暗いヒースの丘に、飆々と風が吹く。
月は無い。
仲間たちは一所に固まって立ったままうたた寝している。草を薙ぐ音、一寸した仲間の動きに、うたた寝していても耳が反応する。
生まれて来る仲間たちは多くても、数に決して安心することはない。いや生まれてこの方、安心などというものは感じたことはない。命が消えるその瞬間まで続く緊張。それが日常であり当たり前の処世。
自分たちを守ってくれる牧者は家路につき、用心棒は自分らと違い、地面に伏せって眠りを貪っている。
風の中に怪しい匂いは無い。いつもと変わらぬヒースの少し苦い匂いと夜気を吸って鼻腔にへばり付く土の匂い、そして中に漂う、この時期の柔らかい下草の美味しい匂い。――もし自分らに「安心」があるとすればこの匂いだ。
しかし嫌な空気が漂っている。昼間に牧者から聞いた話も手伝っているのかもしれない。
このところ夜になると、羊の群れが何者かに襲われているという話だ。月のない夜中に何頭もの羊が噛み殺されているという。熊ではない。熊は牧場に放たれた羊をえるほど俊敏ではない。アイツの爪は鋭いが、所詮のろまだ。では狼?それとも山猫。どちらもこの島国にはもう居ないはずだ。野犬の線が一番濃厚だが、奴らは群れで行動する。だが話によるとソイツは一人だという。
昨日も隣村の牧場がやられた。全滅だそうだ。と若い牧者が仲間内で話していた。それを用心棒たちは、「所詮腹を空かせたハナレだろ、自分の縄張りも護れねえなんて牧羊犬の風上にもおけねえ。それに何?牧場の周りに罠を仕掛けるって。ハッ随分と見くびられたもんだな」と、鼻であしらっていた。むしろ自分たちを信用してくれないのかと、牧者が罠を仕掛けたことに不機嫌だった。
嫌な空気は周りの皆が感じている。群れに漂う不安感でわかる。なのに昼間自信たっぷりだった用心棒たちは、耳まで垂らして眠り込んでいる。
飆々と吹く風。月のない夜空と分ける、黒い丘の稜線。
その黒い影の一角が、動いたように見えた。
「―――!」
自分の身体に緊張が走る。
その緊張を感じ取って、周りの群れが目を覚ました。走り出そうとするのを、鼻息で押しとどめる。
危機が何なのかもわからず、やみくもに動き出したら、群れ全体が危険に晒されるだけだ。それに牧者が仕掛けた罠の事もある。羊たちは子供の群れを真ん中にしたままその場に止まる。
それきり、何の動きもない。だが緊迫感は増すばかりだ。全体に張りつめた空気がピリピリと刺すように痛い。それでも用心棒たちはまだ眠っている。
「まだ動くな!」
そう仲間に訴えるが、伸し掛かる重圧に耐えきれず、仲間の誰かがフッッと声を上げると身動きした。忽ちそれは全体に伝播して緊張が切れる。ざわつき出す羊の群れ。ここに来てようやく犬たちも耳をそば立てる。
と、群れの一匹が鋭い息を上げた。悲鳴は聞こえない。声となる前にそれは途切れたのだ。
生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。
――その思いだけが辺りを支配する。
群れが一斉に走り出す。
牧羊犬が何事かと身を起こし、辺りをきょろきょろ見渡している。しかし何が起きているのか確認することが出来ない。
また誰かの、空気が抜けるような不自然な息の音と倒れ込む気配。それがあちこちで起こる。犬たちはただ闇雲に走り回り、暗闇に向かって吠えたてている。それはむしろ悲鳴に近い。
悲鳴を上げたいのはこちらだ。だが、何に向かって? 悲鳴を上げる前に一体また一体と襲われていく。
大人子供の区別なく襲われていく。しかし用心棒には向かわない。その様子はまるで止めれるものなら止めてみなと嘲笑っているように思えた。
それからは、ただ一方的な虐殺だった。何の手も打てず、相手が何者なのかさえ分からず、夜風にあるのは腥い血の臭いと恐慌のみ。用心棒である犬たちも、血と恐慌に酔ってしまい護るべきはずの仔羊に襲い掛かる始末。誤って罠に引っかかってしまった者もいる。
