四月も終わりに近づく昼下がり、あたし橘京子は北口駅近くの川にあるベンチにぽつんと座って、カメラを片手にただ足をぶらぶらさせていました。
春という、草木が生い茂って本来は目に優しいであろう季節にも関わらず、あたしの視界には相も変わらず灰色の世界が広がっています。気を紛らわせるためなのかもはや自分ですら分からずに、ふと目に映った何気ない風景を写真に収めていく。データに残ったその景色は、腹立たしいほどに鮮やかでした。
あたしは、つい先日にあった『機関』や未来組織、宇宙人たちの交戦を目の当たりにして、自分がいかにちっぽけ……もとい
空虚。
一体これから何を指標に生きていけばいいのか、四年前からの存在意義を根底から否定されたあたしには到底考え付きませんでした。今となっては未来にこれといって意味を見いだせないというのに、ただ学生生活を過ごすだけ。ただただ退屈な日々。いっそ閉鎖空間にこもってしまおうか。
不本意ながらも連絡先を交換してしまった古泉さんには、できることをコツコツだとか言ってみたものの、実際のところ今のあたしにできることなんて何にもないのです。
あの日以来、佐々木さんとは連絡が取れてない。いえ、正確にはあたしが佐々木さんからの連絡を全て無視していると言うべきでしょうか。今はただ、佐々木さんから直接別れを告げられるのが怖かった。
そうやってぶらぶらさせていた足のつま先をじっと見つめていると、独特の雰囲気がこの一角を支配しました。宇宙――もしくは深い谷底に引きずり込まれるような、奇妙な感覚が襲ったのです。
「お久しぶりですね。大体二週間ぶりくらいでしょうか……周防さん」
件の存在に目を向ければ、そこには少し前まで交流のあった周防九曜さんがいました。
「――あなたは――」
「うん?」
想定していた会話のキャッチボールは行われなかった――ある程度会話が成り立たないことは予想していましたが――ために、思わず疑問符が浮かびました。思えば、彼女とまともにコミュニケーションを取ったこと無い気がする。たらたらと汗を流して、どうしたものか思案しました。あの未来人はどうやってこんなのと意思疎通できたんだか。不思議で仕方がないわ。
「――過去を観測する――それは――強い意志から――」
「はぁ……。あのシスコン男のことでも言ってるんですか?」
「――違う――あなたが――」
どうにも要領を得ないあたしが思わず頭を抱えていると、聞こえるはずのない皮肉っぽい声が背後から聞こえてきました。たしかにあなたは思い浮かべましたけど、別に出てこいなんて言ってないんですよ……どうぞお帰り下さい。
「フン。どうも過去人というのは、どいつもこいつも理解力が乏しいらしい。あまり僕の手を煩わせてくれるなよ」
「あなた……なんで?たしかもうこの時間平面には来られないはずじゃ……」
藤原さん。相変わらずこの未来人は性格が悪い。利害関係にでもなかったら、まず関わり合いたくない部類の人間です。そんな彼もさすがに自分の登場があたしにとって困惑に値するものだという自覚はあったようで、
「あんたは何でもかんでも説明されないと理解できないのか?ちっ、過去人にはハナから期待していないが、ここまで無能だとはさすがに僕も考えていなかった。……まぁいい。あんたの頭にもわかるよう教えてやる。いいか、僕はあんたが言う『シスコン男』とは少々存在も目的も違うのさ」
「平行した可能性未来からきた……?」
「――間違ってはいない――しかし違う――彼の存在は――とても歪――」
ふと、彼の眉間に特別皺が寄った……気がしました。もう一度目を凝らしても、いつもの仏頂面のまま。それにしても歪ね……ふぅん。まるでこの世界の異物であるかのような表現だ。……いや、あながち間違ってないのかも?
