葉擦れの音。落ち葉の匂い。故郷のものとは違うが色づいた木々の中に入ると、ほっとするのを覚えた。
会場を出たとき日はまだ高かったが、この時期、日本より緯度の高いパリの日没は意外に早い。夕陽に木立が影を長く伸ばし、さやさやと冷気が忍び寄って来る。
金色に染まった木立の中に、荷馬車が見える。
荷馬車からは、夕餉の支度か、屋根から伸びた煙突から白い煙が立ち昇っていた。
Im Schatten des Waldes, im Buchengezweig,
da regt's sich und raschelt und flüstert zugleich.
Es flackern die Flammen, es gaukelt der Schein
um bunte Gestalten, um Laub und Gestein.
シューマンの『流浪の民』の一節が口からこぼれた。
国家という縛りを持たない放浪の旅人。
差別もあるだろう、貧しさが日常だろう。だが、自由。
「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい・・・か」
国を背負わされて来た身上からこんな言葉も浮かんだ。自分と取り巻く世間もそうだが、日本と世界とて同じ。ぽっと出の新興国に向ける西洋の目は軽蔑。蚕食される亜細亜に同情すれば自分も餌食。日清戦争後の三国干渉に意地を通すことも叶わなかった。だから富国に貢献しなければならない。――理屈では分かるんだが、納得しきれない自分もいる。
ぼーっと佇む夏目の周囲に、数人の男が近づいていた。
ロマの荷馬車に気を取られていて、そのことに夏目は気付かない。
日没後のブローニュの森はすこぶる治安が悪い。
万博は沢山の外国人が訪れる。現代と違い気軽に海外旅行ができる時代ではない。万博に来る観光客は資産家かエリートに限られる。どちらにしても金持ちだ。見たところ小柄な東洋人。物取りには格好の獲物だ。
夏目の倍もありそうな男どもが下卑た笑いを浮かべながら背後から迫って来る。
人の気配に夏目が振り向いた時には、すっかり周囲を取り囲まれていた。手には棒やら棒以上の物騒なものやらが握られている。
フランス語は片言位しか判らないが、「金目のものを渡せ」とでも言っているのだろう。古今東西、物取りの常套句だ。
夏目はそれを見て、はあとため息を吐いた。先進国だ文明国だと言いながら、どの世界にもこの手合いの者は居るものだ。
うんざりした顔を男たちに向けた。ただでさえ今日の夏目は機嫌が悪い。だが男たちはそんな気持ちを斟酌などしてくれない。
「――不幸だ。」
「おーい、君。そこに居たのか」
不意に英語訛りの声が掛かった。
「いやー、連れがお世話になりました。駄目だろ、勝手に離れて行っちゃあ・・・」
緑の目にちぢれた栗毛の男は、夏目の手を取って言う。でも英語訛りというより、英語とフランス語がちゃんぽんになった言葉。物取りたちには解るのだろうか・・・。
そんな事を考えていて、思わずフランス語で言ってしまった。
「qui(誰)?」
周囲の空気が凍り付く。
「駄目だろ! そこはちゃんと合わせなきゃあ!!」
男の叫びに物取りたちが動き出す。
「おいおい、下手な芝居打ちやがって」
「お前も有り金置いてけ」
「勉強代と思って、手足の一本は覚悟するんだな!」
「なんですかぁ、最近の英国紳士は、こんなチンケか男娼がお好みなんですかぁ」
男が腹を括った貌で「仕方ないな!」と身構えるが・・・
それより先に、夏目の右拳が「男娼」と言った物取りの顔面に突き刺さっていた。
途端に色めく物取りたち。
「野郎! 畳んじまえ!」
棒を振り上げて来た大男の腕を取り、身を翻すと相手の勢いそのまま、背負い投げる夏目。
こんな小男に自分の倍もありそうな巨漢を放り投げる力があるとは思えない。
「てやんでえ! こちとら身長(なり)は小さくっても喧嘩の本場で修行を積んだ兄さんだ!」
ナイフを持った男が、横から夏目の脇腹目掛けて突進してくる。
夏目は左脇で相手の腕を受け止め、手首を決めて男の軸足を払う。手首を決められたまま男は転倒し、ねじれた腕がボキリと嫌な音を立てる。
あっという間に、地べたには昏倒した大男が二人。
意外な成り行きに物取り一同動きを止める。
と、夏目を助けに割って入った男が、再び夏目の手を取って一目散に駆け出した。
