慣れ親しんだ電子音が、まどろむ意識を現実へと引き上げる。自身の意識を離れた手が音の震源地へと向かうが、その動きは酷く緩慢であり、その様は
どうにか、という形容詞が付属されそうな時間の経過と共に標的を手中に収めると、躊躇うことなく音を切る。
まるで呼吸するかのように平然と、何の感情の発露も見られず息の根を止めるその手腕は、稀代の暗殺者を髣髴させる。
「ん~」
一仕事を終えた必殺仕事人は、その御業とは正反対の可愛らしい一息を吐くと再び身を、意識を闇へと沈める。
そこはどこまでも静寂で、暖かく、どこか母の腕の中を思い起こさせた。
このとき既に外界の情報の大半は遮断されており、五感の受容器は意味をなしていなかった。
霞む、翳む、意識がかすむ。
思考能力が急速に低下し、自我は容易く闇へと呑み込まれ―――
「起きろ」
光に包まれた。
「にゃわ!?」
突然の光の嵐、更には全身を包んでいた温もりは幻の如く消え去っており、替わりに冷気が肌を無言で刺していた。
自身の環境状態の急速悪化に伴い、肉体が精神を叩き起こす。
意識が強制的に組み立てられ、間抜けな悲鳴を上げさせられた主は元凶に問い質すべく、慌てて周囲を見渡す。
見慣れた自身の部屋が網膜に映し出され、視線を動かせば、閉められていた筈のカーテンはいつの間にか大きく開かれていた。
窓の外には雲一つない快晴が広がっており、小鳥の囀りが朝の来訪を告げていた。
「起きたか、寝坊助」
「寝坊助じゃないよ、まだ時間はしちっ!?」
文句の一つでも垂れようと、眉間に僅かな皺を寄せながら抗議の声を上げようとするが、眼前の光景に思わず口を閉ざしてしまう。
現状を生み出した諸悪の根源、その位置は特定できている。しかし、その姿を見ることは適わない。
それは何故か。
理由は単純明快、憎き犯人に囚われた人質が盾となっているためだ。
同じ床に眠る良き伴侶、
「私の
「これがあったら何時までも起きないだろう」
ホレ、という言葉と共に人質は解放された。いや、快投された。
「ふぎゅっ」
勢い良く放り投げられたパートナーを受け止めきれずに潰され、思わず間抜けな声が漏れる。再会の抱擁に
名残惜しそうに、されど鬱陶しげに布団を退かすと、自称哀れな被害者はようやく姿を現した極悪人の面を拝む。
馴染み深い顔立ちだ。付き合いも然ることながら、根本的な要因として、その骨格が挙げられるだろう。
とにかく似ているのだ、自分と。
顔だけではない、その体格も殆ど大差ないといって良い。むしろ他人からすれば、何処に違いがあるのかと思われるかもしれない。
何せ、私たちは双子だ。
しかし、違うのだ。髪型だって違うし、目の色だって違う。そして何より違うのは――
「もう朝食が出来ている。あとはお前待ちだぞ、なのは」
「だからって酷いよ。お姉ちゃんに対してこの仕打ちはどうかと思うのですが?」
「ならば毎度弟に起こされないようになってから言ってもらいたいな」
「う~
高町なのはが女で、高町飛鳥が男であるという点だ。
高町飛鳥は夢をみる 第一話 ~よく似てるって言われます~
「お、お待たせ~って、あれ?」
「おはよう。どうした、なのは」
慌てて制服に着替えて来たというのに、食卓に着いているのは僅か一名。
我が家の大黒柱である高町士郎さん。爽やかで恰好良い私のお父さん。今はコーヒーを啜りながら新聞を広げており、穏やかな時が流れていた。
とてもまったりとした時間の過ごし方だが、それはいつものこと。会社員ではなく喫茶店の
「お父さん、おはよう、お兄ちゃんたちは?」
飛鳥にお前待ちと言われ超特急で駆け付けたのに、到着すれど姿はなく空席が否応なく目につく。更によく見てみれば、食卓に未だ料理が並べられていないではないか。
「おはよう、なのは。あらあらそんなに髪を乱して」
「おはよう、お母さん」
笑顔で髪を直してくれているのが、高町桃子さん。綺麗で優しい私のお母さん。喫茶「翠屋」の菓子職人で、ケーキと特にシュークリームが絶品で地元海鳴市でも人気な一品です。
私もお母さんの作ったシュークリームは大好きです。
「確かにもうすぐ料理は出来るけど……また
桃子は困り顔を浮かべているが、その口元は緩んでいた。視線をずらせば士郎も小さく笑っていることに気付く。このやり取りは何も今日始まったものではない。
