もうとっぷりと日は落ちている。
「宿まで送ろう。僕もこの街に明るくはないが、来たばかりの君よりは解るだろう。それに、東洋人の夜道の独り歩きはあまり勧められない。」
「喧嘩なら、そうそう負けるつもりは無いんだが」
そう言って腕を捲る夏目。
「だからだよ。チンピラでも相手が東洋人だと露骨に差別される。向こうに怪我があったら(恐らくそうなるだろうが)、フランスの官憲に君の言い分は、まあ通らないだろうな」
留学前に強制送還じゃたまらない。イェイツの好意に甘えることにした。
ブローニュの森から軒の揃った市街地に入る。
見通しの良い真っ直ぐな大通りから一歩外れると、大改造前のパリの街並みが広がっている。曲がりくねった裏通りや人ひとりがやっと通れる路地が網の目のように大通りの間を結んでいる。
セーヌ川に架かった橋を渡る際、左手に眩い光の洪水が見えた。色とりどりな電飾に彩られた建物に、夜空に浮かぶエッフェル塔。新技術『電気』を売り物にした万博会場だ。その賑わいがここまで聞こえて来るようだった。
世紀の祭典には及ばずとも、まだ宵の口。パリの下町には市井の活気が溢れている。昼間の重労働を一杯の安酒で晴らす男たちの笑い声にシャンソンの調べ。時折混じる怒号や悲鳴は歌姫を争ってか。アパートの窓辺からは、甲高い女の罵りに交じって「かあちゃん御免よお」という情けない声がする。
江戸と同じく(火事ならぬ)かかあ天下と喧嘩は街の花だ。陋巷のささやかなフェスティバル。
夜が更けて来ると、そんな賑わいも静かになり、アパートメントにともる明かりも、ぽつぽつと残るばかり。この頃の街は夜が早い。照明はガスか灯油が殆どで電気による不夜城の賑わいはまだずっと先だ。
幾つかの通りを経由して、パスツール研究所を通りかかった時だった。
白いローブを纏った長い髪の女性を見かけた。
糸のように細い月のほとんど無いあかりの中に、白いローブというより膝下まである無地の入院着のような姿が浮かぶ。銀色の髪が足首まで垂れる。が、その足は何も履いていなかった。
二人があれっと気付きその姿を追うが、生け垣に隠れるともう彼女はいない。何かの見間違いかと思ったが、
「あれ・・」
「うん。気のせいじゃないよな。だけど、外に裸足って」
「研究所の入院患者?」
二人は明かりの消えたレンガ造りの建物を見上げるが、静まり返って何の動きもある様子が無い。
「一応、知らせといた方がいいんじゃないか」
「ああ、まだ気づかないのかも知れない」
二人はパスツール研究所の呼び鈴を押した。何回か押した後、やっと守衛が出て来た。こんな夜に一体何の用事だと、あからさまに迷惑そうである。
「あの、夜分すみません。お宅の入院患者だと思うのですが、裸足で入院着を着た女性が・・」
イェイツが英語訛りで説明する。
「ああ?入院患者。ここは研究所で病院じゃないんだ。細菌は扱ってても患者は居ないよ!」
そう言うと、バタンと扉を閉めてしまう。