「や、待てこらー」
背後から怒気のこもった声が飛ぶ。
両脇の林が黄色い筋となって流れる。
引かれるままに夏目も走る。
「待てえー、待・てー、ま・て・・・」
走りながら、何かを呟く栗毛の男。緑の瞳が木立の奥を見詰めている。背後の声は、だんだんと途切れ途切れになり、小梢の間に吸い込まれるように消えていく。――それにしても、こんなに早く走れた? 何やら木立の方が走り以上に流れているような・・・
木々や岩が自ら動いて、場所を変え、径を作っている!?・・・そう、中国の古典にある遁甲術のように・・・
どれだけ走っただろう。随分時間が経ったように感じるがそれ程掛かっていないのかも知れない。しかし日は落ちて、辺りに夕闇が迫っている。
「もう大丈夫かな。追っては来れないだろう」
そう言って、男は握っていた夏目の手を放した。ハアハアと軽く息が上がっている。
「ここは、何処?」
「ああ、ブローニュの森の入り口近くだよ。ほら、アパートメントが向こうに見えるだろ」
指差す方を見ると、残照に黒く沈んだ街並みが木立の向こうに見える。
「それにしても、さっきのアレは何だい。噂に聞くバリツってやつかい?」
「バリツ?ああシャーロック・ホームズの。あれはバリツじゃなくて柔術と言うんだ」
「君、日本人だね。日本人は皆ジュウジュツが使えるんかい」
「いやあ小僧の手習いさ。器械体操には自信があるし身のこなしはいい方だと思うけど、見様見真似でも相手が大振りなんで助かった」
「見様見真似って・・・なんて向こう見ずなんだ。多勢に無勢、相手にすることがprobableでも全員を倒すことがpossibleとは限らないだろ?」
「いや、まあ・・・結果オーライという事で」
ポリポリと頭を掻く夏目。
「夏目金之助。日本から来た国費留学生だ、宜しく。」
「僕は、ウィリアム・バトラー・イェイツ。」
「イェイツ?詩人で劇作家の?」
「ああ。」
握手をしつつ驚く夏目。英文学に興味がある彼には聞き覚えのある名前だ。英国気鋭のロマン派文人で、英国から取り寄せている文芸誌に度々登場している。確か去年には故郷にアイルランド国民劇場協会を設立した。
「ニッポンの国費留学生というと、フランスで化学の研究でも? それにしてはフランス語が苦手なようだけれど」
「いや、俺は英語。貴方のお国で英語教育法研究に派遣されたんだ。フランスにはその途中に立ち寄っただけ。culture、liberty、science、technology、philosophy、学術用語も俺の国では全て一から訳さなくちゃならない。訳すというより元々ない概念だから創ると言った方が正いかな」
「ほう、言葉を創る・・・、でもそんな面倒をするより、そのまま使ったらいいじゃあないか。元々無かった単語なんだろ。英語の言葉だって、ラテン語由来のものが結構あるぜ。いま上げた単語のほとんどがラテン語からだ」
「まあそうなんだが言葉に魂が宿んないだ。意味がピンとこないっていうか、借り物っていうか。それでも熟語(漢字)にしたって元は中国のものなんだけどね。一つの文字に多くの意味を持たせる使い方に俺たちは馴染んじまってるからなあ。ピタッと収まる言霊が欲しいんだよ」
「言葉の魂――。ずいぶん魔術的な考え方をするんだな」
「君たちのように進んだイギリス人から見れば、迷信深い文化かもしれないがね」
魔術と言われ、それを後進性ととらえた夏目だが、それが日本人の基層なのだから仕方ない。しかしイェイツは遅れているという意味で言ったのではなかった。
「私はイングランド人ではない。エイル(アイルランド人)だ。アイリッシュの祖であるケルトには元々君たちのように、一つの文字に多くの意味を持たせる使い方があってね、その文字には魂が宿ると信じられていた。――もう、どんな意味でどう使ったか正確なことは判らなくなってしまっているがね。むしろ私は君たちが羨ましい。現代にあって何の矛盾も感じずに太古からの感性を保ち続けられている。」
イェイツをはじめとする現代の魔術師たちは、古代の魔方陣や儀礼、ルーン文字を使う。しかしそれらはあくまで魔術を発現させる道具であって、それに込められた想いや感性というものには無頓着だ。顧みられないと言っていい。特に十字教を強化している昨今において、その傾向は顕著になっている。むしろ一神教にとってペイガン(異教)は毒。
