも藍幇の掌の上で踊るしかない状況である。
「
断を下すようにアリアが言った。
だが、
友哉はチラッと、キンジの方を見る。
先程から見ていれば、キンジはアリアに喋らせるに任せて、自分は最低限の補足説明をするにとどめているように思える。
因みにこの場での指揮権最上位はバスカービルのリーダーであるキンジである。次いで次席指揮官がアリア、指揮権三位が友哉、四位が茉莉となる。
本来ならイクスのリーダーである友哉が次席指揮官になっても良かったのだが、指揮能力はアリアの方が高いし、イクスはバスカービルの別働隊としての役割も担っている。いざという時はバスカービルとは別行動を取る事になる為、このように指揮権序列が成されていた。
だが、どうやらキンジは、今回の作戦の指揮一切をアリアに任せる心算であるらしい。
確かに、こういう海外での任務は、経験が少ないキンジよりもアリアの方が向いているかもしれなかった。
その後、バディ編成として、バスカービルはアリアが指揮官としてホテルに残留、他の4名はキンジと白雪、理子とレキに分かれる事となった。
「友哉、イクスは4人一緒に行動しなさい。あんた達は緊急即応部隊として、敵が誰かに食いついた時に急行してもらうわ」
「ん、了解」
コーラを飲みながら、友哉はアリアに手を上げて了承の意を示す。
万が一、敵が先制攻撃を仕掛けてきた場合、イクスがまとまって行動していれば、戦力を早い段階で集中させる事もできるとアリアは考えたらしかった。
「じゃあ、お茶を飲み終わったら作戦開始よ。今の香港は治安は悪くないけど、それでもスリとかは出るみたいだから気を付けて。コラッ キンジ聞いてるの!?」
などと、仕切り屋の本領を発揮しつつ、それでも的確な作戦指示を行うアリア。
そのアリアの指揮の元、対藍幇戦の幕は上がった。
3
上半身裸の引き絞られた体を空気に晒し、片足で立ちながら瞑想する姿は、仏教系の仏像を思わせるような神々しさがある。
僅かな呼吸が織りなす僅かな隆起により、筋肉がきしむ音が聞こえるようだった。
この姿勢を始めてから、既に1時間以上経過しているが、一切微動する様子は無い。
ただ一点を支柱に巨体を長時間にわたって支えるのは、技術もさる事ながら、恐ろしいまでの集中力が必要となる。
だが、それも終わりが来る時が来た。
僅かに体が揺れたと思った瞬間、
伽藍はカッと目を見開いた。
次の瞬間、手の中にある方天画戟が凄まじい勢いで振り翳される。
長柄の武装が大気を巻いた瞬間、衝撃波によって周辺の空気が砕け散り、壁と言う壁が悲鳴のような唸りを上げた。
ただ、武器を振るっただけでこれである。
この男が「戦神」などと言う大層なあだ名で呼ばれている事が、伊達でも誇張でもない事は明らかだった。
再び訪れる静寂の中で、伽藍は方天画戟を振り抜いた状態を維持したまま、再び微動だにせずにいる。
その静寂は、背後からの声によって破られた。
「伽藍様」
背後からの声に首を僅かにひねって振り返ると、頭からつま先まですっぽりとローブを被った人物が膝を突いて臣下の礼を取っていた。
「何事か?」
「ハッ 以前より伽藍様が懸念されていた者が、香港に入ったとの情報が上がりましたので、ご報告に」
その言葉を聞き、
伽藍は口の端を吊り上げるようにして笑みを浮かべる。
その脳裏に浮かぶのは、つい先日、日本に行った際に交戦した少年の事だった。
女のような顔をしていながら、その剣腕は凄まじく、戦神と呼ばれる伽藍相手に一歩も退かなかったどころか、反撃にまで成功している。
後に諸葛静幻に話を聞いたところ、彼は東京武偵校の学生で、名前は緋村友哉。飛天御剣流と言う、日本の戦国時代から伝わる古流剣術の使い手であるらしい。あのイ・ウー壊滅にもかかわったらしいと言うから、その実力の高さは充分であると言える。
「面白くなってきたではないか」
やはり、自分の勘は外れていなかった。あの男とは、いずれ再戦する機会があると思っていたのだ。
しかも、今回はこちらのホームグランドにわざわざ踏み込んできてくれたのだ。丁重なもてなしをしなくてはならない。
「行くぞ、出迎えの準備をする」
「ハッ」
そう言うと伽藍は、手にした方天画戟を担いで歩き出す。
その口元は、実に楽しそうに吊り上げられていた。
囮、と言っても別段何かをすると言う訳ではない。ただ香港の街をぶらぶらと歩いて、獲物が掛かるのを待つだけ。
撒餌作戦は単純な分、時間がかかるのが難点だろう。
もっとも、学校の課題はあるし、できれば観光もしたいイクスメンバーからすれば、それは願っても無い状況ではあるのだが。
「とは言え、そうも言ってられないから困ったもんだね」
友哉は所在無げに壁に寄りかかりながら、何とも無しに嘆息する。
この場にいるのは友哉1人である。
茉莉と瑠香は、服が見たいとかで、友哉の目の前にあるブティックへ入って行った。友哉には良く判らないが、どうやら香港でもそれなりに有名なブランドであるらしい。
陣はと言えば、「女の買い物は長いし疲れる」と言って、その辺に散歩へ出かけてしまった。
おかげで、友哉は1人、手持無沙汰で佇んでいる事しかできなかった。
できれば友哉も観光したいのはやまやまではあるが、今こうしている間も藍幇の監視を受けているかもしれないと考えると、とてもではないが落ち着いて見て回る事も出来なかった。
下手をすれば、街行く人全てが敵に見えて来るから困った。
だが、こうして1人立っていれば、またぞろ女と間違われて通行人からナンパをされかねない。そろそろ何らかのアクションを起こした方が良いか?
