空間が弾けた。
怒りが恨みが絶望が、光となって飛ぶ。
怨嗟の声が悲鳴を上げて消し飛んでいく。
AAAの反応も全て沈黙している。音声ガイダンスも透過スクリーンもblack out。
様々な声が消え、全ての音も、気配も無くなり、すうーっと体が落ちていく感覚。位相のような塗りこめた漆黒でなく、光の無い世界に吸い込まれていく。
木原脳幹は、前に見たことがあった。
死の咢が口を開いた深淵。
エセルドレーダだった最期に、荒れ地で受けた傷で意識が遠のいていった。次に目を覚ました時は、自分は違う犬になっていた。漆黒のブラッドハウンドから茶色のゴールデンリトリバーに、性別まで変わって。
いやそれよりも、もっと前。エセルドレーダとなる前だ。
目も満足に開かない頃、路地の傍らで確かに見た。
心細いとか、ひもじいとか、そんなものはどうでもよくなって震えていた。ただ。怖いという感情と、死にたくないという想いだけがあった。
死にたくない。死にたくない。死にたくない・・・。小刻みに震えながら、そんな気持ちだけが自分を包み込んでいた。だが、そんな気持ちも徐々に遠のき、恍惚と光の無い闇に吸い込まれていくのを感じた。そう、それが、死。
あのエテルヌスが見せた生贄の羊のときと同じだ。
闇に吸い込まれていく時、最後まで「死にたくない」と思っていた自分に声が聞こえた。
『その想いと引き換えに、お前の死を貰おう。』
何かが自分に埋め込まれ、自分は目を覚ました。
その間どれだけ時間が経ったのか、仔犬だったはずの自分は、黒い魔犬になっていた。
以来、死は自分にとって別物に感じる。生物学的な死は自分にも訪れるだろう。でもそれも他人事のように客観的に見えてしまう。覚醒から覚醒の間の闇という感覚だ。なにか終焉で終われる気がしない。
エテルヌスは、淡い光の中で繭に包まれていた。
骨船によってバロン・サムディの空間が、まるっと置き換わられたのだ。バロン・サムディ空間は、多重に連続した位相を一つにしたエテルヌスの隠世。それが強制終了されたのだ。
彼女にもう隠世はない。ただし隠世に満ちていた膨大なエネルギーは彼女に還元されていた。時空を統べるバロン・サムディは失われたが、世界を終わらせる魔神の力は揺らいでいない。
隠世と現世の狭間。有り余る力に世界が壊れてしまわないように、自分が鏡合わせの分割で用意した術式の欠片。それが繭となって彼女を包んでいる。
そもそも魔人となったきっかけは何だったか。強大な力を得て、それは達成できたのか。
オティヌスもエテルヌスも僧正もネフティスも、恐らく他の魔神たちも、初めは理不尽に潰されていく人々を救いたいという想いから出発していた。でもそれは叶わず、有り余る力の前で願望が変質してしまった。理不尽、無慈悲、非寛容に対する怒りや悲しみが暴力になってしまった。残ったのは、どうしようもない孤独。
それは木原に似ている。人として当たり前のように笑い、当たり前のように悲しみ、常識人としての理性で苦しみつつも研究者としては実験成功の報を受けて喜んでしまう・・・。科学者としての本分と人間的な良識との間で苦悩する存在、少なくとも始祖の木原たちはそうだった。「ソリッドで優しい世界を願っていた」ものが、研究を突き詰めていく純粋性ゆえに、目的のためならば手段を選ばず、他人はおろか、血族や自分自身さえも犠牲にすることを厭わない性質となった。どんなに善良な木原でも、木原であれば善悪を超えて科学を利用してしまい、結果として周囲に破滅をばらまいてしまっている。
オティヌスは自分の「理解者」を求めた。僧正は是非の「裁定者」を求めている。それぞれに自分を認めてくれる存在を渇望している。木原も孤高だ。誰もが木原を認めるが理解はしない。だからといって解ってほしいなどとは思わない。
ちょっと力を揮えば、ガラスのように砕け散ってしまう世界。
いったいどれだけの数を試しただろう。創っては壊しまた創り、百か千か一万回か。そこに自分の居場所はあったか。
でももうやり直しは効かない。魔神が現世で居られるぎりぎりのライン、そのための鏡合わせの分割だ。
そこまでする、何が未練なんだ?
