最初の記憶は、戸口で争う人々の声だった。
――声はドアを隔てた廊下から聞こえて来る。
「貴方はもう教団の代表者ではありません。この聖櫃は教団の財産であり、貴方が所有権を主張することは出来ません」
「何を言う、君達は簒奪者だ。秘密の首領との交感を成し得た私こそが正当なマスター。教団の代表者は今も私であり、聖櫃は私に帰属する」
よく通る中年女性の声、上品な口調だが少し震えている。一方の太い男の声、怒気を含んで聞く者を委縮させる迫力。
ロンドンの一角、ガス灯と石畳の通りに並ぶ石造りのアパートメント。
この街の何処にでも見られる一般的な集合住宅。狭い木の階段を上がり、通りに面した短い廊下の角部屋。
その部屋の前に一人の女性と数人の男たちが集まり、言い争っている。
「騙されるな。シークレットマスター(秘密の首領)との交感など疑わしい。メイザースが勝手にそう称しているだけで何処にも証拠がない。聡明な君ならわかるだろう、このまま奴に教団を委ねていては彼の権力欲に利用されるだけだ。魔法体系は全人に開かれるべき。私たちに鍵を渡してくれ!」
女性の取り巻きがメイザースと呼ぶ相手に噛み付く。
「おおおお、本性を現したではないか。交感を疑う事は契約を否定することと同じ、それは最早団員ではない。魔術師であることも嘆かわしい。魔法体系は全人に開かれるべきだと?それこそ悠久の知恵を俗世に売り渡そうとする魔法世界の裏切り者だ。我が弟子よ、」
「天上の意思を私しようとするお前こそが裏切り者ではないか!」
「メイザース、貴方は己の力に溺れ教団を壟断しようとしました。教団創始の功労者と思いこれまで大概の事には目を瞑って来ましたが、この教団を割る行為を黙っている訳にはまいりません。英国首領達人として『黄金の夜明け団』からの追放を命じます。たとえ力ずくでも。」
「ほう、そのような権限が貴女にあるとでも。英国首領達人の称号は自動書記に拠るもの。交感を否定する貴方たちが余人を介した自動書記によすがを求める。それこそ自己矛盾ではないか」
「メイザース! 契約を疑うのか!」
女性の言葉を無視するメイザースに、男たちは色めき立つ。
激しい口論のなか、若い男が懇願するように割って入った。
「メイザース、君は専横すぎる。教団は君に付いてはいけない。君の実力と指導力は認めよう、だがやり過ぎだ。教団はメンバーが互いに認め合い高みに向かって精進する場だったはず。それを階級で縛り権威付けするのはもう既存の教会と変わらない」
「・・・甘いな詩人。現実世界を見ろ、弱肉強食の覇権主義だ。魔術もまた同じ。魔術は力、力はより大きな力に呑み込まれる。呑み込まれまいとするなら、組織を固め力を蓄えなくてはならん。青年よ、私は現実世界から魔術の純粋性を護ろうとしているだけなのだよ」
低い声の主がかみ砕くように、詩人と呼んだ相手に語りかける。
「教会は人々の信仰心に寄生しているだけの、いわば抜け殻だ。十字教は、迫害の歴史から教団を固め、影響力を持ち、教会が歴史を動かす力そのものとなった。だが近世以降その影響力は薄れて時の政権を権威付けするだけのものに堕してしまった。
――我々が魔術を志したきっかけを思い出してみろ。もう教会は人々を救えない。教会の信仰は結局逃げの救いしか与えてくれない。だが魔術は、目に見える力だ。救いを現実のものと出来る手段だ。私たちが新たな教会にならねばならんのだ。」
プライス通りに面したアパートメントの部屋。
窓にはカーテンが引かれ、外からの明かりの無い部屋の中央に燭台の灯が揺れる。一対の燭台の中央に置かれるのは、チーク材の書見台に載せられた文書。
文書が置かれたテーブルの前に、一匹の仔犬が伏せっている。身動き一つなく横たわる犬の周りには、十五角形の魔方陣。
何の変りもない部屋だが、教団に所属する者にとってそこは特別な場所だった。
教団の力と正統性を裏付ける『秘密の首領』との契約が安置された神殿。彼らはその部屋を『聖櫃』と呼ぶ。その聖櫃を巡っての争い。
元々は、直観を信頼する神智学と理論を重視する人智学のどちらに重きをなすかが発端だった。路線をめぐる論争は指導部を巻き込んでの勢力争いとなり、それぞれの陣営が魔術で応酬し合う魔法合戦の様相を呈して行く。近代魔術世界の転機となったそれは、のちに『プライス通りの戦い』と呼ばれる。
