とある無能力者の絶対能力   作:ノナノナ

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倫敦塔

 翌二十八日、パリを出発して英国へ。英仏海峡は僅か三五キロにも満たない狭い海峡だが、水温が低く潮流も早い難所である。カレーからドーバーまでの船旅は、一日に四季があると言われるほどの目まぐるしい気候の変化で波風が強く、船は強かに揺れた。

 最終目的地、ロンドンに到着したのが日暮れあと。大英博物館に近いガワー街七六番地の下宿屋で旅装を解く。

 夏目の目的は英国文化の研究のためだ。だがロンドンに着いて、夏目は留学先のケンブリッジやロンドン大学(通りのすぐ裏手!)、宿と目と鼻の先にある大英博物館には向かっていない。彼がロンドンの街にくり出したのは三日後の三十一日だった。

 三日間、彼は何をしていたのか。

 『君も立ち会いたいならロンドンに来るがいい。時は、――君が見つけたまえ』

 最期に聞いたあの言葉を考え続けていた。

 ヒントはロンドンという地名と時を見つけよという事だが、広いロンドンのどこで、いつ?

 それともう一つの手掛かりは、レディリーが言っていた『過去が渦巻いている時間の牢獄』『それが開かれるのは、過去と現在が入り混じるとき』という謎めいた言葉。

 ロンドン市街図を広げながら推理を巡らす。

 英国史の中心で国会議事堂のあるウエストミンスター宮殿か。イギリス清教の総本山セント・ポールか聖ジョージ大聖堂か、それとも過去と現在の人物が集うマダム・タッソーの蝋人形館か。魔術的な臭いでならマダム・タッソーなど打って付けだ。しかしこの古い都には幽霊話のある館や辻などごまんと有る・・・。

 「ここだ。ここ以外にない。」

 そう呟いてテムズ川河畔の一点にあたりを着けた。

 そしてカレンダーを見詰める。十月の最終日。

 

 日本で神無月と呼ばれる十月。その三十一日は、欧米では万聖節の前日で『ハロウィン』と呼ばれる。子供たちがお化けの格好をし「トリック・オア・トリート」と唱え回る日だ。

 ハロウィンはもともと十字教の祭りでは無く、古代ケルトの大晦日に当たり、死者をはじめ精霊が地上によみがえる日と考えられていたことを起源としている。子供達がお化けの仮装をするのもそのためだ。この日はこの世と霊界との間に目に見えない「門」が開き、両方の世界の間を自由に行き来が出来るといわれた。

 そしてこの日は、奇しくも旧暦では九月九日、重陽の節句に当たった。

 極東の節句が西洋で影響するのかは判らないが、陰陽道では奇数は陽の数で奇数の重なる月日は陽の気が強すぎるため不吉とされ、九は一桁の数のうち最大の   「陽」で『重陽』は特に負担の大きい節句であったものを、陽の重なりを吉祥とする考えに転じさせて祝い事にしたものだと聞いたことがある。『過去と現在が入り混じるとき』にこれほど最適な時間は無い。

 どんよりした曇り空の下、夏目は下宿を出た。

 『霧の都』とは聞こえがいいが、実体は石炭からの煤煙。晴れた日でも太陽はぼんやりと霞んでいる。それに低く垂れこめた曇天も相まって、真昼なのに夕方のように薄暗い。煤けた建物が街をいっそう陰鬱にさせている。

 大英博物館を掠めセント・ポール大聖堂を通り過ぎ、イギリスの中心地シティー・オブ・ロンドンに掛かるロンドン橋からテムズ川を渡る。左手には蒸気機関で橋梁を開閉する独特なゴシック様式のタワー・ブリッジが見える。そして、古い石造りの城塞。

 そこが目的の場所。一度テムズ河を渡ったのも、タワー・ブリッジからそこに行くためだった。

 蒸気機関で自ら橋梁を開閉する跳開橋。それは時を選んで開く此岸と彼岸。そのたもとに建つのは、倫敦塔。

 二〇世紀を目前にした近代文明の街の心臓に建つ中世の砦。

 夏目は後年こう記している。

 『倫敦塔の歴史は 英国の歴史を煎じ詰めたものである。過去と云う怪しき物をおおえる戸帳が自ずと裂けて龕中の幽光を二十世紀の上に反射するものは倫敦塔である。すべてを葬る時の流れが逆しまに戻って古代の一片が現代に漂い来れりとも見るべきは倫敦塔である。人の血、人の肉、人の罪が結晶して馬、車、汽車の中に取り残されたるは倫敦塔である。』