取り残される二人。
「警察に知らせるか」
「本人を連れて行って保護をお願いするならともかく、裸足の女性がうろついてますよじゃあな・・・」
「でも、放っておけないよな」
裸足のうら若い女性が人気の絶えた街を歩く。ついさっき二人はブローニュの森で暴漢と出逢ったばかりだ。でも何処へ行った? 二人はあちこちを見回るが、彼女の姿は無い。
後ろ髪を引かれる思いだが、二人は夏目の宿へと向かう事にした。もしかしたら途中で会えるかもしれない。
もう時刻は夜半過ぎ。
宵の喧騒は消え、窓辺に明かりは無く、黒く濡れそぼった街に街灯だけが光っている。
モンパルナス駅の操車場を渡り、墓地に差し掛かる。
モンパルナスはこの当時、カルチェラタンに通う学生の下宿や荒れ地が広がる寂れた地区だった。
ボードレール、モーパッサン、夭折の天才ガロア、無政府主義者のプルードンらが眠る。その中に、彼女がいた。
いや、彼女ともう一人。
ほとんど裸のような南国の格好をした少女。幾本もの三つ編みを垂らした顔は暗がりに埋もれて見えないが、緑色の眼だけが印象的に光っている。
「やっと見つけた。学園都市で見かけたと思ったら変質しちまってたし、この百年はとんと音沙汰無し。――ギネーに向かう永遠の辻から、はるばる時を超えてやって来たんだ。手間相当の対価は得させてもらうよ――」
ほの白く浮かぶ銀髪の少女と、闇より黒いシルエットで浮かぶ三つ編みの少女が、向かい合っている。が、そのシルエットは微妙にずれて周囲の闇とぶれていた。緑の目だけが煌々と浮かんでいる。どこか現実感が伴わない。
「オマエカラハ、トテモ嫌ナ臭イガスル。」
銀髪の少女が抑揚のない声で言った。
「フン、人でもないものに言われたくないね。体のつくりが違う者同士だろ」
黒い影の少女がドスの効いた声で返す。声だけでなく、威圧感も凄い。なりは十代かそこらの少女だが其処らのチンピラ共とは比べ物にならない。本能が『危険!』と感じるレベル。闇社会の強面でも逃げ出すんじゃないかと夏目は思った。でも銀髪の少女は、一向に意に介さない様子。
「私ノコトハ知ラナイ。ソノ成リ立チモ体ノ作リモ。――シカシ、オ前ハ生キテモ無ク死ンデ居ナイ。コノ世界ニスラ存在シナイ・・・。ソレハ自然ニ反スル事。」
「悠久の時を生きるお前が自然を語るだと? いったい何の冗談だ」
「珊瑚ハ自分ノ屍ヲ土台ニシテ成長シ時ヲ生キル。ソノ『ポリプ』ハ単体ノ生物ダガ集合シタ珊瑚ハ一ツノ生命体。アル種ノ水母ハ成体ト幼生ヲ循環ニテ生キ続ケル。数万年ヲ生キル植物ヤ数十万年ヲ生キル菌モイル。私モ地上ニ発生シタ生キ物デアル以上、ヤガテハ単体トシテノ死ヲ迎エルダロウ。或ハ珊瑚ノ様ニ常ニ死ニ続ケテ新タナ生ヲ重ネテイルノカモ知レナイ。人間モ単体トシテハ数十年ノ命ダガ、遺伝子カラ見レバ命ヲ受ケ継イデ悠久ノ時ヲ生キテイルト言エル。ダガオ前ハ、死デ終ワル事モナク生ヲ紡グ事モナイ。」
いったい、何を言ってるんだ?