夏目はそんなイェイツにただふーんと返すだけだった。太古からの感性と言われても、そのように意識したこともないし、文明の先端に生きる相手に羨ましがられても何が羨ましいのかピンと来ない。ただ自分のことをイングランド人でなくエイルと言った言葉に、郷を失った植民地の悲哀を感じていた。そう、少なくとも日本は外国から影響を受けても異文化に支配されたことは無い。
「それはそうと、森を抜けるとき、木々が俺達を避けるように見えたんだが。走る速さも実際より早いっていうか、飛ばされているっていうか」
「ああ・・あれは魔術だよ。」
「マジュツう!?」
西洋人から意外な言葉が飛び出す。
「欧州の十字教では新しい勢力が台頭していてね。元々あったものなんだが、専門の技術として体系づけられ文明社会を裏付ける力として使われている。僕も、魔術師なんだよ。」
彼は黄金の夜明け団に所属する魔術師の一人。しかし魔術師と名乗る彼の表情には苦渋が滲んでいた。
「あれは空間術式の一種でね。ケルトの『妖精の輪』を利用したものなんだ。別の場所への行き来や、人を周囲から遠ざけたり見えなくすることが出来る。もっと魔法力が強ければ、過去・未来へも行き来できる扉を開くことも可能なんだがね。私にそこまでの力は無い。せいぜい間接的に移動を早めたり人払いをするのがやっとだ」
「よく解らんが、新田四郎の人穴や亡者道みたいなもんか――」
「ヒトアナ?モウジャ?」
「うちの国にある伝説だよ。知らない間に違う場所に出てしまったとか、死霊が通る特別な道筋とか。いまも風聞(都市伝説)でちょくちょく聞くな」
「君の国ではよく起こる事なのか」
「いやあ、風聞(都市伝説)だからな。風聞(都市伝説)」
真面目に受け取るイェイツを軽くいなす夏目だが、当のイェイツは何やら深く考え込む。
「君の国では、十字教は盛んなのか。産業革命に邁進しているようだが、新興国の常として、技術導入には、その、十字教をセットで受け入れることが多いんだ」
――というより、半ば強制的に押し付けられる。それは二一世紀になっても変わらない。極東の島国でも十字教どうし魔術師たちの暗躍・抗争が起こっているのか。
「ああクリスマス?盛んだよ。一週間後には初詣もあるし、丁度いい歳時記だ」
「いやいや、十字教徒のことだよ」
それに対する夏目の答えは、イェイツにとって驚くものだった。
「あまり盛んではないかな。十字教そのものは一六世紀に伝わっていて目新しいものではないし、伝来から一時期流行ったが、太閤さんや幕府による殉教があり三百年禁教だったからな。その間ずっと信仰を続けていた隠れキリシタンなんてものもあったが。いまは救世主は信じなくても多くの日本人は普通にクリスマスを祝ってるよ。まあお祭りだな」
信仰を伴わないイニシエーションなんてあるのだろうか。それに殉教?弾圧?三百年も信仰を守り続けた人々? それではローマだ。日本自体が十字教の聖地であっても不思議ではない。なのに十字教を受け入れても信仰はせず、日本人は儀礼を生活の一部にしてしまっている。一体どんな宗教なんだ?
「うちは禅宗だが、特に宗教なんて意識してないよ。違った宗派の寺にも参るし神社にも参る。帝都(うち)の神田明神なんか飛びっ切りの祟り神だぜ。それがヒンズーの神でも道教の神でも関係ないな。一向構わん宗だよ」
ヨーロッパへの航路で立ち寄った上海でもインドでも、そこに居ます神には自然と首を垂れる日本人。その神を信仰せず、何に首を垂れているのだろう。
「・・・汎神論・・・」
なのに信仰の根は一つ。イェイツはこれまでの一神論に対する汎神論の枠組みから離れた信仰を見た思いがした。汎神論の多神教である古代ギリシャもエッダもウパニシャッドも、その世界の神々を信仰する。決して異教の神に首を垂れたりしない。特に古代ギリシャにおいては異教を奉ずる異邦人をバルバロイと呼んで蔑んだ。
聞けば日本の神社には、創世に関わった神々や英雄神だけでなく、『祟り』という災害や疫病をもたらす神、創世神に逆らった神まで祀られているという。西洋であれば『悪魔』の範中だ。
「君たち日本人の方が、よほど魔術師らしいな。特定の善悪に拠らず全ての神を等しく観ることが出来る感受性。受け取るという事は使うことも出来るということだよ。魔術を使えなくても十分に魔術師だ。」
「ふ――ん、よう解らんが、そんなもんかね・・・」