自分に居場所が欲しいからか、この現世に。ハン!もとより神に居場所など無い。どこに神が座れる椅子があるというのだ。どの神話でも神がいます場所は人間界の外と決まっている。
『みんなが私を気味悪がる。一人ぼっちは嫌』
「お前を一人にはしない。お前は私だ。生きながら死んでいく苦しみは、誰よりも知っている。必ずお前を呪いから救ってみせる」
『本当?』
そう言って微笑んだ少女の顔が思い浮かんだ。
僅かに魔神の貌が歪む。やり残した心の棘だ。
今だったら救えたかもしれない。有り余る魔神の力でもって、少女にかけられたゾンビの呪いを消し去ることも出来ただろう。でもそれは自分が魔神となる前の出来事。バロン・サムディの術式で過去へは行けても、現在に繋がる過去を変える事は出来ない。過去―現在ごと作り替えるしかないが、そこにあの彼女はいない。所詮ツクリモノの世界なのだから。
現世は、彼女がいた過去と繋がっている、たった一つの世界なのだ。
「フン、そーゆーモンとハ、縁を切っタんだヨ!」
エテルヌスは自分に吐き捨てる。
『そんなに簡単に割り切れないんじゃないかな…過去の自分があって今の自分がある訳だし…その過去が大事なら尚更…。』
唐突に声がした。
白梅の髪飾りを付けた少女。
「誰ダ!!」
いきなり胸に痛みが走る。
―――っッツ! 一瞬浮かんだ少女は消え、違う声がしてきた。
『一人ぼっちは、怖い』
猛烈な吐き気に襲われる。あの病院で覚えたのと同じ嫌悪感。
「何だ、何だ、何だ? こ・わ・い・だトぉ? 魔『神』ガ何に怖がるトいうのダァ」
――う、え、げええェ――。
反駁する前に反射が来る。が、元より吐ける物は何もない。
『アナタは何をしているの』
「お前ハ、誰だ」
『シリアルナンバー:M19090号、一人のミサカは二万のミサカ。あなたは私、あなたはミサカ』
「ミ・サ・カ・だと?」
表情が読めない瞳を持ったシャンパンゴールドの短髪の少女を思い出した。あの病院で喰らおうとした少女だ。実際には喰らっていない。なのにどうしてMNWが流れて来る?
喰らおうとした直前にピリとした電気を感じたことを思い出した。以前に電気系能力者を喰らったことがある。それで電気的信号で能力を書き込むことが出来るようになったのだが、あの時、電流を通じて無意識にMNWとリンクしたのか。
それなら他のクローン共は何処だ。上位個体は。なぜあの個体だけが流れて来る。
一人のミサカは二万のミサカはネットワークの事だろう。だが、あなたはミサカとはどういう意味だ。私はエテルヌスだ――。
そう思いながらも、言葉が他から流れて来るのではなく、自身から出ているのを感じた。自分の言葉として。
ミサカから流れて来るのは、「死んでやるものか」と「生きたかった」という思い。その総意は「生きたい」。
生まれてから十日足らずの命。実験で死ぬためだけの命。
簡単な生体調整を受け、テスタメントで基礎知識を学習し、三日ほどの屋外実習、そして実験。それだけが死んでいったミサカの人生のすべて。その記憶は次のミサカに引き継がれ、死んでいったミサカの意識はひとつ(総体)にまとめられている。また生き残ったミサカたちの意識もその一部。
ここは煉獄。エテルヌスを包む繭、それは失いたくないという深層心理が生み出した保護膜だ。本音と建前の境界線で否応なく本音を突き付けられる。
エテルヌスの記憶。死ぬことのない体。永遠の時間。
時間は限りなくあっても、決して成し遂げることの叶わない願い。その中身は空虚だ。彼女の想いが満たされることは無く、何をすべきかの目標も無い。何で自分は今ここに居るのかも分からなくなってしまった哀れなゾンビ(存在)。
ミサカとは全く相反する存在だが、共通しているのは、どちらも命を見て、ずっと死と向き合っているということだ。
そこから生まれた「怖い」という感覚。
死への恐怖? 意味がない。
生き続ける事への怖れ? これで生きていると言えるのか。
「一人ぼっちは怖い…か」
自分より後に生まれた者たちとの別れを数限りなく見送った自分は、ずっと一人だ。同じような永遠を持つ者は他にもいるが、魔神どうしは解り合えない。まあ、お互い自分を見ているようで親近憎悪かも知れないが。
また、声が問いかける。
『何がしたいの?』
「私ハ、なにがシたかったノだろウ…」
何がしたかったのかの自問。
有り余る魔神の力を得て、学園都市の学生の能力まで奪い取り、数多な死の上に求めたものは、ひょっとしたら・・・という希望。
何故あの少女を助けたかったのか。
自分と同じ境遇。待っている同じ運命。
彼女を助けることが出来れば、自分も呪われた運命から逃れられるのではないか。ゾンビから脱せられるプロセスが完成すれば、誰が自分にそれを施すかはまた別問題だが、手順は手に入る。
ゾンビから脱して何が欲しかったのか。死か。いや、生きたかったのだ。生を取り戻したかった。死んでいるでも生きているでもない中から、限りある命の中で生きたかったのだ。
『そうカ・・・シたかったンじゃナかったんダ・・・』
終わった悔いではなく、いまも熾火のように燻り続けている想い。
それは、自分が既死者となってから、ずっと抱き続けている願い。
ぴしりと、エテルヌスの中で何かがひび割れていく。
あの薄皮の向こうに現世がある。少し力を揮っただけで壊れてしまう儚い世界。
――何がしたいの?――
少女を救えなかった悔い。
もう死なせてくれと群がる亡者に、自分を差し出した時の寂しさ。
現世のどこにも自分の居場所のない現実。
それらに、あの少女に触れた時に打ち込まれた『何か』がささやく。
ひびは大きくなり、奥底にしまい込んでいたものが現れて来る。
あの向こうは、彼女がいた時と繋がっている、たった一つの世界。
魔神は、自分を包み込んでいる薄皮に手を振り上げた。