一斉に走る出す前に、硬く円陣を敷けば少しは何とかなったのかも知れない。少なくとも死ぬ瞬間まで解らなかった襲撃者の正体は摑めただろう。しかし、自分も走り出してしまい、気が付けば、辺りには仲間の死骸が点々と横たわっている。その周りを犬たちがハァハァと喘ぎながら狂ったように走り回っている。
残ったのは自分ひとり。
黒い影が、夜から滲み出たように目の前に姿を現す。
闇と同じ色をした魔犬。
仕掛けた罠をすべて外し、用心棒を煙に巻き、あっという間に羊の群れ30頭余りを噛み殺した。
「お前は誰だ。食べる訳でも無く何故こんな事をする」
生き物が、殺すという行為には食べるという目的がある。鼬のように鶏舎を全滅させる手合いもいるが、それとて動くものへの反射としての結果だ。だがコイツは楽しみのために殺し回っている。
たった一匹生き残った羊は、『死』を前にして聞いた。
『死』はそれに答えず、相手の喉元に喰らい付いた。
痛みは無かった。先程まであった恐怖が、今まで味わったことのない恍惚感に変わっていた。それは死を前にした生き物の最終防衛。
迸る快感に包まれながら羊は、赤く燃える目と共に、薄れゆく意識の中で声を聞いた。
「私が、エセルドレーダだからさ・・」
じっとりと湿気を含んだ空気が肌に纏わりつく。
夕日が沈み、浜からの熱風は止んだが、ちっとも涼しくならない。むしろ日暮れ前に降ったスコールのせいで余計蒸し暑い。山の涼気が渡って来るにはまだ時間がある。
これまで何回夕日を迎えただろう。二万回?二十万回?
「ま、どーでモいいけど・・・」
パレオを纏った少女が呟く。
夕日が沈んでも彼女に帰る家は無い。いや故郷すらない。彼女が見知った人たちはずっと昔に居なくなってしまった。
クリオーリョの手慰みで生まれたのが私。別に珍しい事じゃない。そんな出自は周囲に幾らでもいた。義理の父は陽気で優しかった。ただ飲んだくれで甲斐性無しだった。どこにでもいる平凡なムラート。
両親が亡くなったのは、私が八歳の時。
農園に疫病が流行り、実際は農場主の白人が持ち込んだ伝染病だったのだが、農場主の家族をはじめ沢山の人がバタバタと倒れていった。それが悪魔の仕業だとされ、自分の家族に疑いの目が向けられた。
親父が持っていたブードゥの置き物が悪魔の儀式だと讒言したものがいたのだ。そんなもの、どの家にもあるものだったのに。
急にお金が入ったのも(ラム酒一瓶の金だが)そのせいだとされた。
きっと誰でもよかったんだろう。たまたま恐怖から目を逸らせるのに自分の家族が選ばれた、ただだけの事だ。そして両親は火炙りにされた。誰も助けようとはしなかった。私は、初潮もまだだったが悪魔の子とされ、村に禍が及ばないようにと生贄にされた。ボゴ(ブードゥの司祭)に売られ、生贄は免れたが、儀式のためと称して慰み物になった。
その村人たちも、私を貪ったボゴももう居ない。とっくの昔に疫病で丸ごと死に絶えてしまった。生贄まで用意したのに全くの無駄だったという訳だ。
生きるすべを持たない孤児がとれる事はいつの世も同じ。幾人もの男どもが私の上を通り過ぎ、十五の時子供を得た。だが、この世に生まれて来ることは無かった。これも、何処にでも転がっている話。
誰が父親なのかも判らない子だったが、只の肉片として出てきた時は、無性に悲しかった。
何もかもがどうでもよくなり、もう死のうと海に入った。そう丁度今のように、夕日が沈んで凪いだ海に。
だが、死ねなかった。何回も死のうと試み、首を吊り、手首を切り、崖から飛び降りもしたが、その度に生き返る。始めのうちは死のうとする毎に凄まじい痛みと心臓が焼け付く苦しみが襲ったが、回を重ねるごとにそれも無くなり、やがて何も感じなくなった。
八歳の時に生贄にされかけてボゴに救い出されたが、本当はあの時に死んでいたのかもしれない。儀式と称した凌辱の中で、私の身体は死ねない肉体へと変化していたのだ。