 低く垂れこめた曇天もあって、煤けた灰褐色の門は、ダンテの地獄門を思わせた。

 「この門を過ぎんとするものは一切の望みを捨てよ。」

 そんな一節が頭をよぎる。

 倫敦塔の中心は四隅に塔を持つ箱型の建物、白塔。その白塔を囲うように城壁と塔櫓が建ち並ぶ。

 そんな外郭の一つ、聖トマス塔のテムズ河畔に開いた逆賊門。この城砦に送られた罪人たちがくぐる娑婆で最後の空を見る門。次に日の光を見るのは断頭台の上だ。隣りに建つ血の塔では、幼い兄弟が囚われ処刑された。

 外郭を過ぎて内陣に入り、倫敦塔の天守閣に当たる白塔に入る。

 白塔は倫敦塔の中で最も古い建物。建てられたのは一〇七八年と伝えられる。元々はイングランド王の宮殿だった。中には人の住まいを思わせる部屋があり礼拝堂もある。もっとも漆喰と石造りで湿気っぽく、陰鬱には違いないが。いまは往時を偲ばせる博物館となっている。あるのは武器具と英国王室ゆかりの品々。

 白塔巡りを終え西側の広場に出る。

 唐突に鋭い鳴き声が響いた。

 見ると大きな鴉が三羽、翼をばたつかせて広場にたむろしていた。鳴くたびに覗く真っ赤な口が人の血を吸ったようで禍々しい。

 「ねえ、鴉が寒そうだからパンをあげてもいい?」

 「あの鴉は何にもたべたがっていやしません」

 親子連れか、あの鴉のように黒い服を纏った婦人と七歳ばかりの男の子の会話が聞こえた。

 「なぜ」と問う子供に、

 「あの鴉は五羽います」と、愁いを含んだ表情で返す。

 鴉は三羽だったはずと夏目は確かめる。確かに三羽。

 おかしなことを言うものだと振り返るが、そこには親子の姿は無い。がらんとした空間にピョンピョンと跳ねる鴉のみ。

 壁にこだまする鴉の声と、冬の訪れを告げる遠雷が響く。薄ら寒さを覚えて、白塔の向かい、ビーチャム塔に入る。

 ここは罪人たちが最後の時を待った場所。細く穿たれた銃眼の窓のみの薄暗く冷たい牢獄。

 壁には所々に薄れて何が書いてあるのか判読できない文字がある。それはナイフも無く己が爪で血を流しながら、罪人たちが心情を壁に刻んだ痕。まさに血の吐露だ。

 リチャードⅡ世が、トマス・モアが、アン・ブーリンが、ジェーン・グレイが、幼いエドワード5世とヨーク公リチャードが、人間の欲望にすり潰され儚く消えて行った。無実の罪を着せられた者もどれだけいた事か。この城砦の土や壁や床には、そんな犠牲者たちの最期の想いが染み込んでいる。