と夏目とイェイツは思った。
「よく解らん生命論をアリガトさん。そんな口上はどうでもいいンだよ。私は特殊な生命形態としてのアンタに用があったンだ。嫌な臭いと言っただろ、それさ。善悪や価値に関係なく『情報という臭い』に引き寄せられ最適化する、アンタの特性が欲しいんダ」
そう言うと少女の緑色が目が妖しく光る。
凄まじい何かが黒い少女の身体から発せられた。圧倒される威圧感。いやもっと直に伝わってくる圧力。
「魔力。あいつ魔術師か!」
イェイツが身じろいた。彼も弱小とはいえ魔術師。相手が発する魔力がどれだけのものか判る。そしてあの黒い少女がどれほどの魔法力を持つのかも。あれほどの魔力は見たことが無い。ただあの『男』を除いては。
黒い影が動き、その右手を白い少女に付き出した。
二の腕までが深々と白い胸に埋まる。手刀が背中から突き出している。
だが白い少女は顔色一つ変えない。無地の入院着が朱に染まる様子もない。
「!!?」
心臓を破られているのに平然としている。人間なら生きていられる状態じゃ無い。夏目は突然の凄惨な場面に絶句した。
「潔白の処女――」
その光景にイェイツが呟く。
「潔白の処女? あれ、だって、あれ・・・」
混乱する夏目は次の言葉が出ない。
「その昔、魔女狩りの時代に神明裁判にかけられたが、一切の傷を得ず死ななかった女性がいたことを聞いたことがある。神の試練を受けても無傷であるため、善良で潔白とされた。故に付いた名が『潔白の処女』――」
「魔女狩りだって?何百年も昔の話だろ。」
「ああ、記録も曖昧で風聞の域を出ないが、異端審問の歴史の中に時々出て来る。確か名前は、フロイライン=クロイトゥーネ。」
人ならざる者は戸惑っていた。
確かに相手の胸に大穴をあけたのだが、まるで手応えが無い。胸に突き刺さした腕を上げ下げし抉るが、されるがまま。動かしても穴の開いた白衣が上下するだけで、筋組織が痙攣する肉圧もごつごつした肋骨の感触もない。まるで暖簾に腕押しだ。水に手を潜らせているように何の影響もない。
忌々しげに悪態をつく。
「クソッ、このバケモノめ!」
「当該者ヲ敵性ト認識。体組成ヲ解析スル」
白い手が自分を貫いている腕に伸びて摑む。
チリチリするのを覚えて人ならざる者は自分の腕を見た。摑まれている部分がドット欠けのように滲んでいる。
そこから浸潤してくる何かが、腕の周囲を変質させていく。
「死ンダ者ハ土ニ還ルベキ・・・」
腕を引き抜こうとするが、今度は抜けない。握む力は大したもので無い筈なのに微動だにしない。
「ちいっっ!」
思いっきり引くと、こちらの腕が付け根からもげた。もげた片腕は少女の胸に刺さったままでいる。が、そのまま砂となって散ってしまう。
もげた部分からの出血は無い。しかし痛みはあるのか人ならざる者は顔を顰める。もっともそれが肉体的な痛みなのかどうかは解らないが。
「やってくれるねェ。だがお前も言っただろ、私は生きてはいないが死ンでも居ないんだヨ!」
入院着にはぽっかりと穴が空いている。しかし傷のある様子がない。
「凄い再生能力だねえ。あっという間に刺突裂傷完治かイ」
完治したのではない。もともとフロイライン=クロイトゥーネは傷など負っていなかった。小魚の群が球を形作って大きな体に見せかけるように、フロイラインの身体は細胞一個一個が寄り集まって彼女という外形を成していた。
「これは喰らい手がありそうダ。特性もろとも喰らい尽くして、その能力も頂こうか!」
隻腕の少女の雰囲気が変わる。
黒い気が全身から立ち昇り、相手の生気を喰らい尽くそうというゾンビの欲求を解放する。黒い気が渦を巻き、ゾンビ少女を包み込み、彼女の姿そのものが黒い旋風となってフロイライン=クロイトゥーネに襲い掛かる。