高町家にとって見慣れた日常の
「もう、お母さん何処!」
誰が、とは言わずともだ。
「道場にき「行ってきます!」いってらっしゃい」
母の言葉を遮り、なのははズカズカと少女らしからぬ足並みで居間を後にする。
ぷんぷん、と頬を膨らませながら退出する愛娘を桃子は笑顔で見送る。その顔に映るのは慈愛の二文字。
「なのはは相変わらずだな~」
いつの間にか新聞を閉じ、目に入れても痛くない娘の後姿を眺める士郎の口元は酷く緩んでいた。
「飛鳥もですよ」
飛鳥がからかい、なのはがむくれる。なのはが双子の姉なのだが、その
度が過ぎれば流石に親も不安を覚えるものだが、その点について
自分達の子育てに自信がある、と自惚れている訳ではない。子供たちを信頼している、確かにそれもある。
しかし、何よりもその根幹にあるのは飛鳥の存在だ。少々一般人とは異なる高町家において尚、高町
されど、二人はそのことに何の不安もない。我が子を愛する、ただそれだけのことだった。
「桃子も相変わらず綺麗だ」
「士郎さんも恰好良いですよ」
リビングに甘酸っぱい空気が急速に広がるが、それを咎める者も止める者も残念ながらこの場にいない。
高町士郎と高町桃子、ご近所でも有名なおしどり夫婦の朝は大抵これが定番である。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「
勢いよく扉を開けると、そこには目にも止まらぬ速さで木刀を打ち合う男女の姿があった。
少なくともなのはの動体視力では二人がどのように闘っているのか、全く把握できていない。ただ、絶え間ない打撃音と足音の合唱を聞くのみだ。
しかし、いつも思っているのだが天井に足跡が付くのは一体何の冗談なのだろうか。忍者と言われたらなのはは何の疑いを抱くことなく、いやむしろ大いに納得することだろう。
分かっているのは、ただ一つ。
自分には逆立ちをしたって出来ないということだ。
自身の声が合図かのように、両者は鍔迫り合いから一気に互いに間合いを広げると、木刀を下げ一礼する。どうやら、今日の朝練はこれで終わりのようだ。
「おはよう、なのは」
「おはよう、なのは」
爽やかな声と柔らかな声、なのはにとってどちらも大好きな声だ。
「おはよう、お兄ちゃん、お姉ちゃん」
爽やかな声の主は高町恭也さん。高町家の長男で、
柔らかな声の主は高町美由希さん。高町家の長女で、お姉ちゃんも御神流を修めています。最近は腕を上げているようでお兄ちゃんも「そろそろ一本取られるかもな」とかぽつりと零していました。
模擬刀でドラム缶を簡単に斬り裂くようなお兄ちゃんを相手に、です。
正直、人間辞めていると思います。お姉ちゃん。
その運動神経を百分の一でもいいから分けてほしいものだ。って――
「お兄ちゃん、飛鳥は来なかった?」
当初の来訪目的をすっかり失念していたなのはは、再燃した怒りと共に兄に問いかける。
「来たぞ、朝食が出来たんだって?」
「そうだよ、その後は?」
「居たぞ」
「何処に?」
「此処に」
「此処!?」
恭也の想定外の言葉に、道場内を凝視するが弟の姿は影も形もない。そもそも、見通しの良いこの場所に身を隠せることなど果たして可能なのか。
もしやからかわれているのではないか、という考えが一瞬なのはの脳裡を過ぎる。涼しげな顔とは裏腹に意外と悪戯好きなのだ、この兄は。
「お姉ちゃん!」
ここで現状で最も信頼できる情報源に問いかける。というのもこの姉の場合、嘘がとにかく下手なので、例え騙そうとしたところで簡単に見破れる自信がなのはにはあった。
妹の鋭い眼光に美由希は瞼を二、三度瞬かせ、そして何故かなのはを生暖かい眼差しで見つめながら答える。
「恭ちゃんって真顔で平然と嘘吐くからね。確かに信用しにくいけど、さっきの話は本当だよ。ついさっきまで、なのはの隣に」
「嘘!?」
「ほぅ……美由希、なかなか言ってくれるじゃないか」
「しまっ……痛っ!」
恭也のデコピンに敢え無く撃沈した姉を尻目に、なのはは視線を左右に振ってみるが、やはりその姿は皆無である。しかし、美由希の瞳は嘘をついてはいなかった。でも、だからといって普通、隣に人がいたら気付くだろう。
そう、普通ならば――