 『あそこに犬がかいてある』

 と、子供の声。

 『犬ではありません。左りが熊、右が獅子でこれはダッドレー家の紋章です。この紋章を刻んだ人はジョン・ダッドレーです』

 先程の親子の声。だが姿は見えない。壁を伝って声だけが響いてくる。

 『これらの獣をよくよく見れば、それが刻まれた理由を容易に知ることができるであろう。そして縁取りの中にも・・・・・。大地を求める4人の兄弟の名が。』

 声だけが誦するように響く中で、急に周囲の光景が消えた。

 牢獄の壁も、明かりのカンテラも消え、さっき見た白塔の礼拝堂にいた。

 太い列柱が囲う半円形の内陣、聖ジョンの名を戴いたチャペル。ステンドグラスも幾何学的なゴシックの柱梁も無い、龕形に穿かれた明り取りがあるだけの武骨な空間。

 その窓から、弱々しく夕陽が差し込んでくる。北国の速い落日。

 夕陽を背に、正面の十字架が置かれた祭壇前にあの男がいた。

 男にも女にも、子供にも老人にも、聖人にも囚人にも見える、クロウリーと呼ばれた男が。

 『ほう、辿り着けたのかね。東の人。』

 窓の光を背に受けて黒く塗りつぶされた影が口を動かさずに言う。

 『“ロンドン”という符牒だけで突き止めるのは高位の魔術師でも困難な筈、本当に一般人なのかね君は』

 シニカルな笑みを浮かべる。

 『来なかったほうが良いものを。――来てしまった以上は、これから起こる事に立ち会ってもらおう。そこの観察者と一緒にな。』

 祭壇の傍らには倒れたイェイツの姿。

 「――――!」

 イェイツ!と叫んで近寄ろうとするが、声が出ず体も動かない。息苦しさに右手で胸を押さえる。そのまま固まったように動けない。

 金縛り。周りの空気に手足も首も胴も雁字搦めにされている。

 男が何やら誦え始めると、壁龕の窓が赤く光り、薄暗かった礼拝堂の中が夕陽を浴びたように紅色に染まっていく。

 燃えるような朱、龕窓が陽炎のように揺らめく。

 その只中に、一匹の犬が浮かんでいた。

 あの男の姿は消え、夕陽に黒犬が張り付けられたけられたように浮かんでいる。

 それは雄にも雌にも、仔犬にも老犬にも、忠犬にも魔犬にもみえた。

 目を血のような色を燃え上がらせながら、虚空に浮かぶ犬。

 そしてその足元にはイェイツ。

 

 熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い。

 熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い。

 『わたしは何だ。』

 『ここは何処だ。』

 熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い。

 熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い。

 ――体が灼ける。――

 ――体に流れ込んでくる“想い”に弾切れてしまう――。

 熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い。

 熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い。

 

 黒犬は苦し気に喘ぐ。

 身体を燃え上がらせた犬が身もだえする度に、意識のないイェイツもうめき声を漏らす。

 わたしは、誰?

 過去、現在、未来がないまぜになっている?

 『地の流れ、天の意志。ここに集い、収斂せん。――』

 あの男の声がこだまする。

 男の誦に合わせて苦悶する犬とイェイツ。

 動きたいが動けない。

 動こうと力を籠めると呼吸が締められる。

 息が出来ない、額に汗が浮かぶ。それでも何とか呪縛から離れようと身もだえするうち、右手に何かが触れた。旅立ち前に買った神田明神のお守りだった。

 かきっと何かが欠けるような音がし、クロウリーが吼えると夏目が叫ぶのが同時だった。

 『汝の意志することを行え!』

 「イ・エ・イ・ツ・うううう!!」

 縄から解けたように走り寄る夏目。

 『!! 戒めが解けた?』

 夏目がイェイツに触れると、再び何かの欠けるような音がして、硬直したイェイツの身体から何かが立ち昇った。

 気、瘴気?とても嫌な臭いがして顔をそむける。

 立ち昇った瘴気は燃える犬に吸い込まれていく。

 

 熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い。

 

 犬の苦悶は消えない。声にならない吠え声を上げ、荒れ狂っている。

 『時の指標を失ったか。これでは事半分といったところ――』

 がはっ、と咽上げタールのようなものを吐くと同時に、イェイツは気を取り戻した。体の硬直が解け苦悶の表情も消えている。

 紅い日の中で荒れ狂う犬を見る。まるで断末魔にのたうつ生贄の獣。

 『ものは相談だが、いま一度「観察者」となってはくれないかね。詩人君。』

 抑揚のないクロウリーの声。

 「何を馬鹿な!何をしているのか知らないが、イェイツはお前の道具じゃない。取り戻させてもらう」

 夏目は拒否するが、そんな言葉を無視するように続ける。

 『魔術師は魔術の僕。私がいま何をしているかは、君が一番よくわかるだろう。君は魔術の純粋性を護りたいと言った。そうとも、魔術が過去から今そして未来に、形而下として在るよう既定すれば、魔術は人の恣意で歪められることの無い技術となる。今はまだ過去から現在に至るまでの原型制御に過ぎない。未来への標にはそれを定める観察者が必要なのだよ。それが魔術の純粋性を求める者であればなお相応しい。』