「余計なことまで喋る必要はないんだよ九曜。僕らは別に仲間だとか、そういう高尚な関係じゃない。要は利用し合う関係であればいいのさ。そうだろう?橘京子」
「よく言うわ。結局、あたしはあなたたちに利用されるだけってことでしょ?」
「おいおい、あんたの無能さを僕らのせいにされても困る。たしかに僕らをあんたがどう利用しようが勝手だが、その手段さえ思いつかないような無能に使われてやる理由もないね」
「――あなたたち――とても滑稽ね――あはははは――」
男のくつくつと笑う声と、女のあははと笑う声は、元々苛立っていたあたしをさらにイラつかせていきました。しかし、その怒りさえも霧散してしまうほど、既にあたしはこの連中と渡り合うことを諦めていました。わざとらしくも溜息を吐くのは、せめてもの反抗なのです。
「あたしを笑いに来ただけなら帰るといいわ。あいにく、面白い反応はもうこれ以上返せそうもありませんし」
ぽけっと上の空でそう言い放つ。藤原さんは多少笑いが収まったようで、何やら携帯のような端末を二つ操作していました。携帯を二台も持ってどうしようってんだか。あれですか?仕事用とプライベート用で分けるとかいうあれ。未来人も案外マメですねぇ。
「まぁそう言うな。過去人にしかできない仕事ってやつを見つけてきてやったんだ」
「――時間跳躍――」
はぁ。何を言うかと思えば。それこそ、あたしのようなリミテッドな超能力者には出る幕のない代物ではないですか。そんなもの、彼がTPDDを使えば済む話です。まさに専門外。
「――肉体を伴わない――この遡行は――常に不可逆――」
「結論は既に出ていた。過去を変えることはできない。TPDDによる跳躍だけでは、もはや不十分なんだ。確定した過去をどうにかしようと考えるなら、その過去に住む人間の行動そのものから根本的に変える必要があった」
何を言っているのやら……そんな方法あるはずない。TPDDを用いない遡行方法だけでも眉唾物ですが、そもそも肉体すら伴わないという点が理解できません。
「記憶だけを飛ばすのさ。四年前の、あんた自身にな」
「そん、な方法……TPDDで可能なんですか?」
喉が渇く。そういえば、水分をとったのはもう何時間前のことだろう。なんか彼らが現れてからより顕著に酷くなった気がします。
いや、これは期待なんですね。そんな方法あるはずがないと思っていながらも、もしそんなことができたらとか浅ましくも考えている、人間の欲望。
「TPDDだけでは、必ずどこかに綻びが生まれる。時間平面を破壊しながら修正をする過程で、未来はある程度収束してしまうというのはあんたも知ってるだろう。そこで、このエイリアンを使うというわけさ」
「――過去に向いたベクトルから――肉体情報を抽出――当該座標の記憶情報を抹消――情報齟齬を解消――」
「つまりだ。一旦過去に行ったら、あんたはもうこの時間平面には戻れない。二つの時間平面に記憶と肉体が存在することで過去と現在が線で結ばれるが、今回は現在の肉体と過去の記憶を消去するため、二つの時間平面におけるあんたを表す記号がなくなるからな」
あたしが、それを。
「あんたが過去を変えられるんだ。喜べよ……これで新しい目的ができただろう?佐々木を神にするなり、涼宮ハルヒに取り入るなり、方法はいくらでもある。とにかくあんたが過去に行きさえすればそれでいい」
「どうせ」
「ん?」
「どうせあたしの事情なんてどうでもよかったんでしょ。そこらに都合のいい駒が一体あった、程度の認識ですよ。あなたたちにとっては」
はん、と鼻で笑われる。自分の思い通りに行くと確信して疑わない……そんな顔。
「よくわかってるじゃないか。過去人にしては上出来だ……褒めてやるよ」
動物が芸をうまくできて人間褒められるときって、こんなだろうなと思うくらいには、その言葉の中に対等というニュアンスは含まれていませんでした。明らかな見下し。堪らなく……腹が立つ。
「偉い偉い。で?返事はどうなんだ。僕らも暇じゃないんでね」
「――――」
「いいですよ――やってやろうじゃない」
ただ、一つ勘違いしていることがある。どうにもこいつらはあたしを便利な意志のない駒としか考えていない節がある。だったら目に物見せてやろうじゃないですか……。
あなたたちの思い通りにはならない。あたしはあたしの意思で、この世界を終わらせてやりますよ。
■◇■◇■
ずっと考えてた。あたしはなんのために生まれてきたのかと。
何もなければ人並みの人生を謳歌できたというのに、四年前に突如能力を手に入れてからは――時には武器を使用する訓練や、対人戦闘を想定した技術まで学習したっけ。
結局、あの異能を扱う連中の前ではそんな技術、何の意味もなさないのに。
そしてあの日。あたしは何もできず、ただオロオロしていただけ。同志たちは気にするなと言ってはいたが、その落胆たるやは凄かった。それはそうだろう、やっと自分たちの仕事が始まると思った矢先に、存在意義ごと握り潰されたも同然なのだから。今となっては皆、生きる気力があるのかすら怪しい。
そしてそれはあたしも同じでした。古泉さんから届く励ましのメールの数々が、あたしたちを見下しながら憐れんでいるのだと錯覚してしまうほど、精神が参っていたのです。
いっそ自決しようか。そんなことを考えながらベンチに座っていたら、こんな都合のいい話が転がり込んでくるなんて。
これはチャンス。四年前にさえ戻れば、どうとでもなる。佐々木さんを神にするのだって夢じゃない。できないとわかれば、涼宮ハルヒの抹殺に切り替えてもいい。
そうだ、これは復讐。もはや佐々木さんはどうでもいい。涼宮ハルヒさえ■■せば。