「早くしないと朝食が冷めるぞ」
「はにゃん!?」
耳元からの突然の囁きに、なのはは全身の毛を逆立て全身を震わす。慌てて後ろを振り返ってみればそこには、忌々しいぐらいに平然とした
「飛鳥!」
「ちゃんと起きたようだな」
「ここまでされて起きない訳ないでしょ!」
未だ心臓は激しく脈打っており、落ち着くまで幾許の時間が必要だろう。深呼吸を繰り返し肉体と精神を落ち着かせようとするなのはを尻目に、飛鳥は恭也に非難の視線を送る。
「兄さん、あまり姉さんを苛めないでくださいよ」
「うぅ~恭ちゃんと違って優しいな~飛鳥は」
床に突っ伏す美由希は弟の愛に涙した。実際は未だ引かぬ痛みによるものが大半を占めるが。
弟の視線に恭也は何故か、悪戯小僧のような笑みを浮かべる。
「そう言うな飛鳥。これは馬鹿弟子への愛情表現であり、苛めなどでは断じてない」
「嘘だ~」
「お前も今朝なのはにしただろう、それと全く同じだ」
恭也と飛鳥の視線が交錯する。それだけで、二人は解り合った。
「なら仕方ないですね」
「「よくないよ!!」」
姉妹は抗議の声を高々と上げるが、頷き合う兄弟の耳にはまるで届かない。
「そろそろ行くか」
「えぇ、早く戻らないと居間が大変なことになりそうですし」
「そうだな。仲が良いのは構わないが、朝からは流石に自重して貰わないとな」
恭也は眉間に皺を寄せる。いくら親とはいえ朝からイチャイチャされたら敵わない。そもそも恭也は味だろうと雰囲気だろうと甘いもの全般を苦手としていた。
「まぁ兄さんも人のことは言えませんがね」
「……そんなことはない」
一瞬、声に詰まる兄を飛鳥は小さく肩を竦めるが、深くは追求しなかった。
「なのは、行くぞ」
呼吸を整えつつある姉に飛鳥は声をかける。ようやく平常状態に戻ったなのはは口を窄め、眉を顰め無言で抵抗を示していた。
「恭ちゃんはもう少し妹の労い方というものを覚えた方が良いと思うよ?」
「調子に乗るなよ、馬鹿弟子が。そういう台詞はせめて俺から一本取ってから言え」
「またそう言って無茶を言う~。
「そんなものはない」
「ひどっ!?」
仲睦まじい恭也と美由希の会話が徐々に遠ざかっていく。遠ざかる二人の後姿を背に、飛鳥は不満を顔にありありと浮かべる双子の片割れに溜息を吐く。
「なのは」
「……」
「なのは」
「む~」
なのはは頬を膨らませて目を背ける。すっかりご立腹な姉に飛鳥は頭をかく。どうやら彼女の我慢の限度を超えてしまったらしい。
早急に、なのはの不満を吐き出さなければ、父とOHANASIをするハメになる。無駄な体力と気力の消耗は避けるべきだとは飛鳥の持論である。
姉をからかうこと早数年、生じる問題への対策に抜かりは存在しない。
飛鳥は不敵に笑うと、優雅な仕草で人差し指を一つ、天へと突き立てる。
「C1」
「C2ぷりーず」
なのはは首を振り、Vの字を掲げる。その仕草に飛鳥の眉が微かに釣り上がる。
「C1シュー1で」
「……
傍から見れば意味不明の会話だが、二人の意思疎通は完璧に行われていた。
暫し無言の間、先に折れたのは
「了解、それで手打ちだ」
「やった♪」
どうやら話はついたらしい。天井を指していた少年の指は眉間に寄った皺を労うように伸ばす。
先の不機嫌顔は何処へやら、満面の笑みを浮かべるなのはに飛鳥は微かに頬を緩ませる。
「やれやれ、私のタダでさえ軽い財布を更に軽くさせるとは……とんだ悪魔だ」
「む~、飛鳥! 女の子を悪魔なんて呼んじゃ駄目だよ!」
「大丈夫だ、なのは以外には使わないから安心してくれ」
「そんなことだけ特別扱いしなくていいよ!」
「なのはは我が儘だな~」
「飛鳥が意地悪なだけだよ!」
二人はいつもの口論を繰り広げながら道場を後にする。
「もう、今日のこと二人に言いつけちゃうから!」
「なのは、止めるんだ。弟がどうなってもいいと言うのか」
「知らない!」
割と本気で困っている飛鳥を置き去りに、駆け足で立ち去るなのはの口元には確かに笑みが浮かんでいた。
そんなじゃれ合う小さな姉弟に小枝に乗った二羽の雀は囀る。その声は何処かからかいを含むような、軽快な音を奏でていた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「準備は出来たか?」