中心となるのは、『秘密の首領』と神秘的接触を果たしたと自称する前最高指導者マクレガー・メイザースと、代表を示す英国首領達人の称号を持った現教団代表フローレンス・ファー。
そして――
男にも女にも、子供にも老人にも、聖人にも囚人にも見える『人間』と、一匹の仔犬だった。
「ご心配なく。契約は間違いなく本物でしたよ」
両者の間で男が静かに言った。
「エイワスのものと文法は異なりますが、謂わんとしたところは同じ『意味』です。」
その言葉に、一同が振り向く。
「あれを読んだのか!? 誰の許しを得て。あれは内陣入りを許された達人以上でしか見る事も許されないものだ」
「クロウリー君、あなたは知識もあり実力もある。だから内陣入りの資格ありと予備門になりましたが、まだ達人と認められたわけではありません。イニシエーションを受けていないあなたにあれが読める筈がない!」
困惑するフローレンス派の者たちを尻目にメイザースが応える。
「階位なら私が与えた。それだけの実力と見識が彼にはある。資格を有するものに与えないというのは不当ではないかね。――そもそも君たちに階位を授ける資格があるのか、甚だ疑問だが。さあ我が弟子よ、私の正しさをここに居る者達に見せてあげたまえ!」
フローレンス派に緊張が走る。
相手はたった二人。数では勝っているがその二人が問題だった。教団の最高指導者を自任するメイザースだが、それもそれだけの実力あってのこと。そしてもう一人の『弟子』も、底が知れない。事実これまでメイザースに行った魔術攻撃は、全てこの弟子一人が対応しているのだ。
だが、弟子と呼ばれた男は動かない。闘志を秘めて対峙するわけでも無く、敵対や防御に興味すら見せず、整った顔に笑みを浮かべるのみ。
「・・・どうしたクロウリー、君の実力を凡夫の輩に示すチャンスだぞ!」
年齢も性別すらも不明な男は、メイザースに興味が無い様子。
「いい加減、お芝居は止めにしませんか。」
ぽつりこぼす。
ぎょっとしてメイザースは振り向く。
「メイザースさん、貴方がホロス夫人を私に差し向けたことに私が気付かなかったとでもお思いか? しっかり吸血殺しでお相手させてもらいましたがね。今では只の人、自分にまだ魔力があると信じている哀れな詐欺師ですよ」
さっと顔色が変わる。彼は弟子の持つ自分以上の魔法力を怖れて、底の知れない彼を排除できればと刺客を差し向けていた。
「残念ながら警察は来ませんよ。」
今度はフローレンス・ファーの顔色が変わった。
「この二派に分かれての主導権争いが余りにお粗末すぎる。フローレンス派の方々は私を排除しようと色々尽力なさったようだが、何故直接メイザースを狙わなかったのです? あなた方は、私が聖櫃の鍵を手にしたと知るや警察に頼った。魔術の失敗を部外者(司法)に委ねようとするとは、魔術師にあるまじき行為では? 結局のところおふた方とも、内紛に乗じて私を排除しようと手を結んだわけだ。まあその状況も利用させてもらいましたがね。」
『プライス通りの戦い』、魔術上の争いはどの公文書にも出て来ない。あくまで部屋の所有権をめぐっての民事事件でしか過ぎない。サークルのような小さな教団で、急に現れた男に脅威を感じた首脳部がその排除に使ったカモフラージュ。ではなぜそれが、魔術世界の転機である出来事だったのか。
「詩人よ、これが現実だ。メイザースの言っていたことは正しい。こんな小さな教団の中でさえ覇権主義の原理が働く。君の魔術に対する姿勢が最も魔術師らしいのだろうが・・・」
皮肉とも寂しさともとれる表情で付け加えた。
熱い。
身体の中心で、何かが熾火のようにくすぶっている。
自分を取り囲む輪が、熾火の呼吸に合わせて、暗く明るく光を放っている。
その度に、熾火の熱さが自分を苛む。
「いったい何が目的だ。教団で何をするつもりなんだ!」
「心配は杞憂です。私はこんな教団など欲してはいない。もう事は済みました。私は教団を去りますよ」
「何を・・・」
そう言いかけて、一同は言葉に詰まった。得体のしれない威圧感がここに満ちるのを感じたのだ。ひたひたと押し包む圧力。