と、そう思った時だった。
「ほらよ、友哉」
「おろ?」
陣に呼ばれて振り返るのと、その顔面に何かが降ってくるのはほぼ同時だった。
途端に、強烈な熱さが額を中心に顔全体に広がった。
「おろ~~~~~~ッ!?」
「おいおい、しっかり取れよ」
慌てる友哉を見ながら、投げつけた陣は手にしたものを口に運んで、呑気に咀嚼している。
ようやくの思いで顔に張り付いている物を手に取ってみると、どうやら肉まんであったらしい。
ふかふかに湯気を立てている肉まんは、いかにも美味そうである。もっとも、そのせいで友哉の顔は円形に赤く染まってしまっていたが。
「陣・・・・・・・・・・・・」
友哉がジト目になって睨むと、陣はニヤリと笑って、自身が食いかけの肉まんを掲げて見せる。どうやらそれが、散歩の「戦果」のようだった。
「なかなか美味いぜ、食ってみろよ」
勧められるままに渋々と口に運んでみると、成程、確かに言うとおり、肉まん特有の濃厚なうまみが口全体に広がった。
ひとしきり、肉まんの味を楽しんだ後、友哉はおもむろに、隣に立つ陣を見上げて尋ねた。
「何か動きは?」
「ねえな。今のところ『猿』は尻尾も見せねえよ」
そう言って、陣は肩を竦めて見せる。
因みに猿と言うのは、孫悟空に因んだ符号であり、藍幇全体の事を差している。事前の作戦会議で取り決められていた。
流石に防御型の戦略思考をしているだけあり、香港系藍幇はなかなか姿を表そうとしない。
バスカービルの方からも何も言ってこないところを見ると、あちらも主立った動きは無いようだ。
時刻は、間も無く夕方に差し掛かろうとしている。
予定通りなら、今頃バスカービルはおやつ時を利用して集合し、それぞれ情報交換を行った後、今度は司令本部に残留したアリアを除く4人が、散開して囮になる予定である。
恐らく、仕掛けて来るならそこだろうと、友哉は睨んでいる。こちらが完全に無防備になる瞬間だ。もし藍幇がこちらの動きを掴んでいるなら、この絶好の機会を逃す手は無いはず。
「こちらは連絡があり次第、すぐに動くからね。そのつもりでいて」
「おうよ、任せとけって」
頼もしく請け負いながら、陣は二つ目の肉まんを口に運んでいる。
一見すると緊張感の無い行動にも見えるが、これが陣特有のスタイルであるらしい。ならば、友哉としては特にいう事は何も無かった。
「さて、そろそろ、茉莉たちが戻って来るんじゃないかな?」
いくら女の買い物が長いとは言え、茉莉と瑠香も今がどういう状況下は弁えているはず。そろそろ出て来るだろう。
そう思った、まさにその時、ブティックの扉が開いて意気揚々とした瑠香と、そして明らかに疲れ切った表情の茉莉が出て来るのが見えた。
その様子を見て、友哉は思わず苦笑を漏らす。
どうやらまた、茉莉を着せ替え人形にして遊んできたらしい。時間がかかったのは主にその為だろう。
香港に来てまで同じことをしている辺り、変化が無いと評価するべきなのか、あるいはブレていないと褒めるべきなのかイマイチ判断がつかなかった。
「お待たせ~」
元気に駆け寄ってくる瑠香。
その後ろから、重い足取りの茉莉が付いて来る。
「お疲れ様」
「・・・・・・ありがとうございます」
疲れ切ったその一言だけで、自分の彼女の身に何が起きたのか友哉は察し、心の底から同情を寄せる。
とは言え、こうしている間にもバスカービルの方は行動を続けているはず。
特に先述したとおり、これからの時間が最も無防備となる時間である。イクスとしても最大限の警戒をする必要があった。
「よし、それじゃあ・・・・・・」
友哉が一同を見回して、何かを言おうとした、正にその時だった。
突然、コートの内ポケットに入れておいた携帯電話が着信を告げた。
「・・・・・・・・・・・・おろ?」
着信の表示を見て、友哉は思わず首をかしげる。
液晶には「神崎・H・アリア」とあった。
アリアは司令本部にいて全体の指揮に当たっている為、ホテルから動いていない。そのアリアからの連絡が入ったと言う事は、何かしら状況に変化があったかもしれない。
「もしもし、アリア。緋村だけど、どうかした?」
《友哉!!》
耳に当てると同時に飛び込んできたのは、明らかに狼狽を含んだようなアリアの切羽詰まった声だった。
その様子だけで、友哉は何か容易ならざる事態が起こっている事を察した。
「アリア、どうかしたの?」
《大変ッ・・・大変なのよ、キンジが!!》
電話口から聞こえてくるアリアの声。
それはいつに無いほど、怯えている様子に友哉には思えた。
第5話「撒餌作戦」 終わり