「うん」
その言葉に導かれるように、私は身を持ち上げる。踵を叩き、靴のズレがないか確認すると目の前の男の子に頷く。
高町
「忘れ物は?」
「問題なし!」
並んで立てば傍から見れば同じ身長にしか見られないけれど、実は私の方が一センチだけ高かったりする。姉の数少ない弟に勝る点の一つだ。
私たちはよく似ていると言われている、しかし、私はそうは思わないし、思えない。
確かに見た目は私が言うのもなんだが、そっくりだ。何せ、二人が揃って同じ格好に同じ髪型にしてみたら、親友の二人でさえすぐには気づかなかった程。周囲の人間が私たちを似ていると思うのも無理はない。
けれど、いくら
飛鳥は頭が良い。テストの点で勝ったことは入学して今まで一度としてない。得意の算数ですら同点で、苦手の国語など目も当てられない。
飛鳥は運動も出来る。逆立ちすら出来ない私にはまるで魔法のような神業を、まるで当然というかのように軽々とやってのける。
文武両道とは正に弟を指す言葉だろう。罷り間違っても私に向けられるものではない。
そのことに対する弟への嫉妬心はない。何の努力もなしにその結果なら、そんな感情が芽生えたのかもしれないが、共に時を重ねているのだ。机に向かっている時間も、汗を流した時間も知っている。だから羨むことはあれど、嫉妬することは有り得ない。
ただ胸の内に溜まるのは弟に対する劣等感。
『何故、飛鳥に出来てなのはに出来ないのか』
とは誰も言わないし、家族のみんなはそんなことを微塵も考えていないだろう。
しかし、私自身が思ってしまう。何故、
なまじ、見た目がそっくりなだけにその想いが日に日に積もっていく。
もし、飛鳥には出来ず私にしか出来ない、ないしは私に圧倒的に優れたものが一つでもあればこのようなものを抱えなくても良かったのかもしれない。
しかし、神様は残酷だ。飛鳥に出来て私に出来ないことはいっぱいあるのにその逆は、皆無に等しい。
テレビゲームの腕前など、自慢するだけ虚しくなるだけだ。
勉強もスポーツも家事も、何もかも
「それじゃ行くか」
「うん」
だから、私と飛鳥を確かに分けるこの服が好きだ。
私が通う
私と飛鳥のように。
「それじゃ、行ってくるよ兄さん」
「あぁ」
今日の見送りはお兄ちゃん。お父さんとお母さんは店の準備で、お姉ちゃんは先に学校に行っていて、この場にはいない。大学生である兄は、最初の授業がないときの私たちの見送りを率先して買ってくれている。
「お兄ちゃん、行ってきます」
「気を付けていくんだぞ、なのは」
「うん」
兄の言葉に笑顔で応える。飛鳥と同じだけど、確かに違うその対応に胸が弾む。
「私に対して「気を付けて」、はないんですね」
「弟子を甘やかす程耄碌していないつもりだがな」
「成程、つまり妹は存分に甘やかすと。すずかさんに良い話が出来そうです」
飛鳥の言葉に兄の鉄仮面に罅が入る。僅かに引き攣る頬が可笑しくて思わず吹き出してしまう。
「余計なことを言うなよ、飛鳥」
兄の眼光に危ない色が宿る。美人が怒ると怖いというが、美形が怒ってもまた怖い。タダでさえ冷たい雰囲気を携える人だ、睨まれると相当の迫力がある。自分に向けられていないというのに、その余波だけで思わず飛鳥の背後に回ってしまう。
と言っても、生まれてこの方、お兄ちゃんに睨まれたことなど一度もないんだけどね。
「未来の
しかし、凄いのは飛鳥だ。兄の凄さを知っているというのに睨まれようが何処吹く風、自然体であの兄をからかっている。
兄に似たのか、中々な豪胆さと言える。
同時に、無謀とも。
「がっ!?」
突如、苦痛の声を上げたかと思えば飛鳥は額を抑えて蹲る。
兄が投擲した針が弟に命中、弟悶絶、検証終了。
「無駄口を叩いていると乗り遅れるぞ、さっさと行け」
「
兄の氷塊の如き圧力のある言葉に、飛鳥は覚束ない足取りで立ち上がる。未だ額を抑えていることから、相当痛いのだろう。
「お、お兄ちゃん行ってきます!」
兄の言葉を聞かずに、私は慌てて扉を開く。もう片方の手は私を悩ます憎いヤツを引き連れて。
私に良く似て、でも似ていない。たった一人の私の弟、高町
「わわっ」
「なのは、何もないところで躓くんじゃない」
「め、面目ないです」
前途多難な私に、幸あれ。