メイザースとフローレンスの二人は、顔が土気色だった。満足に息が出来ないのか目を剝いて口をパクパクさせている。額には玉のような脂汗。
二人の異常な様子に周囲は驚くが、自分たちも体が動かない。
「なにを・・した?」
苦しい息の下でメイザースがうめいた。
「ほう、口がきけますか。まあこれはロンドンに展開している魔方陣の余波みたいなもので、あなた方に直接掛けられたものではないですからね」
これが彼らに向けられたものなら、その魔法力で肉体も魂も消し飛んでいただろう。しかし高位にあるメイザースとフローレンスは余波をより強く受けている。
「私が教団に入ったのは『鍵』を手にするため。力づくでもよかったのですが、鍵が壊れてしまっては元も子もありません。ですから正規の手順を踏ませてもらいました。それと、この教団には私が去った後にも果たしてもらう役割がありますしね。十字教世界に魔術の世をもたらすという役目が。――これでホルスの時代への扉が開かれる」
唯一神に盲従する時代がオシリスの時代。そこから解き放たれ、自身の中に神性を見出す時代がホルスの時代とされる。
「本題に戻りましょう。あなた方が一番知りたかったことです。そうです。あの契約の書には確かに『天上の意思』が記されていましたよ。どう読むかはあなた方次第です。」
「・・・・・・・・・」
周囲から、押しつぶされそうな重圧。その中心に居るのは彼。いや、部屋の扉に立つ彼の背後。
『鍵は手に入りました。あとは錠を開ける。それで私のプランは発動を開始する』
そう頭の中で声がした。
身を炙るような熱さが体の中で弾ける。
熱い、熱い、熱い、熱い。
熔けた鉄の塊を飲み込んだように。みぞおちから体を焼かれる。
熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い。
身体が火の玉になる。
熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い。
仔犬を囲んでいる魔方陣が爆発した。
眩い閃光とともに陣形が膨らむ。
部屋の扉が消し飛ぶ。
そこで彼らが見たものは、
何もない空間だった。
祭壇も燭台も、安置されている筈の契約の書も消えている。いや、部屋そのものが無かった。あるのは、可視光を超えた光に満たされた闇。
闇が膨らみ、扉の四角く縁取られた枠から虚無が溢れ出す。
部屋の前に立つ者たちを包み込み、建物を超えて、プライス通りを、ロンドン市中を押し包む。
その上には、光り輝く巨大な魔方陣――。
「――――――――!」
誰一人、言葉が無かった。
眩しさだけが有った。いったい何が起こったのか解らない。互いを確かめることが出来ず、見る事がかなわぬ眩い闇に各々が囚われていた。
そして、メイザースもフローレンスもメンバーも、それぞれ自分が変容していくのを感じた。自分の中の魔術がこれまでのものとは違うものに書き換えられていくのを覚えた。この世界では、いままでの自分とは違う自分に――。
そんな中、詩人と呼ばれた青年は、皆が光の中に溶け込みながら、石の柱に化していくのを見た気がした。そして、遥かな高みであの男の嗤い声を聞いたような気がした。
やがて光が薄れ、徐々に視力が戻って来る。
先と同じアパートメントの廊下。
教団が借りている部屋の前。窓の外は変わらぬロンドンのプライス通り。
部屋の前に集まったメイザースとフローレンス派の面々。自分らを押し潰しそうだった重圧も消えている。
部屋の扉は開いていた。祭壇の両脇に燭台が置かれ、蝋燭の明かりが部屋の中を弱々しく照らしている。祭壇の中央には契約の書。
何も変わった様子は見られない。
「何が、起きた!?」
「・・・・・・・・」
一同何が起きたのか理解できない。全員が同じ夢を見ていたような気分。
だが、皆の前に立っていた彼の姿は、ない。
何も変わっていない様子だが、全員が何かが変わった事を感じていた。何よりその変化に戸惑っている。
もう『黄金の夜明け団』が、これまでのような、ただの魔術同好の結社で無くなっている事に。
――自分たちは、魔術が当たり前に存在する英国に、居た。