フロイライン=クロイトゥーネも姿を変える。ゾンビが黒ならこちらは白い旋風。姿がぼやけ、煙のように細かな粒子となり、渦の中で揺らめく白い煙が、黒い旋風を飲み込もうとする。
黒と白が入り混じり、あと一息で黒が呑み込もうかという所で新たな白が生まれ、逆襲する。お互い一進一退、消し切ることが出来ない。
『くそお、鰻のようにちょろちょろと――』
どうっっ。
黒い気が一気に膨れ上がり、旋風が勢いを増した。周囲の墓石のいくつかが風になぎ倒される。
風の余波は離れたところに居る夏目とイェイツの所まで届いていた。身を屈め煤煙のような風に口元を押さえる夏目。夏目と同じように伏せっているイェイツだが、何やら様子がおかしかった。額に脂汗が浮かんで苦しげな表情をしている。
「どうした、イェイツ」
「・・・なんて魔法圧。こちらの気にまで影響が来てるうっ・・・」
自分に向けられている魔力ではないのに、その余波だけで魔術師が魔術を使うために調整している体の気の流れが乱れてきていた。当然身体も変調をきたす。魔術師でない夏目はどうしたのか解らない。しかし嫌な危険な風であることは感じていた。喩えて言うなら黄泉から吹く瘴気。
苦し気に蹲るイェイツ、夏目は呼びかけるが呻くばかり。
まだら模様の暴風が荒れ狂うなかで、だしぬけに声がした。
「やっと出会えたぞよ。六道輪廻の遍路を巡り、三障四魔の外道の果てに、ようやく見つけた」
皺れた声と共に、唐突にもう一人が現れた。
東洋風の僧衣を纏った、指も貌も骸骨に皮膚を貼り付けただけのように痩せこけた男。
生きた人間というよりパッキパキに枯れたミイラ。だがその眼孔は、煌々と緑色に燃えている。
『――? 僧正!』
旋風の中で三つ編み少女の声が忌々し気に響く。
「良いぞ良いぞ。その能力、いずれ我らに必要となる秋が来る。お主でしか扱えぬ能力じゃ」
『何しに来た! お前と手を組んだ覚えも指図されるいわれもない』
「今のところはな。じゃが、とある特異点のためにそう言ってられぬ刻(分岐点)が来る。あの半端者が掻き回してくれるお陰でな――」
『あいつ(オティヌス)か!』
三つ編みの少女が吐き捨てるように言う。
「カッカッカッカッ。」
ミイラが乾いた笑いを飛ばす。
『で、アンタはコノ時空ニ何の用?』
「おおお、大分同期してきたようじゃないか。善哉善哉。」
少女が僧正と呼ぶミイラは、吹き荒れる暴風も黒い瘴気も全く意に介さない様子。周囲をなぎ倒す旋風に、そよ風に当たっている気安さで、世間話をするかのように話している。
「儂もその異生命体に用があってな。イヤお主の邪魔はせんよ。正確には今のこの事態に興味がある人間に用事があるんじゃ」
『・・・・・・・』
黒い暴風は僧正の話を聞き流して、より勢いを増す。白い粒子を完全に呑み込もうとしている。
『おおおお、力が突キ抜けていク! 時空モ世界モ・・全てニ自分ガ行き渡っテいくのヲ感じルうっ』
白い粒子が絶え絶えになる中で黒い旋風は吠えた。
『これデ、彼女ヲ救える。』
女が叫ぶ。その声には、手にした力への驚き、希望、達成感が浮かんでいる。
「まあその位にしといてもらえんかのお。彼女が完全に消えてしまうのは、チト不味いんでな」
『フン、お前にハ関係なかろウ? それとモお前モ、この力ガ欲しクなったカ』
「力なんぞに用はないぞい。先も言ったじゃろ、この時空間に興味がある人間に用事があるんじゃと。それに拙僧は闇雲に種を滅ぼすことは好まんのじゃ。その生命体もこの星の一部、自然を害することは仏道に反する。ほら、今流行のエコじゃよエコロジー」
そう言うと僧正はさっと手に持った杖で空間を払った。
すうっと旋風が雲散し、黒い少女が一人残されている。白い少女の姿は無い。
あたりの瘴気も消え、息もつけないないほどに苦しんでいたイェイツは、伸し掛かる重圧が解けたのか肩で大きく息をついていた。