 「君が、観察者となればいいじゃないか。もともと君が作った世界なんだ。」

 『勿論見届けさせて頂く。だが、私は観察者になれないのだ。作った者がその基準点では公平性に欠け、どうしても私の恣意が反映されてしまうからね。創造主になるつもりは無い。一歩離れたところで見守るよ』

 「世界を始めておいて創造主になるつもりはない? 人を弄んでいるだけじゃないか。神か悪魔にでもなったつもりか」

 『Demon Est Deus Inversus(悪魔は神の転化)、君の魔法名だったね。神も悪魔も、その本質において同列に置く君らしい』

 イェイツは魔法名で彼のものを思い出した。たしかBestia Sescenti sexaginta sex(獣666)。

 『君と僕とは同じなのだ。』

 『君は自分を過小評価している。あのプライス通りでなぜ君だけが可変を免れている?魔神の魔法圧に晒されながら、どうして無事で居られたのだ? 君は意識していないだろうが、そこの一般人を庇いながらだぞ。少なくとも五臓六腑を掻き回され血反吐を吐き一般人は消し飛んでいた筈だ。低い魔法力でありながら、既に魔神と同格に立っている。魔神になるには生来の資格と長い時間、そして特別の条件が必要となるが、いまここにはそれがある』

 『ひとつ提案しよう。この世界の成否を定めてくれないか。人々の選択の成り行きをな。そのための永遠の命と、君が見たあの魔神のような、いや魔神以上の力が得られる。まさに神ならぬ身にて天上の意思に辿り着く者だよ。君はその入り口にいる』

 古来より文献に出て来る「悪魔の囁き」とはこういうものなのだろうとイェイツは思った。イエスの荒野の誘惑、聖アントニウスの誘惑、ブッダの菩提樹の誘惑・・・。でも自分はそんな聖者じゃない。

 「断る。」

 きっぱりとイェイツは言った。

 「魔術の究極が人であることをやめる事なら魔術を棄てた方がましだ。世界の成否を決めるのは、その時代に生きる人々。様々な選択の積み重ねの上に成り立つものだ。そもそも成否なんてない。たくさんの人々の思いが詰まった結果があるんだ。気に入らないから壊すとか造り替えていいものじゃない」

 『幾多の欲望が重なり合う世界だ。全ての人が納得できる選択など無い世界だぞ。それを全てが幸せな結果と出来るとしてもか』

 「こんな縛りだらけの世界でも、成り行きに任せただけの中でも――、人に与えられた選択よりはましだ」

 『そのための裁定者だったのだが。――私も、人は逡巡しながら正しい道を見つけ出せると信じているよ』

 「一体なにがしたいんだ?」

 それに対する答えは、あっけないほど普通だった。

 『ただ、まだ見ぬ娘を守りたいだけなんだがね。』

 アレキサンダー・クロウリーに子供は居ない。それどころか結婚すらしていないはずだ。だが彼はまだ見ぬ娘と言った。そして、あのミイラの言葉を思い出した。――いったい、どれだけ続ける気かの。この世界も何回目の原型制御なのかの――

 目の前にいる彼は、自分の知っているクロウリーなのか。それとも――。

 イェイツは、『はるばる時を超えてやって来た』と言っていたあのゾンビ魔神よりも、ぞっとしたものを感じた。

 『仕方ない。君の魔力を貰うよ。生来の資格を特別な条件で生かすためにね。それでこの未来への不安定な状態を安定させる。』

 クロウリーはそう言うと、最後の咒を放った。

 『われ、真実の力によりて生きながらに万象に打ち克てり!』

 礼拝堂が歪む。

 様々な声が、男や女や子供や老人や数多な人々の訴えるような言葉が、壁じゅうから響き渡って来る。

 「私に不義密通の事実などありません」

 「私の首は小さいですからね」  「この髭は大逆罪を犯しておらんのでな」

 「どうすればいいの、どこなの」

 「兄さま母様はどこ」

 「友よ、お前もか!」

 「われ、第六天の魔王となりて災いをなさん」

 時代も国もばらばらに、運命論の歯車にすり潰された人々の吐露が渦巻いている。

 「機械が決めたことに、人間が従っているからよ」

 「地獄の底までついてきてくれるかな」

 「もう何も失いたくねェンだ」

 「誰かが犠牲にならなきゃいけないなんて、そんな残酷な法則があるのなら――」

 「そんなに簡単に割り切れないんじゃないかな…過去の自分があって今の自分がある訳だし…その過去が大事なら尚更…」

 「その幻想をぶち殺す!」

 そして最後に一言。

 「『わたしは誰。』」

 とある少女の声と共に、まわりが空間ごと消えた。

 

 熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い。

 熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い。

『わたしは、エセルドレーダ』

 

 ノーサンブリアの女王、イングランド最初の聖女、ケルトと十字教との境界に立つ女の名を黒犬は叫んだ。

 過去、現在、未来の様々な声が黒犬に流れ込んでいく。

 声の主の想いと共に、それらは収斂し、そして爆発した。

 響轟が迸る。

 悲鳴が、

 絶叫が、

 咆哮が、

 叫喚が、

 怒声が、

 叫涙が、

 雄叫びが、

 闇とも光ともつかぬ白い波となって、イェイツと夏目に襲い掛かった。

 眩しさに目を瞑り、耳を薙ぐ奔流に揉まれる。

 「――――!!」

 何を叫んだか覚えていない。それが自分のものかイェイツだったかも。

 光と音が消え、目が慣れて来る。

 そこは、先程までいた礼拝堂。

 夕日が落ち、あたりは暗がりに沈んでいる。

 人の気配は無く、イェイツと夏目の二人きり。クロウリーの姿も、あの犬も消えている。

 ――白日夢?――

 と一瞬思う程に、唐突に終わっていた。

 が、しかし。

 「イェイツ、君の目!」

 イェイツの澄んだ緑色した目が、普通の瞳に変わっている。イェイツも自分の変化に気付いた。

 「ああ…、…魔力が無い。チャクラも感じられない。」

 頭の中に魔術はある。魔法の知識もそのままだし理解も出来る。でも気を練ることが出来ない。そもそも気を感じられない。

 呆然とするイェイツ。

 そんなイェイツを心配げに見ていた夏目だったが、急に吐き気に襲われた。

 胃の奥が熱くなり、猛烈な痛みが走る。

 灼熱した何かが逆流して口から溢れ出す。

 石の床にぶちまけられる、血。

 「うううっっ…」

 なおも逆流して吐く。痛みと吐血で呼吸が止まりそうになる。イェイツは突然のことに驚いた。屈みこむ夏目、咳込み脂汗が額に浮かぶ。「どうした!」と、寄り添うイェイツ。

 苦しむ夏目の背を摩るうち、ハッと気付く。そうだ、これは魔神の猛烈な魔法圧に当てられた時の自分と同じ。そしてついさっきまで、彼は時空を歪ませる魔法に曝されていた。自分を助けようとして――。

 あの時の自分は、体に循環するチャクラを調節して何とか耐えていた。クロウリーが言ったように、無意識下で彼も魔法圧から庇護していたんだろう。だが時空改変のとき自分は意識を失っていた。何の遮蔽も無い中で彼はあの魔法に曝されていたんだ。

 ――多分、彼の気の循環はズタズタになっている筈。このままでは――。

 気の循環を整えようと、ヒーリングを施そうとする。しかし、手順を頭の中に組み立てても、肝心の気が出ない。

「そうか、完全に魔力は失っているのか・・・」

 イェイツは唇を噛んだ。苦しむ夏目に何もしてやれない。やがて彼の体に流れ込んだ膨大な魔法圧によって、細胞が破壊され、全身の血液が噴き出して来るだろう。苦しみ悶えながら、自分のせいで血の海に沈んで死んでいく彼を見ていることしか出来ない。

 「・・・夏目・・・」

 何度目かの吐血ののち、夏目は苦しい息のまま、身を整えて正座した。足を組みそれぞれ反対側の腿の上に乗せ、目を閉じる。結跏趺坐の姿勢だ。

 「そうか、ヨーガか! 君はヨーガを知っているのか。」

 ヨーガは体内を循環するチャクラを想感し気を練る。これなら乱れた気の流れを整えることが出来る!