そして、自ら死のうとした時、私はゾンビとなった。
幾つもの争いが起き、知り合いも行きずりの男も誰もいなくなり、独立戦争が起き、長い白人の支配は続き、民族運動や民主化の熱が吹き荒れ、恐怖政治が始まり、拝金主義が蔓延る。その度に歴史の路地裏でゾンビは造りだされて来た。非科学的だと古典的なゾンビは否定されても、世からはじき出された社会的ゾンビは今も生まれ続けている。
時間を見続けて来た、死ねないゾンビもここに居る。
夕闇が迫り、凪の時間が終わり山からの風が吹き始める。
椰子の葉がさやと揺れる。
風に乗って、酒場の嬌声が聞こえて来る。辛い日常を忘れさせる一刻の夢。
夢は限られた時間を持つ者の特権。だから永遠を生きる者には無縁の物。なによりあの賑わしさが空しく感じられて肌に合わない。
少女の足は自然と人気の無い所へと向かう。
――それは、墓地。
饐えた時間と、朽ち果てた匂いが心地よい。
月が出て、青白い光が十字架を照らす。
その十字架の根元が蠢く。
ぼこっ、ぼこっと土が盛り上がり、干乾びた腕が伸びて来る。そこかしこで、土の中から死体が這い出て来る。
それは、ボゴによって動く死体とされた者共、ゾンビ。しかし彼女と違うのは、彼らは意志を持たない。何故なら魂をボゴによって奪われているから。謂わばロボットや傀儡と同じ。
彼らはいま術師に操られてはいない。それが呪縛を解き離たれたように蠢いている。
自らの意志を持たない彼らが、救いを求めるように彼女の周りに寄り集まって来る。
そんな彼らを、少女は愛おしそうな眼差しで迎える。
朽ち果てた、あるいは腐りかけた肉体で少女に取りすがるゾンビたち。見えぬ目で、物言わぬ口で、少女に訴えかける。――もう死なせてください――と。
半ば骨の、腱や筋が垂れた屍肉の、自分に取り付く腐った腕を払おうともせずに、少女ははらりと身に着けた衣服を取り払う。そして、自らの肢体をゾンビたちに晒す。
一斉にゾンビたちがその肢体にむしゃぶり付く。
わらわらと赤子が母親の乳房に吸い付くように、我先にと争うゾンビたちを、自ら喰われながら、そんなに慌てなくても大丈夫と優しく諭す少女。
生きたまま少女の肉が千切れる音、骨が砕ける音。血が迸る音が辺りに満ちる。
何ともおぞましい光景だが、少女の肉を、骨を、血を口にしながら、ゾンビたちは法悦の表情を浮かべている。もし彼らに涙腺が残っていたら、彼らの顔は涙でぐしゃぐしゃに濡れていただろう。――これで還れると。
そして満ち足りた表情を浮かべたまま、ゾンビたちは、身体が崩れ、粉々に砕け、ただの土塊へとなっていく。
ゾンビはゾンビを襲わない。ゾンビが襲うのは生きた肉体。腐っていく自分の身体を補おうと、生気に満ちた体を求める。そして喰われた者は生気を失い新たなゾンビとなる。ゾンビたちが襲った少女はゾンビだが、生きたままゾンビとなった者。永遠の生気を持ったゾンビだ。その彼女の生気を喰らい、と同時にゾンビとしての彼女の死も喰らい、結果として命の終わりを得る。
もし最後の審判があるのなら、いま肉体を失った彼らに復活は無いが、枷に嵌められていた魂は自由になった。――たとえ復活の日が来ても、もう黄泉還りは真っ平御免と彼らは言うだろうが。
そして呪いで死者の肉体と魂を分離し魂を閉じ込めていた巫師は、自分が施した術を返され、今頃はその身体から魂を手放している事だろう。人を呪わば穴二つという訳だ。
彼女の行為は、虎の親子に自らの肉体を与えた捨身飼虎の話を思わせるが、そうではない。前世の釈迦は、たとえその場限りでも命を相手に与えたが、彼女は自分が死ねない事を知っている。そしてその場限りで終わらない死を与えた。
ゾンビの群れは土に還り、墓地にまた元の静けさが戻っている。
その墓地の真ん中に佇む少女。月の光が蒼く彼女を照らしている。
空の何処かで、啼きながら渡る夜烏の声。さわぐ椰子の葉擦れ。
また一人。長い時間と物憂い暑気が続く。
――すべては夏の夜の夢――。