クロイトゥーネと対峙した時とは雰囲気が違っていた。なんというか、一層この世ならざるものを感じさせる。彼女の周りの世界が重複し入り混じっているような雰囲気。
「エコだと。エゴの間違いジャないのカ? 破戒坊主ノくせニ」
「まあ、うちのクニでいう大天狗じゃからのう。カカカカ」
また虚ろな口を開けて破顔する。いきなり術式を中断させられたことも面白くないが、皮肉を言っても通じる相手ではないらしい。そんな僧正に
「こちらノ用は済んだシ、お前トやり合う理由モない。今ノところハな。お前ガこの時空ニ何の用事ガあるかモ興味はなイ。何をスるのカ知らんが、去らせテもらうヨ。」
「そうじゃな、まともにやり合えばこの時空を壊してしまうからな。それはお主も本意ではあるまい」
「――また現世デ。アディオス・アスタレゴ」
そう言うと、三つ編みの魔神の姿は消えた。
「・・・バロン・サムディを超える者となったか。正真正銘、魔『神』と成った訳じゃな。じゃが、生と死を司れたとして死者を黄泉還らせることは、どうだか・・・」
ほつり僧正は諦観じみた呟きを吐く。
「大天狗?」
僧正の言葉に夏目は耳を疑った。
天狗とは仏教でいう六道輪廻から外れた魔縁の者。その中でも特に神の如くの力を持つ者を大天狗という。優れた力を持った仏僧や修験者などが前世の悲運を呪って、死後大天狗になるといわれる。そのむかし日の本を呪詛と天変地異の恐怖に叩き込んだ崇徳上皇、日本魔術『修験道』の祖である役小角らが代表だが、いづれもお伽噺の話だ。でもこれは、
飄々と突っ立っているだけの枯れた老人。あの老人が何をした? イエイツが魔法圧と呼んでいた只ならぬ空気の中で、あれだけの暴風に晒されながらそよ風に吹かれるように受け流しながら、異様な瘴気と暴風をたった一振りで雲散させてしまった。夏目は、大天狗は『かつて兜率天を一瞬の内に焼き尽くした』という正法念処経の一節を思い出していた。
「ほ、そこにおる東洋人は日本人かえ。西の果ての外つ国で、同胞と会い見えるとは善哉善哉。」
緑の眼光だけが浮かんでいる何もない目がこちらに向く。
「ほう、原石までも一緒とは。」
「原・・石・・・?」
夏目に肩を抱えられたイエイツが、耳慣れない言葉に反復する。
「お主、この世界で違和感を覚えておるじゃろ、これまでと違ってしまった世界観にな。現世を現世でないと感じることが出来るのは書き換えの影響を受けなかったから。それこそ原石である証拠じゃ」
相手が何を言っているのか、さっぱり理解できない。
「おう、書き換えの主が現れた様じゃ」
僧正の示す視線の先に、一人の男が現れる。
「クロウリー」
イエイツが見知った顔の名を呼んだ。
プライス通りの戦いの後、メイザースはパリに渡ったと聞いている。クロウリーもあの場所から行方知れずとなっていたが、彼も一緒に来ていたのか。戦いに敗れたメイザースがイギリスを離れるのは解る。あの戦いはフローレンス派の勝利と見なされているが実際のところは微妙だ。結局はフローレンス派も四分五裂で、フローレンス・ファーはロンドンにいるが他の主だったメンバーたちは皆国外に散ってしまった。しかし残った者も去った者も一様に彼に畏怖を感じ、消えたクロウリーの事を『彼』とか『かの者』としか呼ばない。真に勝利者と言えば、彼だ。
「久しぶりだね。詩人君」
変わらぬ、女とも男とも若いとも老人ともつかぬ声で呼びかける。
「君は、あの時メイザースに言った言葉をまだ覚えているかい」
コクリと頷く。
その返事に満足したようにクロウリーは微笑んだ。
「やはり見込んだだけの事はある。あの中で影響を被らなかったのは君だけのようだ。」
そう続けながらクロウリーは跪き、足元に残る白い塊を優しく手にする。クロウリーの華奢な掌の中で、それは青白く燐光を放ちながら息づいていた。