元々死ぬ気だったんです。今なら何でもできる。
ふと携帯に目を落とすと、メールが二件着ていました。一つは古泉さんから。もう一つは佐々木さん。
どうせ古泉さんのは、いつものメールだろう。一応、佐々木さんのだけ確認しよう。本当はまだ見ることすら怖いけど、どうせ過去に行くんだから、もはや関係ない。
――――――――――――――――――――――――――
From:佐々木さん
件名:連絡求む
お願い。今日の18時、光陽園駅前に来てくれないかな。
メールではできない大切な話があるの。
――――――――――――――――――――――――――
どうしよう。
今更、こんなときになって。……いや、大切な話とやらが気になりますが、もう決めたことです。
あたしはそっと、返信をせずに携帯をカメラと共にポーチの中へ放りこんだ。
「さて、覚悟はできたようだな――では早速始めるとしよう。おい、九曜。やれ」
眼を閉じる。藤原さんがあたしの肩に触れながら周防さんに指示を出すと、いつもより全身にかかるGがどっと増した気がしました。ジェットコースターなんて生温いものではなく、全身の血がシェイクされているような……とても、気持ちが悪い。
刹那。
「あんた達は……なぜここに!?」
「さぁな。俺もこいつも、どうしてこんなことになったのか逆に教えてもらいたいくらいなんだぜ?」
「――――」
「……――――っ!!」
そんな会話や車が止まる音が聞こえた後、最後に誰かがあたしを呼んだ気がしました。誰だか知りませんが、そんなに大声出さないで下さいよ。胃の中のもの、戻しちゃうじゃないですか。
そして暫くの間――停電時に照明がぱったりと落ちるように――意識が飛んだ。
■◇■◇■
「――い。おい、起きなさい。橘」
「へぇあ?」
クスクス。そんな笑い声に意識を覚醒させると、ありえない懐かしい光景が目に飛び込んできました。
「まだ授業中だぞ。もうすぐ昼休み……少しは辛抱したらどうだ」
中学校時代の担任の姿が、そこにはありました。あ、まだ髪がふさふさ。と、いうことは……。
「す、すみません先生。体調が悪いので、早退しますね……」
「あ、コラっ……。全くけしからんやつだな……」
下駄箱で携帯を見て、とりあえず年日時を確認。
思った通りです。今はちょうど能力が発現した時期に近い中学一年の七夕。そうだ、たしかこの時代には大きな時間断層があってそれ以上は過去に行けないとか、あの未来人も言ってましたね。
となると、今あたしは可能な限り行けるところまで遡ってきたってことか……。
そんなことを考えながら家路をとぼとぼと歩いていると路地裏から、一人の男が出てきた。
「おい、橘京子。感傷に浸ってるんだろうが、僕はあんたほど暇じゃない。早いところ、やることはやってもらわないと面倒臭くなるんだよ」
「藤原さん?なぜ……」
疑問。いや、彼が来る理由がいまいち分からない。あたしがいたところで、未来は変わらなかったというのでしょうか。
「僕が来るなんて、そんなの当たり前だろう?この時間平面上の橘京子に、本来存在しない四年後の記憶が入りこんだんだ。あんたの行動によって、未来は刻々変化していく。僕にだって目的はあるんだよ。あんたを目印として、別時間軸の未来から今度は僕が遡行させてもらったってわけさ」
「ふーん、えらく遠回りなやり方してるのね。結局のところ原始的なのは未来人だって一緒じゃないですか」
「黙れ。過去人が僕らをとやかく言おうが知ったことではないが、それでもうっとおしいことには変わりないんだよ。小バエが耳元で羽ばたいてる。そうだ、あれに近いな」
「あらごめんなさい、うっとおしくなるようにわざと言ってるんですよね、コレ。それで?あの後何があったんですか?」
「はぁ?なんのことだ?」
「誰か叫んでたじゃないですか。あたしがここに来る前」
「さぁ、ね。そもそも僕はその場に立ち会っていない。言ったろう?既に確定した未来を変えることはできない。そのために過去から根本的に未来を変える……と。あんたがこの時代の橘京子を上書きした時点で、確定した未来は不安定なものになり、少なくない変化がもたらされた。言ってしまえば、遡行前の僕とここにいる僕は一見同じでも別人だといえる。橘京子を四年前に送り込むという情報は共有しているが――おっと、少々口が滑り過ぎたようだ」
やはりこいつは信用ならない。まぁいいです、せいぜいあたしをいいようにこき使ってる気分でいればいいわ。暫く二人して互いを睨みつけていると、彼が出てきた路地裏から、周防さんが現れた。
「――ここは――」
「おい、どうした九曜。観測している暇があったら、さっさとこの時間平面でのお前の拠点を教えろ。場所を移す」
「――不安定ね――」
「ああ、そうだろうとも。だからこそ成功したと言えるんだ。前回は当初の目的こそ頓挫したが、今度は違う……。今ここから、歴史を変える」
「あの、何の話を――」
全く要領を得ない。だから彼らは嫌なんです。自分が蚊帳の外の人間だということを嫌でも思い出させられるから。
「――来る――」
「……なに?まさか涼宮ハルヒか?しかし、こんな場所にいるはずが……」
「――違う――彼女ではない――彼女はあなたと同じ時間平面上から来た――」
コツコツ。
ハイヒールを鳴らす音が不意に止まったかと思えば、気が付いた時にはあたしたちのすぐそばに、あの日見た因縁の女性が佇んでいました。
「そこまでよ。あなたたちは今、重大な時間犯罪を繰り返そうとしているわ」
SOS団の未来人――朝比奈みくるが大人となった姿が、そこにはあったのです。