 しかし夏目は、ヨーガなど知らなかった。かれは苦し紛れに、くにに伝わる瞑想法をしたに過ぎない。それは、月輪観。密教の基本的な観法だった。

 浅くなく深くなく、急がず滞らず呼吸する。時々灼けつくものが押し上げて来るが、呼吸を乱さないようあえて無視する。むしろ息が苦しくならないよう、一つ一つの息を大事に呼吸する。

 苦しい息は大分楽になった。それでも体の中の灼け付きとみぞおちの痛みは治まらない。

 「いいぞ、その調子だ。」

 傍目でも気の流れが良くなっている夏目をイェイツは励ました。

 夏目は月輪を思い浮かべる。澄んだ夜空に冴えた、それでいて穏やかな光を放つ円。目を閉じていても、そこにあるように見える。すすき野を撫でる中秋の風までも感じられる。そして優しい月の光が体の中に染み渡っていく。

 灼け付きと痛みが月の光の中に溶け込んでいく。

 優しい光の円に自分が包まれていく。その光が自分を超えて、礼拝堂に、ロンドンに、ヨーロッパに、月を浮かべる空じゅうに広がっていくのを感じる。その拡がりとともに灼熱も疼痛も薄まっていく。

 ただあるのは、和やかさ。母親の腕に抱かれている安らぎ。

 その光輪を少しずつ小さくしていき、もとの中秋の夜空に浮かぶ月に戻していく。

 さっきまで苦しめていた灼け付きも痛みも消えて、静けさだけが残る。

 「やあ、イェイツ。」

 夏目は目を開けた。

 「はじめて吐血ってモンをやったが、随分と苦しいものだね。出来れは二度と経験したくないな」

 「体の中をぐちゃぐちゃにされて、確実に死ぬところだったのに、感想がそれかい」

 「そんなに、酷かったんかい?」

 他人事のような夏目に、うんと頷くイェイツ。

 「お前ってやつは・・・。ああ、夏目。」

 イェイツは夏目を抱きしめる。

 

 「結局、君を助けられなかった。もう魔法は使えないんだろ?」

 「いや、じゅうぶん救われたよ。魔法は知識として残っているが、もう魔術に関わろうとは思わない。魔法の行く末を知ってしまったからね。」

 「――そうか。」

 魔術の究極が魔神で、魔法の行く末があの魔人。

 「やつは、アレクサンダー・クロウリーは、アレイスターだ。」

 「Array(並べる)Star(星)?」

 「そう。たくさんの星々を意のままに配列する。天にちりばめられた星である人を、自分の思い通りに並べる者。そして自分は、遥かな高みでそれを見ている――。」

 「やつは何をするつもりだ?」

「・・・・・・。」

 イェイツは答えず、あの男の言葉が脳裏をよぎった。(勿論見届けさせて頂く)、(――私も、人は逡巡しながら正しい道を見つけ出せると信じているよ)、(ただ、まだ見ぬ娘を守りたいだけなんだがね)。どこまでが本心なのかは、判らないが。

 

 イェイツを伴い夏目は倫敦塔を出た。

 堀に掛かる橋を渡る頃には、北国の例か雨が降り出していた。糠のように細かな雨。夕暮れが近く、塔は黒くぬっと立っている。それは地獄の影のようだった。

 夏目はイェイツと別れ下宿に戻る。

 下宿に戻り、ロンドン塔で見た事(勿論、魔人や事の顛末は話さなかったが)を下宿の主人に語った。しかし主人は「倫敦塔の鴉は飼われているものでね、元から五羽と決まってる。すこぶる美人さんだって? この街にゃあその類の別嬪は大分いますぜ。気を付けないと剣呑剣呑・・・」と言いながらにやけ顔。

 それからは、人と倫敦塔の話をしない事に決めた。また再び行かない事に決めた。

 イェイツとは、その後会っていない。

 

 夏目金之助、極度の神経衰弱で二年で帰国。その後、教職員から作家に転身する。幾つもの作品を執筆するが、神経衰弱と胃病に悩まされ幾度となく吐血する。多くの名作を残すが、その出発点となった作品の名は『倫敦塔』。

 ウィリアム・バトラー・イェイツ、詩人であり劇作家。一九二三年にノーベル文学賞を受賞。日本の能にも影響を受け、永遠の命を求める者たちとそれを高みから見る鷹をテーマに、戯曲『鷹の井戸』を執筆する。

 

 

 

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