「潔白の処女の成れの果てじゃよ。まだ生きとるがどうするつもりじゃ。今更永遠の命が要るお主でもあるまい?」
クロウリーの所作に笑い(のように見え)ながら僧正が尋ねた。
「――元に戻るまで百年余りか。それまで大切に見護らせてもらうよ」
「それが良かろう。少なくとも百年は間違って不死者が生まれる心配はない。要らぬ悲劇は避けるが肝要。こちらで預かってもよいのじゃが、儂らも一人ではないのでな。あらぬ争いの種は持ち込まぬに限る。」
くっくっくと歯から息が抜ける声で嗤う。
「で、本題じゃが」
――いったい、どれだけ続ける気かの――
――この世界も何回目の原型制御なのかの――
その問いにクロウリーは答えない。
「まあ儂らもお主の原型制御で現れたようなものじゃからの。位相で対抗手段はとらせてもらった。毎回いきなりのちゃぶ台返しは叶わんからのう」
そう言ってまたカッカと嗤う。息の抜ける声で。
「ただエドワード・アレクサンダー・クロウリーとして、イギリスの片田舎で生涯を閉じた方が良かったんじゃないのかの。所詮、果たせぬ夢じゃ」
「神を目指した君たちに、どこまでも夢は解らないだろう。きっかけが夢であったとしても夢は忘れてしまう」
「フン、夢はうたかた。久遠の神に望みはあっても夢などにすがらぬ。」
「では神の望みとは何かな。浅学の私に教えてくれないか」
魔神は答える代わりに言った。
「今すぐにでも魔神に昇華できるものが、何故人間で留まろうとする? 理想の世界を創りたいなら思いのままに、すぐにでも展開できるぞ。やり直しも自由、いくつかを並べて比較選別することも自由。誰ひとり犠牲を伴わずにな。原型制御などという起点がひとつしかないなかで、やり直しも一回ずつという縛りだらけの不自由さに何故固執する。お主のせいで失われる命は幾つだ? 現世が変わる訳ではないのだから、踏みにじられる命はそのまま引き継がれる。死すべきものは死に生きる者は生きる、それが世の理というものじゃ。」
「その生死は誰が決める。神か」
「あるべき姿が理と言っているんじゃ。理想をあるべき姿とするのが神の御手よ」
両者が人ならざる者であることは夏目にも判った。ミイラと対峙しているクロウリーとかいう人物も魔縁とは別の化生の者。だが両者には決定的な壁がある。
「で、これからどうするつもりなんじゃ。このやり直した世界で」
「僧正にはもう解っているんだろう、魔術が確実な世界とする。その方が、魔術世界の頂点たる魔神様にも都合が良いと思うのだが。但しそれには基準点が必要なのでね」
「そのために改変に依らぬ永遠の命(フロイライン=クロイトゥーネ)と観察者の確保か。はてさて面倒な事よの。儂はまんまとお前の手助けをしたという訳か」
やれやれと言った様子。
「消えてしまう手前で止めてくれたことには感謝する。」
「成ってしまった改変に興味は無いわい。但し理は正す。――これまで通りにな。それに抗いたければ原型制御でもどうにもならぬ隠世に来るしかないが、人の身では無理じゃ」
「どうかな、『神ならぬ身にて天上の意思に辿り着くもの』の云いもある。」
クロウリーの不適な言葉に破顔しながら、僧正はゾンビ魔神と同様に姿を消した。
一人残ったクロウリー。
「と、いう訳だ。すまないが君には観察者となって頂きたい。尤もあの部屋の前でから君は既に観察者なのだがね。イエイツ」
そう言うと、クロウリーは手に持った杖を揮った。
齢ふったトネリコの杖が下ろされると同時にクロウリーの姿が消えた。と同時に夏目の肩に掛かった重さも。
振り返ると友の姿も無い。
「イエイツ!」
友の名を呼ぶが返事は無く、かわりに虚空から声がした。
「東洋人、君も立ち会いたいならロンドンに来るがいい。時は、――君が見つけたまえ。」